阿波学会研究紀要

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徳島県郷土研究論文集第二集  
近世村落生活における家の関係 −阿波藩の場合− 徳島地歴学会   山本登美男
近世の村落生活に於ける家の関係 ―阿波藩の場合―
徳島地歴学会 山本登美男


1 壱家と小家
 近世農村における行政単位の最下級は村である。阿波藩の村の数は十三郡古図[1]によると522カ村である。此の村の広さは大体今の大字にあたり、普通は数カ村が合併されて今の町村となつている。村落的社会生活の単位は家であり、阿波藩では家に壱家と小家がある。壱家というのは独立の家であり、小家というのは壱家からの分家である。
 壱家という言葉は平安時代からあつたと見えて、栄華物語[2]や常陸大椽伝記[3]等に使われている。小家という言葉は近世に東北地方でエウコといつている[4]。近世において壱家小家という言葉で家の格式を表わしているのは他藩には未だ知らない。阿波の小家について本庄博士の日本社会史に「信州伊那の被官や岩手縣の名子や薩摩の頭売人(づうりにん)や奄美大島のヤンチや阿波の小家の類に至つては、全く中世の奴婢と同じであつて、主人の意のまゝに売買貭入せられた」とあり、又小野博士の「徳川時代の農村奉公人」(社会科学第二巻第七号)[5]に「譜代奉公は分家して、単なる別竃を立つることがある。即ち本家に奉公、勤務する間に、子供も殖え、子供の方はその父祖程主家に対して恩義を感ぜぬ様になるから、自ら分立して別家を立つるに至るのであつた。此の譜代の分家のことを阿波地方では小家といつていた」とある。前者は中世的な奴婢で売買の対象になると考へ、後者は農家の譜代奉公人の分家と考えられている。然し阿波の小家はこのようなものばかりではありません。

2 壱家小家の成立
 壱家百姓というのは独立の農民であり、これが本百姓といわれる者で、これは檢地帳面に名負の田畠を登録せられている者である。本百姓の成立は太閤檢地によつて確定せられた。太閤檢地は村毎に帳簿を作つたのであり、後の戸口調査たる棟附人別改帳[6]の村と一致する。処が太閤檢地の時、中世の種々の「職(しき)」の名目をもつて呼ばれる土地の所有権が一応整理せられて、作職即ち耕作権を持つていた者が土地所有者たる本百姓として登録せられた。然しこれには從来名主(みょうしゅ)職等の形において存在した中間の得分所有者から、反対せられて、多分に名主的、土豪的土地所有者―実際耕作していなくて、名儀上の土地所有者―を本百姓として登録した。この事は大阪歴史学会発行のヒストリヤ第八、九巻に「太閤檢地と家族構成」なる論文に宮川満氏が詳細に考證せられている。亦中世の名主は自己名儀の所有地に対して血縁分家の者や非血縁の從者に作職権を与えて名子とし、多くの從属的半独立の家を從えており、これが近世に残つて名子となつた事は有賀喜左衛門著の「日本家族制度と小作制度」に詳細な研究がある。それで太閤檢地の時、中世の複雑な土地制度を作職権だけから一律に本百姓にすることは事実上むつかしかつたようである。石井良助博士の「日本法制史の研究」にも「地主の作職人とのいずれを登載したかは疑問である。実情によつて檢地奉行の判断にまかせた如くである。」とある。阿波の小家の中、名子小家、及び下人小家というのは、此のように中世的な作職所有者が解放にもれてやはり土豪的本百姓の下に從属的家として残つたものと思われる。特に後進地域である祖谷に名子百姓が多かつたり[7]、壱家郷士に小家名子、小家下人の多いのは此の爲と思う。此の点からいえば本庄博士の説は小家名子、小家下人には当はまる。然し売買せられるのは、小家という家族集団でなく、住込みの下人の場合である。小家を売つたという例は未だ見ない。
 次は壱家の二・三男が田島の一部を讓りうけ、又は家屋敷をもらつて分家して小家を作る場合がある。これは純然たる相続による血縁分家である。農業本位の時代に農民の他国への移住は禁止されているし[9]、他村への移住は手続がいるし、職業轉換が許されない時に二三男を如何に処理するかといえば、一生生家で働くか、自分の村に小さい家でも建てゝ分家するより他に方法がない。阿波藩の場合は人口制限をしたという資料は殆んどない。唯貧業が捨子をした資料は沢山ある[10]。
 小家の成立年代を知る資料として家督相続本人名面帳というのがある。那賀郡橘浦と富岡町の延宝2年(1674)から文化8年(1811)までの間の家督相続本人名面帳によつて20年毎に小家の成立数を統計すると享保以前が最も多く、それ以後は次第に少くなる。又その小家は殆んどが二三男の分家による。勿論この二カ町村で阿波全体を又、全国の傾向を推定することは危險である。しかしこれを裏付けるような材料がある。江戸時代に於て武家は一般に財産の単独相続が行なわれるが[11]、庶民には分割相続が行なわれた。江戸時代に入つて、領主に対する貢祖の負担者が本百姓となり、本百姓と領主という関係に直結されると、領主たる者はその収入を確保する爲に、直接本百姓の土地所有に対して干渉するようになる。鎌倉時代の貞永式目は御家人の所領に対して干渉しているが[12]、それ以下の農民の職に対しては放任でである。これが前期封建時代と後期封建時代の武家法の大きな相違である。憲教類典の「家督相続及養子之部」によれば、所有地の少い百姓が土地を諸子に分配する事を禁じ、名主は高二十石以上、その他は高拾石以上、地面一町以上の所有者でないと分配を許さず、これに違える者はその相続を無効とし、改めて一人の嫡子に与えた。この命令が貞享四年、正徳三年、享保六年に出されていることは、此の時代に全国的に分家が多くなつて、農地の細分化が行なわれた事を示すものである。
 江戸幕府の割地制限令は殆んど実行されていない。江戸時代の法令は一般にそうで、命令と実行とは今の米の統制令のようなものである。阿波藩では全くこの法令は無視されている。一石や二石の高持小家がある[13]。此のような傾向は他藩でも同様である[14]。延宝二年の鵠橘の棟付帳では壱家数53軒に対して、小家数は146軒、その中血縁の分家による小家数134軒。同村の文化八年のものは壱家数87軒に対して、小家数376軒が皆血縁小家である。亦享保七年の那賀郡朴野村の棟付帳では壱家数12軒に対して、小家数27軒で皆血縁小家である。山分では親が末子をつれて分家して小家となるものが多い[15]。これは隠居制と関係があるのではないかと思う。

