阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第34号
郡頭・木津・神宅 −その地名考察

方言班 森重幸

1.はじめに
 地名についての解釈や説話は、古くは、奈良時代の『古事記』、『風土記』などに、多様な内容が採録されている。古今を通じて、人々に共通な関心の一つである。
 徳島県の地名は、藩政時代の『阿波志』(文化12・1815)、『粟の落穂』(天保・弘化年間・1840〜)をはじめ、『阿波国徴古雑抄』(大正2)などに多数の記録がある。
 しかし、地名の解釈は異説や付会が多く、科学的な研究方法が模索されているというのが現状である。
 文献・史実などで解明できるものはともかく、多数の地名は、どうして命名されたのか、また、どのような原義か不明のままである。
 このように不可解な地名の原義を解明するには、地質学や地理学、考古学や歴史学、民俗学や国語学など総合科学を結集してとりくまねばならない。現地を踏まえ、かつ、学際的視野で考察する必要がある。
 また、その結論は、当然ながら、他の地方にある、同系地名にも成立しなければ妥当とは言えない。
 徳島県の地名論考としては、笠井藍水(注1)・萩沢明雄(注2)・小川豊(注3)・大和武生(注4)などのユニークな研究が光っている。
 本稿は、先学の成果を学習し、これを発展させようとした緒論である。浅学・独断の恐れが多分にあり、今後、斯界の指導を受けて補正を期している。
 板野町大字大寺字「郡頭」は、10世紀初期の式駅「郡頭」に比定される故地であり、鳴門市撫養町「木津」(注5)、および、上板町「神宅」(注6)は、それぞれ、11世紀、14世紀の歴史に初見する古い地名である。
 以下、これらの地名について、順次、概観してみよう。


2.式駅「郡頭」の比定研究史
 式駅郡頭の比定は、すでに、近世末期以来、郷土史家により試考されてきた。そこで、従来の成果を一覧し、その経過を学習したい。
 1 野口年長『粟の落穂』(天保・弘化年間、1840〜):駅の郡頭も、「コホリヅ」なるかと思えど、なお、「コホヅ」とよむかたよろしきにはあらざるか。今、大寺村に「高津」という地あり。そこなるべしと或人言えり。されど、高津と郡頭とは仮字は違えば、いかにあらん。
 2 松浦長年『阿波国古義略考』(弘化年間、1840〜):大寺村の岡ノ宮村も後の名にて、延喜の頃は郡頭村といでしにこそあらめ(…「コホヅ」と訓むべき、…論(あげつら)いあかしはべり)さるを、今は却って、大寺村の高津とぞ呼ぶなる。
 3 『阿波国板野郡村誌』(明13):郡頭は、「コホヅ」と訓みて、即ち、本村(注、大寺村)なり。…「コホヅ原」という地あり。これ、古名の残れるものなり。此所は、本国「国府」と、讃岐国引田駅との道の分るる所にして、駅のあるべき地なり。
 4 『大日本地名辞書』(明33):山下郷、今、詳ならず。疑うらくは、大坂山の下なる里にて、…板西村より松坂村、栄村などを指せる古名にやあらん。…郡頭は、即ち、山下郷にやと疑わるれど徴証を得ず。その訓、また、詳ならず。
 5 手塚愛次郎『阿波史』(明44):淡路を経て撫養に来り、石濃(大谷村石園)、那頭(那東村)の二駅となり…。
 6 『板野郡誌』(大15):郡頭は、即ち、大寺の旧称なり。…岡ノ上神社の縁起にも「高津原合戦」の砌云々の事あり。
 7 大西昇一『阿波史要』(昭15):淡路を経て撫養に来り、石濃(堀江村石園)、那頭(大寺村高津)の二駅に至り、…
 8 沖野舜二『概説阿波史』(昭25):淡路沿岸を経て撫養に来り、石濃(堀江村大谷、石園)より西行して、郡頭(板西町大寺、高津)にいたり、…
 9 『徳島県史』(昭39):郡頭もまた、一書によると、「那頭」と書かれ、現在の板野町那東に比定されているが、やはり、郡頭と書くのが正しく…藩政期の古地図には、「高津橋」と書き入れたものもある。
 10 福井好行『徳島県の歴史』(昭48):淡路福良から牟夜の港に上陸し、鳴門市大麻町堀江の石濃(今の石園)にいたり、…板野町大寺の郡頭につき…
 以上についてみると、まず、『徳島県史』が、式駅郡頭を「那頭」と表記する一書があると指摘している。
 しかし、新訂増補国史大系本『延喜式』を検索すると、郡頭について、那頭の校異は見られなかった。
 『徳島県史』の指摘は、あるいは、前記、5 『阿波史』、7 『阿波史要』などの記述に言及したものかも分らない。
 いずれにしても、本稿は、諸本の校異を確認した結論として、板野町那東を除外し、一応の参考にとどめたい。
 つぎに、1 『粟の落穂』、2 『阿波国古義略考』の論考から、大寺村高津が、近世末期から、すでに、式駅郡頭の故地と見られていたことが分った。
 そこで、板野町役場に保管する土地台帳を検索したところ、台帳資料のできた明治21年の文書は、すでに大寺「郡頭」となっており、「高津」の表記は見られなかった。
 その他、先学の所説で注目されるのは、4 『大日本地名辞書』が指摘する、郡頭の訓みの疑問である。
 諸説の多くは、式駅郡頭を「コホヅ(こうず)」と訓んだ結果として、大寺「高津(こうず)」を比定した。しかし、訓みの如何によっては、結論を異にすることにもなりかねない。
 ともあれ、大寺「高津」は太政官道の沿線に立地し、阿波国の国府と、讃岐国引田駅への分岐点に位置することから、諸説、ほとんど一致して、式駅郡頭の故地としている。
 したがって、本稿は、板野町大寺字郡頭(高津)を検討し、イ 式駅郡頭の訓み、ロ 式駅郡頭の地名原義を探究目標としたい。


