阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第18号
中祖谷(特に小祖谷、下名、坂瀬)の盛衰過程

郷土班 河野幸夫

 目 次
  1 はしがき
  2 収集した史料
  3 中祖谷の意味とその役割
  4 前祖谷と誇称していた頃の繁栄
  5 祖谷新道開通後の第一次変容
  6 松尾川林道開通による第二次変容
  7 むすび
 
 1 はしがき
 郷土班が最初に設定した調査テーマは「古文書等による中祖谷(なかいや、松尾川流域のうち西祖谷山村に属する地域を俗にこう呼んでいる)の盛衰過程の究明」であり、調査作業としては、中祖谷地区に所在する古文書、古記録、伝承口碑などを掘り出して、それらの史料によって、この地域の盛衰の過程とその原因を究明することであった。
 当初の編成は5名であったが、種々の支障が生じて、実際に現地で実際活動を行なったのは、藤岡道也(班長)竹内金二、河野幸夫の3名となった。
 さて、実際活動地区を設定するに当って、班員の数とその行動力、活動可能の時間等の制約があったので、松尾川流域に所在する「春の木尾」から「出合」にいたる11の集落のうち、中祖谷という呼称にふさわしい役割をはたしてきた集落は「春の木尾」から「日比原」までの6集落で、一応その区域を予定していたが、「春の木尾」「瀬戸内」「日比原」の3集落ははげしい人口流出によって、すでに集落としての形態と機能を失ってしまっていることが判明したので、その3集落を除き「小祖谷」「下名」「坂瀬」の3集落に焦点をしぼった。(図1参照)

 2 収集した史料
 a 古文書、古記録
 藩制初期の祖谷山一撲以後、きびしい階級制度下で経過してきた祖谷地方、中でも中祖谷では支配者であった名主の喜多家がすでにこの地を去り、今に残る家々はほとんどが被支配者層のものであった。したがって古文書類の現地での収集はほとんど期待できないとは思われていたが、それでも家系を誇る「下名」のO家などもあるので、あるいはという淡い希望をもって現地へ行ったのであったが、そこも肝心の主人が他郷ヘ出て不在であったり、主人がいても過去において火災のため一切の史料が灰になっていたりして、皆無に近い状態であった。わずかに次のようなものを収集することができた。
 ○経済活動に関するもの
  ・木地師へ立木を売却した時の売渡し証書(明治24年頃)
  ・仲持ちの存在を示す荷物引渡し証(明治21年頃)
  ・祖谷地方(落合名、中枝名)に藍作がおこなわれていたことを示す藍作見付金の領収書(明治21年頃)など
 ○宗教活動に関するもの
  ・剣山・円福寺信仰に関するもの
  ・神道修正派(初代管長新田邦光)に関するもの


 b 古地図
 K家所蔵「祖谷山郡図」作者、年代とも不詳であるが、極彩色で手のこんだ手法から見て、文化文政期か、あるいはもっと幕末に近い頃の作と思われる。縦1.3メートル、横1.8メートル、この古図によると、名(みょう)の数は次のとおり16に統合されている。さらに名主(みょうしゅ)は「菅生名」と「小祖谷名」だけに記入され、他名には記入されていないのはどうしたことか、その他の記入事項は次表のとおりである。


 c 伝承口碑
 古文書類の集収が期待どおりの成果があがらなかったので、残された方法は足をつかってできるだけ多くの古老に会って話を聞くよりほかになかったので第1日の午後は「下名」第2日の午前は「中祖谷」午後は峠を越えて「坂瀬」まで足をのばし第3日は「出合」で郷土研究家の小西氏を訪ねて、氏の収集している史料類を見せてもらい、日頃の研究事項について話し合った。それらの概況は次のとおり。


 

 3 中祖谷の意味とその役割
 松尾川流域には上流から順に次の13の集落がある。(図II参照)


