阿波学会研究紀要

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第四回郷土研究発表会  
高島塩田地帯の社会調査 富野敬邦
高島塩田地帯の社会調査

富野敬邦

目   次

前篇 社会環境と社会構造

  位置・地勢  人口・職業   身分・階層

  血縁結合   浜部屋   地縁結合

  機能結合   村落定型   文化・生活

  賃銀所得

後篇 前近代性と近代化の交錯

  鳴門塩業の特殊性        前近代性と近代化の交錯矛盾

  塩業封建制と近代化への歩み   前近代性と近代化交錯の基盤

  塩業革命のもたらすもの

附録

  高島製塩工場実態調査      本斎田工場実態調査

  三ツ石における通婚圏の実態調査

はじめに

 鳴門市は京阪神と四国を結ぶ最短通路として交通の要衝を占め重要な地理的位置にある。この鳴門市は国立公園の景勝の地としてのみでなく巨大な塩田によっても著名である。鳴門市の海岸平地には黒崎、桑島、斎田、立岩、三ツ石の各塩田がひろがっており、就中、高島は三百余年の伝統と秀でた製塩の質量、塩田の細分割と単位生産量の高さ、特殊な封鎖的狭小性と主情性、前近代性と近代化のするどい交錯などによってわれわれの関心を強くひきつける。

 高島は交通が不便で、風が強いと渡し舟が出なくて対岸撫養との連絡が絶える。島内は道幅が狭くバスも自動車も通れない。農業、漁業が殆ど行われず塩一本の島国で、純消費地で物価が高く、中央部の曲りくねった狭い道路沿いに小さな家が密集しており、その人口の7割強が塩業関係の職業に従事している。その殆ど大部分が貧乏な塩業労働者であり、少数の塩業資本家や商人を除いて、中流層の少いのがこの島の特色である。最近塩田の入浜式から流下式へと、さらに電気製塩工場の設立、塩業革命の進行につれ日を逐うて失業者の顔が暗く、「無人塩田」が現わるのも遠いことでなく、青年たちは外へ外へと出稼に出ている。「失業の村」は「人口漸減の村」ともなりつゝある。村にはとり残された老人や子供や病人が目につくこと、長欠児の多かったこと被保護世帯の多いことなど総じて島国、耐乏生活、輸入生活、封建遺制、労資の対立……等で高島は日本の一縮図であり、この点われわれ研究調査者の注意を強くひくのである。

 まづこの論文の前篇では高島の社会環境と構造について概観した。さらにそのうちで、またそれを基盤として現存している封建的なものや近代的なもの、両者の交錯や矛盾については後篇において相当突き込んだ究明を試みるつもりである。例えばスト争議等におけるそれら両者の矛盾相克について深く突き込んでみたい。かって塩業家が浜元といわれ労働者が浜子といわれた平釜煎ごうの時代、ありし日の浜部屋生活、徒弟制度、親分子分の擬似的家族関係、雇傭関係のような前近代的な主情的伝統がずっとつづいてきたのであり、それがいつしか近代化の波がこの島国の塩田地帯にも押し寄せてきて、労働争議が盛んになり、塩田が流下式へ変り、雇傭関係も一年制から永年制へ、日給制から月給制へ、能率給、時間外手当、退職金制度へと労働基準法実施によほど近接してきた。一方では塩田と工場との綜合一元化、電気製塩工場の設置にまで漕ぎつけてきた。塩田の無人化と製塩工場のオートメーション化に向って進んでいる。しかしこれら近代化の兆候は単に表面的、表層的たるにとどまるものが多く、簡単に割り切れるものではなく、その裏面に、その奥底に幾多の前近代的残滓を残し、両者の矛盾と交錯と相克に喘いでいる現実である。

 例えば近代的であるべき労働争議の場合、高島ではいかに前近代的なものに阻まれ、いかに交錯矛盾を呈しているか、近代的組合たるべき高島合同塩業組合が非合理的、封建的なところが多く、義理人情の網の目にはさまって身動きができず、親分子分関係が入り組んで抜きさしならぬものになっており、同族派閥力が強く人事も多くがヒモツキ人事であるということを耳にする。加うるに専売保護制度の下では資本主義的企業としての発達が妨げられて依然として前近代的協同組合主義が温存され、必要もない人を雇い入れたり、必要もない機械を買入れたりしているとのことである。製塩工場においては主従関係と縁故関係がいまだにくずれておらず、下々の人は卑屈感や諦めの心情が強く、理事や幹部等への「上への依存心」がやはり根強いことを実態調査の結果知ったのである。

 最後にわたしはこの論文の附録において高島製塩工場、本斎田製塩工場の実態調査の結果の一部を収録することにした。紙数の制限上大部分は割愛のやむなきにいたった。実は高島工場の方は三回にわたり調査学生延人員90余名によって個々面接質問を行ったもので、本斎田工場は質問紙法によったもので、人間関係、家族関係、社会関係集団、グループ意識、労働意識、生活観、娯楽、趣味や道徳観、工場組織、生産向上等について実態調査したものであることを茲に附記しておきたいのである。

前 篇  高島の社会環境と構造

 位置・地勢……詳しくは鳴門市鳴門町高島である。この高島と三つ石と土佐泊を合して鳴門町と称する。封鎖的な島である関係上、外部との交通は約5分間置きに出ている小型の渡船によって対岸の鳴門市撫養へ、そしてそこから東西にバスの便が通じている。製塩の出荷は製塩工場の岸壁より専売公社の運搬船で出ている。島内は交通不便、道路狭小にして僅かに自転車を利用できる位で、自動車やトラックはもちろんのこと、荷車でも通れない所が多い。この島は東は鳴門海峡と淡路島、北と西は瀬戸内海に面し、総面積208町7反、田畑は僅かに6反の純塩業地帯である。600年前の大地震で海底が隆起したとのことで、中央部の小山を除き、大部分が海水面より低く塩田に適している。この島には、高島、三つ石の二塩田があって、対岸の黒崎、桑島、斎田、立岩塩田と共に、全国的に著名な鳴門塩田を形成している。

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  人口・職業……高島の総人口は昭和28年現在2600、世帯数618である。然るに昭和25年11月現在調べでは2773名で、3年間に173名減少している。これは二三男や女子等が県外に出たためで、失業者の増加、塩田の包容力を欠くことが原因していると見られる。いま職業別、男女別人口を表に示せば別表1、2の通りである。04shakai_tab01,04shakai_tab02その表によっても分る通り製塩関係の戸数、人口が最も多く、高島における総人口の70%近くを占めている。そしてそのうち18%が塩業資本家であり、52%が塩業労働者である。このことからも高島が製塩一本の島であり、純塩業地帯の消費地であることが察知できよう。農業としては山麓の耕地数反あるのみで皆無に近く、農家は7戸だがそれも兼業が多い。家畜もおらず、ニワトリが少数飼育されている位である。林業もまた全くなく、山林として学校林が2町6反、公有林が5町5反あるのみで、私有林はない。三方が海に面しているに拘らず、漁業水産業が皆無であることは注目されてよい。製塩業に次いで小売業の89世帯、104名、運輸業の34世帯、60名、建築業の18世帯34名等があるが、いづれも塩業に比べると比較にならないほど少い。また農業、漁業の皆無のことなどよりして自給自足を欠き、物価も鳴門市に比較すると約一割高い。

 身分・階層……明治時代のことを記すに先だって、慶長2年篠原家の先祖がこの地に塩田を開いた時を以て高島の起源とすることができよう。篠原家の先祖の一門は塩田労働者を撫養方面より狩り集め経営を始めたとのことで、このことは後の時代になって明瞭になってくる資本家と労働者とを階級的に区分する一線を、この当時既に胚胎していたと見ることができよう。ともかく交通不便で封鎖的、農業や漁業なく塩業一本で生活必需品を全く撫養方面より購入しなければならなかった関係上、問屋や行商、仲買人等がひんぱんに活躍していた模様で、従って当時の身分階層は概略に見て塩田の親方、奉公人の上下階層及び僅かの商人中間階層に三分されていたと見ても差支えない。ここで親方というのは「浜家」のことであり、奉公人というのは「浜子」のことである。即ち当時の高島は浜家――浜子という住込制度の徒弟制を伴った前近代的な雇庸関係を中心とする家内制手工業的生産機構であったわけである。それが近年にいたって大規模な製塩工場が建てられ、普通の近代雇庸関係の下に工場労働者が働らくようになり、また一方塩田の方でも、丹那の家への住込みを原則としていた雇庸関係から一ヶ年契約制へ、更に永年契約制へと変貌過程をたどることとなった。しかも労働組合の発達は、多かれ少かれさらに人々に新しい意識――階級意識を徐々にではあるが目覚めさせずにはおかなかった。

 以前浜子が浜家の家に住み込んで衣食住の保障を与えられて労働に従事していた時代の丹那と浜子の主従関係、上下の階層意識には絶対的なものがあったようである。従って丹那の浜子に対する優越意識は著るしいものがあった。一例をあげると、八幡神社の例祭には神輿の外に屋台が出るが、その屋台にのるのはすべて浜子の子弟であり丹那の子弟たちは近年にいたるまで「あんなものはいやしいもののすること」として絶対に乗らなかったという。浜子の服従意識にもまた絶対的なものがあったようで、自分たちの主人は一般に特に「ダンナ」という名称で呼んでいた。こうした主従関係、上下の身分階層意識は、塩業の規模が次第に大きくなり、多量の労働者を必要とするようになって、住込制度が一ヶ年契約雇庸に変った後までもなお維持し続けられた。浜家の丹那は自分の気に喰わぬ浜子や、仕事を怠ける浜子を一ヶ年の契約期間がきれると同時に任意に解雇することができた。解雇せられると島内で就職の目途のない浜子たちは継続して契約されることを望むのは自然の情であり、以前の上下意識はこの場合そのまま維持されたのである。しかし終戦後からは基本的人権思想、民主主義の風潮はこの島へも吹き込んできた。一ヶ年雇用における低賃銀、重労働、生活不安、退職金なし等への不平不満が、労働組合運動を通じての労働者階級意識の向上に相まって遂にストとなって現れ、一年契約制を廃止し、永年雇庸形態へと変ってきた。かかる推移にもとづいて主従意識、上下の階層意識は全く消滅して然るべきであるが、これまで「ダンナ」といっていたのを「誰某さん」と呼ぶようになった位の変化の外は、別段これといった大きな変化の表れていない事実は、後章の面接調査の結果の示すものによっても明らかである。いまなお地域社会の支配的、指導的勢力は全て浜家によって占められているし、社会的栄誉や地位も殆んど浜家に与えられているようである。

 他方工場――鳴門合同製塩工場における階層関係はどうであろうか。この工場は浜家の協同出資によって経営され、殆んどすべて島内の労働者によって生産が行われている。労働者も浜子の子弟が多く、年齢も古けた人が多い。こうした事情を反映してか、都市における工場の人間関係とは全く別な人間関係が見られる。半封建的な上下意識から脱しきれていないのである。「この工場は本当は20人もあれば動くんだけれども、首をきると、他に行く所がないから働らかせてある」と経営者側の一人が語るところによっても明らかなように、経営者の側の優越意識は相当なものである。そしてこの優越意識は工場内で職階制をあいまいのまま放置し、「理事のお声がかりで入った人は最初から手の汚れる仕事はせず」(一労働者の云葉)、55才という停年制を無視して、60才の老人がなお重要な地位を占めているが如き事態を現出せしめている。これに対する労働者の側の意識にも煮え切らぬものがあり、むしろそのようなことを「致し方なきこと」と認め、敢て反対もせずに事勿れ主義をモットウとしているかに見える。或る労働者は私が面接を行った際、面接の記録を会社側に見せないようにしてくれと念を押していた。「近代的な装いの中は、全く封建的なものでうづまっている」という当時の労働組合長の言葉が、この辺の事情を端的に表わしている。「ここは義理人情の厚い所ですよ」とその組合長は皮肉な調子でつけ加えることを忘れなかった。では何故に生産機構の近代化にも拘らず、上下の階層意識が大して変化しないのだろうか。その問題は重要であり、後編の「前近代性と近代化の交錯」の章で分析究明をしてみたい。

