阿波学会研究紀要

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徳島県郷土研究論文集第二集  
阿波における隠居習慣について 阿波民族学会 多田伝三
阿波における隠居慣習について      阿波民俗学会 多 田 伝 三

 

 1 はしがき

 隠居は法律語としては戸主が生前に家名および家産を譲渡する行為を意味するのであるから、家の制度を認めない現行民法では隠居という法律上の行為は存在しないわけであるが、生活上の事実としては全国各地に現存し、特殊な家族慣習をともなつている。

 阿波においてこのような隠居の慣習の現存しているところは極めて少く、全戸数の一割以上の隠居数をもつ地域は現在まで私の調べたところでは三好郡東祖谷山村・同西祖谷山村・勝浦郡高鉾村傍示・那賀郡沢谷村の三山村と、海部郡阿部・那賀郡椿町伊島の二漁村位のものであろう。

 これらの地域においても今日の社会環境から隠居の慣習を維持することが困難であるために、地域民の間には隠居のよさを認め、これを存続したい意向をもつものがあるにかゝわらず、事実としては年々減少しつゝあるのが現状である。

 

 2 名称

 阿波では戸主が生前に家名及び家産を譲渡するこの慣習をインキヨといゝ、その行為の実施を沢谷・傍示・伊島・阿部その他でも一般にインキヨするとのみいい祖谷ではヘヤヘマワルというところが多いが、他県のように、イキユズリ・オトナワタシ・ヨワタシ・オモカブワタシなどいう語はない。たゞ隠居者の居宅をインキヨと呼ぶ地域が東祖谷・沢谷・傍示の三山村・伊島の漁村をはじめ広範囲にわたつて、オモヤ・インキヨと対称的に使用されているのに対し、同意語のヘヤという語が西祖谷や阿部など、インキヨに比較してやゝ狭い地域にオモ・ヘヤと対称して使用されているにすぎない。

 ところが隠居が地域的慣習として現存しないところにもインキヨ又はヘヤという呼称が行なわれ、県下一円にゆきわたつている。これは親が二三男について分れた家であり、インキヨとかヘヤという屋号の家もその多くは、隠居分家の末であるもののようである。

 又前代のインキヨがまだ達者でいて孫に嫁を娶つて戸主の息子夫婦が隠居した場合古インキヨをカンキヨという。カンキヨというのは三夫婦揃わねば必要のないことだし、カンキヨという建物がなければ成立せぬのでインキヨにくらべてその数ははるかに少い。

 

 3 分布

 隠居の慣習の地域的に現存している前述の山村及び漁村について調査し得た別居隠居の数を挙げてみると次のようである(表1表2表3表4表5)。

 以上の中傍示以外は別居隠居数のみを挙げたもので同居隠居はこれに劣らぬ数にのぼるものと推察される。

 漁村の阿部と伊島の調査は数字が明瞭でないが、阿部では嫁のイリコミと同時に親は隠居するが隠居屋はめつたになく、ヘヤと呼ばれる隠居部屋のある家が二三割位あり、他は家長権や主婦権を息子夫婦に譲つても同一家屋に起居しているといつたものが殆んどである。伊島のインキヨも別棟・別カマドの例は極くまれで生活上の実権を子に譲つた場合にインキヨしたと称しているのが普通である。こうしたインキヨを数えるならば六割以上に及ぶであろう。

 

 4 時期

 隠居の時期は長男に嫁を娶つた機会にというのが古風であつたらしく、漁村の阿部では足入婚といつて相思の若い男女ができると仲介者が酒肴を携えて女方にゆき話をまとめる。しかる後聟が迎えに行つて嫁をつれてきてミチアケをする。嫁は一週間位聟方で泊ると実家に帰り、それからは聟が嫁の家に通うことになる。嫁は「親の苦の手伝い」というて四五年間実家にあつて親の加勢をする。約束の期間がすむか、期間内でも子ができたりするとイリコミと称して婿の家へ引移るのである。このときアラワレと称する親類及び隣近所への披露宴が張られるが、それが聟の親達の隠居の披露もかねているので、嫁の荷物はイリコミの翌日送り込まれるが、婿の親達は祝言当日別棟の隠居屋か釜屋の隣のヘヤへ荷物を運び入れる。そして嫁はイリコミと同時にヨヲワタされ主婦となつて一家の財布を握るのである。即ち阿部では隠居の時期は長男に嫁を貰つた時でなく嫁を家に迎えた際である。

