阿波学会研究紀要

このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

徳島県郷土研究論文集第二集  
剣山周辺の民家 日本建築学会県支部 酒巻芳保
劍山周辺の民家

日本建築学会徳島縣支部 酒巻芳保

一 はしがき

 徳島縣を縱に四国山脈が走る。その最高峰劍山を中心とした深い山岳地帯、祖谷川溪谷に点在する山村を、東祖谷山村・西祖谷山村・貞光川の上流に一宇村・穴吹川の水源地帯に木屋平村等があり、更に電源開発で近代的脚光を浴びている那賀川上流に、坂州村・沢谷村がある。

 これら劍山周辺山村には、往時寿永の頃平氏の落人が移住んだという傳説・口碑が今尚傳えられている地方である。傳説なり口碑なりは直ちに、そのまま信じきつてしまうことはできないので、実証的に再吟味せられてこそ、始めて学問的根據となるべき性貭のものであることは、論を俟たないところである。

 傳説・口碑の真否は別としても、これら山間避地に遠く古い時代から何等かの理由で人が住み、主として地理的な環境から與亡し、流動する幾時代かの、都市的文化の余波を余り強く受ける事なく、從って長い間古い文化が、比較的荒壊されずに保持され、傳承されて来たらしいという風に考えられる事は事実であろうと思はれる。現にこうした古い傳説を持つ地方を訪れると、多くの場合、その精神生活は勿論、日常生活の種々相、殊に建築物については何かしら、古い時代のいぶきを感知せられたり又そうした事物に直面するものである。

 然しだからといつてこれら山村民家が、古代住居につながりがあるとはいえないが平面形式や、構造手法が、平地民家で見られないものであることは事実で、しかも「五家荘」「椎葉」等と平面形式において共通した点が見られるのは、まことに與味深い問題であるといわねばならない。

 

二 祖谷山地方の民家

 東祖谷山村・西祖谷山村一帯は、源平戦に於て一敗地にまみれた落人が、秘かに隠れ住んで以来住みついたものであるといわれ、深い山と絶壁の谷に囲まれた陸の弧島で、大正九年三月縣道が開通し、近代都市的文化が導入せられるまで、外部との交通を絶ち、孤立した秘境的存在の村であつた。

 しかし最近に於ける近代文化の息吹は、秘境的祖谷を近代文化的山村と様想をかえつゝあることは等しく認めるところである。

 

 敷地構造と建物配置

 祖谷川溪谷の両岸急傾斜に、山頂近くまで建物が建てられており、街道から最も高いところにある家を訪れるためには、一時間も九十九折の狹い山道を辿らなければならない。

 建物を建てるためには、山を切り取り、傾斜面に置き出し、見上げるばかりの高い石垣を積み上げた上に敷地で、所謂雛段式のものである。

 こうした山の中腹を段状に拓いて、生活を営まねばならない山村の常として、宅地は非常に狹く、少しでも多くの田なり畑なりと云った直接生産的な土地を広くとりたいために、自然にそうなつてしまうのであろうが、狹い宅地も矢張り煙草の日干場や農作物の集積地と、多角的な利用をし使はれている。

 此の細長い狹い敷地には「母家」を中心として、両側に「納屋」や「牛小屋」が横に細長く配置され、平地民家の配置と異つた配置も山間民家配置の特長で、所謂「祖谷型」配置とも云うべきものである。

02minka_fig01.gif

 建物の平面形式

 「母家」も又「祖谷型」平面形式ともいうべきもので、最も簡単なものは「二室」が横に列んでいる「二室併列型」であるが、多くの家は「三室」が併列している「三室併列型」である。