 なお現在における高島の階層区分の概略は、昭和28年度における市民税について、5千円以下を下層、1万円以下を中層、1万円以上を上層として、上・中・下の三区分にした結果、別表304shakai_tab03の如き分類表を得ることができた。即ち全産業人口の51%を占める労働者が、僅か18%の塩業主(塩田資本家)に雇用されていることが分る。また上層と下層を合せると約70%となるに対し、中間層(主として小売、運輸、公務員等)は30%で、比率としては低いものを示している。また事実としても中間層は昔から高島では大きな影響力を持つことなく、近代的職業の派生に乏しくて労資の二大階層のみが大きく対立をつづけてきている。しかもここで特記すべきことは、それら資本家の50%以上が姻威関係を多くもっていることで、この根強い同族組織が高島の封建性残存のための一つの地盤を与えていることである。海に向って聳ゆる巨大な永遠の聖所――同族墓地こそそのシムボルでもある。「高島に入ったら権八さんと喜八さんの悪口いうな」と語り伝えられているが、高島にはこれら武士の子孫の同族が多いので、うっかり悪口いうのを戒めたのであろう。選挙の際などは急激に派閥抗争が行われ、同族間の結託が見られる。塩業資本家のみで構成している塩業組合の役員選挙の際などそれが露骨に現われる。しかし相互協力を必要とする塩業の特殊性よりして一般に同族勢力は押えられている。それにしても凡そ三つの同族派閥に分れ、隠に陽に同族潜勢力を形成しているということをきいた。篠原、青山、谷崎、潮、宮崎などの同族勢力は相当強いということをきいた。たしかに高島の上層階級ではこのような同族組織が残っているとしても、すでに下層階級では地縁結合にまさった同族結合の残存勢力は見当らぬのである。

 血縁結合……血縁結合としての家族の成員数は最高で15人、昭和25年の国勢調査では平均5.5人である。世代家族の型を示すものも多く、狭い家に多人数住んでいるのが見られる。家長制、家長権の残存の著るしいものは見当らないが、結婚の場合など上層階級の浜家などで相当強い干渉が見られるが、労働者下層階級では別に権力がましいものは見られない。下層の家族生活ではむしろ俗な仲間的な色彩が強い。家格制村落で時として見られる上座と下座、いろり座のような座席順などは見当らなかった。大体、長子相続制をとっているが、長男だからといって特別な権利を持ったり、特別扱いはされていない。この島では昔から女子も男子に混って塩田労働をする。それは主として男子の低収入だけでは家族の生活がまかなえないからだ。それだけ主人に対する主婦の生産上の地位が高く、主婦の権勢が下層社会では比較的に強い。昔からここは「夜這い島」といわれ、女の夜這いが盛んだったといわれるが、この点にも原因があると考えられる。しかし上層階級の主婦たちは封建的な服従に仕えるものが少くない。上層階級では嫁に対する監視、非難が強く、嫁の実家が婚家より家格が低い場合「嫁いびり」があるということをきいた。下層階級では嫁の労働が家族生活維持の好条件として尊重されるところよりして、「嫁いびり」といったようなものは少い。二三男は多くは分家したり養子に行っている。分家するといってもせいぜい家を一軒持たしてくれる位で、身一つで養子に行くのが多く殊に下層ではそうである。塩田を分割したり分与したりはしない。終戦後よりはむしろ出稼に出る者が多い。出稼といっても阪神方面への出稼が全出稼の約50%を占めている。これは塩業労働者の過剰、流下式切替、単調で日乾びた塩田労働、将来への無希望などが原因しているようである。

 通婚は狭小性があり、部落内婚が全婚姻数約半数を占めている。他の半数は撫養と板野郡とに多かったが、次第にこの傾向はくずれている。近時出稼者が多いため通婚圏も拡大化している。なお上層階級では地域的通婚圏も一般に広いが、下層階級では狭い。上層の者と下層の者との階層通婚は二三の例外的場合を除いては行われていない。婚姻年齢についていえば、明治時代はこの島では男女共に早婚であった、高島鳴門市支所の台帳をみると、明治時代では男子18、9才、女子16、7才での結婚が散見し得られる。塩田では年が若くして仕事さへできれば大人並の賃銀が貰えたことも原因しているであろう。結婚経費についても階層的差別があり、上層階級の浜家などは家格とか世間態のため相当多額であるが、下層階級では少い経費の捻出にさえ苦労している。

 浜部屋生活……明治時代には浜家に浜部屋というのがあって、浜子はそこで親方から衣食の面倒をみて貰っていた。浜家は女中を置いて炊事その他をさせていたが、どうも菜っ葉や大根ばかりのみそ汁が出て、いりこ入りのダシ汁が滅多に出なかった。これについて面白い話が一つある。女中の立場に関するものであるが、女中としては親方の気に入らぬばならないし、親方の気に入るようにすると、「ずるい」といって浜子たちに嫌われた。或時のこと或る浜家の女中が親方の奥さんにうまく取入って奉公人のいうことを一向にきこうとしなかったので、浜子の連中が「あのおなごを困らせてやろうじゃないか」といって、10人程の者が毎日代る代る汁を14、5杯も平げて、他の者が「足らん足らん」と云い振らして困らせた。またいわゆる「暴れ食い」をして女中に報復したとのことである。

 浜部屋というのは、塩業の特異性よりして設けられたもので、朝が早いこと、排水設備がなかったので水車で水を出したりしたこと、また塩仕事の共同性のためもあって浜子が一しょに寄宿し、女中をおいて炊事させて、いつでも臨機応変に仕事にかかれるようにしていたものである。ところがこうなると男は夜遊びに出られないのだが、よくしたもので女の方が積極的に浜部屋或は「木場」(釜屋にある作業場のことで、たき木や石炭を置いてある所のことをいう)に出掛けてきて、男をこしらえたり、遊んだり、お銭を貰ったりした。とどのつまり腹が大きくなると、さしばあさんにたのんでおろしたが、中には夫婦になる者もかなりあったとのことである。当時の高島では「置き忘れる」という珍事が度々起った。女が姙娠して相手の男と夫婦になりたい場合は、男の家へ行ってそのまま泊り込んで居ついてしまって、はては厭応なしに夫婦になる慣習がこれと関係している。製絲工場のある界隈などでもよく見られた風俗であるが、性を人間生活の自然的現象として明るく享楽しようとの態度、野合的な男女関係の自由さがこの島に於いても相当公然と認められていた。その頃娘はよく出歩いていたし、女のことで喧嘩や賭博がよく行われた。「高島の女にまら見せな、腰弁当で追っかける」とは他村の人たちの言い伝えである。なお少し余談にわたるが、当時浜部屋などを中心にしてバクチがよく行われた。「道端の地蔵さんでもバクチする。」といわれる位に高島とバクチは縁が深い。或る人が「地蔵さんがバクチするというが花札を持っているか」と反論したので、地蔵さんの側へつれて行くと、ちゃんと石の地蔵さんが花札をもっていたという笑話がある。雨の日には仕事できぬという塩田の特殊性も原因しているであろうが、封鎖的な島の生活、交通不便で娯楽をもたぬ高島の人々にとって、そしてまた雨の日の浜部屋生活の浜子たちにとって、バクチはまた心のうさ晴し、レクリエーションの一つでもあったであろう。

 地縁結合……高島は詳しくは鳴門市鳴門町高島であり、明治22年町村制発布で鳴門村となり、農業と水産業地である土佐泊、塩業地帯である三ツ石と共に合体して鳴門町となり、昭和22年撫養町、瀬戸町、里浦町と合併して現在の鳴門市の一部に編入された。何分にも、海によって市部と遮断された島国のこととて封鎖性が強く、交通は渡しによるもの一ヶ所で道路狭小不便であり、通商や取引を除いては他の地区の人々との接触・交渉が少い。マスコミともうとい。塩田地帯は中央の小山を除いては海水面より低く、それら凹地の塩田の分割もまた極度に規則正しく細分化され、採かん夫の原始的肉体労働と対比して、一見するだに狭苦しくて、封鎖性と狭小性が強く感じられる。現在高島には14区の部落組織が残っているが、これは戦時中から残された便宜的な部落組織であって、従ってその地縁的結合力は微弱である。毎年10月13、4日の両日に行われる八幡神社の祭礼には、それら各区から選出された宮総代がそれに当り、費用は各区民に割り当てている。やはり氏子結合の地域性は残っている。当日は各区より屋台が繰出されるのであるが、島民は自分の子供たちを屋台に乗せることを最大の光栄とし、常日頃より貯蓄して祭礼にだけは華美な衣裳を身につけたがる習慣がある。また御輿や屋台を先登に、浜家をねり歩き、日頃の腹癒せするのはこの時だと暴れる。なお消防の地域組織としても前述の14区より夫々代表者を集めて組織している。たま高島の島民の7割以上が同じ浄土宗の早住寺の檀家関係にあるということも地縁性の強さが残っていることを示すものといえよう。他の宗派の信者というのも、実は後から高島に外部から移住してきた商人や労働者に多い。冠婚葬祭に際し、向い三軒両隣りの地縁的、隣保互助組織のあることは地の町村と変りないが、高島の場合では、同族間の互助組織がさらにその上に重なり合っていることが知られる。

 高島地縁社会の社会的特性として封鎖性と狭小性を挙げたが、さらに伝統性を挙げることができよう。高島は塩業を中心にして、360年来幾多の変遷、栄枯盛衰を重ねて今日に至っている、古くして重い伝統性がある。高島に始めて塩田が出来たのは慶長2年で、篠原孫左衛門という人が慶長元年に撫養地方の土地が大地震で隆起したことを聞き、自ら実地踏査にきて高島が最も塩田に適当なことを見定め、翌2年従者10名をつれて高島に移住して開拓につとめ、同12年には8町6段余の塩田を作っている。爾来、高島は塩業を中心に360年来幾多の変遷を重ねて今日にに至っている。まことに高島の歴史は塩業盛衰の歴史である。すでに蜂須賀家政は塩業を保護奨励し、阿波藍と共に阿波藩の主要産業たらしめている。塩が保護産業であったということがこの地区の資本主義化の通路を阻み前近代的な伝統性を温存せしめた一因とも考えられる。また塩はいくら生産が増加しても消費に限度があり、自給自足の建前もあり、生産過剩の結果は「休浜」も屡々出た。三八雇傭制といって定期間の生産を停止し、3月から8月までの最盛期のみ働くこともあって、浜屋も苦しんだがそれ以上に割り切れない気持で浜子は苦しんだものである。「休浜」の時など浜子は「おかゆ」の中に草根をきざみ込んで食事したこともあるといわれている。やがて一年雇傭制がとられるようになったが、これは1月1日に浜子は浜屋と契約し、契約金あるいは支度金として幾らかの金を貰い、あとは日給で天気のよい日は働き、悪い日は休むが、休んだ日の賃銀は半分位になる。12月31日がくると期限が切れて首になるが、翌1月1日に新たに契約を結ぶといった古風な幼稚な労働契約が、新憲法下の労働基準法実施のつい最近まで公然と行われていたこと自体、この地区の封建的伝統性の強さを物語るものでなければならない。また以前には塩問屋が撫養にあって、そこまで塩を船で運んで買って貰っていたが、不景気の時など問屋に死活を握られ、さらに塩問屋は副業として石炭の販売も兼ねていたものだから、浜屋は二重の搾取を受けていた。塩専売制の実施によってやっと浜屋は楽になれたが、浜子の方は依然として親方(旦那衆)に仕え、不平があっても「お情けに寄り縋り」、「飯を食わして貰っていた」のであった。