 これに反して長男に嫁を迎えて一定期間同居してから隠居する風が、同じ漁村の伊島や東西両祖谷をはじめ、沢谷・傍示にも存している。ただ隠居の理由の相異によつて期間にも長短の差が生じている。即ち東西両祖谷では嫁に家風を一通り教えたら隠居するのであるから、早いものは半歳、普通は二三年後である。沢谷では家風を教へ末の見込みがついてから隠居するので、嫁をもらつてから三四年後が60%を占めている。傍示では末の見据えがついた上に更に初孫の躾を一通りしてからというものが多いので、嫁をもらつてから七年から、おそいもので十年後でなければ隠居しない。さらに姑と嫁の折合が悪いために隠居をする場合は全く不定期で、沢谷や傍示では前者に比すると少数であるが、これがため二三年より十年後隠居するものがある。主屋より遠くはなれた処に耕作地を持つ沢谷では嫁をもらつてから一二年して家が落着いたら耕作上便なところへ隠居家を立てて移るものが極少数(5%)だがある。伊島では隠居は別居を意味せず、生活上の実権を子に譲ることであるから、その時期は大たい長男夫婦に家をまかせてやつて行ける見通しがついた時期に家長権や主婦権が譲渡されるので、嫁をもらつてから二三年から数年位のものが多い。

 もう一つは、前の二つの場合の如く相続人本位の隠居即ち配偶者が生じて相続人の能力が充実したことが隠居の原因になつているのに対して被相続人本位の隠居、即ち父母が老衰したために隠居する場合である。これは一応相続者には無関係に行われるのであるから父母の肉体的及至は精神的衰退によつてその時期が決するものであるが、一般には父母が六十歳をすぎて子女の仕付けを一応おえてからの場合が多いようである。この部類に属するものは沢谷に30%位あるのみで、他の地域には殆んど見られない。

 

 5 理由

 隠居の理由を聞くと祖谷では両村とも主屋で子供と孫が一緒にいるよりも次男以下をつれて隠居すれば戸主も隠居も双方共に気兼ねがないからという。沢谷・傍示・阿部でも大たい同称の理由がいわれているが、これには長男夫婦に主屋を結婚生活の場として与え、世代を異にする者の同居を避けて家族間の円満を図るという理由の外に、親達は隠居して次男以下の養育を行い、主屋に財政的負担をかけないでこれがしつけを行うという意味の多分に含まれていることを見逃してはならぬ。これらの各町村では概ね早婚であるため隠居年令も四十台か五十台のものが多く働き盛りであるから、次男以下の仕付けを主屋に迷惑をかけずに行う能力があるわけである。ただ傍示においては二世代間の不和のため隠居をしたものが最近目立ち、その多くは隠居分家の形式になつている。これは前者が家の繁栄維持の一方法として隠居形式が採られているのに対して家の勢力分散、或る意味の破壊を意味するものであつて、古くは後妻に子が生れたために隠居分家をすることが却つて一家の円満をはかることになると考えられる場合の外、村としてこれを認めない風が強く、これによつて家や村の破壊を喰い止めていたのである。

 この外に被相続者が老衰のため生活力を失つたため有能な後継者に譲つて楽隠居する例が前記六カ町村の中では沢谷に一番多く30%を占めているが、これは前項で既にのべた被相続本位の隠居形式であつて所謂隠居制地域に特有な相続者の能力充実が主因となつて一家の円満、家産の維持という前記の二理由がこれに相伴つたものとは異つた性格のものである。これを要するに隠居の根本的理由は、相続人の配偶者を娶って生活力が充実したことであつて、それに伴つて精神的には二世代同居によるくらし方に対する考へ方の相異より来る不和の原因を除去し、物質的には主屋に二男以下の養育のための負担をかけぬことが考慮せられているわけであり老衰による所謂楽隠居をその理由とするものは隠居密度の大きな地域ではむしろ特殊的なものと考えられる。

 

 形態

 隠居の形態を (一)別居隠居 (二)同居隠居 (三)隠居分家の三種類に大別するなれば、阿波の隠居制地域では高鉾村傍示の例によつても知られる如く別居隠居が一番多く、同居隠居がその八割弱、隠居分家は比較的少数で傍示の如く隠居分家の格別目立つているところでも別居隠居の四割に達していない。

 

 (一)別居隠居  (イ)戸主の親達が次男以下の子女をつれて所謂インキヨヤへ別居し隠居株と称する隠居財産を管理して子女を養育し、これを悉く仕付けてはじめてきまゝな楽隠居となるものと (ロ)子女は連れずに最初から老人夫婦が隠居財産をもつて気まゝに生活するものとの二種類があるが、いずれも山村の場合隠居所は主屋と同屋敷内にあるのが普通である。いまその隠居所の位置・間取りなどを図示してみると(図1図2)。

