阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
古代信仰と鴨島

史学班 青木幾男

(麻植の古墳と忌部氏)
 鴨島町をはじめとする麻植郡一帯には古墳時代の前期や中期だと確認できる古墳はまだ発見されていない。明治から大正年間までは鴨島・川島・山川町にかけての山麓から中腹の約250m付近までに数多くの古墳があったようで、現在もその幾つかは残されている。それらはいづれも古墳時代後期とくに6世紀後半のものであって群集古墳として存在していた。これらの古墳は麻植郡だけに共通して見られる隅丸、ドーム型石室という一定の様式をもっていて県内各地の他の古墳群とは異なる様式分布をしているので徳島県考古学研究グループでは此の古墳の型式を忌部山型石室(いむべやまがたせきしつ)と名づけ、古墳の主を『古事記』や『日本書紀』に見られる阿波忌部氏にあてはめている。

忌部山型石室の古墳は麻植郡内に22基、鴨島に4基確認されているがとくに鴨島町敷地の西宮古墳は玄室前に玄門と羨門を持つ複室部が祭祀の場ではなかったかとも考えられ、また忌部山型石室のルーツを説く有力な手がかりとして注目されている(注1)。

古代史書に見る忌部氏は中臣(なかとみ)氏(藤原氏の祖)と共に朝延の祭祀にたづさわる家柄であった。当時の政治は祭政一致の行政であり神意によって方針が決定されたので祭祀にたづさわる中臣、忌部の政治への影響は強大であったと想像される。『古事記』上巻天石屋戸(あまのいわやど)の段(注2)によれば、中臣氏の祖天児屋命と忌部氏の祖布刀玉(ふとだま)命が「石屋戸(いわやど)びらき」の祭事に中心的役割をはたした事が記されている。『日本書紀』(注3)では此の時に天香山(あまのかぐやま)の榊(さかき)を掘ってきて上枝に八咫鏡(やたのかがみ)をかけ、中枝に八坂瓊(やさかに)の曲玉(まがたま)を掛け、下枝には粟(あわ)国の忌部の祖、天日鷲命(あまのひわしのみこと)が作った木綿(ゆふ)をかけて祈ったとされている。また『同書』巻2神代下には「紀伊国の忌部の遠祖手置帆負神をもって笠作りとなし、元日鷲神と木綿(楮(こうぞ)の繊維で作った紙・布)作りとなし、彦狭知神を盾作りとなし、天櫛玉明神を玉作りとなし、太玉命(京都忌部の祖)が袖を背で打結びみてしろとして神を祭るは此の時より起れり。また天児屋命が神事を行うのはじめなり、此のようにして卜事(占い)をもって社へ奉らしむ」とあり。「紀」『記』や『古語拾遺』を照合してみると、京都忌部、阿波忌部の他讃岐忌部、紀伊忌部、伊勢忌部、築紫忌部、出雲忌部などがあったと記されている。各地忌部は祭祀に直接たづさわる事はなく、神殿(讃岐・紀伊忌部)、鏡・剣(伊勢・築紫忌部)、玉(出雲玉造忌部)の生産などそれぞれの地方の産物とそれを加工して生活に必要な資材をつくる特殊技術をもった集団、大和朝延の命によって神に捧げる器材をつくり、間接的に神に奉仕する職業的集団の呼称であって、血族的氏族の呼称ではなかったようである。阿波忌部は織物技術にすぐれていたようで、奈良正倉院御物の中に天平4年(732)10月に川島郷の忌部為麻呂が「調」として納めた「黄■」(きのあしぎぬ)の覆物が保存されている。