  春の木尾・瀬戸内(せどうち)・小祖谷(おいや)・下名(しもみよう)・坂瀬(さかせ)・日比原(ひびばら)
  西祖谷山村(中祖谷)
   松尾
  山風呂・細野・黒川・五軒・宮石(くいし)・本名・出合
   池田町
 中祖谷を地形的にみると、北には東から日の丸山(1240m)・水ノ口峠(1116m)腕山(1332m)・竜ケ岳(1167m)と1000m級の高山が連なって走り吉野川流域の池田・辻・加茂などの町々と接し、南には鳥帽子山(1670m)・寒峰(1604m)・マド峠(1048m)が東西に並び、その南に一宇・善徳・和田・京上・落合など祖谷川流域の主要集落がある。北の吉野川と南の祖谷川の中間にはさまれて位置する松尾川流域の集落群が中祖谷と呼ばれるわけであるが、それは唯単に中間にあるという位置関係だけの理由ではなく、往昔から大正9年にいわゆる祖谷新道が祖谷川に沿って開さくされるまでの長い間、祖谷川の一宇から出合までの間は両岸に300mにも達する断崖絶壁がそそり立って、完全に人馬の往来を拒絶し続けて来た。
 したがって、その時代には一宇から上流の各集落の人々が吉野川流域(池田から下流の地域)に出るには幾つかの峠を越して北上するより外に道はなかった。
 資料A 祖谷山旧記
 蓬庵様御入国遊ばされ候御砌、数度御召なさると雖も御国命に応じ奉らざるに依て、御追討の御人数を御指向け遊ばされ候処、悪党難所に方便を構え追手御人数多く落命仕候……(原文は漢文)
 資料B 阿 波 志
 径路五有り、一は櫟生を経て貞光に出ず、一は長谷及峡魚山(注 腕山)を経て都慈(注 辻町)に出ず、一は栗峰を経て松尾に出ず、一は榎渡を経て下名に出ず、一は有瀬を経て土佐谷間に出ず(原文は漢文)

 資料Aは天正13年、祖谷山一揆を討伐するため代官兼松惣右衛門が軍勢をひきつれて、池田を出発、中西から漆川を渡り太田、石の内を経て松尾川を渡河、中津山の西麓を田の内へ向って進軍中、祖谷の士豪たちは天険により断崖上から巨石大木を落として、討伐軍を祖谷川へ転落させて大勝利を得たことを記述したもので、この峻険なところを今に「代官ずり」と土地の人は呼んでいる。第2次討伐の際はここを避け、本隊は井内谷から中祖谷に入り、峠を越えて田の内の本拠を攻略した。
 資料Bによると、文化年間に、祖谷山から他の地方へ出る主要道路のうちの一つが中祖谷を通っていることがわかる。
 このように、中祖谷は位置的にも、機能的にも中祖谷の呼称にふさわしい役割をもっていたようであった。