3 壱家と小家の関係
 壱家と小家は同一村落内の家父長的同族集団を主体としている。田畠の所有権は血縁小家の場合は檢地帳に控の田畠を持つており、名子や下人の小家はこれがなかつたようである[16]。それですべての血縁小家が自己名儀の田畠を持つていなかつたことは確かである。然し壱家は小家に対して御触の傅達[17]や、小家から犯罪者が出た時は共同責任があつた[18]。阿波藩には五人組という隣保共同組織は殆んどない。これは壱家小家の同族集団組織と関係があるのでないかと思う。町人の場合は借家人が屋主の小家になつているが[19]、農民の場合は血縁分家が主体で社会的地位に於ても肝煎[20]とか医師[21]の者もあり、持高も本家より多い時もあり、百姓役も一人前であり、宗門改帳にも壱家百姓と区別していない[22]。随つて小家は賎民でない。阿波の賎民は穢多非人(後の茶釜)、乞食(後の掃除)、鉦叩(かねたたき) 猿索(さるひき) 探禾(たんか) 傀儡子(くくつ)があり、名子小家下人小家といえども所謂賎民でない。

4 小家の解放
 壱家から分れた血縁非血縁の家のグループが、幾つか集つて村落ができており、このような集団の中の最有力の壱家の戸主が庄屋とか、肝煎等の村役人であつた。阿波藩には未だ見ないが、長野縣下伊那郡千代村の大平家は、御館といつて、延宝5年の檢地の際は被官31軒を從え、一村が全部大平家の所有地であるというのがある[23]。近世の村落構成は程度の差こそあれ、右のようなことは全国的である。これは農業中心の社会で農民の移住が制限されたので必然的に起つた。阿波藩では文化年間になると小家の解放が盛んになる。即ち小家は壱家と「互に得心の上」證文を書き[24]、村役人の奥書をもらつて、初めて独立の一軒前になる。これを「小家離れ」という。独立性の強い血縁小家は勿論、從属性の強い「名子小家」「下人小家」の解放も行なはれている。これは当時の経済的、社会的情勢の変化が考えられる。有力な農民が武士の身分を金で買うとか[25]、都市の発展によつて、農民の移動が顕著になるとか[26]、土地の単独相続が多くなり、二三男が婿養子に行くことが増加して、分家が少くなるとか、農村の社会組織に変化を及ぼすような條件が現われて来る。この事はその資料も沢山あるが、それは省略する。この時代の解放に洩れた者は明治5年8月31日の農民の身分制廃止で、家は一応平等の地位におかれた[27]。