02minka_fig02.gif

02minka_fig03.gif

 即ち「中の間」を中心として、上手に「ざしき」、下手に「うち」と部屋が横にならんでいるもので、此れを「三つ目」式平面といつている。

 各部屋には多く「いろり」が切つてあり、裏側は全部土塗り壁で窓は全くなく、「押込」や「仏壇」等が併んでいる。前面には必らず「切掾」(濡れ椽)(出1.2尺〜1.5尺)がついていて、敷居と5〜6寸の高低差がついており、玄関というものはなく、正面「切椽」から直接出入をし、又便所が正面に突出し「切椽」に連り、建物正面の重要な位置を占め、床には竹の簀の子が張つてあり、二方又は三方目隠し程度の板壁で囲い、小さな格子窓から明りをとつている。

 此のような平面形式は此の地方独特のものであろうと考えられるし、又「ねま」とか「ねや」という、所謂寝室がついているのも必要から生れたものであろうと思われるが、平安時代後期に於ける「塗篭(ヌリゴメ)」式のもので、納戸並に寝所に使用されたものの影響か今後に残された與味ある問題で、諸條件を解明することにより結論ずけられるものである。

02minka_fig04.gif

02minka_fig05.gif

02minka_fig06.gif

02minka_fig07.gif

 「おもての間」には神棚や仏壇がとられ、所謂神仏の間であり、此の家最高の部屋で、最も格式ある部屋となつている。此のように格式ある部屋を別にとるようになつたことは、まず第一に生活様式の進歩と、家庭経済の向上とに影響されるところ大なるものがあつたと考えられる。

 「中の間」には必らず「いろり」が切つてあり、日常家族の生活中心の部屋であり家族の食事や団欒の場として最も重要な部屋である。又「中の間」の「いろり」の周囲には、「でこ」が突立られ食欲をそゝる臭いが、山から帰る家人を待遠しそうであり、「いろり」の上に竹網代の「ひぶた」という天蓋があり、自在鈎が「ひぶた」がつり下げられている。

 事ある時以外は此の「いろり」で炊事一切がされるのである。

 「いろり」の周囲に坐る場所が常時決められているのも面白いおきてゞある。

 「かつて」または「うち」には簡単な流しを備付け、土間に竃をおいてある程度で多くの家は流し等も屋外に竹簀子台として設けられており、炊事の労力を削限し、少しでも山なり、畑なりの仕事に労力をむけているようである。

 

 屋根その他の構造

 一般に軒高低く、山茅厚さ1.3尺(厚いもの程自慢である)程度葺かれ、急勾配の重厚な屋根がおゝいかぶさつている。

 山間民家の屋根が茅葺である理由

  ・材料豊富で入手容易

  ・冬暖夏冷

  ・葺替及び補修が簡単

  ・経済的で耐久力に富む

 各種屋根葺材耐久年数

  ・山茅 50年〜60年

  ・栗ソギ 17年〜18年

  ・杉ソギ 6年〜7年

 屋根の勾配は50度以上の急勾配で、棟飾は杉皮又は檜皮で幾枚も押え、その上に丸竹や木丸太を並べ、更に杉皮又は檜皮を丸めたものを小なる棟は五ヵ所、大なる棟は七乃至九ヵ所に置き、これを棕梠縄でしつかり結びつけ、山頂を渡る強い風から棟がはがれることを護っている。

 小屋組は「叉首造り」の上に丸太材の「もや」を一尺五寸間に渡し、その上に「屋中竹」(垂木竹)径二寸程度のものを一尺二寸間「鉾竹」を五寸間におき「もや」にしつかり縄で巻付けた上に茅が葺かれている。

 内部小屋組は現しで、日干後の煙草を吊込む重要な空間となつている。

 壁は多くの家が土塗壁の大壁造りで、外部は割竹で押え風雨で土の剥落する事を防いでいる。此れを竹おゝいという。

02minka_fig08.gif

02minka_fig09.gif

三 坂州村の民家

 坂州村は縣南那賀郡の西、那賀川の上流に位し、西は沢谷村・東は宮浜村・南は平谷村・北は福原村に連なる面積29.03平方粁に亘り、現在那賀川電源開発でクローズアツプされており、古来縣下木材の大半を産出する劍山の南東山狹に発達した山村である。