(祖霊信仰のはじめ)
 神を祭る氏族中臣・忌部が記録に見られるのは『記』『紀』の神代の時代であって、そそれは考古学上からも古墳時代を大きくさかのぼることはできない。人々が鏡をつくり、剣を知っていると言えるのは日本では弥生時代以降のことであって、弥生中期頃になると稲作栽培が各地方の平地部に広まり、人々は定住し、共同作業を通じて村づくり、国づくりがはじまり『魏志和人伝』に言う60余国に分かれて相争う時期でもあった。その頃から父祖の霊を神として祀る風習がはじまったと見られる。それは人々が定住して生活できるようになったこと、人々が土地・水路の争奪を行うようになって、父祖の生存時の闘争力を大きく評価し、期待するようになったからではあるまいか。そのことは埋葬方法の変化のなかで知ることができる。「石井町清成遺跡」(弥生時代)では方形周溝墓の溝部分から底部に穴をあけたり故意に破損したらしい土器が多く出土した。今も死者の出棺に際し茶腕を破砕するごとく何等かの祭祀のためであろう。鴨島町に古墳時代以前の祭祀を證明するものはまだ発見されていない。然し現在残されている古墳の多くは洪積層の丘の上か、山の中腹にあって、部落を日夜見降せるところ、逆に人家側から言えば朝夕展望できるところに古墳が築造されている。何故そのような所を選んだのか、それを解明することによって古代人の死生観や信仰の一端を知ることができる。古代日本の人々の死に対する考え方は、人の死後肉体は朽ちてもその霊魂は不滅であって、日夜吾々を見ている。そしてその生命は再生すると信じられていた。古墳に埋葬後に忌部山型石室には祭祀を行った形跡のあるのは霊魂不滅を信じていたからであろう。父祖の霊魂が神であり、霊魂との対話が「祭り」であった。「祭り」と言う行事を通じて、神と人とはつねに結びついていた。古代人の霊魂は高い処、遠い海原に住むとみられていた。血族的に自分に遠く、身分の高い、尊い霊魂は尊いほど高い山に、また海の彼方にあると見られていた。海洋祭祀遺跡としては福岡県「沖ノ島」があげられるが、とくに人々が現実に見ることのできる、そして因難であっても努力すればそこにたどりつくことのできる高山は霊山として信仰された。高山崇拝は平安時代になると仏教と習合して霊山信仰は益々さかんになり大峰山、羽黒三山、伊予の石鎚山、阿波の高越山(こうつざん)のほかに富士山のように山そのものを信仰するようにもなった。山嶽信仰や大樹・大岩や日・月・星を崇拝する自然信仰も仏教伝来後の影響をうけたものであってその思想の根元には祖霊がそこに宿ると考えた、霊代としての信仰が移行していったのではあるまいか。『古事記』『日本書紀』にはそのように考えさせる流れがある。一方人々に近い父祖の霊魂は人里に近い処、そして人里を日夜見ることのできる場所に霊魂は住み、朝夕人々を見守っていると考えられていた。例えば昭和57年12月から58年1月にかけて発掘調査した鴨島町の吐気山古墳群は川島町との境界線上の標高74mから80mのいわゆる川島洪積層台地の稜線にあって、農耕のできる場所ではない。また付近にはまったく土器が散乱していないので生活の場でもなかったと思われるが、そこから見下ろせる約400m〜500m東方の「から谷川」に沿った鴨島町長原および赤坂地区には弥生式土器や須恵器の破片が散乱しており、朝夕には吐気山を見ることができる。そして吐気山にいだかれるようにして平地に集落があったことになる。そこに住む人達の祖霊が住む処が吐気山であった。その山の稜線にはまだ幾つかの古墳があり、山の一角には古くは「西ノ宮」と言い現在は「敷島神社」と称する古社もある。神社の裏山に背負うようにして「西ノ宮古墳」がある。祖霊が子孫を守ると言う信仰は鴨島町付近では屋敷内墓地として近世まで続けられていた。


(氏神の森)