3.地名「郡頭」の原義研究史
式駅郡頭の地名原義に言及したものを一覧すると、つぎのようである。
1 井上通泰『上代歴史地理新考』(昭15):郡頭…「頭」は、田頭、林頭、野頭などの頭にて、「ホトリ」という事なり。今も、郡家の辺にあるが故に、郡頭とぞ名づけけむ。
2 志賀剛『式内社の研究』第1巻(昭35):阿波に、地形上、「河内」と思われる、板西町の谷の入口に、郡頭という式の駅があった。
3 福井好行『阿波の歴史地理』第2巻(昭43):郡頭は、旧吉野川を横断して、国府への津(港)をなしていた所。
4 福井好行『徳島県の歴史』(昭48):郡頭は、「国府津」で、国府へわたる渡津である。
5 羽山久男「吉野川河谷の古代交通路と郡家」(昭51):郡頭には、板野郡家が所在したとみる。(注7)
6 『古代日本の交通路』III(昭53):郡頭駅は、その名稱からして、板野郡家と近接していたものであろうが、その郡家所在地を具体的に決定しえなかった。
 以上をまとめると、地名郡頭の原義として、イ 郡家の近在地説、ロ 国府への渡津説、ハ 「河内」の地形説、などがある。
 そこで、これらの諸説について、逐次、学習したい。
イ 「郡家の近在地説」について
 『上代歴史地理新考』の井上説のほか、羽山、服部の両氏がこれに準拠している。もっとも、「郡家の近在地説」は、小杉榲邨の『特選神名牒』(大14)が、土佐国土佐郡の式内「郡頭神社」を論考したものと同説である。
 すなわち、本説の主意は、郡頭の「頭」を、「ほとり」、または「近辺」と理解したことである。
 ちなみに、「頭」は、呉音で「ツ」・「ヅ」、漢音で「トウ」となる。
 これを国語の用法で見ると、呉音は、頭痛・頭脳などで、「頭(ヅ)」は、「あたま」の意味に限定されている。
 一方、漢音は、出頭、巨頭会談などの場合、「あたま」の意となり、路頭、駅頭などの場合、「ほとり」、ないし「近辺」の意となる。
 そこで、井上の引用する『常陸風土記』−「聞歌鶯於野頭」について見ると、古典文学大系本『風土記』では、「歌へる鶯を野の頭(ほとり)に聞き」と訓まれている。
 つまり、「野の頭(ほとり)」と訓む場合、その音よみは、「野頭(やとう)」であって、「野頭(やず)」ではなく、まして、「野頭(のず)」はありえない。
 同様に、「郡(こおり)の頭(ほとり)」と訓む場合、その音よみは「郡頭(ぐんとう)」であって、「郡頭(ぐんず)」ではなく、まして、「郡頭(こうず)」はありえない。
 これを要するに、字音「頭(ヅ)」の訓は「あたま」であり、「ほとり」の意味はない。
 したがって、式駅郡頭を「コホヅ(こうず)」と訓んだときには、国語表記から見て、つぎの二義しか考えられない。
(a)郡家と無関係の場合…地名「コホヅ(こうず)」と表記するために、百済系漢字音「郡(コホリ)」と、呉音「頭(ヅ)」を借用した。
(b)郡家と関係する場合…地名「コホヅ」は、百済系外来語の「郡(コホリ)」と、和語「ヅ」の複合語で、呉音「頭(ヅ)」を借用した。
 以上のように、式駅郡頭は郡家と無縁であるか、または、関連するとしても、井上の示す「郡家の近在説」を意味しない。
 なお、式駅郡頭の地名原義検討にあたって参考となるのは、土佐国土佐郡の式内郡頭神社と、同大社「都左坐神社」、および「土佐郡家」との関連考察である。
 阿波国式駅郡頭と土佐国式内郡頭神社は、いずれも、「延喜式」に記載された同じ表記地名であることから、その立地は同じ状況と見たい。
 問題点は、式内郡頭神社と、同大社都左坐神社の位置関係である。古典文学大系本『風土記』から、「土佐国風土記逸文」を参照すると、つぎのようである。