 4 前祖谷と誇称していた頃の繁栄
 さきの「祖谷山郡図」によって、中祖谷を中心とする道路をしらべてみるとまず北の方吉野川流域への道としては、
 1 小祖谷の馬岡神社からタコーノに登り、境谷を越えてサット坂に出て、腕山を越して井の内谷の山暮尾にいたり、荒倉を経て辻町の方へ出るルート
 2 小祖谷から大日浦、長谷を経て、水ノ口峠の附近から日ノ丸山を越えて、井の内谷へ出るか、引地から加茂方面へ出るルート(後に水ノ口峠に道が開かれて、この道が主要ルートとなった)
 資料C 小祖谷M氏聞書
 「明治30年頃までは・水ノ口峠には道がなかった。それで小祖谷からは皆腕山越えして井の内村の荒倉に出ていた。水ノ口峠が開通してからは腕山越えの道を「古道」とよぶようになった」
 一方、南の祖谷川流域にある諸集落と結ぶ道路としては、
 1 小祖谷で松尾川を渡り、横尾峠から下坂瀬を経て栗原に出る、ここで道は左右に分れる。まず右にとると、1112mの四つ方峠に出て、これを越して小島、高野に達するルート
 2 左にとって、寒峰の尾根伝いに頂上近くまで上り、そこから大枝や京上に下るルート
 この四つ方ルートや寒峰ルートは祖谷山の中心部と中祖谷を結ぶ最も重要な路線で、明治末期まで多くの物資がこの道によって中祖谷まで搬出され、ここで中継されて、辻や加茂方面へ運ばれていた。
 資料D 小祖谷T氏聞書
 「明治41年頃には、多くの物資が辻町からこの小祖谷を経て、東西両祖谷山村の奥地へ送り込まれ、又祖谷山の産物であるみつまた・こうぞ・葉煙草などがここを経て、辻や加茂の方に運び出されていた。その当時は人の往来が多く、小祖谷の人は自分たちのところを「前祖谷」と誇らしげに呼んでいた」
 中祖谷が物資の中継地として、相当栄えていた様子がこの「前祖谷」という誇称からもうかがい知ることができる。
 当時、物資の運搬は人の肩荷役がほとんど、まれに牛馬も使役されていたようであるが、人の力には行動範囲におのずから限度があったので、ここに運搬を専業とする「仲持ち」が活躍していたようである。それを裏付ける次の資料があった。
資料E 坂瀬のO家の所蔵していたもの

 

仮証
 1 葉藍 弐荷
右、此者ヱ度渡シ代金弐円御請取下されたく候也
  半田□山村 キク又 ■
小倉清平殿
   旧 九月十一日

 人の往来が瀕繁になると、それらの通行人を相手とした商業が成立した。
 前掲、屋号調査表によると、下名と坂瀬に「やすば」というのが各々1戸ずつある。やすばは「休み場」が転化したものと思われる。
 資料F 下名K氏聞書
 「下名の黒田家、坂瀬の村下家は昔、仲持ちの休憩所であった」
 注 両家の屋号が上記の「やすば」であることと一致する。
 資料G 小祖谷O氏聞書
 「大日堂(注小島にあった)の春秋二回の祭日には加茂や辻の方から多く参拝人があり、小祖谷で仕度した」
 小祖谷にはもう一つの重要な役割があった。
 資料H 明治中期の郵便制度


路線名 区間 便種 種別 速度 便数 里程 施行年月日 摘要
重末―小祖谷線 重末―小祖谷 交換便 人夫送 三等 一便 三里二十町 明治十七年七月十六日 重末から今久保、善徳を経て小祖谷にいたる

これによると、西祖谷山村の重末局から出た郵便人夫は今久保局、善徳局を廻って集められた郵便物は毎日1回、小祖谷の小林家に持ち寄られた。そして、ここで辻町局からと、東祖谷山村の大枝局からの逓送人がそれぞれ相手方に交付すべき郵便物を相互に交換していた(交換便)


 ここで、中祖谷と同村内の他の地域との集落の立地条件と産業の中心である農業形態とを比較してみると、図によってもわかるように、小祖谷・下名などの中祖谷にある集落の平均高度は、他の二つの地区のそれと200mから300mの差が認められ、高地にあるだけに生活条件は悪いわけである。


 さらに、主要農作物の作付反別比の表をみると、面積の狭少であることにもよるが、他の二地域に比して、いちぢるしい低位を示している。特に主食である水稲の如きは村全体の50%にも達しない貧弱さである。
 このように、自然条件に恵まれない中祖谷が、とにもかくにも一時的にせよ「前祖谷」と自負する繁栄を示すことができたのは、まったく交通、運輸上に有利な位置にあったことによるものということができる。
 しかし、この繁栄はその基盤である交通路の変動によって、もろくも奪い去られてしまった。繁栄を奪ったもの、それは祖谷新道であった。