 しかし地形上同一屋敷内に隠居家を建てることのできぬところでは別屋敷になることもあり、沢谷村においては別居隠居36戸の中、同屋敷隠居15戸 異屋敷隠居21戸となつているのはその特殊例である。海村の阿部でも伊島でも別居隠居は少い。

 別居隠居の場合には別カマドが殆んどである。ただ一年中の特例の日に隠居居住者もオモヤで共食することがある。即ち東祖谷では、元日には朝三時頃氏神様やお大師さんにお詣りして帰ると、隠居のものは主屋へ行つて盃をまわし雑煮を食べて祝う。翌二日には鍬初めの後で、逆に主屋の者が隠居に招かれて鍬初めの餅を入れて作つた雑煮を一緒に食べる。近年この風が次第にすたれて正月・盆の会食をする家が少くなつたそうである。沢谷ではまだ正月・盆は勿論、所謂何ぞごとには主屋は隠居の者を招いて会食する風が残っているが、高鉾村傍示では既にその風は見られなくなつている。そしてこれに代つて主屋から正月・盆・節供には重のものを傍示では贈り、祖谷では夏や秋の収穫期にイタダケといつて小麦粉や蕎麦粉でうどんやそばを作つて主屋より隠居へおくるところが多い。これに対して隠居から主屋へは珍しいものができたら孫にもつていつてやる程度のところが多い。

 隠居の世帯員については別居隠居の二種類のところで大略述べたごとく親達が次男以下の子女を連れて隠居所へ移るものが多く、この場合、東祖谷ではカンキヨのない家では隠居者の両親も次男以下の子女と隠居所に同居する。西祖谷では隠居者の両親は主居に帰つて同居するものが多く、傍示も大部分は主屋に祖父母は残るが、中に二三軒隠居者と同居し、中インキヨ・古インキヨとそれぞれ呼んでいる。インキヨの一人が欠ければ原則として主屋へ帰るが、孫を養うて隠居をつゞけるものがあり、インキヨ子と称して大事にされる。沢谷村の場合は次男以下のものをつれてゆくものが38%で、前記の三地域に比べて両親だけの隠居がはるかに多い。

 隠居財産は、所により家によってその額が異る。東祖谷ではこの隠居財産のことをインキヨ株といゝ、主屋と隠居との財産の比率は、畑は七分三分、田は半分半分、山林は分けないのが普通であるが、小川や菅生では山林は隠居の所有であつて主屋が燃料をとる位は自由であるが、立木の売却分は隠居の一存だという。東祖谷落合のある隠居株を挙げて見ると、焼畑1.5反(4.5反の中)畠1.5反(4.5反の中)山林なし(主屋のみ7反)である。沢谷村では田畑はインキヨジ(隠居地)といつている。その分配率は主屋七に対し隠居三の割合であるが山林は隠居には分けない。これに対して高鉾村傍示の場合には田畑の外に薪山も分け、その比率は主屋六に対して隠居四が普通であるが、隠居分家のときはこの比率は逆になる。傍示に於ける隠居分家が将来予想される実例を示すと隠居田3反(6.6反の中)畑1反(1.8反の中)山林2町3反(4.3町の中)である。隠居所には祖谷では主屋と同じくおもての床に皇太神宮(家によつては氏神や出雲大社をあわせ祀る)をまつり、うちにはカマドの神(オイブワサンといつている所もある)を祀る。沢谷でも本家と同じ神を祀るが、傍示では荒神さん・氏神さん位で主屋のように皇太神宮は祀らない。ただ正月等の年中行事は沢谷も傍示も隠居の方がむしろ中心になつている。祖先の位牌は主屋で祀るのが本体であるから隠居のおもての仏壇には親の位牌を祀るものが多い。沢谷や傍示でも祖先の位牌は主屋で祀る。隠居が死んだ場合、祖谷では本家もどりといつて葬式は主屋から出す。但し隠居につれて出ている子供の場合は隠居から出すのが普通である。ところが沢谷では隠居及び隠居同居者も主屋から出す。傍示においては隠居者の葬式は納棺出棺ともに隠居においてしても葬儀の客は主屋でする。一般に各村とも冠婚葬祭は主屋で営まれる。ただし経費は隠居者の分は隠居が負担する。嫁の里帰りも隠居へ帰るが、一般の親戚附合は主屋でし、縁者は主屋へ来ると隠居へ立寄るのが普通である。