 機能結合……機能結合が機能集団を形成するのであるが、機能集団とは血縁や地縁にもとづくいわゆる基礎社会集団を基盤として、或る特定の目的、利益、機能を果たすため派生的につくられた集団を指すもので、一般に社会が近代化すればするほど基礎社会集団が衰耗し派生機能集団が増強してくるというのが社会史の原則である。すでに説明した通り高島地区では近代主義の流入にも拘らず、血縁、地縁結合は未だ相当な根強さを示しているのに反して、機能結合の強化、機能集団増強の傾向はあまり目立たない。合同塩業組合、労働組合、学校を除いては機能結合の活動はこれといって認められない。各種の機能集団が現存し、それぞれ独自の機能を営みつゝ、しかも町や村の連帯、組織、統一にとっていかように活動しつつあるかが学問上重要なのであるが、前記塩業関係の機能集団以外は立ち現れていない。

 鳴門合同塩業組合の前身は、明治41年に三ツ石に設置された三ツ石塩業購買販売組合と大正5年に高島に創立された鳴門信用購買販売組合との二つであった。昭和14年に煎ごうの合理化による真空式を採用した鳴門合同製塩工場が設置されるにいたって、それら両組合が発展的解消の上に合併して出来上ったものである。組合員数80名で、組合員は高島か三ツ石に塩田を所有する者である。一軒の塩業家でも塩田を分割して2人乃至3人を組合員として登録しているので、家単位の実数は組合員数を下廻わることになっている。。いうまでもなくこの組合は製塩業者の利益追求の上に立つもので、塩業労働者とは無関係、むしろ敵対的でもある組合である。

 以上の如く数億円の資産を有し、一応近代工場産業の形態を備えているにも拘らず、従来の配給組合時代の意識が抜けきらず、専売公社の強い保護と監督を受け、採かんは依然として各塩業家がそれぞれ行い、採かんと煎ごうの一貫性、経営の一元化、合理化の完成に至っていない。経営面でもときどき不手際を見せ、親戚同族関係や利害関係に結ばれて理事選挙の時などもめている。「使えもしないボイラーを2千万円もかけて購入した」とか、時勢の進歩に追いつけず旧態依然たる頭でいるから、専売公社から進歩的な経営方式と製塩方式の採用を強く要望されて戸惑っている」とかいうこともきかされたのであった。04shakai_tre01,04shakai_tre02

 鳴門町農業協同組合の前身は大正5年に創立された産業組合で、もともと農家の殆どない地区のこととて塩業と関連をもった組織であった。それが昭和16年に官製的な農業会が組織せられ、終戦後の昭和24年に現在の農業協同組合ができた。純農家がなく米を供出する家もないこととて、農協といっても農村にあるものとは性質が違っている。農協の規約によると正会員は一段歩以上の土地を耕作する者となっているが、この地区では地域性に対応させて3畝以上の土地を耕作する者となっている。現在正組合員は三ツ石関係100人、高島関係160人、準組合員は三ツ石関係50人、高島関係220人がある。組合の仕事も農村のそれとは相違して、(一)地盤沈下対策、(二)共同肥料購入、(三)共同請負工事となっており、塩田の地盤対策などが主な仕事である。なお組合は信用関係で預金や貸出しを行い、三ツ石、高島両地区で約2千万円の金が動いている。購買、販売の部面は準組合員などの組合から受ける最大の利益で、この地区は物価が他の地域よりも高いのであるが、農協のこの仕事によって物価の適正化を図るという役目を果している。さらにその精米や精麦方面も大いに利用されている。なお組合理事は塩業家から3名、塩業労働者から3名、商業から1名が選ばれ、監事3名もそれら各方面から1名づつ出している。元来利害対立的な塩業家と塩業労働者とが同数の理事と監事を出して仲よく共同で事業を行っているのがこの組合の特色である。

 教育集団たる学校は、基礎集団たる家族集団、遊戯集団の内で成育してきた子供達を、さらに教育機能を通じて成長せしめんとする機能集団である。青年団、婦人会その他の社会教育が一般に振わず、公民館活動の見られない高島地区では、学校のみが唯一の教育集団である。だから学校は学校本来の目的と機能の他に社会教育の機能をも併せ持っているわけで、二重の使命を持たされている。幼時期の児童は高島及び三ツ石の両幼稚園に学び、学齢期に達した児童は高島にある鳴門西小学校に通学する。高島には小学校があるだけで中学校はない。終戦直後の昭和21、22年頃、塩業を唯一の産業とする高島村民は自給自足が全く不可能で物価の騰貴にあって生活に喘いだ。小学校の校舎は腐朽し屋根から青空を仰を仰ぐ有様であった。昭和21年の村民大会では「法を犯し生命をつなぐべきか、或は餓死すべきか」という問題が討議された程であった。ところが昭和23年頃から経済状態も次第に復興し、塩業家を中心とする寄附金によって校舎の修理がなされ、市制がしかれてからは25年に校舎の改築、26年に南校舎と27年に幼稚園舎がそれぞれ新築され現在にいたったのである。父兄は経済上の貧困による場合は別として、一般に比べ教育的熱意に低くはない。しかし父兄はできるだけ金をかけずに教育をやってくれというのに対して、学校側は多少の負担は持ってくれなくてはというズレもある。父兄には塩業資本家と労働者とがあり、その階級的対立を意識する場合が少なくないが、学校側ではそういう対立や差別を考えないので、学芸会の際など問題が起きている。PTAは会員数780名、会費は一口20円とし十口を最高としているが、とくに合同製塩からの大口の寄附にあづかっている。高島の小学校のPTAの特徴は就学児童の有無を問わず一応全村民が会員となり、全村教育の形をとっていることである。長欠児の数も4、5年前では相当多くて問題化したことがあったのだが、その後次第に減少を示しつつあるようである。

 村落定型……なおここで高島の村落の型、村民心理といったものについて、「封鎖性」、「伝統性」、「上下性」、「等質性」の角度より、また地域的には、対岸で近くの「市街地」と「農村里浦」と対比しつつ解明してみたいと思う。高島と里浦では共に昔から封鎖性が強い家格制村落の型を示している。高島は離れ島であるし、里浦も河で隔てられた島の如き所である。里浦と市街地を結ぶ道は二つしかなく、細い道が二本あるのみである。市街地と里浦の間には農地が広くひろがり、里浦と市街地とでは言語や風俗に相違がある。高島は塩一本で他の産業はなく、里浦は農業と一部漁業があるのみで他の職業は少い。共に機能集団は未成長である。例えば政治的にも封鎖性が強く選挙の時など情実票が多い。縁故情実ということが票の行方を決める重大な要素であるが、市街地ではそれが次第に薄れてきている。高島は純消費地で他から供給を受けているが、里浦は殆ど自給自足しており、年に一度か二度日用品を買いに町に出る位のものである。高島も里浦も一部通勤者などを除いて転出者というものは終戦頃までは殆どなかった。しかし戦後、市バスや船便もよくなって、解放性が進み、しだいに部落意識もうすれてきた。

 高島でも里浦でも伝統性がやはり根強く。どこの家族も昔から同じ所に、同じ家に定着定住し、昔変らぬ粗食を腹一ぱいたべ、昔と変らぬ道具を用いて生産にいそしんできた。それが漸く最近になって、塩業上、農業上のことで大きく伝統性がくづれはじめてきたのである。高島では流下式切替、製塩工業の設立、里浦では農地解放、農業機械化がその主たる原因であろう。しかしそれまでは牛馬の如く、もぐらやかにのように、朝早くから日沈まで立ち働らくことを余儀なくされていたことは同じである。生産面の外形や表層的には高島も里浦も一応近代化の兆を示してきたものの、内面的に心意の奥底にはまだなかなか前近代性から抜けきれない。昔からの浜元浜子関係が依然残っていて、争議の際のさまたげにもなっている。村民心理は高島でも里浦でもともに保守的であり、一般の人たちは労を惜しまず、質実素朴さがある。但し里浦の漁夫や高島の採かん夫の中には「宵越しの金は使わぬ」という連中も少くない。「今日の若い衆は楽をしたがる」と老人たちはこぼしている。祭礼に関しても昔ながらの伝統が残り、ムダが多い。里浦や高島でも平素はまづい生活を送っているが、この時だけはハメをはずして馬鹿騒ぎをするのである。年中行事なども度を過ごす場合が多く、およそ新生活運動とは縁遠いものである。さすが市街地ではこの点では改善合理化されてきている。屋台のための寄附の強制は市街地ではなくなりかけている。市街地ではさほどでないが、里浦や高島では世襲性がなお強く残存している。呼称法では市街地では民主化し簡明なものが多くなってきたが、両地区では「熊さん」「八さん」流の呼名や、「左衛門」式のいかめしい旧名が多い。一般に階層が下るほど、また学歴度が下るほど、非合理的主情性が濃いというのが真相である。

 高島では固定した上下の階層構造がみられる。上層は浜屋の連中であり下層はガンガ連中である。しかし中間層が缺けている。上層に属する浜屋は村の勢力の中心であり支配階級である。この支配者の力の裏づけは唯一の産業である塩業の運営上必須な資本の占有にもとづく。この資本の力は大きいものであり、容易にこの力をもつことはできない。従来からこの力をもっている人々が勢力を保持し、地域的封鎖性と相まって固定的な階層を形成する。下の者は上に対して主従関係によって結ばれ、今日のいわゆる階級意識はない。上下構造の固定している理由は、上層は上層同志で結婚して下層との交流がなく、しかも他に産業がないので他の成金や新興階層の生起は困難である。下層階級はまた同じ理由によっていつまでも下層階級でとどまる。高島では、篠原、潮、青山、他二三の一族が勢力を握っており、里浦では武林、福井、喜多、脇田の四家が実力者である。里浦では家格制、身分関係が厳然としており、例えば「奥さん」と呼んでくれる女性は右の三家の妻女にのみ限られていた。高島では徒弟制による身分関係、親方子方の親子関係が残存しているが、里浦は農業地帯なのでそれがない。市街地では身分の上下性がうすらいだが、一部の土木業者や暴力団の中にいまなおそれが残っている。色街では女郎屋の主人が「お父さん」であり、女将が「お母さん」であり、仲居が「姉さん」で女郎が「うちの子」である。

 原始時代の乱婚の遺影といわれる「夜ばい」は里浦も高島も共に多かった。両地区とも前合理的な主情性に強い。結婚は子供が生れてから行うのが普通で、花嫁のあとから「お母ちゃん」と云いつつ二、三歳の子供がついてゆくのが見られたとのことである。高島の「浜部屋」と里浦の「若い衆の納屋」とはそれらのたまり場であった。またお節句や秋まつりなどには両地区とも全村一致で仕事を休み、御馳走で酒をのむ。高島でも里浦でも映画館も飲み屋もなく慰安施設もない。それで一度にみんなで揃って休んで遊んだりする。祭礼や年中行事はもちろんのこと、日常生活や隣り近所のつき合いでも、職場ででも市街地よりはずっと主情性の色が強く出ている。

 最後に等質性という面よりいえば、高島では塩一本、里浦では農業一本のせいか、市街地などに比べると等質性が目立っている。言葉使いが同じだし、一般に見て同じようなつくりの家に住み、同じようなものを食べ、同じような考え方や行動が共通的である。風彩や身恰好も同じように見える。行事や祭礼も挙村一致でまとまり、祭りや節句には同じ儀式と御馳走で全村あげて休んでいる。もちろんこれには職業の等質性の他に、封鎖性、伝統性、主情性、学歴の低さが手伝っていることも事実である。また村民の性格が保守的で粗野であること、また村全体に事大主義の思想がみなぎっている。高島と里浦ではそれぞれ塩業、農業という職業の等質性が強いため生活全般にわたり等質性の一色に包まれている。こうなると革新や変化は起り難く、分化や特殊化や異質化が表面化せず、前近代的、封建的なものが温存固着される。とくに高島や里浦のように塩業や農業の如き土地を対象とする産業では定着性があり、自然的な土地そのものからのあらゆる拘束を受けてますます変化に乏しくなる。しかもこれに海や河に隔てられた地域封鎖性が輪をかけているのだから、なおさら等質性が強まっているわけである。