 5 祖谷新道開通後の第一次変容
 祖谷川も松尾川もともに三縄村(今の池田町)との村境附近において両岸にけわしい断崖絶壁が立ちふさがり、完全に人馬の往来を拒否し続けてきた。
 しかし、時代の波はいつまでも桃源の夢をむさぼらさなかった。明治30年頃になってこの峻嶮な断崖を切り開いて、祖谷川沿いに車の通る道路を開さくしようとする気運が関係三村の間に起り、三村が組合を結成して、この大事業を遂行しようとする計画が樹立された。この運動の首唱者藤川一馬氏は一宇名の名主の家に生れた人であった。
 ○明治32年 藤川氏は三村の有志と会見、組合を設立して道路建設の必要を力説した。
 ○明治34年 三村で組合が結成され、藤川氏が組合長に選任された。
 ○明治35年 白地渡船場から中西を経て大利にいたる三縄村道の改修に着手。
 ○明治37年 日露戦争がおこり工事は一時中止。
 ○明治41年 平和恢復とともに工事を再開。
 ○大正9年3月 全工事完工
 白地―中西―大利―出合―一宇―善徳―小島―和田―京上―下瀬―落合―久保
  三縄村  西祖谷山村   東祖谷山村
 総延長 12里28町55間(約50km)
 工費総額 420,209円
 内訳 県費補助金 108,969円
    郡費〃 51,255円
    三縄村費 116,512円24銭
    西祖谷山村費  57,460円48銭
    東祖谷山村費  79,012円28銭
 この新道の開通によって祖谷川流域の住民は峠越えをすることなく容易に出合に出ることができ、他村との交通運輸のうえで得た利便ははかり知ることができないものがあった。ところが村費負担について、東祖谷山村も三縄村も何等問題はなかったが、西祖谷山村においては必ずしも村民の考え方は一つでなかった。この新道にはあまり縁のない松尾川流域や吉野川流域の住民は、工費賦課の均一化に反対を唱え、村は紛糾した。明治41年8月に開かれた西祖谷山村会では警官の出動を要請するまでにいたった。
 この祖谷新道の開通は祖谷全域の人と物との流れの方向をすっかり変えてしまった。それまでは、ほとんど南北の方向に流れていた(その流れの中間に中祖谷が位置していた)ものを、東西の方向にかえた。それで中祖谷のもっていた役割はまったく消滅してしまった。
 ただ、物資輸送の面ではすべてが新道によったかといえば必ずしもそうではなかった。
 大正7年、徳島市佐古町の原伊代治氏は索道を敷設して森林資源の開発を企図し、大正林業索道株式会社を設立し、北の井内谷村の大師峯を基点として、腕山・小祖谷・坂瀬を経由して寒峰にいたる索道を敷設、大正12年には更に延長して祖谷川畔の落合に達し、これを利用して材木の搬出に当ったが、故障が多く、遂に収支償わずして大正14年に会社は解散してこの事業は終止した。
 さらに、四国電力株式会社が春ノ木尾ダムを建設し松尾川水系を利用した水力発電を企図した時、ダム建設資材の運搬用として井内谷方面からトラックの通ずる道路と共に、山間部にはインクラインを建設した。この施設は工事資材運搬の外に一般の人々へも開放されていたので、中祖谷への往来や物の輸送に盛に利用された。工事終了後、中祖谷の人たちはその施設の払い下げを受けて存続させようと図ったが、資金面で実現をみず、昭和31年にいたって惜しくも撤去されてしまった。
 このように、三村組合道路の開通によって中祖谷はほとんど便益を受けられなかったばかりが、従来の人や物の中継点という機能を失ってしまった。
 次に松尾川林道の開通によって、更に大きい変容をきたすわけであるが、この祖谷新道の影響による変化をわれわれは第一次変容と名づけておくことにする。

