阿波学会研究紀要

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第四回郷土研究発表会  
阿波の塩田民家 四宮照義・藤目正雄・岩田公文
阿波の塩田民家

  建築学会  四宮照義(徳島県西工高) 藤目正雄(徳島県西工高) 岩田公文

 

§1 概 説            i.1.庄屋浜屋

  i   阿波の塩田地帯       i.2.自作浜屋

  ii  塩田地帯の社会構造     ii  浜子住宅

  iii 塩田地帯点景      §3 高島塩田地帯の住宅改善

§2 塩田民家         §4 塩田民俗建築用語集

 i 浜屋住宅         §5 結 び

 

§1,概  説

 i 阿波の塩田地帯

 元禄時代に兵庫県の赤穂から製塩技術を移入して阿波藩の保護の下に発達して来た塩田は、徳島県下では、鳴門市の斎田塩田、高島塩田、里浦塩田、北浜塩田と、徳島市の津田塩田の5ヶ所で、其の内斎田、高島、北浜の3塩田が昔の伝統を受継いで現在に残り、他は都市周辺への発達により次第に塩田が埋立てられて衰微しつゝある。

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 藩政時代の阿波三大産業(藍、塩、煙草)の一つとしての塩は、藍の隆盛時代に於ける「阿波大尽」と並び阿波の浜屋は、江戸は勿論全国にまでその豪盛さをうたわれたものであった。時代は下って昭和33年鳴門本斎田、高島合同との2製塩工場は合併して全国一の大製塩工場が建設され、近代設備を誇るに至った。

 ii 塩田地帯の社会構造

 封建時代に於ては、他の農村社会と同じく庄屋、地主、小作の階級制度が、塩田地帯では、庄屋浜屋、自作浜屋、浜子と分たれ、支配階級と被支配階級とが明瞭に区別されていたのであった。特に塩田関係に於てはその別が厳重を極めていたと言うのは、藩の財政策の一つである阿波三大産業のドル箱となっていたからである。明治以後しばしば浜屋と浜子との争いがあり、現在では浜屋連中が合同して大会社を組織して、浜子はその工場で働くようになっているが、それでも労働問題の争いが長く尾を引いている。(「塩田争議の歴史」岩村武勇氏研究)

 iii 塩田地帯点景

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§2,塩田民家 阿波の塩田民家は、鳴門市を中心とした地帯に存在しており、実地調査の結果、概説で述べた如く浜屋住宅と浜子住宅の二つに大別し、更に浜屋住宅を庄屋浜屋と自作浜屋に小別して以下述べることにする。

 i.浜屋住宅……昔からハマヤと言われる旦那衆の支配階級の民家で、これには庄屋浜屋と自作浜屋とがある。

 i.1.庄屋浜屋……藩政時代塩田地帯を支配した格式ある住宅であって、高島塩田では篠原氏宅、斎田塩田では馬居氏宅と其々塩田地帯に一軒づつあった。住宅構成も農家に於ける庄屋の格式的間取、外観を有し、加へて豪商としての要素をも兼ねていたので、藍商屋敷と同じように壮大なものである。ミセ、中の間、客座敷、隔れ座敷、蔵、納戸等多くの部屋を有しているが大別して、家族用部分と接客用部分とに分たれている。(篠原、馬居両氏宅の絵図面は其々両氏宅に保存されている)

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上の写真は鳴門市本斎田合同製塩の集会室に懸けられている額絵の一部を撮ったものであるが、昔時のハマヤの住宅及製塩建物がよく描かれている。昭和15年頃までは撫養町の町筋を一歩出ると見渡す限り塩田のハマの土手の上に点在する此のハマヤが見られたことを私は思い出し、図画の写生と言えば、すすきの波打つ土手の向うに白い煙をたなびかせているハマヤをよく描いたものであった。写真向って左の建物からハマヤ(浜屋)、塩納屋、木場、カマヤ(釜屋)、ドーソ(土倉)と呼ばれ、敷地はハマ(塩田の事)の中に埋立てられたものか、山際に山を崩して整地したものかである。

 i.2.自作浜屋……一般農家の中流的な四ツ目型式の間取を有している。オモテ、オク、ミセノマ、ナイショ、カマヤ、ニワと平面構成されているのが殆んどである。自作浜屋と称するものは、以前は殆んど少なかったのであるが、藩政時代が終って明治、大正となるにつれて塩田地帯の封建的社会機構が崩れ出した頃より浜子の中から、又他所から移住して来た者達が持浜、借り浜をするようになって此所に中産階級が出現するに至ったものである。