5 結語
 以上のことから次のことが結論として導き出されると思う。即ち平安末から鎌倉時代にかけての武士は土豪的名主的な存在であつて、此の武士が土地支配の上に立つ分割相続によつて、家の分化が行なわれた。然しその家は本家の主たる惣領によつて統制され、非血縁の家人を從えた武士団を作つて行つた。これが次第に単独相続に変り、室町時代から、家の独立制が強くなり、戦国時代になると、本来の関係は解体してしまう。近世に入ると、武士の財産は嫡子の単独相続で、家名の相続も財産の相続も嫡子一人がするようになり、家の分化が殆んどなくなる。天正年間兵農分離によつて、武士にならなかつた名主的土豪的な百姓は武士社会の家の子郎等のような從属する家を從えていたが、太閤檢地によつてこれらの家の解放が行なわれ(第一次の解放)、更にその後もこの解放にもれた家や、分割相続によつて出来た家―阿波藩では小家という―を從えていた。このような家の集団が集つて村落が構成されていた。即ち江戸時代は単一家族による家の独立と、この家の土地所有権が分化していない[28]。これが文化頃になると第二次の解放が行なわれ、家の独立が顕著になる。明治になつて第三次の解放が行なわれ、初めて一世帯、一軒前の家が独立の地位をうるようになる。したがつて、武士社会に於ける家の分化と独立の同じ過程を農民社会もたどつておるのであり、唯時代が遅れているだけといえると思う。
 時間の都合で一々資料を挙げずに結論だけを申した点のあることをおことはり致します。

(註)
1 小松島市西野氏藏
2 言海
3 中田薫 荘園の研究 267頁
4 ヒストリア第八巻 太閤儉地と家族構成 宮川満 6頁
5 社会科学第二巻第七号 日本経済史研究 大正15.7.1
6 阿波藩では明暦万治度 寛文延宝度 正徳享保度 文化度と4回作成された
 陳附人別改帳が多く各町村に現存する
7 阿州祖谷の名子百姓と下人並に一戸前小作 桑田美信 昭4.11.15
8 拙稿 「封建制下の阿波農民」 昭21.11.16
9 寛永4年7月 蜂須賀家政の藩法23ヵ條の裏書7ヵ條の中
10 拙稿阿波藩御解書集成 拾子の部
11 三浦周行 「日本法制史の研究」620頁
12 続々群書類従第7
13 正徳5年 那賀郡之内内原村棟付帳(桑野町役場藏)
 享保6年 那賀郡学原村棟付帳(富岡町役場藏)
14 有賀喜衛門著 「日本小作制度と家族制度」
15 拙稿 「阿波藩を中心とする近世庶民社会の組織」
16 [13]に同じ
17 阿波藩民政資料 546頁
18 天保11年御触 徳島市三木家藏
 拙稿「阿波の小家について」
19 寛文十二年霜月 那賀郡富岡町内町佃町家数人数 牛馬御改之御帳
20 板野郡誌 184頁
21 板野郡誌 231頁
22 慶応元年 那賀郡桑野新野等5ヶ村宗門改帳目録之覚那賀郡東紅露藏御触書
23 有賀喜左衛門著 「日本家族制度と小作制度」 237頁
24 天明二寅年那賀郡黒津地棟就仰付附小家下人離帳
25 板野郡誌 169頁 文政13年8月
26 在方の者の江戸府内への移住の制限
 天保14年5月御触(徳島市佐古町 三木家藏)
27 日本資本主義発達史年表
28 日本社会史 中村吉次著 265頁
                               (日和佐高校教官)
 


 



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