 土佐国風土記日 土左郡郡家西去四里、有土佐高賀茂大社、其神名為一言主尊、其祖未詳、一説日大穴六道尊子味■高彦根尊。
 土佐高賀茂大社は、式内大社の都左坐神社である。当社の所在について、志賀剛の『式内社の研究』は、土佐国風土記逸文を引用し、―今の「布師田」の東部、「小山」、「西谷」、「下附」に当る(高知市東北4粁)―と記述している。
 また、志賀は土佐郡家について、宮地博士説―国府と「一の宮」に通ずる道で「小野神社」付近―を引用している。
 一方、郡頭神社について、志賀は、―鴨部郷の中心、鴨部にあって、鏡川橋に近い(高知市西南4粁)―と記述している。
 これを地図で見ると、国府川水系の土佐郡土佐郷に所在する土佐郡家と、鏡川水系の土佐郡鴨部郷にある郡頭神社は、高知市街(往時は水郷であった)を介在して、10粁もへだたった状況である。
 これは、近いと言うよりも、むしろ、遠いと見るべきであろう。
 したがって、イ 「郡家の近在地説」は、土佐国式社郡頭神社の立地について見ると成立しない。
式内郡頭神社が土佐郡家に近在しないことをもって、式駅郡頭と板野郡家の関係を勘案すると、井上の「郡家の近在地説」は、説得力に欠けたものとなる。
 ついで本稿は、イ 井上説に準拠する、羽山・服部の所論を学習せねばならない。
 すなわち、羽山は、―郡頭の「郡」は、「コオリ」であり、板野郡家の所在地であったことを意味している。―と論考し、板野町地籍図に、板野郡家プランを指示している。
 さらに、羽山は、郡家所在の論拠として、郡頭の近辺に、金光明寺・大唐国寺跡・式内岡ノ上神社・瓦窯跡・横穴石室古墳群分布をあげている。
 たしかに、これらの古代遺跡は、郡頭地域の重要性を明示してはいるが、ただちに、郡家所在の徴証とはなしがたい。
 というのは、板野郡内の各地には、さらに重要な古跡や史実が分布するからである。
 たとえば、羽山が郡家所在の論拠として重視する、式内岡ノ上神社は無位であるのに、鳴門市大麻町板東の「大麻比古神社」は、何故に式内大社で、かつ昇叙されたのであろうか。
 さらには、天平勝宝年間に平城京で活躍した「板野采女国造粟直若子」と、大麻町板東の字「采女」との関連も検討事項と言えよう。
 一方、上板町神宅の「葦稲葉神社」は式外ながら・何故に・式内大社となった大麻比古神社よりも、早く昇叙したのであろうか。
 加えて、故地「神宅」の地名原義研究も重要課題であろう。
 式駅郡頭と板野郡家の関係考察は、以上の諸問題をも加味すべきではなかろうか。
ロ「国府への要津説」について
 式駅郡頭の地名原義を、「国府への要津」、すなわち、「国府津」と見る福井説は、国語表記の面から見ると、合理的な地名解釈である。前記イ 「郡家の近在地説」で学習した(b)に該当するからである。また、その地理状況を見ると、阿波国の国府は、旧吉野川を渡って、南方7粁の鮎喰川西岸に立地している。
 問題となるのは、前記の土佐国式内郡頭神社と、「土佐国府」の立地関係を、福井の「国府津説」で説明できるかどうかであろう。
 『高知県歴史辞典』(昭51)によれば、土佐国の国府は、国府川水系の南国市比江にあたり、『和名抄』では長岡郡であった。
 これについて、同辞典は、―国府川は、国府と、その外港、「大津」をむすぶ重要な水系―と記述している。
 また、外港の大津については、―『和名抄』に「大角郷」とみえ…平安時代以前は浦戸湾にそった港で、紀貫之が土佐守の任期を終えて船出したところとして名高い―と解説している。
 すなわち、国府川水系の長岡郡に所在する土佐国府と、鏡川水系の土佐郡鴨部郷に所在する式内郡頭神社とは、高知市を介在して、15粁もへだたっていることになる。
 しかも、国府への要津は、郡頭神社が所在する鴨部ではなく、古来、大津であった。
 このような状況を見ると、式内郡頭神社の立地する郡頭の地名原義は、もはや「国府津説」とは無縁と言わざるを得ない。
 したがって、福井の主張する「国府への要津説」も、式駅郡頭の地名原義とは見なしがたい。
 つまり、国府への要津説は、地名「コホヅ(こうず)」に好字を当てる時の付会、もしくは、好字表記に対する、後人の誤解である。
ハ 「河内の地形説」について
 志賀は、土佐国の式内郡頭神社の地名解釈にあたり、―「河内」から、「カハチ」→「カウチ」、さらに、「カウツ」と転化し、そして、郡頭の好字をあてたのであろう。―と分析し、阿波国の式駅郡頭に言及している。
 しかし、志賀の記述は、河内が、どのような地形であるのか明記しておらず、その内容が分らない。
 そこで、「かわち」について、柳田国男『地名の研究』(昭11)を検索すると、―渓間の小平地を言う―との論考であった。
 これを、徳島県の「かわち」地名で確かめるとつぎのようである。
 イ.名東郡佐那河内村
 ロ.美馬郡一字村河内
 ハ.美馬郡木屋平村内川内
 ニ.勝浦郡勝浦町与河内
 ホ.勝浦郡上勝町殿川内
 へ.那賀郡木頭村追川内
 ト.海部郡日和佐町山河内・西河内・北河内・奥河内
 チ.海部郡牟岐町河内・西河内
 上記は、近世以前の記録に見える「かわち」系地名であるが、その地形はいずれも、柳田説に該当している。
 これをもって考えると、式駅郡頭の地形は、もともと「かわち」の地形概念とは無縁である。したがって、志賀の示す「河内の地形説」そのものが、地名「郡頭」の原義論にはなじまない。
 志賀の所説―谷の入口に立地する地形―について言えば、つまるところ、「谷口」、もしくは、「川口」と呼ぶべきであろう。
 以上、先学による、式駅郡頭の地名原義研究を学習した。
 これをまとめると、地名郡頭は、『大日本地名辞書』が指摘するように、「訓み」そのものも確定的ではなく、地名原義も、また、成論を得ていない。
 したがって、本稿としては、先学の成果を基礎として、新しい視点からの考察をすすめねばならない。