 6 松尾川林道開通による第二次変容
 祖谷川流域の一宇、眠谷、出合間の断崖が新道開さくまで、長い間にわたって交通の障害さあったように、松尾川でも山風呂から下流の宮石にいたる間の両岸には、竜ケ岳の1000mにも達する壮大な絶壁によって、まったく交通の障壁となっていたので、祖谷新道が開通した後もこれと連結する道路がなかったので、他村への往来は依然として高い峠越えの道をたどるより外に方法はなかった。
 ところが、四国電力株式会社が松尾川水系を利用して水力発電を企図し、海抜680mの春の木尾に、堤高65m、堤長188mのダムを建設して、有効水量12,600,000立方メートルの貯水をおこなった。
 この事業の補償として、昭和29年に四国電力の手によって、山風呂と宮石の間約10kmに林道を開さくして、これを三縄村(今の池田町)と東西両祖谷山村へ贈与した。
 これとともに、山風呂から上流の後田(ごでん)の下名橋までの3kmは県営林道として、さらに下名橋から上流のダムサイドまでは剣山開発公団の手で林道が建設されて、これまで既に開通していた出合、宮石間3kmの県道と連結して、中祖谷は最も奥の春の木尾から瀬戸内、小祖谷、下名、日比原、山風呂、宮石を経て出合に達する、いわゆる松尾川林道の完成をみた。


 これによって、中祖谷から三縄、池田方面へ出るには日比原、山風呂を経て中津山(1447m)の中腹まで登り、マタンドから松尾に出ていたのが、この松尾川沿岸を走る比較的平坦な林道の完成によって、トラックや小型のバスの通行も容易となり、ここで中祖谷からの人と物との流れの方向は完全に東西の方向に移行してしまって、北の腕山、水ノ口峠、日の丸山越えの苦労は完全に解消した。
 人の往来だけでなく、トラックの乗入れは物資の輸送も完全にその手中に収めた。
 由来、松尾川は平素水量が少なく、しかも河床に巨大な岩石が多く、そのためこの川の沿岸には豊富な森林資源を持ちながら、伐採しても松尾川を利用して流下させることが困難であり、たとえば出水時に流しても河床の岩石で流木の損傷がひどく、これもあまり利用することができなかった。
 そのために、戦後の木材ブームがおきた時でもこの資源はあまり活用できなかった。
 松尾川林道はこの事情を大きく変動させた。伐採された木材はトラツク便によって容易に搬出できることになり、流域の森林は次々と伐採されていった。
 一方、今まで流木の支障となっていた河床の岩石は、庭石として乱獲され、渓谷美を誇った松尾川も無惨な姿に変貌した。
 松尾川林道完成によって得たものは、功罪ともにあったということができる。
 剣山国定公園地域内にあって、国内無双の紅葉の名所と誇っていた竜ケ岳一帯の紅葉樹が、チップ材としてすっかり伐り倒されたことは、前に述べた岩石の乱獲とともに、林道開通のもたらした二大罪悪といっても過言ではない。惜しみても余りある自然破壊の暴挙であった。

 7 むすび
 祖谷新道の開発が、祖谷を実質的に「秘境」の位置から引きずり落してしまった後も、中祖谷だけは1000m級の連山にかこまれ、他町村からは人のほか、およそ車という名のつくものの往来を完全に拒否し続けた「秘境」であった。
 この中祖谷も、山風呂・宮石間に新しい林道が開通した後は、車による交通運輸の便が開け、衣食住のすべてが、他町村とまったくかわらない平凡な山村となってしまった。
 「いろり」はプロパンガスにかわり、家庭用具の電化は進み、食料品店の店頭には各種のインスタント食料品がかざられ、コカコーラやジュースが自由に飲用できるようになった。
 標準化された山村これといった産業資源もなく、又観光資源も未開発の山村―そこにははげしい人口の流出がおこり、過疎地となってしまった。
 中祖谷の将来を考える時、かつての交通の要地、物資の中継地として、あの繁栄をみた当時を再現することは、現状のままでは不可能といえるであろう。
 もし何かの対策があるとしたら、それは観光開発ではなかろうか。竜ケ岳を中心とする壮大な渓谷美、春の木尾ダムによって生じた山の湖などを総合した自然公園や保養遊覧施設の開発これこそ中祖谷振興の大きな研究課題ではなかろうか。


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