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 ii.浜子住宅……浜屋(ハヤマ)の下にあって毎日ハマに、カマヤに出て働く被支配階級の人々の住んでいた家である。これは徳島県の剣山周辺、及び吉野川流域地方の小作農家の平面構成に似て居り、所謂塩田小作住宅であって、ニワとザシキが一の字型の2間形式と、他はこれにオクを付けてT字型の3間形式との二つの様式が見られる。以下実例に就いて述べる。

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§3.高島塩田地帯の住宅改善

 鳴門市本土から黒崎渡しに乗って約5分間渡らねばならない離れ島「高島」で生活する人々は、飲料水に大変不自由をして来たのであった。昭和26年3月この小鳴門海峡の急流を横切って海底水道管が敷設され、長い間の苦しみから解放され上水道に恵まれたのであるが水道と共にいちはやく台所改善に着眼した鳴門町鳴門西婦人会長の広野カメ女史によって昭和30年までに此の地区の民家は殆んど会長を囲む有志婦人の手によって82戸の家々が協力して行われ、その記録を「私達の台所改善」のパンフレットに納めている。私は広野女史宅を訪づれて色々と御説を聴いてその進歩的御意見に敬服させられた。今後共益々此の改善が推進されることを期待するものであると同時に此れからの新時代の住生活の上から、台所から居間へ、子供室へ、寝室へと改善発展されることを念願して巳まないものである。

§4,塩田民俗建築用語集

 塩田民家の研究資料として関係深い用語を集めて見た。

○あがりはな……塩田住宅平面構成に於ける部屋の名称でトノグチを入るとニワがあり、ニワの傍にある部屋を言い、簡単な応接に使用される。其他各部屋の名称は既述の通り。

○浜屋……塩業家のことである。又その家屋も指す。

○浜屋の一軒前……高島の塩田地帯では台(沼井台)が150〜180台持っている塩業家で、約1町5段から1町8段位の塩田面積を持って居り、其他「釜屋」が1つ、「どうそ」が2本(どうそ2個のこと)「塩納屋」が1つの各施設建物を持っているのが普通であった。使用人は通常釜焚き2〜3人と、浜日役4人、浜持ち3〜4人(内1人は女)の計7〜8人であった。

○台……塩田の中にある「沼井台」のことで、塩田に撒き散らした砂を此の中に入れて海水を濃縮し、かん水を採るところである。「ます」とも言う。「台一そう」には一畝のハマ面積を持つとされている。(写真参照)

○地まわり……塩田住宅地帯に近いところの塩田を言う。「地まわり」では浜屋の一軒前が190〜200台を持っているのが普通である。

○大ばば……浜屋が一軒前より多くなり、二軒前か、三軒前となって塩田面積の広大な浜屋を言う。

○釜屋……かん水を焚きつめるところ。(写真参照)

○どうそ……塩田で採れたかん水を貯溜して置くところで釜屋の近くに建てられた茅葺の建物である。(写真参照)

○塩納屋……釜屋で作られた塩を貯蔵して置く建物。(写真参照)

○あゆみ……かん水を「どうそ」に入れることを「とりかたのぼる」と言い、「入れ方」と「どうそ」との間は、塩田と「どうそ」との高低差が約1間あるので、「入れ方」に集ったかん水を「どうそ」に、「わかいし」が「にない」でかついで汲入運搬するために用いるあゆみ板の事で、巾約1尺、厚さ約2寸の桧板である。

○入れかた……ハマの各「台」から採れたかん水を1箇所に集めておくために設けられたかん水貯溜槽で、「どうそ」の近くに設け、ここから「どうそ」に入替えるのである。

○ポンプ小屋……昔の「とい方のぼる」が重労働であるし、能率があがらないので機械ポンプを使用するようになった(昭和5〜6年頃)ので、それを覆うために作られた小屋を言う。

○にお(水尾)……塩田に海水を取入れるために設けられた巾約2〜3間位の水路で、これは又塩田地帯の水運にも大いに役割を果して来た。(写真参照)