 

 敷地構成と建物配置

 此の地方も祖谷山地方の敷地構成と同様で、山間の常として狹いしかも細長い敷地が構成されている。

 建物も「母家」を中心とし、左右に細長く配置された山間民家共通のものである。

 

 平面形式

 平面型は劍山周辺の他の山村と同様のもので、所謂「三室併列型」の「祖谷型」とも云うべき型式である。

 「中の間」を中心とし、上手に「おもて」、下手に「ぬわ」(一部揚床)があり、前面に「濡れ椽」があり開放されているが、裏側は全部壁になつており「床」「押込」等がとられている。ぬわ(土間)一出入口踏込とし、一部に「くど」「流し」「水がめ」「つけもの桶」等がおかれ、一部揚床をとり「かまや」として使われている。

 

中の間―建物中央に位し、部屋中央部に「いろり」が切つてあり、常時家族の居間として使はれている。

裏側には「押込」を必らずとり、寝具その他の置場となつている。

おもて―家で最も上等の部屋とし、又床間をとり神を祀り、仏壇をとつた部屋である。

 此の地方では「おもて」に「いろり」が切つてない点が、祖谷地方その他と異つた点である。

濡れ縁―各部屋前面外側に2尺〜2尺3寸の椽があり、敷居と4寸〜5寸の段違いがついているのは他の山村と同様であるが、椽から出入をしないの多少趣が違うところである。

02minka_fig10.gif

02minka_fig11.gif

02minka_fig12.gif

 屋根その他の構造

 小屋組は祖谷山地方と同じ叉首造り、上部下部共柄差しであるが、叉首繋ぎがなく梁上りに小根太・割竹を並べ、小屋裏を物置として利用されている点は、祖谷山地方と異る点である。

 叉首の上に「母屋」を二尺五寸間に入れ、垂木丸太八寸間、その上に丸小竹を並べてあり、茅の厚い屋根が葺いてある。棟構造屋根勾配等は他の山村民家と同様であるが、煙出しがついていないのは他の山村とちがつている点である。

 特にこの地方の特色というべき手法は壁構法で、柱の木柄が非常に大きく、板シヤクリがしてあり、上から落込みの一重板壁で、板厚一寸以上の板が使つてある。このように一重張の板壁は、平地では神社以外に見られない構法であろうと思われる。

02minka_fig13.gif

02minka_fig14.gif

四 一宇村の民家

 劍山の北側貞光川の上流に位し、西は東祖谷山村に、東は木屋平村に接している山村であり、祖谷山地方と總ての環境條件が同じであり、古来祖谷地方と交通があり、祖谷山地方同様傳説・口碑等が伝えられている地方である。敷地構成・建物配置・小屋組構造その他も同一構造手法であり、平面形式も又同様形式である事を確認したので、次に平面図のみを挙げる事にする。

.gif02minka_fig15

02minka_fig16.gif

五 木屋平村の民家

 木屋平村は西を一宇村、南を沢谷村に接し、劍山東側穴吹川水源地山狹に発達した山村である。

 此の地方も劍山周辺山村の一環として発達した。交通不便な山村で祖谷山地方民家と同じ形式の民家が今尚残されている地方で、平面形式は勿論、敷地構成や、建物配置、屋根構造その他も同様のものであることは明白な事実であるので省略することにした。

 以上平面形式で見るように、「二室併列型」は見られず「三室併列型」が多く見受けられるのは此の地方特色とも考えられる。

02minka_fig17.gif

02minka_fig18.gif

六 五家荘 椎葉等の民家

 五家荘民家の調査は大正十四年八月、現在東京都立大学石原憲治博士が調査され、「日本農民建築」に詳しく発表されているが、その後の調査で椎葉にも同様な平面形式をもつ民家があることを「民族建築」に報告されている。