4.板野郡家と板東郡家
 本稿は、式駅郡頭が板野郡家の所在とは無縁として試論をすすめてきた。
 したがって、郡頭の地名原義を確定するためにも、板野郡家の所在について考察する必要がある。
 板野郡家の考察にあたり前提となるのは、当郡が、かつて、二郡に分治されていたという沿革を理解することであろう。
 板野郡は、奈良時代以来、10世紀初期の『和名抄』、および「延喜式神名帳」などの記載にいたるまで「板野郡」であり、改編・分治の変化は見られない。
 「坂東郡」の表記は、仁治4年(1243)の記事として『南海流浪記』に初見し、一方、「板西郡」は、名西郡阿川村勧善寺所蔵大般若経巻210に、至徳・嘉慶年間(14世紀末)の奥書として見えている。(注9)
 もっとも、13世紀の仁治年間に坂東郡がある以上、坂西郡もあったに相違なく、建暦3年(1213)の「慈鎮所領譲状案」(注10)の表記史料として、「坂西庄」が傍証している。
 このほか、鎌倉初期に成立した『平家物語』や『源平盛衰記』などが、「坂西」・「坂東」を記録している点に注目したい。(注11)
 これについて、笠井藍水『郷土研究徳島県誌』(昭3)は、―板東・板西に二分されたのは、藤原時代と思われる。…中古の記録には、「坂」の字を用いてあるが、是は、「板」の字を誤ったものに過ぎぬであろう―と論及している。
 一方、福井好行『阿波の歴史地理』第二は、―この郡は、中世に分れて、坂東・坂西の二郡となり、江戸時代の寛文4年(1664)、合して、また一郡となって今日に及んでいる―と言及している。
 思うに、「坂西」・「坂東」の表記史料は、前記のとおり、鎌倉初期成立のものではあるが、軍記物語の内容は、まさに、平安末期の合戦、争乱の史実である。
 このように考えると、板野郡の二郡分治は、笠井の指摘する藤原時代であったか否かはともかくとして、すでに、平安の古代にさかのぼると見てまちがいない。
 したがって、板野郡家の考察にあたり、本稿としては、当然ながら「板東郡家」と「板西郡家」の分析が必要となる。
 さて、奈良朝時代の郡司任用は、養老選叙会に見るように、才用主義を基準としながらも、やはり、国造一族が優先的であった。
 その後、延暦年間の才用主義、弘仁年間の譜第主義、さらには、擬任郡司制など、現実的な改編工夫のあったことが論証されている。
 しかし、任用方針がいずれであれ、在地豪族層からの登用という点について言えば、なんら変わらないのが実情であろう。
 では、板野郡内で豪族層の蟠踞した古跡は何処であろうか。
 その答えは、板野町大寺地区もさることながら、東部は鳴門市大麻町板東地区であり、西部は上板町神宅地区をおいて、他に考えることはできない。
 両地区は、それぞれ、神体山である「大麻山」と「大山」の山麓に立地し、銅鐸出土、古墳群の分布など、往古の先進地区だった事を示している。
 とりわけ注目されるのは、板東地区、糠塚古墳出土の「頭椎大刀」に関する、小林勝美の考古学的所見である。
 特に頭椎大刀は、当時の社会では、中央より派遣された官吏(役人)が所有を許されたのみであり、この大刀の出土地は、阿波国における「郡」の支配体制の確立を意味している。(徳島新聞 昭62・10・30)
 つぎに注目されるのは、字地名「采女」である。天平勝宝年間、平城京で活躍した「板野采女国造粟直若子」などに関連する故地であろう。これについて、秋山泰は―采女の歳費にあてる「肩巾田」であろう―と指摘されている。(注12)周知されるように、采女貢進の規定は、「郡少領以上の姉妹、及び子女で、形容端正なる者」である。
 采女が郡司直結の血族であることを考えると、字地名「采女」のある板東地区こそ、郡家所在の公算が高い。
 さらに、郡家所在を傍証するのが、式内大社「大麻比古神社」である。
 延喜式神名帳への登載は、国司の答申によること、言うまでもない。しかし、当国内での諸社の選進は、まず、地方の郡司による推挙が常識である。
 大麻比古神社が名神大社となり、かつ叙位されたのは、当社を奉祭する在地豪族層の実力反映にほかならない。
 とすれば、郡司とかかわりのある、つまりは、郡家所在地の古社が推挙され、かつ、叙位されることになろう。
 このほか、板東地区には、字地名「松木(まつぎ)」があり、郡道交通とのかかわりを暗示するばかりでなく、「駅鈴」出土の話題まで聞かれる。
 以上のごとく、奈良時代から平安初期にかけて、板野郡家所在の徴証は、板東地区において、もっとも顕著である。
 したがって、本稿は、平安中期以後、二郡分治になっても、やはり、当地、板東地区に板東郡家が置かれたものと考えたい。
 なお、板野采女粟凡直若子については、秋山泰のすぐれた論考がある。(注13)
 蛇足すると、板野采女粟凡直若子は、藤原氏本流で北家の祖、藤原房前に愛され、従三位大蔵卿、参議の藤原楓麻呂を生んだ。かつ、自身も命婦として写経所に関与している。(注『日本古代人名辞典』その他による。)
 『国史大辞典』その他によれば、当時、写経所は、大仏創建の立案者である光明皇后の中宮御在所にあった。
 若子が房前との間に子を生(な)し、五位の采女として粟国造の称を得たのは、房前の妹である光明皇后に近侍して、その個性・知能・達筆・仏道心など、すべての面で皇后の信頼を得ていたからにほかならない。
 その若子は、天平勝宝4年(752)4月7日、2日後に行われる大仏開眼供養大会のために、松本宮より華厳経一部八十巻と祭具一式を借り出し、同年8月1日、これを中宮御在所に奉返した。(注14)その時、彼女はすでに出家して尼となっている。
 大仏開眼供養大会(4月9日)は、聖武上皇みずから百官をしたがえ、戒壇に跪座礼拝したが、1万人の僧が列席読経するという盛儀であった。
 若子出家の心情は、はかりがたいが、上記の仏具を開眼供養大会のために、わざわざ借り出した所から考えて、当日は、出家しての列席だったのではなかろうか。
 おそらくは、信仰の心厚い光明皇后の信頼に応える一方、房前への愛を仏道に昇華したのであろう。


5.板西郡家と「神宅」
 「板西郡」の表記史料は、14世紀末、至徳・嘉慶年間の阿川村勧善寺所蔵大般若経巻210奥書が初見であるが、(注15)「坂西」、または、「板西」の表記は、すでに、13世紀初期の庄園史料に見えている。
 これを、建暦3年(1213)の「慈鎭所領譲状案」から天正12年(1584)の「土佐国宗圓文書」にいたる間の表記史料で見ると、「坂西」4、「板西」6である。(注16)
 しかし、『平家物語』・『太平記』などはいずれも「坂西」となっている。
 総じて、「板」、「坂」の表記は、史料の新旧にかかわりなく、相半ばすると見てよい。(注A)
 注目されるのは、『南海流浪記』と、『源平盛衰記』の記録内容である。
 すなわち、「流浪記」には、―船を下りて坂東郡大寺に宿す―とある。亀山天皇の金泉寺再建縁起以前の鎌倉初期に、当寺を通称の大寺で呼んでいたこと、また、それが地名となり、かつ、坂東郡だったことを示している。
 つぎに、「盛衰記」は、「金仙寺観音講」の段に―阿波国坂東西うち過ぎて、―とある。金泉寺から大坂峠にいたる大坂谷川東岸も、やはり、坂東郡だったことがわかる。
 以上から、坂東と坂西の郡境は、平野部はともかく、山分は、大坂山と大坂谷だったと見るべきだろう。
 本来、板東・板西と表記するところを、当初より、坂東・坂西の表記が見えるのは、「板」・「坂」の表記混同と言われているが、上記の山川を境界とした意識にも因由があろう。「境界」、すなわち「さかい」の語源が、もとは「坂」に由来することを考え合せて興味ぶかいものがある。
 ここで、本稿は、板西郡家の所在地と推定する、上板町の「神宅」について学習したい。
 当地が、弥生時代、古墳時代以来の故地だったことは前記したが、平安初期にも、式内鹿江比売神社、式外葦稲葉神社の昇叙実蹟があり、古代村落の繁栄をうらづけている。
 この神宅の地名原義について、『上板町史』(昭58)は、―式内鹿江比売神社の神地に設けられた「御宅(みやけ)」に由来する―と記録している。
 当社は、陽成天皇の元慶7年(883)、従五位上に昇叙された古社である。
 その比定については諸説があるが、志賀剛『式内社の研究』および『式内社調査報告』(昭62)は、いずれも上板町神宅の「殿宮」にあてている。
 志賀によれば、―往時は、茅をもって屋根を葺くところから、「殿宮」というのは、「戸の宮」、即ち「家の宮」で、茅の神を祭祀する社の俗称として相応し、―と記述している。
 また、式外葦稲葉神社について―古代は「大山」に祀られ、従四位上にも昇っているが、式外となったのは、山麓で氏子の多い鹿江比売神社が式社となったためであろう。―と追記している。
 そこで、地名「神宅」の語源、「神地に設けた御宅(みやけ)説」を学習するべく、『日本歴史大辞典』・『日本古代史事典』を検索した。
 しかし、該当事項としては「屯倉」のみで、「神地設置の御宅」についての解説は皆無であった。
 思うに、「町史」が記録する「神地設置の御宅説」は、近世以後の表記、「神宅」にとらわれた解釈にすぎない。近世の表記「神宅」によって立論するのであれば、さらにさかのぼった南北朝時代、観応3年(1352)の初見表記、「神焼」の解釈こそ優先すべきであろう。
 つぎに、志賀の説は卓見であるが、やや付会のきらいがある。
 鹿江比売神が「茅の神」であることは当然であるが、当地の茅は、地勢的にみておそらく「チガヤ」であって、屋根を葺く「ススキガヤ」ではない。
 また、「茅の神」をもって、ただちに「家の宮」の発想が可能であろうか。さらには、「家の宮」に拡大した発想が、逆に「戸の宮」に縮小する必然性も理解しがたい。
 つぎに、「戸の宮」から、俗稱「殿宮」に通ずるなど、連想がいささか自由自在の感が強い。
 むしろ考えるべきは、当社が田地を望見する扇端台地に立地することであろう。
 本稿としては、「殿宮」の原義を「田の宮」の変化形と理解したい。上代国語にもよく見られる、[ta]→←[t■]の音変化である。
 ただし、この場合は、殿宮(田の宮)が葦稲葉社のものか、あるいは鹿江比売社のものかを考察する必要がある。
 ちなみに、『徳島県神社誌』(昭56)は、つぎのように解説している。