 文化・生活……高島地区のマスコミ調査(巻末別表)によるとラジオのない家29%、新聞をとっていない家27%となっている。また雑誌は低俗なものが青年層に多く読まれているにすぎない。一部の塩業家の家庭を除き、家庭教育をやっているというほどのものは見当らない。教育は殆どが学校任せである。この地区では社会教育は一般に振わず、公民館活動も行われず、特志家の後援でソロバンの無料教授が行われている位であった。青年団は有名無実の状態で、その原因として利己本位意識、団結心の欠除、集会所のないこと、指導者に恵まれざることなどが指摘されている。婦人会の方は相当な動きを見せており、特に台所改善は相当有名であるが、やはり会合の中心は上層家庭、塩業家の人達で、労働者の家庭の婦人の参加は極めて少い。婦人会長の言葉では「極力労働者の家庭の皆さんに呼びかけているが、なかなかおいそがしそうで……今のところ仕方ありません」とのことであった。

 娯楽と休養についてみるに、映画常設館もなければ旅館や料理店の目星しいものも見当らず、うどん屋や菓子店が少しある程度の貧弱さである。文化的健全娯楽施設は皆無である。その原因は地理的に撫養町と対面し、娯楽圏が延びていること、一般に経済的余裕に恵まれないからだと考えられる。渡舟によって撫養に出てゆくのも主に青年層や通勤通学生で、主婦老人、子供達は少数しか、極く僅かしかない。地区民の娯楽としては映画、競艇、パチンコ、ばくちのような低俗なものが多い。或は囲碁、将棋、ラジオ、魚釣位のものであろう。また高島の労働者はその収入の大部分を飲食にふり向ける傾向が見られ、衣服や住居に比べ食べるものだけは贅沢である。なお高島は昔から賭博の盛んなこと、「夜這い」をはじめとして蓄妾、男女関係のルーズなこと、所々に「楽書」の多いことでなかなか有名である。青年層の非行も少くない。大体塩田労働は過激であり疲労も甚しいが、日曜も休まず公休回数は雨天の浜休を除いては少い。「落ついて休めるのは盆と正月位のものでさ」というのをきいたものである。とくに婦人の余暇と休養には無駄の多い旧生活方法の刷新が必要であって、高島でも県教育庁の後援で婦人会を中心とする台所改善が行われ、県外からも見学者がくるようになったが、この改善運動が末端にまで、労働者家庭の台所にまで及んでいないのが現状である。また塩業家たちによって共同炊事の必要性が認められ、炊事場の築造まで計画されたが、最近の入浜式から流下式への切換によって労働力が殆ど不必要になるという見通しからこの計画も中止になったとのことである。また托児所も保育所も見当らなかったが、これによっても高島の婦人殊に労働者家庭婦人の多忙と繁雑さが想像されるわけである。

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  つぎに宗教と信仰についてみるに、応神天皇を●る八幡神社が一社あるが、祭礼でも見られるように一般に信仰程度は低く、旧来の惰性に乗った封建的、迷信的、主情的信仰の色彩が強い。祭日は10月13、14日の両日で、一般の祭礼に見られるような明るい、楽しい祭風景はあまり見られない。祭の中心となる者は主として塩田の労働者たちであり、彼等は御輿をかついで塩田資本家宅をかきめぐり金銭や物資を酒の勢と団体の強みで強要し、日頃の鬱憤を晴し、若しそれを出さないと御輿を家に投げつけたり暴力をもってどんなことになるか知れないということで、従って資本家や商人たちは「祭」をきらうということをきいた。こんな場合警察も無力で、見て見ぬ振りをするとのことである。なお高島の氏子集団の結合力は相当強い。戦時中隣組といった形に於て高島を14区に区分した。今でもその区分は残っているが、それら各区毎に氏子総代がおり、その選出方法は選挙制になっているが、実際は神官の任命による場合が多い。ともかくそれら氏子の結合力は強く、祭の経費など全氏子の寄附によっており各氏子集団毎に徴集される。出さなかったり、出し渋ったり、その額が少いような場合、非難や罵倒を浴びなければならない。寺院には浄土宗西山派に属する相当大きな昌住寺がある。檀家数450戸ある。地区の人は「お寺詣り」はよくする方で、寺の年中行事としては1月元旦の四方拝、4月の釈迦降誕、7月の盆、10月の十夜会と春秋両彼岸などとなっている。寺院中心の講といったものもなく法要も別に変ったところはない。10年に一回特別に宗規の大法要が執行されている。近時葬儀の風習はすべて告別式になっており、高島として面白い点は、葬儀道具の一切を婦人会が購入してこれを貸していることである。なおその他の宗教としては最近御獄教と天理教とが相当布教に力を入れていることを附加えておきたい。

 つぎには高島村民の生活観、道徳性について触れておきたい。道徳倫理面において高島では低俗なものが見られ、前述のように青少年の間でもこの傾向が見られたのであるが、近時次第にそれも改められつゝあるようである。明治時代頃まではこの島の人々は結婚に対して極めて軽く考えていた。正式な公けの結婚式を行わず、ただ風呂敷包みをもって夜間こっそりと忍びで行って一緒になるという風習であった。こんなことよりして「夜這いの高島」といわれたのかも知れない。また昔は塩業家たちは妾を持つ者が多く、妾の数を自慢にしたともいわれる。また昔は金持の所へ嫁にゆくことを村の女たちは「名誉なことだ」といっていたとのことである。現在においても性道徳は教養ある一部階層の人たちを別として、労働者一般の考え方の低いことは調査によっても分った。例えば私通、姦通、中絶、避姙に対して殊更に罪悪感を抱くようなものは極めて少い。避姙講習会に出席する者は少く、産児制限について相談にくる人は殆どないが、内しょで中絶する人が多いと産婆さんが語っていた。なお労働者たちには一般に卑屈感、諦めに似た感情が強く、一部の指導者たちはともかく、塩田争議で有名な労働組合員にして革新熱どころか案外保守的な考え方を示す者が少くはない。家柄、血統、階層、財産、家格を重く見るかどうかをきいたところ、塩業家のみならず、労働者でも肯定するものが少くはなかった。例えば工場労働者に天皇制について質問したところ、案に相違して支持する向が多く、労働者の中に僅かであるが共産分子がもぐっているといわれるにも拘らず、革新熱は低調である。但し天皇制支持者にしても何等特別の理由からではなく、どうでもよいという者もかなりいることは事実である。また再軍備問題に関しても、戦争の惨苦と経済的混乱を味っただけに反対意見が多いが、自衛軍程度のものは必要だとする者も少くはないのであった。

 高島は撫養町に近接し、近代化の風潮も流れ込んで生活面では特にこれというほどの特殊な風習は見られない。島だといっても衣服は大部分が洋服である。購買先は労働者は主として高島内の衣料店で、島内では価格が多少高いので、少し金の余裕ある人は撫養や徳島まで出かけている。食事は朝昼晩の3回が普通であるが、塩田労働者は重労働のため4、5回とる者が多く、また炎天下の肉体労働であるだけに水分を多く摂取する関係で、消化器系統の病人が多いと医者は語っていた。高島は地理的環境からして食品価格が高く、米麦野菜に事缺き、魚は毎日食べるが、肉は撫養まで足を伸す必要があるので平均月1回位の家が多い。住居としては平均建坪数12、部屋数3、二階建家屋は約4割、平均畳敷数は18畳となっていて、中心道路沿いに狭い家が密集して立ち並んでいる。塩業の最盛期には塩業資本家などが多少貯蓄貯金をしているが、大部分の労働者は貯蓄心が極めて低いということをきかされた。労働者は日給制で、その支払は10日に一度という有様であるから、金を貯蓄する等生活設計の余裕なく日々の生活に追われている。もちろん労働力の多い家庭などでは少々の貯蓄はされているが、それでも昔から「今日は今日、明日は明日」という投げやりの気風がやはり根強く、従って貯蓄することに対しては変な目で見る人が多く、金をためる者に対して「けちんぼう」と非難を浴せるのをよくきくのであって、こんな点でも高島地区民の生活観の一端をさぐることができるようである。

 高島地区の福祉の実態を調べてみたところ、生活扶助、医療扶助を受けている世帯数は28で、人員に換算して77名、そのうち生活、医療両方の扶助を受けているのが23世帯、医療扶助のみ受けているのが5世帯である。老人家族、病人家族の多いのがよく目につく。扶助実施が適切にされているかどうかについて役場の意見では「現在予算の関係で専任の福祉主事がいない。従って十分にゆき届いているとは申上げられない」とのことであった。国民健康保険制度はまだ行われていなかった。ただ塩業医療共済組合なるものが設けられていた。しかしこれは保険金も少額で当人だけのものであり、家族の者は加入できない。また医療単位2000点以上の場合は適用されず、それ以下においてもその2割は自己負担となっている。児童福祉にからむ問題として長欠児対策が論議されたことがあるが、前述のように次第に減少しているとはいえ、中学生の中には未だにそれが残っている。彼等は午前中授業を受けて午後は塩田の手伝いなどのため帰る者が少くなく、これに対し役場から証明書が発行され、やむを得ない者は許すとしても不正欠席の喰止めに相当頭を悩ましていた。高島の村でも工場でも福祉厚生施設は貧弱である。また村民全体の福祉意識や福祉ニードの低調なことにおどろかされた。それは例えば共同募金の成績についてみても他の町村よりは低い。その原因は住民が一般に利己主義で排他的であり、個人や家庭本位の考えは強いが共同体意識に薄く、加うるに経済的貧困から他人や村の福祉を考える余裕に恵まれないからだとも考えられる。合同製塩工場からは学校や幼稚園や運動会に対する寄附が行われているが、富裕な塩田資本家の家庭でも、共同募金や福祉担税の出金を渋る人のあることをきいたのであった。

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  賃金・所得……塩田労働は過酷にも拘らず賃金は比較的に安い。賃金表を単に一見するのみでは高島は低賃金だといえぬかも知れない。また高島の塩業家などは「ここの労働者の生活水準は高い」とまでいっている。しかしそれは日庸労働者のような低賃金の労働者に比較しての見方であり、高島の地域特殊性、塩業肉体労働の実状を知らない偏見だといえる。即ちそのことは次の事実によっても肯定できる。(一)高島は塩の生産以外に何等の生産産業もく、純消費地である上に、離れ島として運輸の便が極めて悪く、塩以外の生活物資は他から購入して割高となっていること。(二)重労働ともいうべき塩業肉体労働は手先や頭の労働と違って、食物の上で量と質との両面が要求せられ、家計における飲食費の占める額が不当に大きいこと。(三)島内に健全なレクリエーション施設がなく、飲食や不健全娯楽に相当金をかけていること。(四)一般に教養が低く生活の合理的設計を行わず、無駄な金品を消費していること。(五)副業を殆どの者がもたないこと。(六)塩業収入が一定しない人が多いことなどによってである。右のうち最後の収入が一定しないというのは別表によってもわかるように、作業種類、普通期、最盛期、労働力により賃金が一定しないということである。04shakai_tab05,04shakai_tab06

 以上のように高島の賃金ベースは他地区よりも稍々高いかもしれないが、事実として生活は決して楽でなく、一般に貧しい人が多いことが理解されるであろう。このような貧しい生活の中から当然出てくるのが労働争議、出稼人の増加、人口の漸減、要保護世帯の増加、公衆衛生の不徹底、病人の増加等である。この島では数年来人口が漸減しているし、二、三男や青年子女の出稼漸増の傾向が強まってきている。公衆衛生についても職業柄汚濁物を放置し易く、伝染病のまんえんに苦しめられたこともあった。出稼については、労働のはげしいこ、レクリェーションに恵まれないこと、賃金の安いこと、失業にさらされていること、将来の見通しの暗いことなどがあげられているが、最大の原因は狭小な高島塩田地帯の労働者収容能力がすでにその極点に達し、改良5ヶ年計画や電気製塩工場の設立などで、どうにも仕様のない立場にたち入ったからである。また高島の少い人口の中で、77名もの要保護者が出ていることなどもこの間の消息を物語っているものでなければならない。