 仏教伝来までは日本人の信仰は祖霊信仰であった。当時の人々にとって霊魂は不滅であり、万能であった。人知のおよばない世界は霊魂が支配すると考えていた。各村々には氏の祖霊神を通じて村人は一致し、氏神を心のよりどころとし、また農耕や村の運営なども神意によってきめられた。鴨島町の古社としては延喜式神名帳に記載されている神として「天水沼比古神、天水塞比売神」の2座1社と「秘羽目神・足浜門比売神」の2座1社がある。人々が神に祈る願いは食糧の豊穣と健康と災厄から逃れることであった。神は万能であってあらゆる願いを受け入れてくれたが、そのために時代のうつり変わりと、人々の願望の変化によって神名も変化することが多かった。また合社、移転、分霊もしばしば行われたので、歴史ある古社の跡を探る資料はきわめて乏しい。然し祖霊信仰は、今も吾々の生活の中に生きづいている。「氏神」と言い「鎮守さま」というその村人の大部分の人が参加して維持する神社があらゆる地域にあり、その他に同族で維持する先祖祠がそれぞれの氏ごとにあって一定の祭日をきめて祭礼を行っている。 また職業的な神として「山ノ神」「野神」「金比羅」が地域の人々で祀られている。また神仏習合の祠もある。森藤字六坊は山の中腹に早くから開かれた集落で、平康頼が後白河法皇や鹿ケ谷の犠牲者の霊を慰めるために寺院を建てた処でもあるが、部落の中ほどの「山ノ神」社の境内に「元祖ノ墓」と言うのがある。自然石を40cmばかり積みあげた蛇紋岩の上に幅10×12cm高さ30cmばかりの石柱の向って右側面は「命日廿四日」、左側面は「元祖墓」と陰刻し、正面には地蔵菩薩像が陽刻されている。今は植村家が先祖として祭祠を行っているが、明らかに地蔵菩薩像があり、24日は地蔵忌であるのに誰も「お地蔵さん」とは言っていない。

これなどは祖霊信仰と地蔵信仰と混淆したものであろう。また村の畑の中に名も知らない、墓か祠かわからないものがある。家によっては地主神として祠っている家があり、また土地を開拓した人を祠っていると言う人もあった。祖霊信仰は人々の生活の中に溶けこんでいて、日本人の信仰はすべて祖霊信仰が基本になっていると考えられていた。しかし祖霊信仰だけで説明できないもう一つの信仰の流れがあった。それは縄文時代或はもっと遠くさかのぼる信仰であって昭和37年愛媛県上黒岩岩陰遺跡第9層から隆起線文土器と共に扁平な礫に女性の乳房と頭髪などを線刻したものが発見された。此れを拾い上げたのは現在徳島県考古学研究グループのリーダーである天羽利夫氏であった。註4 此の遺跡は縄文草創期にあたる隆起線文土器を併出し、放射性炭素法による年代測定で約1万2千年前のものと発表されている。これを一応「石偶」と見るなら縄文時代に発達する「土偶」の先駆をなすものでなかろうか。「土偶」は縄文草創期から晩期にかけて東日本でとくに発達したものであるが、縄文後期には西日本をはじめ全国に分布している土製の数cmから拾数cmの人形で、女性像が多く、乳房・腰などの女性的特徴が誇張されている点に「石偶」と共通している。「土偶」は一般に豊饒、生殖を祈るためのものといわれているが、筆者は今から30年ばかり前に鴨島町の小さな古道具屋で土地の農家の人が売りに来たと言う「土偶」2体を購人した。出土場所を尋ねる方法も今はなくなったが、昭和55年刊豊田進氏の『阿波の茶道具図録』に写真が掲載されている。註5 身の安全と子孫の繁栄、食糧の確保を祈る神のしるしとして人々が集落内や身近に祀る祈願の対象として「土偶」と並行して「石捧」があった。石捧は一端を丸くしてふくらました男性の性器を象り、縄文時代前期からはじまり、中期にはさかんにつくられたらしく、小さいもので径10cm長さ数10cm、大きいものでは2m近いものがあり、長野県を中心に全国で発見されている。性器崇拝は生産、子孫繁栄にも通じ、祖霊信仰とは異質の流れをもっていた。祖霊信仰が稲作技術と共に西からはじまり、畿内を中心に発達して、日本獨自の「神」という信仰をつくりあげた。そこには「争い」「力(ちから)」というイメージが感じられるのに対して、前者はヨーロッパやアジアや大陸にも、原始信仰としての類似性をもち、関東で発達して、西に広まった点がちがっていて、ここには「生産」の願いのみがつよく感じられる。これは生活、いわゆる照葉樹林文化と関係があるのではあるまいか。縄文中期頃には照葉樹林帯に焼畑農業が行われていたと言う説もある。註6 前書『日本祭祠研究集成』には縄文晩期に北九州に成立した稲作が急速に西日本一帯に拡大したのはある種の農耕文化の基盤があったからだと説かれている。縄文期に焼畑農業による粟・雑穀の生産があったとすれば「粟→阿波」の国名の由来を一概に捨て去ることはできない。