 即ち「二室」或は「三室」の併列型があり、前面に広椽や切椽があり、後の外壁が全部板壁になつていて、此れに押込・位牌・神棚・仏壇等が併べて設けられているといつており、中世期の宮殿風の建築を連想せしめるものとしては、一間巾の広椽、外椽と内椽との間には地覆、長押があり、そこに5〜6寸の高低差があり、各室に立派な長押があることであるといわれている。

 更にこのことに関し、鹿島透氏や、前田博士も此の地方の事に関し研究が発表されているが、皆石原博士の意見を肯定しているようである。

 五家荘や椎葉の平面形式と劍山周辺地方の平面形式の異つている点は、広椽のないことであり、平面形式の基本に於ては何等変るところがないという点は注目すべき問題だと考えられる。

02minka_fig19.gif

七 日本民家の発達段階

 日本に於ける上代農家の事についての史料は余りなく、僅かに絵巻物に現はれている町家建築等より推察しているようで、非常に粗末なものであつたのではないかと考えられる。

 奈良時代に於ける農家の中には、土間ばかりで全体が一室のものもあつたのではないかと考えられ、原始時代の竪穴式住居の様に、非常に程度の低いものもあれば、粗末な床や壁を作る程度に進んだものもあつたのでないかとも察せれる。

 建物と云はれる程度のものは、古来支配者階級のみ造られ、貧農階級の間では余り造られて居らず、後世経済力の増加と生活力の向上、構成人員の増加等により、農家建築も漸次進展したものと思われるが、貧富の度によりその程度も相当段階があつた事も事実であろうと思はれる。

 從つて貧農家建築は余り進歩せず、竪穴式住居等も室町時代まで続いていたとも云はれているし、江戸時代になつて僅かに大坪程の全部が土間という家もあつたようである。

 此のような貧弱な農民建築も、中世期に於ける武家造りの温床となり、一間から横に伸びた併列型の平面が、縱に二分され一方に土間、他方に「田字型」の部屋割し、現在平地で多く見られる「四間取」の平面形式と変化して来たのである。

 (一方に土間をおくことは、上古の埴輪家・中世期の絵巻物等にも見られるようであると云はれている。)

 

八 むすび

 阿波に於ける所謂「祖谷型」とも云うべき平面をもつている地方が、祖谷山地方以外の他の山村、即ち一宇村・木屋平村・坂州村等に残されているばかりでなく、九州五家荘・椎葉にも同一系統の平面形式をもつ民家が残つているのも與味深い問題である。

 更に又藤田元春氏は山形県村山郡の平野には、四間取りから出た形式は少く、三間取りの原型を保存しているのがあるといつているのも注目すべきである。

 阿波は劍山周辺民家が中世期頃の、割合い古いと思はれる平面形式をもつており、又他の地方にも同様形式の民家があることも、何かの理由から残されているのであろうが、これをもつて直ちに平家落人と直結する事は早計かと思うが、充分なる確証の上に立つべきであると考える。劍山周辺山村民家の平面が多く「併列型」であるという理由は、敷地が非常に狹く、然も細長いという理由で、自然横に長く延る事を余儀なくされたと考えるのがもつともだとうてないかと思う。

 石原博士は「三室併列型」は四間取り、即ち「田字型平面」になる一つ手前の形式であると云つているが、或はそうした理由も含まれているのでないかと思うのでないかと思うのである。

 更に南北朝の頃細川氏に抗した、阿波山嶽武士の活躍の場として、木地師による中央の各種文化が劍山周辺に持伝えられ、影響される所相当大なるものがあるのではないかと考える余地も残されている。

 何れにせよ劍山を中心とした周辺の地に、割合古いと思はれる形式が今尚残されていることは、徳島縣の誇りであり、今后尚各種研究がなされ、伝説・口碑が証明せられてこそ誠に価値あるものと思うのである。(徳島工業高校教官)


 



徳島県立図書館