 

後篇 前近代性と近代化の交錯

鳴門塩業の特殊性……慶長2年よりの古い歴史をもつ鳴門市の塩業は、現在は本斎田、鳴門合同の二塩業組合があり、その組合員たる採かん業者の採かん水を組合工場で真空式により製塩し、年間約4万5千噸。それら工場従業員は257人である。04shakai_tab07従来採かん方法は入浜式で塩田面積330町歩、採かん業者(製塩業者)192人、採かん夫(塩田労働者)1104人である。煎ごう関係の労働者は本斎田、鳴門合同の両労働組合に所属し、採かん関係の労働者は高島はじめ各地区毎に7労働組合を結成す。それらを総括する徳島県塩業労働組合連合会が高島におかれている。従来から製塩は採かんと煎ごうの二本建で行われ、煎ごうについては15年前に平釜式より真空式に切替えられ採かんにいたっては350余年来の入浜式が依然つづいたが、昭和28年に漸く合理的な流下式に改良されはじめたがいまなお入浜式のものが相当残されている。なおここで一寸指摘しておきたいことは高島塩田の他の鳴門市における諸塩田との対照比較についてである。立岩を除き本斎田、黒崎、桑島の諸塩田は陸つづきであり、対岸の三ツ石高島塩田と顔を合せている。桑島塩田の東の撫養川の向うに僅かであるが弁財の塩田がある。高島塩田に比較して他の諸塩田における前近代性は遙かにうすい。即ち一般賃金労働者とよく似ており、親方子方関係とか義理人情などの主情性においても高島ほどのことはない。もちろん縁故関係や主従関係がないというのではないが、高島に比べて少いといえる。ただそれは塩田関係についてであって、製塩工場においては大きな相違は見られない。高島や三ツ石以外の地区は大体交通が便利であり、封鎖性が弱くて住居も高島のように密集していない。また塩一本の専業でなく、いろいろの副業や内職をもっている。物価は割安である。雨の日などは何か仕事がもてる。また家族にしても他の職業や会社で働き、店を出したりしている点など高島と大分趣きを異にしている。塩業労働における土地との結びつき、手工業的農耕的性格、専売制等の点では高島も他の地区と同じ共通の地盤の上に立っているが、如上の諸点における相違が高島塩田地帯をして特殊な性格を帯びさせているのである。

 いま採かん労働者と煎ごう関係の労働者の福利厚生を対比してみるに、後者は近代的な労働基準法その他の福利厚生施策の思恵に浴しているが、前者即ち採かん関係の労働者は原始産業として労働基準法上では農林水産事業に従事する者となり、法定福利関係は任意加入となる。従来は労災保険にだけ加入が許されたが、最近漸く失業保険及び健康保険への加入の道がひらけてきたばかりである。医療問題に関しては昭和28年7月に徳島県塩田医療共済組合が結成され発足することになったが、失業保険については確たる見透しがまだついていなかった。高島地区でも採かん日と非採かん日とに拘らず出勤する常勤者たる「日役」と、採かん日のみ出勤する「浜持」とがあり、就労日が一に天候に支配される「浜持」の就労日数では、たとえ失業保険に加入しても失業保険金受領資格たる就労日数が毎月12日以上6ヶ月継続の条件に適合するかどうか甚だ懸念をもたれたものである。04shakai_tab08実際、塩田失業者は増加の一途をたどるのみであるが、受入れ態勢も整っていない。煎ごう関係の工場に配置転換するといっても、その工場も合理化と機械化によって増員は現在のところ殆ど望みがない。しかも塩田労働者は平均年齢40才という高齢で、青年たちは将来見込のない塩田をすてて出稼に出ている。従って整理退職者は高齢の者が多く出るわけであるが、長年運命を共にしてきた塩田、家族的係累を断ち切ってまで他郷に転出することは容易にできない。加うるに高島では副業をもたぬ専業者が多いものだから退職や失業問題はこの数年頭痛の種となっている。参考までに高島及び三ツ石地区によける採かん従業者の年令別を示すと別表04shakai_tab09の通りである。

 なお鳴門塩田における採かん方法は殆んどが2段替持法であり、塩田面積に比し就労者数が他県よりも多い。また鳴門市においても鳴門合同組合関係の塩田が本斎田塩業組合関係塩田よりも塩水輸送設備及び地力の関係上、採かん量に関係の多い撒砂が本斎田の1坪1斗1升に対し1斗3升以上であるため、塩田1町当り従事者の数が本斎田1町歩三人役(日役男1人、浜持男1人、浜持女1人―7歩役)に対し、鳴門合同1町歩4人4歩役(日役男2人、浜持男1人、浜持女2人―7歩役)となっている。単位面積就労者数で高島の方が相当上廻っている。従って流下式切替や製塩工場の新設に伴う採かん労働者の整理退職による犠牲が高島の場合他の地区よりも大きいことがわかるのである。昭和28年度の整理においても本斎田関係15名、鳴門合同関係47名となっている。しかも塩業1本の専業者が多い高島のこととて退職整理問題は余程深刻であり、高島労働運動の熾烈さはこの抜きさしならぬ「せっぱづまった」動機から出ているのである。例えば徳島市昭和地区の塩田の採かん労働者は農業を主としている者が多いため、また塩田面積が少いため、就労者も少いが賃銀も低い。従って塩田改良に伴う整理に当っても問題は起らず、組合運動も低調で県塩業連合会に加入していない現状である。

 前近代性と近代化の交錯矛盾……この問題は上下関係、労働組織、賃金形態、日常生活等の面から考察できよう。浜屋と浜子、旦那衆と奉公人、塩業主と労働者の間における前近代的な親方子方的主従関係についてはすでに述べた。もとの浜部屋生活、住込制度、徒弟制度、同族意識、日当、入浜式塩田作業、38雇傭制、現物給与、貸借、歩合制など前近代的色合の強い生活についてもふれておいた。封建的地主勢力、塩田小作関係における封建制、地主小作間の身分的主従関係も明治38年塩専売制実施前後より次第にその影をうすめたが、もともと塩業の特殊性よりして、即ち農業的性格のみでなく、手工業的、工業的、商業的性格を帯びる点よりして、一般農村のような土地につながる封建的地主小作関係はあまり見られず、また坂出塩田や他県の塩田に見られる半農半塩的な地主小作関係も見られないのである。それにしても塩田の平釜や浜部屋や木場をめぐって前近代的、封建的関係や生活も時代の流れには抗し得ず、1年雇傭から永年雇傭へ、流下式へ、製塩工場の設立、月給制度へ、塩業組合や労働組合の結成、組合争議、階級意識の成熟、団体交渉へ、合理化と機械化、福利厚生施設も遅まきながら設営され、身分意識や主従意識も少くなり、血縁的な家族結合や同族結合や地域結合に対して、微力ながら機能的、文化的結合も現れはじめようとしている。そして夜ばい島といわれた性風俗も改まり、飲酒や賭博も減り、有名な楽書のいたずらも減り、長欠児も減ったし、これまで乱費的であった生活も次第に計画的になってきたといわれる。

 しかしよくよく考えてみるとそれは表層的皮相的な見方であって、盾の半面をみたにすぎず、すでに述べたように、近代的なものの裏に、その底に前近代的なものや封建的なものがまだ相当残っており、それら両者の交錯矛盾を示す場合が少くない。いまそれを全国的にも有名な高島の組合争議について検証してみることにしたい。高島の争議を時代別に調べてみると、まづ明治40年にすでに高島において賃金値上要求の自然発生的ストが起っている。昭和3年には高島塩田の労働者が日本労働評議会の指導の下に賃金値上要求、塩田小作者の排除、中間搾取の排除等を斗争目標として立上っている。採かん最盛期の7、8、9月に亘る100日間の長期ストはわが国労働運動史上における三大争議の1にも数えられている。翌4年にも半ヶ月ほどのストが行われた。終戦後の昭和22年と24年には各々3日ほどの小ストが行われている。なおここで着目すべきことは鳴門市における塩田争議について、闘争経験の古い高島の労働組合の指導者がいつも中心になってきていることである。昭和28年には採かん労働者12名の解雇をめぐって、煎ごう、採かんの両関係の労働者たちが約10日間のストを決行している。このように高島の労働争議の歴史を回顧してみると、この地区の労働者は近代的な争議意識や政治意識や階級意識が相当成熟しているようにも思われる。しかしそれは極く1部の共産系の指導者や少数幹部についていえることであって、また争議の応援者などが盛んに熱を上げているが、その他の労働者は、採かん部門はもちろん煎ごう部門も含めて、依然としてやはり長い前近代的な眠りの中から目覚め切ってはいないというのが真相である。多くの労働者は貧困と係累と「せっぱづまった気持」から、1部の尖鋭な組合幹部の指導にひきづられているのであって、自主的判断、政治判断力にもとづいての行動が少ないことが実態調査の結果わかったのである。

 このようなストをめぐっての前近代性と交錯矛盾の理由根拠がどこにあるのであろうか。まづ高島では塩業収入が死活の鍵を握っており、田畑や漁獲なく副業や内職も殆ど行われていない。米麦は配給と闇買で、野菜は鳴門近辺の農家から、魚類は瀬戸町堂ノ浦からといった工合である。塩を除いて殆んどが消費経済で、一寸大都会地と似た点がある。従って高島の労働者は塩業収入1本で生活をまかなわねばならぬので、鳴門市の他地区の塩業労働者のように副業や内職を持ち、兼業農家の多いのとは立場が違うのである。従って整理とか退職とか給料とかの自分たちの死活の問題になると熱し易い。一旦ストとなれば一番過激となり、塩業ストの裏には必ず高島の労働者がいるとの風評もうなづかれる。だから都会地などの工場組織労働者の整然たる洗練されたストとは違った、いわば粗野な原始的な、激情的な争議行為が間々あらわれる。鳴門市の専売公舎を包囲したり、石を投げ込んだりするようなことになる。それに1部煽動的な幹部や共産系分子が加わって尚更大げさな争議をかもしだしている。しかし真底を割ってみると案に相違して全く反対な現象が表れてくる。労働者が本音を吐くのをきくと全く反対的なこともきくのである。04shakai_tab10

 350余年来の封建的雇傭関係、親方子方の義理人情の結びつき、伝統的主情性の重味が絶えず彼等を抑えつづけており、「上への依存性」から抜け出すことは容易でない。ストの場合でも塩業家に対する殊更な敵対感情はなく「同じ塩で飯を食っている」というような家族的、一体的感情意識が濃厚だ。このことは例えば昭和28年末の10日間のスト戦術でも如実に示されている。即ち労働組合の交渉相手は塩業家の代表者から成る経営者協議会であるが、当会に要求を承諾させるには各個の塩業家の承諾を得るのが早道だと運動を展開した。ところが労働者は自分と直接雇傭関係にある塩業家に要求の承諾を求めることをせず、高島の労働者は大挙して自分たちと直接関係のない鳴門市の斎田、桑島、黒崎、立岩等の塩業家の自宅に押寄せ、塩業主に要求承諾をせまり、つるし上げたりかんづめにしたり、或はその家の薪炭を何俵も許可なく持出し暖をとったりした。またこれと反対に桑島や斎田の労働者は高島、三ツ石の塩業家の自宅へ押寄せ要求承諾をせまっている。しかしこの場合、高島の労働者ほど過激な言動はとっていない。実はこのようにして、労働者と塩業家との仲間的意識、義理人情の結びつきが、交渉決裂に導くのを防いだのであった。実際、調査の際に直接労働者からきいたことだが、「べつだん目的あってのことではなく、クビをきられるのがいやだから」ビラを貼ったり大会をしたりした。これに共産系や尖鋭分子が協力した。しかし塩田の合理化は1歩前進の近代化のよろこぶべきことであることは彼等も知っている。逆コースは許されない。だから「良い浜を流下式にするな」というスローガンの下に団結したが、彼等の心底にはすでに諦めの気持が強く動いていた。蔭でこっそりと、自分はこんどの運動には協力していないことを浜屋の旦那に信じて貰いたいと努力する者が出てきた。暗夜ひそかに浜屋の旦那の御機嫌をとり、クビをやっとのことでつないで貰ったという話もある。このような裏切りは「はいこみ」と呼ばれていて、案外少くないとのことである。「高島の争議では八百長式なものが少くなく、年中行事のようなものにさえなっている」ということは、現地でたしかにきいたのである。04shakai_tab11