 葦稲葉神社は、往古、もと大山畑「葦野原」に鎮座したが、…山吐水のため「宮ケ谷」の尾端に遷座、後に社殿焼失して当地に遷座した。
 嘉永6年(1853)奉献の鳥居には、殿宮神社、葦稲葉神社、鹿江姫神社と並書した懸額があり、境内は本殿が二社に別れ、境内社として殿宮神社が祭られている。
 上記からうかがえることは、式外葦稲葉神社の奉祭にあたり、神宅地区には、往時、山上の「奥宮」、山麓の「里宮」、田地の「田宮」という、古代の祭祀形態があったという徴証である。つまり、奥宮は畑地区の「葦野原」、里宮は「神宮寺」の近辺で、田宮がすなわち、現在地「殿宮」付近である。
 したがって、「神社誌」に記録する本殿二社は、神体山「大山」の男神「葦稲葉神」と、当地の産土女神「鹿江比売神」の祭殿であり、殿宮(田宮)は葦稲葉社のものと見たい。
 往古、神宅地区の人々は、大山に葦稲葉神を奉祭し、鹿江比売神のいます扇状地周辺の茅原を開拓して、田畑に変えたのであろう。
 男女二神による開拓譚の典型は、「淡路の島生み」に登場する、イサナキ、イサナミ二神の創造神話である。
 このような二神開拓譚は、おそらく、各地の部族が、それぞれに伝承し、かつ祭祀していたものと思われる。
 その一例は、伊予国伊予郡の式内大社「伊予神社」と、式内「高忍比売神社」である。ちなみに、「伊予神社」は二社ある。重信川(旧 伊予川)南岸の沖積平野−北伊予村(現松前町)の「北伊予社」と、山麓部−南伊予村(現伊予市)の「南伊予社」である。おそらくは、往古の「田宮」と「里宮」であろう。当地方は『和名抄』の伊予国伊予郡神前郷と神戸郷にあたる故地で、伊予郡名の発祥地であり、また、伊予国名の本源地である。
 高忍比売神社は、近世期以来、伊予郡の総氏神として、祭礼ことのほか盛大である。
 注目されるのは宵宮行事で、伊予神社(北伊予社)の神輿が到着すると、比売神の神輿と並置し、手木を交叉させて聖夜を過ごす。すなわち、両神の聖夜同衾による豊穣儀式である。
 新訂増補国史大系本『延喜式』によれば高忍比売神の訓みは、九条本「タカオシヒメノ神」で、武田本は「タカシヒメノ神」である。これについて『明治神社誌料』(明45)、『神祗志料』(昭2)、平凡社『愛媛県の地名』(昭55)などは、いずれも「タカオシヒメノ神」をとっている。
 しかし、『古事記』上に、「布忍富鳥鳴海神(ヌノシトミトリナルミノカミ)」、また、「景行紀」五十一年正月に、「布忍入姫命(ヌノシイリヒメノミコト)」などについて、諸訓、すべて「ヌノシ…」としているので、本稿としては、武田本の訓「タカシヒメノ神」、ないしは「タコシヒメノ神」と理解したい。
 さらに、参考として、『和名抄』阿波国名西郡高足郷[多加之]は、足(あし)を[シ]と訓んでいる。
 これと同様に、高忍比売神も、忍(おし)を[シ]と訓むことができよう。というのは、忍(おし)[■si]の[オ]は乙類で、[ア]の音に通ずるからである。
 また、高忍比売神の神格について、本稿は、「高洲比売神」の変化形と見たい。すなわち、重信川沖積地帯微高地の産土女神である。とすれば、[Takasu]→[Takasi]→[Takosi]→[Takoosi]→[Takaosi]の変化で、「タカシ比売」と「タカオシ比売」は、結局、異訓同義となる。
 一方、「北伊予社」境内には神泉がある。これについて、「社記」は、―伊予国中生産をなす者、必ず、此の社に拝謁す、…祥瑞もっとも多し、深からずといえども大旱にも尽きず―と、その霊験を讃えている。また、「南伊予社」にも聖泉「真名井」があり、祭礼時には、霊水をいただくために多数が遠路参集した。
 当社周辺には、清泉湧水が多く、往古以来の農耕適地であった。すなわち、祭神「伊予主命」の神格は、沖積地帯の水源湿地をうしはく産土男神である。
 伊予川沖積平地の開拓は、このような神格に象徴される産土二神を祭祀しつつ続けられたのである。
 以上から、本稿は、「伊予の国」の原義を、「湯の国」ではなく、「湿地の国」と理解したい。
 なお、式内大社「伊予神社」の比定については、『特選神名牒』『神祇志料』をはじめ、『式内社の研究』『愛媛県の地名』などが一致して「北伊予社」にあてているが、『式内社調査報告』の「南伊予社」説にも注目したい。
 さて、神宅地区の産土二神について再考すると、往時、葦稲葉社の田宮が、鹿江比売社と隣接して、広大な現社地を構成していたと思われる。
 鹿江比売社周辺の開拓と集落の繁栄が進む一方で、葦稲葉社の衰退がはじまったのではなかろうか。
 二社の関係は、9世紀末の『三代実録』と、10世紀初期の『延喜式』記録からもうかがうことができる。
 清和天皇の貞観16年(874)と陽成天皇の元慶3年(879)の二度にわたり、大麻比古神に優先して昇叙された葦稲葉神の実蹟は、とりもなおさず、神宅地区豪族層の実力を反映したものである。
 ところが、その葦稲葉社も、40年後に、「延喜式神名帳」の登載をめぐって、鹿江比売社(元慶7年・従五位上)に敗北した。
 式帳への推挙をめぐって、当地豪族層の間で主導権争いがあったと見てまちがいない。葦稲葉社が式外にとどまった理由はいろいろあろうが、主因の一つは、「神社誌」の記事、「山吐水」に象徴されるような自然災害ではなかったろうか。
 すなわち、神宮寺や大山町地区など、葦稲葉神の里宮奉祭集団が被災して勢力を低下し、逆に、扇端部の鹿江比売社周辺で繁栄をつづけた新興勢力が時流に乗ったのであろう。
 鹿江比売社が式に入り、やがて、葦稲葉社の田宮と混同して殿宮と呼ばれた事情も、このような新旧交代による結果と見たい。
 そして、鹿江比売神社を奉祭する新興豪族層の繁栄が、平安中期に、板西郡の分治をもたらす原動力となったのであろう。
 思うに、板野郡の二郡分治は、時代の進展に応じて、地域の自主性を求めた神宅新興勢力と、下板地方に所在する板野郡家勢力との均衡の結果であり、同時に、地方を掌握するために、これを認めた中央権力との合同産物である。
 ともあれ、かつての主流派であった葦稲葉神奉祭勢力の衰退とともに、古代村落が伝承してきた祭祀形態の崩壊が起っている。
 前記したように、葦稲葉神の田宮が忘却されて、鹿江比売神を殿宮と通稱したばかりでなく、神体山の大山が、仏法の大山に変身したのである。当地における神仏習合は、仏と神の新旧交代である。
 もっとも、「仏法の大山」は、神宅地区の新旧勢力が、ともに求めた時代的要請でもあった。というのは、平安中期から末期に生きた彼等の日常は、地区内同族との相克、周辺豪族との抗争、はては、中央権力との軋礫など、生き残るための苦悩の過渡期であり、かつは不安・末法の時代だったからである。
末法時代の阿波国をうかがわせるものとして、つぎの史料に注目したい。
 イ.「太政官符阿波国司」 延久2年(1070)…『阿波国徴古雑抄』巻一
 ロ.大山埋納の経筒 大治元年(1126)銘
 ハ.「愚昧記所載問註申詞記」 久安2年(1147)…『阿波国徴古雑抄』巻三
 阿波国司に下した太政官符は、「忌部神・天石門別八倉比売神祭典文書」である。「祈年・月次祭は邦国の大典なり」と特記し、式内大社の奉祭を怠る国司に厳命したものである。国府に近在する阿波国一宮八倉比売社と、皇室祭儀に直接関わる忌部大社への祭幣停滞を指摘される事は、国司がみずから望んだ事態ではあるまい。郡司の制度が崩壊する1,100年前後の阿波国の状況をもの語る事象として興味ぶかい。
 一方、久安2年(1147)の記事は、一宮々司河人成俊と、法勝寺末寺延命院所司との問注である。
 追捕使を従えて乱入狼籍する地方豪族と、中央社寺に追従して安全をはかる末寺との裁判記録は、当時の社会状況を活写している。
 このような末法社会の終末が、在地一族の興亡をかけた源平合戦である。
 阿波における源平の角逐は、判官義経の阿波電撃進攻に垣間見るのみであるが、それまでの状勢は、平家に忠勤する阿波民部大輔田口成良の武士団が名東郡桜間におり、板野郡を制圧していた。
 また、その反対勢力である藤原師光(西光法師)の一族が、阿波郡柿原を本拠としたことを『徳島県史』が指摘している。
 ちなみに、『平家物語』に登場する、「坂西の近藤六親家」は、『吾妻鑑』に、「近藤七親家」となっているが、板野町古城に居城し、西光の子という説が一般的である。
 このような激動の前夜を、抗争のはざま、上板地方で生き、かつ苦悩したのが神宅の豪族層であろう。
 現世の不安をおさめ、来世の福運を祈願して、聖なる大山に埋納した、大治元年(1126)銘の経筒の主も、また、板西郡家、神宅の豪族であった。
 神宅に板西郡家が置かれたという徴証は、その地名原義からも明白である。
 すなわち、郡家は「コホリノミヤケ」であり、神宅は、その語形変化として、つぎのように理解できよう。
[k■f■ri n■ miyak■]→[k■f■ miyak■]→[k■:miyak■]→[k■muyak■]→komuyak■→kanyak■
 本稿の想定をうらづけるのが、淡路国津名郡の式内淡路伊佐奈伎神社である。
 当社は、『古事記』の「国生み神話」に登場する「淡路の島神」で、津名郡一宮町大字多賀、字神宅(かんやけ)に鎮座している。
 その所在について、『式内社調査報告』は、―津名郡衙のあった郡家に近く、…古くは郡家郷に属す―と論考している。
 すなわち、淡路伊佐奈伎神は、郡司の館、つまり、コホリノミヤケ(神宅(かんやけ))の近くにあり、郡司一族が奉祭する名神大社である。
 ちなみに、当地「郡家郷」は、『和名抄』の訓で「久宇希」となっている。
 上代仮名づかいでは「久」は清音で、その訓みは「クウケ」となる。したがって、「コホリノミヤケ」→「カムヤケ」からの変化も一応考えられるが、『和名抄』の時代は、「グウケ」・「グンケ」にも訓めるため、正解は判然としない。
 これについて、『大言海』は「グヌケ」の音便で「グウケ」と訓んでいる。しかし、音便の場合は、当然に「グンケ」となるはずで理に合わない。
 むしろ、小学館『古語大辞典』が―「久宇」は「郡(ぐん)」のn音尾のウ表記―と解説するのが合理的であろう。
 つまり、往時、「郡家郷」を発音しやすい音よみで「グヌケの里」と呼んでいたのが平安初期「グンケの里」に変化した。これを『和名抄』が「久宇希の里」と表記したという見解である。
 いずれにしても、本稿としては郡家郷に所在する津名郡の郡衙、すなわち「郡司の館」を、ていねいに、「コホリノミヤケ」で呼びならわしていたのが、後世、カンヤケ(神宅)に変化し、これが、郡衙に近在する伊佐奈伎社の地名に残ったと考えたい。
 なお、郡家郷の和語的な名称は「コホリの里」である。美馬郡郡里(こうざと)村(現・美馬町郡里)は、その代表的な遺称で、『和名抄』美馬郡大村郷に比定されている。
 曲折したが、本論にかえると、上板町神宅には、さらに、字地名「マツギ」があり、郡道交通の遺称を伝えている。
 14世紀の南北朝動乱時代に、飯尾氏が「神焼警固」(注17)の初見文書を残したのは、当地が板西郡家以来の繁栄をひきついだ要衝だったからである。「坂西勢」の活躍は、『太平記』巻十四にもうかがうことができる。