 隠居者が主屋へ招かれるときには祖谷ではウチの爐辺には坐らず、オモテの爐辺の上座からムコ座にかけて坐る。但し祝いごとなどで他家のものが招かれるときにはテイス座に坐るのは戸主であつて、隠居者はウチにいて出ないのが普通である。いま祖谷の爐辺の座席を示すと次の通りである(図3)。沢谷でも主屋の爐辺における隠居者の座席は常にうえにする。傍示では爐辺の座席がない。

 隠居しても公法上の戸主権は登記を要するから死まで譲らぬ場合が多いが、祖谷では実質的には戸主権は隠居と同時に新戸主に移るわけで、この点は沢谷でも傍示でも同様である。村の戸数には隠居を一戸前として数えていないので、諸種の税金は勿論、部落内の賦役等も主屋だけで隠居へは何もかゝらぬ、祭の当家なども一つには隠居所は狭いせいもあつてどの地域でもあてない。たゞ隠居者も部落の氏神祭には神酒をいたゞくので神酒代を寄附する風が祖谷その他でも存しているが、その外組内での公のつき合はない。ただ隠居分家を公表すればその時から一戸前の負担をうけるのは当然で、傍示には最近でもその実例が見られる。

 隠居慣習はどこでも旧民法の隠居制の如く公法上の戸主権の譲渡を意味するものでなく、家族内におけるあくまで便宜的なものであつた。だから村全体としては、これに何等の制限を加える必要もなかつたのであるが、耕地の少い山村に於ては隠居分家は家を潰すものとして止むを得ぬ場合の外これを禁止する風は今でも濃厚に残つている。

 隠居者に親がいる場合彼等も別棟別カマドの生活をするのが祖谷ではかなり多くカンキヨと呼ばれて大てい一間の独立家屋をもつているが、沢谷ではこの種のものは殆んどなく、傍示には二三戸程度あつて古インキヨと呼んでいるが、閑居所がないため主屋に帰つて孫の子守をやつている者もある。

 

 (二)同居隠居 東祖谷小川名の60% 菅生名岩角の40% 高鉾村傍示の36%等は別居隠居の濃厚な地域であつて、他は同居隠居が優勢である。

 同居隠居の隠居所は山村では大てい物置か納屋の片隅に一室を作つたものが多い。中には阿部の如く主屋と同棟で釜屋の隣に隠居部屋をもつている地域である。

 同居隠居の場合には別居隠居の場合に比して別カマド制は低率で主屋で食事を共にするか、部屋へ運んでいる場合もあるが、それでも70%以上が別カマドで比較的少い高鉾村傍示においてさえも50%がやはりこれである。ことに隠居者が老令である場合には主屋の若い者たちと同一の食事をすることは嗜好上苦痛であるから、自分で煮焚きをして温かい、柔かいものを食べたいという気儘が手伝っていることはいうまでもない。傍示には男女片方のみの隠居者が全隠居数の17%を占めている。

 同居隠居の世帯員は殆んどが親達夫婦のみで、中には不具の子や末子だけを部屋で養つているものもあり、片親のみのものも前述例の如く相当数交つている。

 隠居財産は、同居隠居の場合においては別居隠居の如く所謂インキヨ株というような明確なものはなく、沢谷村懸盤の同居隠居の実例を見ても、畑は「あそこの畑はわしが作るぞ」というだけで隠居耕作畑がきまる。田は分けずに共同耕作し、供出も顛落も一緒にしている。ただ家の収入の一部を隠居者がとつて小使銭にしているところも多い。

 同居隠居には神棚や仏壇は別カマドの場合には簡単にでも作つているものが多く、主屋で食事を共にしている場合は隠居は単に休養の場であつて神仏は祀つていないこともあるが阿部や伊島の漁村は勿論山村でも自分達の特別信仰する神仏にお洗米を毎朝お祀りしている。

 隠居者はたとい同居していても所謂会計を別にしている以上息子達夫婦の家計には口出ししない。従つて主屋に来客の場合も隠居者は接待には出ないが、正月・盆など主屋で飲食を共にするときは隠居は上座につくことは山村漁村とも変りはない。

 

 (三)隠居分家 今でも分家のことをインキヨ又はヘヤの名で呼んでいるところは阿波にも相当ある。阿部では分家のことをインキヨ・シンタク・ベツケ・シヨウケなどいつている。又相続人の別居のことを二三男の別居のベツケと区別してワカインキヨと呼んでいる。これらの実例を見ても分家の中には相続者が主屋を譲って別居することをインキヨ又はヘヤといつて二三男の分家や名子の分家などと区別していたことがわかる。