 なおここで1年雇傭性が長らくつゞき、永年雇傭制がなかなか確立しなかったいきさつにふれておきたい。最近しかれることになった退職金問題に関してであるが、もともと塩業が前近代的採かん方法による原始産業であることに関聯している。労働者の年齢を見ても分るように高年齢者が相当多い。従来1人前の仕事をしていたが、年をとって1人前の仕事ができなくなると、塩田では補助的な技術仕事ができる。いよいよ年をとって退職する場合退職金であるが、その基準を何処に求めるかが問題になる。1人前に働いていた時の賃金を基準とするか、それとも補助的な仕事を始めてからの賃金を基準にするかによって、大きな相違が生じてくる。また彼等の賃金が日給制であったことも原因しているが、ともかく永年雇傭制への踏切りがなかなか行えなかった。日給制を廃して月給制に改める問題についても、塩業が1に天候に大きく左右される原始産業であるため、天候による収益の差が大きく、月給制にすれば天候不順の年は塩業家は多大の損害を蒙ることになる。塩業家が永年雇傭制や月給制に腰が重い理由もこの辺にあった。

 なおまた労働者の立場からみた場合でも1年雇傭制に未練がましいものがないではなかった。例えば前借りができるということで、こんな話がある。その労働者の名前をAとしておこう。Aは親方に2万円前借し3ヶ月ただ働きをすることに一応なっていた。ところが年末には結局踏み倒しにしてしまった。また前借の方法にしても、金を貸さなかったら働かないぞといった半ば強制めいた者もあるらしい。まことに不合理な前近代的なやり方であるが、労働者自身逆に大いにこれを利用する者がある。がその点がまた塩業家の「つけ目」ともなって弱点を利用する。こうして因果応報はめぐりめぐり悪循環をするのである。

 最後に労働組合内部の前近代性について、学歴もあり闘争経験を積んだ某有力幹部の1人が語ってくれたことはこうである。高島の組合活動は低調で、その運営もうまくやっていない。組合で何かを決議する場合、活溌な意見の応酬といったことは珍しい。意見や批判も出ず、組合長や幹部の意見をそのまま鵜呑みする。だから組合員がどう思っているか腹の底を察しかねる。それというのも学歴が低く教養もなく、生活も無計画でその日その日を「食ってゆけたらよい」という者が多い。労働者としての政治意識に缺けている者が多い。組合員が組合長や幹部を全く信頼しているとも一応考えられるが、「ストの時あれほど活溌な組合の内部に、執行部と労働者との間に何かもやもやした意志疎通を欠く空気がよどんでいる」とのことである。「またその点が経営者側の有利な点でもありましょう」と語ってくれた言葉はなかなか意味深長である。

 塩業封建制と近代化への歩み……以上主として争議スト、退職、永年雇傭制をめぐる前近代性と近代化について実態資料にもとづいて追求してみた。幾分重複の感じもするが、塩田、工場を中心として諸々の問題についてさらに追究をしておきたい。平釜煎ごうの時代には塩業労働者は「上への奉仕」に明け暮れる農奴的存在であった。あだ名の「かに」「もぐら」「おごろ」「がんが」「がんちょ」から察せられるように鳥獣に比すべき存在でもあった。浜元と浜子との主従的な結びつき、前近代的な浜部屋生活、また夜這いがはやり、風紀もルーズに乱れていたとのこと、住み込みと徒弟制度にもしばられていた。今日では前の時代のそのような封建的しきたりは次第にすたれてきたが、全くなくなってもいない。塩田ではつい最近まで労働基準法の埒外に置かれていた。封建的身分意識が強く、「旦那」「頭梁」「番頭」「二番さん」「はまひよ」「がんが」「がんちょ」「もぐら」「日役」「浜持」「八分役」「七分役」「六分役」のような前近代的呼称法にもそれがまつわっている。技術の世襲制、徒弟制、雇傭関係や労働組織の封建制、過重肉体労働、請負制、38雇傭や1年雇傭等は明かに封建遣制を物語るものである。しかしやがては資本主義、近代化の波がこの島にも押し寄せてきた。塩業の一面たる通商取引の商業的性格はさらに封鎖性から解放性へ少しづつ島の門を開いてきた。流下式へ、製塩工場の設立、月給制へ、永年雇傭へ、組合争議の勃発、合理化と一元化へ、地主小作制の消失、基準賃銀の改訂、労働協約の締結、労働時間、時間外手当、能率給、定年制、退職金制度、失業対策、総じて労働基準法への近接が、徐々たる足どりながら踏み出されてきたのであった。04shakai_tab12

 一方工場についてみると昔は古風な平釜煎ごうの時代があった。家内工業的に採かんと煎ごうとが未分化で行われた。釜屋や木場や浜部屋が立ち並んだ情景がさながらに偲ばれる。夜這いや賭博や女中の仕草とか暴れ食いなど昔なつかしい。高島に製塩工場が設立された当座は半ば前近代的な工場制手工業(マニュファクチュアー)的色彩が強かったが、それが近代科学工業の性格を帯びてくるようになった。採かん業者の集りの鳴門合同塩業組合が結成され、農耕労働的採かん作業と工場労働的煎ごう作業との分立となった。合同塩業組合の性格についてはすでに機能集団の項で説明しておいたが、旧来の協同組合式の人的集合体で、甚だ煮えきらぬところがある。元来が製塩業者の利益を追究するためつくられたもので1軒の塩業家でも塩田を細分割して2人乃至3人を組合員として登録している。従って理事の選挙などをめぐって芳しからぬ同族派閥抗争も見られる。また専売公舎の保護政策も手伝って未だ利潤追求の資本主義的企業化するまでにいたっていない。主従意識と前近代的なヒモツキ人事、縁故たどりや幹部や理事や指導者への労働者の依存心の強さ、屈従性とあきらめと事大主義思想などは、上述した争議ストにおける前近代性の一面と共に、高島製塩工場の封建色を濃厚ならしめているのである。ただここでいえることは、高島工場と本斎田工場とを実態調査した人々は、両工場とも大同小異であるが、本斎田の方では高島ほど封建色が濃くなく、何かしら一条の明るい近代色が射し込んでいるという点では殆んど意見が一致している。それはともあれ、1日1日と工場の設備の近代化は否み得ない事実であり、技術は進歩して真空ガマで煎ごうを行い、水冷壁ボイラー、加圧式電気製塩、オートメーション化等々時代の最新の設備に遅れをとるまいとしている。自動遠心分離機の設置、7億円の巨費を投じての電気製塩大工場の建設完成もいよいよ着々として進んでいるのである。04shakai_tab13

 前近代性と近代化の交錯の基盤……この交錯矛盾の基盤をどの点に求めるかについては議論もあろうが、何故前近代的なものが残存し、近代化を阻み、防ぎ止め、交錯や矛盾を示しているのだろうかについて、ここで(1)基底社会の強さ、(2)土地との結びつき、(3)手工的・農耕的性格、(4)商業・取引的性格、(5)専売保護政策、(6)塩田と工場との二元性、(7)中間階層の稀少といった問題点からこれを追求してみたい。

 まづ基底社会の強さという点であるが、高島では海に向って聳え立つ同族共同墓地が象徴しているように、家族、血縁、同族関係の強いこと、組合でも同族勢力が底力を保っていること、また常会や隣り組のような14区の地区分割があり、祭礼の折など各区より総代を出していること、および相互扶助の隣保結合もまだ残存している。それに反し近代的な機能、派生集団増強の兆も見られず、青年団や公民館の活動も振わない。また家柄とか名門を尚ぶ家格制村落の型を示し、塩田の特殊性より由来する定着・固定性や世襲性が濃厚である。即ち血・縁・地縁共同社会性、ケマインシャフト的な基礎社会性にもとづく前近代性・封建性が、押し寄せてくる近代化の波を受けとめて、そこにおのづから両者の交錯矛盾が表れているのである。

 つぎに土地との結びつきについてであるが、まだ我国では塩業は土地を対象として行われる原始産業で、天候の支配、技術の制約に繋れている。高島では塩業1本に生きる必要上、県外各塩田のような塩田地主、小作関係は目立たなかった。しかし塩田の建設、補修には農地の場合の10数倍もの金と手数を必要とする事情もあって、家族・同族への塩田の分割が細分化され、経営の個別化と雰細化が押し進められ、単位生産量、塩田の等級の点では優秀を示した反面、封建的・血縁的・非合理的つながりの残存を許し、煎ごう関係の近代式製塩工場の設置にも拘わらず、一元合理化をさまたげ、企業の近代化、即ち近代工業化、企業化が表層的にしか、1部分的のみにしか実現されない結果となった。この点も前近代性と近代化の交錯矛盾の地盤を提供するものと考えられる。

 つぎに塩業は土地生産と結びつき、農業、農耕的、家族労働的な面をもち、塩田技術の世襲性や徒弟制のような工業的、手工的性格の一面も帯びてきたものである。また煎ごう関係でも浜元の平釜式時代より製塩工場の設立と発展の経路において、原始手工業的、工場制手工業的、近代機械工業的発展の跡を追うことができるであろう。封建的な地主・小作関係、職場の階層関係、主情的親子関係に似た身分主従関係が塩専売制の実施前はもちろん実施後から今日にいたるまでやはり糸をひいている。高島では家格制が重んぜられるというのも、また技術の世襲性や伝統性が強いというのも、前記の農業的、手工業的性格がその地盤を提供して、近代化、近代資本主義化を防いでいるとも考えられ、このような性格が高島合同塩業組合の矛盾的な性格に反映しているとも考えられる。

 塩業にまつわる特殊な性格として、前述のような農業的、工業的性格の他に、商業的、交易的、取引的性格のあることも見落し得ない。塩の通商や交易は塩問屋の時代から京阪神等と廻送船や塩舟を通じて行われており、それが一方では功利打算の商売人根性や金銭本位の儲け主義や投機や賭博好きを生んだが、しかし一方では島の封鎖性を破って解放性へ、たださえ狭い地域狭小性を拡大性へと拡げ、義理人情の主情性からソロバン弾いた合理性も生んだ基盤である。この解放的、打算的性格は、一部婦人の台所改善や葬式用具の貸出しや新生活運動等にも表れており、またそれと主情性や主従性との奇妙な矛盾がすでに述べたように組合ストの上に鮮明に表れている。

 最後に高島塩田地帯の前近代性と近代化の交錯矛盾を生んでいる最大の理由根拠は、その専売保護政策でなければならない。すでにこの塩田には封建時代から徹底した保護政策がとられ、藩の奨励と疵護を受けたのであった。また塩の専売制の実施と保護、政府からの補助金の交付は安逸保守の気風を助成せしめたことは否定し得ない。だから塩は完全な資本主義的商品の扱いを受けたことなく、よい意味で資本主義的発展から脱落してきたのであり、これがまた一面で悪い結果を生むことともなった。それが資本主義的企業でなく収益が労銀的性質を多分に持った生産形態であるため、資本に対する利潤追求を見込まなくともよい。製塩の利潤算定はいわゆる企業利潤の見方でなく、物価労銀趨勢を見透した標準生活費を適正算定基準とする。塩業組合の性格を見ても分るように、専売制の本質からくるこの不発展性は、必然的に塩業の後進性を導く根拠となっている。多分に他力本願的態度、依存的、依他的心情、事大主義の思想、そして自主的・主体的創意工夫や革新、総じて塩田や工場の近代化を阻んできたものは一に専売保護政策にあったといっても敢て過言でない。同業者と協力協同したり商売相手と特に競争する必要もないので、どうしても進歩や改革におくれる。また調査が示すように労働者の意識低調ということも、昔から藩や政府や浜主や親方に疵護され、監督され、それになれて隷従する気風が植えつけられてきたからであろう。