6.「郡頭」と「木津」
 本稿は、式駅郡頭が郡家と無縁であるとの発想に立って、板東郡家と板西郡家を考察した。では、郡頭の地名原義は、どのように解釈すべきであろうか。
 これを、土佐国土佐郡の式内郡頭神社の立地と照合すると、両地は、ともに水運至便の点で共通している。
 したがって、本稿は、郡頭の地名原義を「川津」と理解したい。すなわち、[kafatu]→[k■f■tu]の変化である。
 地名「川津」を『和名抄』で検索すると、つぎの諸郷がある。
 イ.讃岐国鵜足郡川津郷(加波都)
 ロ.駿河国安倍郡川津郷(加波都)
 ハ.伊豆国賀茂郡川津郷
 上記、川津の訓みが「加波都(カハツ)」であることから考えると、郡頭の訓みも、本来は、「コホヅ(こうず)」ではなく、「コホツ(こうつ)」だったろう。
 阿波国「郡頭駅」は、奈良朝の駅制開始以来、南海道の要衝として設置されたにちがいない。そして、延暦年間の改廃にもかかわりなく存続し、延喜式に記載されたものと思われる。
 なお、川(カハ(かわ)→コホ(こう))の変化地名を県内で検索すると、つぎのようである。
 イ.名東郡佐那河内(さなごうち)村
 ロ.板野郡土成町宮川内(みやごうち)
 ハ.海部郡牟岐町河内(こうち)
 ニ.海部郡海南町神野(こうの)(原義 川野)
 ホ.阿波郡市場町興崎(こうざき)(原義 川崎)
 へ.名西郡神山町阿野上河内(かみごうち)
 ト.三好郡山城町下名川成(こうなる)(原義 川べりの小平地)
 このほか、河野(こうの)・河本(こうもと)・幸田(こうだ)などの姓も、川(カハ(かわ)→コホ(こう))に関連した好例である。
 つぎに、地名「コホツ(こうつ)」の変化形として、地名「コツ(こつ)」が予想される。これを『和名抄』その他で検索すると、つぎのようである。
 イ.近江国高島郡木津郷(古都・古豆)
 ロ.備前国上道郡居都郷(古豆)
 ハ.鳴門市撫養町木津(こつかみの浦)
 近江国木津郷は、現在、滋賀県高島郡新旭町木津(こうず)である。
 『日本歴史地名大辞典』(昭56)によれば、当地は琵琶湖西岸で、安曇川の扇状地性三角洲の北裾に位置する湖港である。近世に、竹生島巡礼の基地として、100軒余の渡船宿があったという。
 以上の解説から見て、近江国木津の原義は、「川津」の変化地名にピッタリである。同じく、鳴門市木津もまた「川津」と見てよい。
 なお、鳴門市撫養町木津が、平安中期に「こつかみの浦」と呼ばれたことは、『後拾遺和歌集』の藤原基房、長元2年(1029)作として有名である。
 「こつかみの浦に年経てよる波も、同じ所に帰るなりけり」
現在、鳴門市には、「こつかみ」という字地名は無く、通称名として、「木津神(こつがみ)橋」・「木津神(こつがみ)地区」・「木津神(こつがみ)小学校」などが用いられるだけである。
 しかし、野口年長の『粟の落穂』が、時人の話す「コツガミ」を、「コヅカミ」ではないかと疑問提起しており、『国歌大観』も「こづかみ」としている。
 これについて、『鳴門市史』は、―「こつかみ」は、今の木津神、即ち、木津である―と記述している。
 また、『板野郡誌』は、―「南浜」のかたに「馬目木」という処あり、この付近一帯を「木津神浦」と称す―と解説している。
 したがって、本稿は、「こつかみ」のよみ方、および、木津を「こつかみの浦」と呼んだ事情分析をせねばならない。
 そこで、「こつかみの浦」の「こつ」を試考すると、前記『和名抄』の近江国木津郷(古都・古豆)や、備前国居都郷(古豆)と同じく、原義を「川津」と見たい。すなわち、「カハ(かわ)ツ」→「コホ(こう)ツ」→「コツ」の変化である。
 その訓みは、上代国語で[都]は清音、[豆]は清・濁両用であるが、上記の木津郷と居都郷は、いずれも清音[k■tu]と見てよい。したがって、「こつかみの浦」の訓みも、往時は「コツ、カミの浦」か、もしくは「コツガミの浦」だったはずで、野口の提起する「コヅカミの浦」とはならない。現在用いる「コツガミ〜」の呼称は、むしろ古言を伝えたものであろう。
 ちなみに、〜津型地名について、「日本書院」・「二宮書店」の「高等地図」を検索すると、〜津(つ)の地名…19、〜津(づ)の地名…16、であった。
 では、「こつかみの浦」と呼ばれたのは何故であろうか。これについて、『阿波名所図絵』(文化8、1811)は「木津上の浦」と記録し、『角川地名大辞典』は―「木津上の津」で歌ったとされる―と解説している。
 卓見であるが、「木津上の浦」や「木津上の津」があるならば、当然、「下の浦」・「下の津」も問題となろう。しかし、鳴門市木津の下流に立地する、斎田、林崎、岡崎などが、「下の浦」・「下の津」と呼ばれた実蹟は未聞である。したがって、「名所図絵」・「地名辞典」などの所説も、再考の余地がある。
 参考となるのは、前記したように、『板野郡誌』が、撫養町南浜の字「馬目木(うまめぎ)」付近一帯を「木津神浦」と通称するという解説である。
 地名「馬目木」の由来は、当地に鎮座する市杵島姫神社境内の巨岩に根をおろした神木「ウマメガシ」にあると見てよい。
 在地の古老は、往時、この付近が潮入り川の岸辺であり、この岩に波がうち寄せていたと伝承している。また、岩が水を含んだためその苔は常時枯れないのだ、とのことであった。
 このような伝承は、隣接地区の撫養町斎田字「岩崎」の巨岩に波がうち寄せて、付近を「伊吹浦」と呼んだいたという話とともに、往古の地勢をうかがわせるに十分である。
 鳴門市木津は、往時、南海道の最大難所である「阿波の門(と)」、すなわち鳴門海峡への発着点であった。
 木津山の急崖が水辺にせまる港口で、ただ一ケ所突出した岩礁に鎮座する市杵島姫神は、往古以来、海人の航路を守る神、また、旅人の安全を守る神として奉祭されていたにちがいない。
 すなわち、木津を舟出して海峡に向かう者が、ひたすら無事を祈願し、外海から木津に着いた者が、平穏を感謝した神聖な海域だったのである。
 以上から、本稿は「こつかみの浦」の原義を、海上の守神、市杵島姫神の奉祭に由来するものと見たい。したがって、その訓みは、当初から「こつ神(ガミ)の浦」だったはずで、その原義は、「川津の神のいます聖水域」である。後代、その本義を忘却し、木津神橋、木津神地区などの同類型名称を派生したのである。
 平安時代の歌枕「こつがみの浦」は、鎌倉初期に、地名「紀津(きつ(づ))」として登場する。その初見は『南海流浪記』で、建長元年(1249)のつぎの記事である。