○ゆる……「にお」から塩田に海水を導入するために塩田の土手の一部に設けられた水門である。「ゆるば」とも言う。

○石釜……入浜式塩田の最初の釜構造で、「釜石」(丸い平らな石で経15〜25センチメートル位)を「かまいた」の上に並べ石と石との間を讃岐壁土と灰とを混じたもので埋めて築いたもの。関係用語としては「すじがね」、「つま」、「おもと」、「すみがね」、「塩ごも」、「つり」、「つりげた」、「たきつけ」、「こり木」、「あらだき」、「かまごっしらえ」、「たきつけ」、「かまあがり」、「かまだて」、「一ぬり」。

○しばや……高島地帯には以前は娯楽施設がなかったので時折芝居小屋が仮設された。これを「しばや」と呼ぶ。小屋の部分は芝居をするだけで、見物人は天幕を張った中でむしろ敷であった。(明治30年頃)

○石垣屋……石積みを軒まで腰廻りを築き屋根は茅葺とした民家である。窓、出入口は軒桁の部分から腰積の所まで、又は地面まで開けた家で、現在では見られなくなったが、「たい肥舎」にその面影を見ることが出来る。

○あおや……染物屋で昔は主として藍染色であったからこの名が出た。

○はず……水に不便な塩田地帯では、浜屋の飲料水を貯溜しておく容器で、14〜5貫位の水を溜めることが出来る大桶である。

○ひびょうしょ……避病所。現在は隔離病舎と言うべきもので、伝染病患者を収容する所。

○やきば……焼場。現在は火葬場と言うべきもので、昔は土葬であったので、焼場で焼く死人は主として伝染病で亡くなったものである。墓地の近くか、山の中にあって、屋根もなく、周囲は石積で死者をそのまゝ割木で焼いたものであった。

○戸の口……塩田民家のニワに入るところの入口の附近を言う。

○しょたいば……台所、食事をする所で、ニワの奥の方の傍にある部屋。

○ひぼ石……塩田住宅敷地と道路との境に埋込まれた石を言う。

○ゆげ風呂……蒸風呂のことで、鳴門市撫養町弁財天に明治時代に土佐と言う人が築いてから他の塩田地区へひろがったが現在はない。

○きば……木場。釜屋のある作業場の総称。又釜屋のたき木(後に石炭になった)を置いてある所。昔は番頭や奉公人がよく寝泊りしていたので、男女間の交際がよく行われたと言う。

○いずみ……「いけ」とも言い。井戸のことである。塩田住宅地の要所要所に掘ってある。(参考図書「昔の高島」岩村武勇著)

○其他民俗用語

 旦那。釜焚き(「ふり」、「あさだき」、「ねばん」、「よいだき」、「あかつき」)浜日役。浜持ち。でっちおなごし。いせつ。借浜。休浜。しも。しわ。しよう。わかいし。はまよせ。あい入れ。すくいこみ。とり方のぼる。はねづり(「はねつるい」、「ひむろ」、「もろ」)はね。うわね。うわね乗り。もち。埋立地。節季借り。塩桝株。わちがいほし(「わちがいほん」、「小じるし」)やそ。新浜一町程。まきせんべ。厚焼のせんべ。一文でこ。にない。黒崎渡し。堂浦渡し。三ツ石渡し。しっぷい。よばい。初ばば。よいやしょ(よいやいしょ)。舟だんじり。宮だち。組内。せきぞろ。運気そば。(参考図書「昔の高島」岩村武勇著抜粋)

§5,結  び

 今度の調査は徳島憲法記念館の御世話で、鳴門市鳴門町高島を主として行ったものであるが、斎田塩田地帯も5年前に片側氏に案内されて、藤目氏と共に調査したことがあり、私個人としても北浜、里浦両塩田地帯を廻っているが、塩田民俗資料としては高島地区は最適であったと思う。私の幼なかった時代からよく見られた塩田の様子も此所3年程の内に大きな変貌を来したものだと今更乍ら驚かざるを得ない。一方鳴門市の発展と共に目に見えてハマが埋立てられて行き、新しい産業発展の息吹が感ぜられる事は喜ばしいが、一面何んとなく淋しい気持に誘はれる。塩田の町として元禄の昔から出発して来た撫養町が、周辺村落を合併し、大鳴門市と発展して早くも7周年を迎えた今日、私達を育んで呉れた郷土の姿、資料を何んとか保存、保護したいものだと願うのは私一人ではあるまい。


 


 



徳島県立図書館