 これを要するに、地域的封鎖性と解放性との交錯、塩田と工場の二元性、青年の出稼と年寄りの就労の対照、資本主義的企業精神の流入と塩業家の日和見的協同組合主義との抱合い、農業的・手工業的性格と商業的解放的性格、中間層が少くて上層と下層との隔絶と文化の断層、専売制の本質よりきたる矛盾、血縁・地縁的基底社会構造の強固さと資本主義経済と文化の漸次的流入等――これらの諸点に、鳴門塩業地帯における前近代性と近代化の交錯矛盾の中心的基盤を据えたいと思うのである。

 塩業革命のもたらすもの……早いものでわたし達が鳴門塩田の実態調査をはじめてからすでにもう3年も4年もになる。当時すでに塩業の近代化 合理化の線は打ち出されていたが、こうまで近代化の波が急ピッチに押し寄せてこようとは想像されなかった。高島や三ツ石や本斎田塩業地帯をめぐる塩業革命の影響は今日では全く深刻なものとなってきた。高島こそ塩業革命の悲劇の縮図を示すものだ。昭和27年度からはじまった塩田流下式転換工事は殆んど完成した。さらに着工した東洋一を誇る鳴門塩業組合製塩工場もその大部分が完成、今後は採かんと煎ごうとも全く面目を一新し、無人塩田とオートメーション工場の近代化された姿で晴れのスタートをするが、この塩業革命による影響は労使とも非常に深刻なものがあり、政治的な問題として注目を集めるようになった。04shakai_tab14

 最近新聞記事に出たところによると、鳴門市の入浜塩田は昭和27年頃まで本斎田塩業組合関係201町歩、鳴門合同関係125町歩、計326町歩があり、塩業家約200名が1,354名の採かん労働者をやとって採かんしていた。この三百数十年来の伝統をひく塩田にかわって登場したのが流下式塩田で、専売公舎では補助金を出して両組合に対して転換工事を奨励、本格的な工事にかかったのが昭和28年で、1町歩当り300万円から320万円の転換工事費を必要とするが、この切替ができると1町歩当りの塩田労働者は従来の4人に比べ0.8人と5分ノ1に減すことができ、しかも1町歩当りの製塩量は年産塩300トンにはね上る。1躍3倍の製塩力を発揮するので、文字通りの塩業革命である。これに対して塩業労組では長期ストをもって戦ったが、わづか失業者1人当り7万円の退職金と1年雇傭制の撤廃とをかちとっただけで、流下式塩田工事は着々と進められ、5年後の現在では入浜式で操業しているのは黒崎地区12町歩を残すだけで、これも来年6月までに切替えられる。かくして過去5ヶ年間に塩田労働者はなしくずしに整理されてきている。県塩業労連の組合員は昭和14年1,645名だったのが、昭和30年末には1,266名に減り、本年10月末の調査では713名とガタ減りになったその内訳は塩田労働者373名、工場労働者267名、事務員73名で、ここ5ヶ年の間に半数近い労働者が整理され、やがて流下式工事が完成するとまだ相当な犠牲者が出る筈である。04tshakai_tab15

 鳴門市でも塩業失業者の困窮を見かねて、昨年10月職安、専売公社、塩業労資の代表で「塩業離職者対策協議会」をつくり、再就職などの世話をしているが、失業対策に少数を吸収するのみで、失業保険受給の期間後は生活扶助者に転落する者が殆どだというあわれさである。それというのも子供のときから浜をひく原始労働に従ってきた中年以上の人々は、職場転換も不可能である。とくに困窮しているのが高島・三ッ石の失業者で、地理的に再就職のチャンスに恵まれず、青年たちは阪神へ出稼に行き、そのため同地区はさびれるばかりで、「ここ数年もすれば高島はタヌキの巣になるでしょう」という人があるほどである。一方、両工場の労働者も新工場が完成して操業開始となると相当数は整理される運命にある。現在両工場を合せて工員は三百余名だが、工場が一本化しオートメーション化すれば百名以下で事が足りよう。余剩工員の救済がいろいろ考えられているが、まだ具体的な話は出ていない。ところで経営者の側であるが、これも楽とはいえない。一町歩当り七百万円もの借金を背負っている実状で、これでは少し位の増産では追いつけない。昭和28年、36,033トンの製塩量は30年では46,724トン、本年度は51,420トンの生産目標が達成せられている。しかし借入金の金利がとてつもなく大きく、人件費節減の有難味も、高い電力料金に相殺され、経営は昔より却って苦しいというのが偽らざる現状となってきたのである。04shakai_tab16,04shakai_tab17

 

【附録】

高島製塩工場実態調査

 この工場は従業員178名、組合員80名で設立されており、前述のように協同組合主義の色彩が強く、一般の企業利潤の工場における資本家と労働者の関係とは違うものがある。工場の設備や監督には専売公社の手が届き、生産物に対しては専売公社が売償金を支払う。黒字になれば売償金が貰えないから黒字にならないようにする矛盾がある。またここでは塩業組合員がそのまま塩田業者なので、工場が塩田業者から塩水を買いとるといっても金を支払う者と受けとる者が同一であるから、損のないように売買されるわけである。このように工場内では封建制があちゆる面で残っており、雇用入社にヒモツキ人事が多く、給料の前貸しや贈答が少くなく、停年が55才となっていても厳守されていない。04shakai_tre03

 

 工場作業員は男子152名に対し女子26名であり、平均年齢は男子36.5才、女子29.5才、平均34.6才で高年齢である。殆どが島内に住んでおり、極く少数が近くの村から通っている。共稼ぎ12名、長男12名、2男2名、3男2名、主婦7名、娘7名、塩業者の子弟3名となっている。人事組職は別表の通りで、理事・専務理事・生産部長・技術主任等々と組織化されている。学歴別では小学卒45名、高小卒101名とこの2つが全く圧倒的で、旧中14名、新中3名、新制高校8名、旧専門学校卒5名となっている。労働時間は1日24時間を3交代で行い、中間で一時間休憩がある。朝出が午前1時から8時、昼出が9時から4時まで、晩出が5時から12時までとなっている。労働者の賃金は最高2万円、最低3千5百円、平均1万1千5百円である。6月と12月にはボーナス、また諸手当もある。工場内施設としては組合健康保険・厚生年金・失業保険・労災保険がある。工場内娯楽・慰安設備は殆どなくわれわれ調査員はうどん一つとるのにも、氷一杯とるのにも途方に暮れたのであった。娯楽としては競艇・トバク・囲碁・将棋・パチンコなどが多い。それにしても年に一度の秋祭りなどでは工場はその間全休にするし、運動会にも工場が全休となり従業員全部が参加するようになっている。

 なお高島製塩工場の実態調査は篠原理事長・加川専務理事の御協力を得て学生数十名をつれて夏休み2回に互って行ったのであったが、ここでは枚数の制限もあり、労働意識に関する部分のみを摘出することとした。面接調査対象者70名を選んだが、回答を得たもの55名であった。

 まづ調査対象従業員の「年齢構成」は別表(1)04shakai_tab18の通りで20代と30代が多いことは当然としても40代、50代も全体のパーセントからみると相当多い。このことは世帯主や長男の従業員が多いこと、2男3男には出稼に出る者が多いこととも一致する。

 男女別の「性別構成」では別表(2)04shakai_tab19の如く女子は少く、男子の5分ノ1以下である。しかしこの中には女子事務員も含まれており、もともと製塩工場は特殊な男性向きの技術も要するからであろう。

 工場従業員の「実家の所在」は別表(3)04shakai_tab20の通り高島が全体の5分ノ4を占め、他の者にしても附近の町や村から通勤しているが、これは縁故情実で工場に雇われた者が多いこと、また労働時間が3交替制のためからでもある。

 調査対象人員の「役職構成」は別表(4)04shakai_tab21の如く、労働者26名に対し、事務系統19名と比較的多く、技術者10名となっていて、この点純労働者のみでないことを一応知っていたゞきたいのである。

 なおそれを「職種別」で細別すれば、別表(5)04shakai_tab22のように門衛・応接係・事務員・会計・書記・係長・主任・技術主任など事務系統畑の人が多くなっている。

 「俸給賃金」は別表(6)04shakai_tab23で示されているように、10,000円から12,000円級が一番多く、12,000円から15,000円級がそれにつゞき、平均月給11,000円から12,000円となっていて、他の労働者や他地区の塩業従事者と比較してやや高い額である。しかしすでに説明したように高島塩田地区の特殊性よりしてこれでは割安とたるのである。04shakai_tab24

 別表(8)04shakai_tab25による「勤続年数」では他の工場に比較すれば長年勤続者が多く、2年以下の者僅か2名で、新規採用締出しを物語っている。それに反し6年乃至12年に及ぶ者が最も多く、15年、20年以上の者も目立っている。

 「家族員数」では別表(9)04shakai_tab26の通り3人・4人・5人家族が略々同数で他を抜いている。

 別表(10)04shakai_tab27の続柄では壮年者の戸主が圧倒的に多く、長男の年配がそれにつぐが、2男以下の青年層が少いのが特色的である。

 別表(11)04shakai_tab28は調査対象者に、「階層6分類」についてざっくばらんに自己評価してもらったもので、幾分控え目にいう者が多いが、中層の下が圧倒的でそれに下層の上がつづいている。

 別表(12)04shakai_tab29は「毎月消費額の事項別分類」であるが、食糧においては5,000円乃至8,000円が最も多い。住居費では自家通勤が多い関係もあり、ここで示された数字は貸家・貸間賃と共に家屋税等を含ませたものと思われる。家具では200円乃至1,000円が最も多く、衣料では200円乃至1,500円が多く、修理も大体1,000円止りで、光熱も1,000円までが多い。医療もやはり1,000円まで、教育は1,500円まで拡がる傾向を示し、娯楽費は1,500円までが多いが、3,000円・5,000円・8,000円という者も出ていて「宵越しの金は持たぬ」という生活の一面が出ているようにも思われる。04shakai_tab30

 「読書と娯楽調べ」では別表(14)04shakai_tab31の通り、書籍・雑誌も相当読んでおり、新聞やラジオの購読・聴取率も低くはない。映画も年寄りを除き殆どが関心の強さを示している。しかし対象者が事務系統・技術系統の多いことを考慮に入れておくことが必要である。

 「団体加入」は別表(15)04shakai_tab32(16)04shakai_tab33の通り47名の多数であるが、その多くは労働組合であり、青年団2名・婦人会1名というのはさびしい。

 「年間家族罹病者数」は別表(17)04shakai_tab34の如く示されており、胃病が26名で最も多く、それに次いで気管支炎の24名である。塩田関係ではさらに胃病が多い。この地区は公衆衛生思想も低く、また医療施設にも恵まれていない。

 「現職を選んだ理由」について面接質問した結果では、表(18)04shakai_tab35の集計が示しているように、自分が主体的に判断して選んだというのが僅か9名に対し、父母や知人にすすめられたという依他的、主情的動機によるものが圧倒的で、しかも「不明」というのもこの部類に属するものが多いことが分る。

 「この会社を選んだ理由」については別表(19)04shakai_tab36の通りである。即ち縁故や情実でこの会社に入ったというのが20名で一番多く、父母や知人にすすめられたというのが15名ある。それに反し自分の判断で選んだというのは僅か七名にすぎない。「その他」も大同小異の者が多いようで、ここでも因縁情実の絆が強く結ばれている。

 別表(20)04shakai_tab37で示されているように、「現職に対する態度」でも、画白くないというのが多く、待遇の悪いという不平が多くきかれ、何も役立たぬという消極的半ば諦めたような答が多い。やり甲斐がないとの将来への希望が暗く、この仕事を当分つづける他に仕方がなく、この仕事は自分の子供につがせたくないというのが殆ど圧倒的な答を示しているのである。04shakai_tab38