 同九日、引田ヲ立チ、阿波ノ大坂ヲ越エテ紀津ニ至ル、路六里。即日酉ノ始メ、舟ニ乗リ、牟野口ニ渡リ、福良ニツク、海路四里。
 「こつがみの浦」から「紀津(きつ(づ))」への変化は、おそらく、「木津(こつ)」と表記したのを「木津(きつ(づ))」と訓んだためであろう。
 阿闍梨道範の紀津乗船からうかがえるように、要津としての役割は、奈良・平安の往古から、13世紀の鎌倉時代に至るまで、つねに不動であった。
 その後も、川津の「木津」は、14世紀後半の南北朝動乱時代、15世紀後半の応仁の乱時代から16世紀後半に至る戦国時代まで、本土畿内への出撃拠点であったが、また、逆に阿波侵入の橋頭堡にもなっている。
 木津が要津の役割を終えたのは、阿波国守の蜂須賀氏が天正14年(1586)に置いた水師「岡崎十人衆」を、天正19年に木津から撫養町岡崎に移転した時に象徴される。沖積地帯の発達にともない木津川が変化したこと、文字どおり「川津」である木津よりも、「海津」である岡崎が地の利を得た結果である。
 地名「木津」は、全国に多数分布している。その原義は、従来、「木材の集散港」と理解するのが一般的であった。
 たしかに、京都府相楽郡木津や、『和名抄』丹後国竹野郡木津郷(岐都)など、字義どおりの地名もあろう。
 しかし、中には、鳴門市撫養町木津のように、「川津」の変化地名もある点を注記しておきたい。
 なお、鳴門市撫養町木津については、地名「撫養」と関連して、さらに後考を期している。