昭和43年に東禅寺縄文遺跡が発見された。稲作以前の縄文後期(約4千年前)鴨島に人が居り住民があったことは、そこに農耕の先駆的なものがあり、定住している人達になんらかの信仰があったと考えられる。註7 照葉樹林文化─焼畑農業文化─雑穀常食文化が石捧信仰であり、米食文化が祖霊信仰であったと考えるのには無理があろうか。採集食糧から雑穀に、雑穀から米食を希望する志向性は世界人類の共通であるらしく、国分直一氏は「南島の古代文化と日本先史時代の農耕」(『国史論集』1964年所収)の中で「台湾のヤミ族は芋を主食としながら小量の粟を作り、魚食を行っているが条件さえゆるせば、芋作りより粟作へ、粟作より稲作へと動いていく傾向がいたるところに認められる」と報告して居られる。吾々日本人は米食を志向しながら約2千年間ごく最近まで人々の大部分は雑穀を主食として生きてきた。雑穀を主食としながらすべての人が神を祀り、神に米を供え、人々も祭日や祝の日に米食をするのは「志向性」米食をつねにねがっているからであった。縄文から近世まで雑穀を主食として来た人々の中に石捧信仰が形を変えて生きているとしても当然である。


(石捧信仰の残存性)


 字飯尾の工藤家では屋敷神として石捧が祀られている。註8 麻植郡山川町の忌部神社
の北方、国鉄山瀬駅から線路に添って東へ数百mいった、線路の南側の道路脇にも数基の石捧が祀られている。石捧信仰祠は古くから開発されていた鄙(ひな)びた地域に時折り見かけられるが、その一方で平安時代頃から仏教と習合して地蔵や道祖神とも混淆して民間信仰として現在に伝えられた。今から30数年前字敷地部落で一番古いといわれてきた大村家横の地蔵祠を道路拡張のため移転した時、祠の直下の地中から直径10cm長さ20cmばかりの両端がふくらみ丸くなって、中央がくびれた、米表をやや長くしたよう石造物1個だけが出土した。川島町城東にも此のような石造物が祀られていた祠があったことを川島町文化財保護審議委員喜多弘氏よりきかされた。阿波の山間部の古い地蔵祠には石像の無いものがある。石造地蔵尊の紀年銘を見ると江戸時代中期以降のものばかりであった。他の地域の例では地蔵の前身は道祖神ではなかったかと思われる程に、名を聞かねば何の祠かわからない場合がある。道祖神には今も石捧または石捧類似のものを依代として祀っている祠もある。長野県では男女双体の道祖神が多いが鴨島町には1石に2像を刻んだ双体庚申塔があり、地元では「庚申さん」と「おふなたさん」だと言っているが、船戸神は12人の子があると言われ、増産の神、塞の神として信仰されている。氏神を中心にして地蔵尊も道祖神も船戸神も庚申も性神信仰と祖霊信仰を基礎としながらそれに仏教信仰が混淆して、古代から人々の心をささえ、そのなやみに応えて今日の文化を育てて来たと考える。

  註1.『徳島県博物館紀要』第9集 昭和53年刊
  註2.『古事記』岩波文庫 No.3168
  註3.『日本書紀」岩波文庫 No.3170
  註4.「四国の歴史と民族」天羽利夫(『えとのす』第5号所収)新日本教育図書 昭和51年刊
  註5.『阿波の茶道具図録』(143頁 図47)昭和55年刊
  註6.「祭り研究における農耕文化史的視点の定立」坪井洋文(『日本祭祀集成』第5巻改収)昭和52年刊
  註7.『東禅寺縄文遺跡発掘調査の概要』鴨島町教育委員会 昭和55年刊
  註8.『石は語る阿波』横山春茂 昭和31年刊


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