 隠居分家成立の原因は(一)先妻と後妻の両方に子がある場合 (二)両親が相続者以外の子を偏愛する場合 (三)嫁と姑の間が仲が悪い場合等をあげうるが、これらはいずれも家内の不和に原因している。旧来耕地の細分化をさけるために隠居を抑圧してきた山村にも最近その制限が除かれたために分家が増加し、殊に戦後隠居分家が目立つたのは前にものべた如く、高鉾村傍示で、こゝでは隠居分家は十三軒あり、中でも下地の三戸中二戸は近々数年間に隠居分家したものである。

 隠居分家の財産は前に別居隠居のところでその一例を示したが、通例主家との比率は半々であるが、隠居分家に相続者以外の子女を連れて行く場合には比率は隠居が主屋よりも多く、主屋四分に隠居分家大分という場合もおこりうる。殊に自分が買った財産が多いときは隠居者はそれは全部もつて別れることになりがちなのでその比率も自然異つてくる。

 祖先の祭りは本家が中心となつて行い、従つて位牌も主屋にとめておき、分家の方には隠居者の両親の位牌をもう一つ作らせて祀つている例もある。隠居者の葬式は分家から出すものが一番多く、次が父親は本家から母親は分家から出すことが後妻の場合など往々ある。この場合位牌も分祀することになりがちである。

 隠居分家の場合は隠居の地位は単なる隠居が主屋に対する場合と異り、相続者に遠慮しなければならぬものとされている。

 

 結語

 阿波における隠居制は劍山周辺の祖谷・沢谷・木頭等の山村に別居隠居の形のものが濃厚に残つており、平地帯や漁村には同居隠居の形のものが稀薄ではあるが部分的に残存し、阿部の如きは比較的多く残存している地域である。これらの中にあつて高鉾村傍示の隠居制は隠居分家の形式の著るしく濃厚な地域である。

 これらの山村は、いずれも耕地に乏しく一見隠居による家の財産及び労力の分割は家の管理上不利であることは明白であるにも拘らず却つてこれらの山村に隠居制が維持せられて来た原因は、一面山村経済の窮迫より来たる家族間の物心両方面の摩擦を回避し、他面二男以下の子女を引具してこれを隠居者の働きによつて、主屋の財産を減らすことなしに、それぞれその子女を片附け、老後は隠居財産を次の世代に譲って或は閑居に悠々と余世を送り、或は主屋に帰つて玄孫の子守をしてなおも家の繁栄に助力をつゞけ、或は隠居所に止つて孫の成育に助力するなど我が国家族制度の長所をよく生かして来たからであると思はれる。これに対して漁村には同居隠居制が濃厚であるのは山村に比して子女の育成は容易であるから相続者のために新婚生活の本據をしつらえ、自らは釜屋の隣に部屋を作つてこゝに移り、世代の異るものは住居を別にすることによつて新世代の発展と家族間の円満が期せられるとしたところからこのような慣習が発展維持せられたものであろう。けれどの農山漁村の資本主義化は隠居による勢力の分散を次第に不可能にしつゝあるので、若い人達は異囗同音に隠居制の長所を一面に認めながらも資本主義社会に生抜くため隠居制の慣習を打破するの止むなしとしている。殊に戦後の食糧不足による農村景気は都市産業の未復興と相俟つて復員軍人や青少年を農山村に束縛し、零細なる耕地を細分化して分家せしめんとすることにより隠居と相続者との間の不和を来たし、旧来の隠居制の慣習が基となつて隠居分家を続出する地域が出来たが、これは隠居制の短所を露呈したものであつてその末期的現象と認むべきものであろう。

 これらは阿波の隠居制にのみ見られる特異現象ではなく、全国各地に残存する隠居慣習の普遍的性格を示すものである。今後阿波の各地域に残存している隠居の慣習を精密に採集して、これを全国各地のそれと比較研究して隠居制慣習の性格を闡明するとともに阿波の隠居慣習の特殊性を把握するよう力めることを誓つてこのまとまらぬ論考を一応擱筆することにする。

 尚、木頭及び海部郡海岸地域に或る程度の隠居慣習の残存を認めながらも調査する暇のなかつたため、遺憾ながらそれらの調査研究を他日に譲らねばならなかつたことを併記して御了解をえておきたいと思う。

(県教育庁社会教育課社会教育主事)


 


 



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