7.まとめ
 以上、式駅郡頭、鳴門市木津、上板町神宅について、地名原義を試考した。
これをまとめると、つぎのようになる。
 1 式駅郡頭の訓みは「コホツ(こうつ)」であり、その地名原義は、「川津」である。
 2 鳴門市木津の地名原義も、また「川津」である。平安中期の名称、「こつがみの浦」は、木津に奉祭された市杵島比売神に由来している。その原義は、「川津の神がいます神聖な水域」である。
 3 上板町神宅の地名原義は、「コホリノミヤケ」、すなわち「郡家」である。
 4 板野郡は、平安中期以後、二郡に分治されていた。板東郡家は鳴門市大麻町板東に、そして、板西郡家は上板町神宅に所在した。
 5 坂東、坂西の表記は、大坂山と大坂谷を郡境としたことにも一因がある。


   注
1.笠井藍水『郷土研究徳島県誌』(昭3)
2.萩沢明雄『阿波の地名と民俗』(昭52)
3.小川 豊『危険地帯のわかる地名』(昭58)
4.大和武生『阿波の地名』徳島新聞に連載中(昭62より)
5.鳴門市撫養町木津:イ 『後拾遺和歌集』雑五藤原基房長元2年(1029)作「こつかみのうら」で初見、ロ 建治3年(1277)書写『南海流浪記』に、建長元年(1249)「紀津」で初見
6.上板町神宅:『阿波国徴古雑抄』巻二所載 p.120飯尾家文書 観応3年(1352)「神焼」で初見
7.金沢治先生喜寿記念論集『阿波、歴史と風土』(昭51)所蔵 p.27
8.服部昌之執筆「南海道・阿波国」p.158
9.『阿波国徴古雑抄』巻三所載 p.245
10.『華頂要略五五上、古文書集五』所載。『鎌倉遺文』1974号。
11.後章(V)「板西郡家と神宅」に記す。
12.多田伝三先生古稀記念『阿波文化論集』所載「板野采女粟直若子」p.142
13.注12参照
14.『大日本古文書 第12巻』p.265
15.注9参照
16.『鎌倉遺文』・『大日本史料』など。福家清司先生の御指導による。注A参照
17.注6参照

 

あとがき
 紙数制限の都合により「太政官符阿波国司」延久2年の史料のほか参考地図、写真、その他を割愛した。
 なお、庄園史料については、福家清司先生に御教示いただきました。あつく御礼申し上げます。ありがとうございました。


徳島県立図書館