 

 「労働組合に対する態度」では別表(22)04shakai_tab39で示されているように、労働組合はある方がよいとの消極的肯定が多く、組合運動も、政治的要求・経済的要求というよりは、自分なり自分の家族の生活の安定のため必要だとの見解が多く示され、またストを当然の権利とか正当な手段と見るよりは、できるならせぬ方がよいとの日和見的・協調主義的見解が明かに示されている。このことはすでに説明したように高島の争議そのものの中に矛盾を含んであらわれているのである。04shakai_tab40,04shakai_tab41

 「日本再建の見通し」については、確たる見通しがつかず、努力してみたいとの消極的決意が多く出ているが、むづかしいとか、分らぬという否定的な暗い答を合算したら、その方が多い。04shakai_tab42

 最後に「現在とくに必要とするもの」表(26)04shakai_tab43については、塩業一本の地区とて内職を希望すをものが一番多く、次いで扶助金、食糧の順になっている。純消費地で、米・麦・魚・肉・野菜不足がつげられ、物価が他地区より約一割高で、しかも副業や内職のない関係からか、扶助金支給を望む者が多く、被保護世帯数の率も県下の平均を相当上廻っているのである。

 

 本斎田製塩工場の実態調査

 ここにとりあげた本斉田塩業共同組合(製塩工場)は、高島・黒崎・立岩と並んで、鳴門市に於ける製塩業の中心地である市の中北部桑島に位している。本工場は高島の合同製塩工場と合わせて全国総製塩量の一割強を占める製塩のメッカである。最近では採かん方法が従来の入浜式より流下式に着々切り換えられ、その生産量は更に飛躍的に増大しつつある。もっとも流下式への切り換えと共に採かん作業がすこぶる合理的となり、いわゆる無人塩田が出現し、失業問題などの社会問題も大きくなっているが、一方、この本斉田製塩工場そのものも最近の生産量の飛躍的増大により、現在の設備ではとても採かん量に追いつけず、既に合同製塩工場と合併して新しい工場の設立が認可決定され、現在の敷地の隣接地に新工場が完成されんとする状態にいたっている。この真空蒸発式による新工場が操業を進行すれば、生産量は現在の約2倍に急増することが決定ずみであるなど、とにかく本工場は鳴門市における製塩業と運命を共にし、飛躍的転換期に直面している現状である。

 本工場はその伝統的、社会的性格から、経営が理事会組織によって行なわれ、その下に一般会社の如き会社構成が成されているのである。その概略を一般の会社と比較すれば、一般会社の株式総会に当るものは、形式は変らぬが、その構成員が同業者(その殆んどがいわゆる以前の浜方、親方といわれる人々)のみである。また重役会に当たるものとして、理事会が構成され、理事は同業者間より選出され、更に理事は理事長一名を互選して理事会を構成、運営する。即ち表に示せば次の如くである。

 従業員は理事会とは明確に区別され、理事への進級即ち一般会社における重役になる機会が全然ない。その他、本工場の最も著るしい特色として、先にも少しふれたように、法規(専売法、塩業組合法等)に基づいて工場経営のすべてが専売公社の保護指導、監督下におかれ、利潤追求を会社経営の第一目的としていないことである。ともかく本工場は歴史的にも、社会的にも、また専売制度によって育成されてきたという特殊な性格を有していることについて、まづ初めに当って留意しておかねばならない。

 以下調査の結果による資料を以て、この工場に働く人々の生活状況、文化意識を考察してゆくことにする。調査に当ってとった処置を列挙すれば次の如くなる。04shakai_tre04

1、質問項目は30項目あり、職業生活、家庭生活、社会生活、労働意識、教養と趣味などについて配分した。

2、各項目においては、できるだけ三件方法をとった。

3、質問紙配布数50枚、回収数36枚、回収率72%。

〔設問1〕姓名、満年令、性別をお書き下さい。04shakai_tab44

 平均年令35.5才とかなり高令を示しているのは、本工場の人事方針としてここ数年間、人員整理は極力避ける代りに新採用は最小必要限に止めていると人事課長が語っていたが、そのことの実証例として表われていると推定される。女子従業員が少数なのは、苦汁工場の一部と事務関係の一部を除いては女性が不適応とのことであった。

〔設問2〕学歴を御記入下さい。04shakai_tab45

 大学卒はなく、わずかに試験室や機械係に旧制専門学校卒が4名いるのみ。他は作業の性格上主として肉体的労働であり、学歴は殆んど問題とならないことがわかる。

 

〔設問3〕家族員数をお書き下さい。04shakai_tab46

従業員の生活する地域性から5.8人という高い平均家族数を示し、夫婦のみの二人家族がこの調査範囲では1件もないことは興味深い。

〔設問4〕現在の職業に満足していますか。04shakai_tab47

((イ)満足している(ロ)かなり満足(ハ)普通(ニ)やや不満(ホ)不満)の五件法をとった。

かなり、普通程度に満足しているというのが21名に達していることは、高島の場合と大分相違している。

〔設問5〕現在あなたの職場での地位をお書き下さい。04shakai=tab48

 本工場においては工員(製造課に属す)が圧倒的に多いにもかかわらず、回収数は半数に満たぬ36枚ということは、諸々の事情があったにせよ、このような社会調査等に対する関心が薄いことが如実に示されている。

〔設問6〕出身地は次のどれに当りますか。04shakai_tab49

 工場の所在地にもよるのであろうが、田舎町や市街地出身24名に対し、郡部の農山漁村出身は13名にすぎない。

〔設問7〕通勤には何を利用していますか。04shakai_tab50

自転車と徒歩の約30名に対し、バスその他は6、7名にすぎない。

〔設問8〕通勤所要時問はどのくらいかかりますか。04shakai_tab51

 40分、50分以内が圧倒的で1時間以上は2、3名にすぎない。

〔設問9〕あなたは勤労を尊いとお思いですか。04shakai_tab52,04shakai_fig03

 「なんとも思わぬ」と答えたのが13名でやや注意をひき、「いいえ」を加えると尊くないという方が多い。これはほとんど学歴の少い人で、「はい」と答えたのが17名あるところを見ると、正常な職業観を持つ人も少くはない。

〔設問10〕あなたの職場における福祉、娯楽、衛生設備等は現在のままでよいと思いますか。04shakai_tab53

 悪いと答えたのが17あるが、質問用紙配布の合間に見学したところでは、この方面の施設はあまりよい設備があるとは思えなかったが、概して順当な結果だと思う。

〔設問11〕同僚との関係は、うまく行っていますか。04shakai_tab54

〔設問13〕労働、生産への喜こびは大きいですか。04shakai_tab55

〔設問12〕上役との関係はうまく行っていますか。04shakai_tab56

〔設問14〕工場内での雰囲気は明るいですか。04shakai_tab57

〔設問15〕人情関係の程度はどうですか。04shakai_tab58

〔設問16〕自分の職業を子供に継がせたいと思いますか。04shakai_tab59

 このような前近代的な義理人情の関係が濃いと認むる方が多くなっているが、高島ほどではないのがうかがわれる。〔設問11〕から〔設問14〕までを要約すると同僚や上役との関係はまづまづ普通である。工場内での雰囲気も暗くもないが明るくもない程度である。労働や生産上のよろこびはまあ普通程度。〔設問16〕においては「はい」と答えたのは職場の安定度が高い故であり、「どうでも」(14件)と答えたのは消極否定的だが、この工場における労働が一応誰でもこなせるものであるから無理に子供に後継させる必要性を感じていないのではないか。高島ほどではないが継がせたくないというのがやはり多い。

〔設問17〕労働組合運動には参加されますか。04shakai_tab60

 この工場は一般の工場や会社に見られるようなものとは幾分性格が違い、メーデーとか塩田労務者のおこなう運動ぐらいに合流して参加するのみで、それも専ら経済生活のみを問題とし、政治運動の要素はあまり見られない。

〔設問18〕貴方の支持政党はどれですか。04shakai_tab61

 高島の場合もそうであったが、ここでは保守系支持がさらに多い。もちろん調査対象者に工員は少いのであるが。

〔設問19〕新しい町づくり、村づくりに賛成されますか。04shakai_tab62

 町や村のことなどより身近かな自分や家のことが大切だとの考えが強い。

〔設問20〕市町村議会を傍聴したことがありますか。04shakai_tab63

 地方政治に対する関心が、選挙時の馬鹿騒ぎに比して案外低いことを示している。

〔設問21〕新生活運動をどう思いますか。04shakai_tab64

 まだ旧生活になじんでいるのか、新生活運動に対する消極的態度を示す者の方が多い。

〔設問22〕憲法改正をよいと思いますか。04shakai_tab65

 工員労働者には改正反対がやはり多いが、理事や課長係長は殆ど改正賛成である。

〔設問23〕あなたの家庭の宗教は何ですか。04shakai_tab66

 真言、浄土を中心にして仏教が圧倒的だが、キリスト教信者も2名はいる。

〔設問24〕神仏をどう思いますか。04shakai_tab67

 信仰しないというのは極く少数だが、純粋な信仰8名に対し、消極的信仰が3倍もあることが注目される。

〔設問25〕毎月(週)雑誌はお読みですか。04shakai_tab68

 定期的に雑誌を講読しないと答えたものは倍以上19名にのぼり、定期講読者も週刊誌とか、芸能などの手軽なものが歓迎されている。

〔設問26〕新聞はどんなものをお読みですか。04shakai_tab69

 徳島新聞が多いのはやはり郷土紙の関係からであろう。。他の諸紙も、相当ここでは勢力を伸ばしている。なお回答件数が回答者数(36)より多いのは、1戸に2紙以上を講読しているためと思われる。

〔設問27〕新聞の記事のうちで関心度の強いものから順に番号つけて下さい。04shakai_tab70

 第(1)番と記入されたもの、及び各記事欄のチェックされた回数を取り上げて第2図04shakai_fig04第3図04shakai_fig05に書改めた。このことからいえることは社会面、スポーツ面が圧倒的に多く読まれているということであり、続いて政治面、芸能欄、其他などが続いている。やはり手っ取り早く興味をひくもの(記事)が多く読まれていることがわかる。

〔設問28〕ラジオはどんなものをよく聞きますか。04shakai_fig06,04shakai\fig07

 新聞記事の要領でそのチェックの回数は全体を総計すれば、各々そのパーセンテージが均一化して意義がないので、第(1)番、第(2)番と書かれた項目を挙げる。

 

 上の二図から云えることは、手っ取り早く興味本位の芸能関係の番組が文字通り圧倒的に多く聞かれていること、スポーツ放送が芸能関係に次いで大きな割合をしめていること、音楽番組が意外に多く聞かれていることである。ニュース放送も年令を問わず相当程度聴かれている。

〔設問29〕映画に対する興味はどの程度ですか。04shakai_tab71,04shakai_fig08

 1ケ月に2回又は3回というのが一番多い。4回というのは20代の未婚者である。

〔設問30〕家庭外の娯楽、趣味についてその深い順に番号をつけて下さい。(新聞、ラジオの項と同じ要領で記す)04shakai_tab72,04shakai_fig09,04shakai_fig10

 

 

 

 映画、パチンコ、スポーツをはじめ他の数字は順当であろうが、「競艇」が最多数を占めていることは、この工場の東隣接地にボートレース場をひかえており、環境的要因からくるものであろうと思う。仕事がひけると大急ぎで飛んで行く人もあるとかである。家庭争議も耳にすることがある。

 

 以上の諸事項を概観し終えてとくに感ずる点を簡単に列挙してみると、

1、職場が比較的安定していること。これは専売制度によって強く保護、監督され、高島や三ッ石よりも生活が楽で副業や内職をもっていることが大きな要因であろう。

2、半農・半塩で半ば農民的な労働者も少くはないこと。他に副業をもつ者の少くはないこと。

3、右の二要素の他に地域性、環境性からくる影響も加わって、この工場に働く人々の生活状態としては、日寄り見主義・保守色が強く、近代性というよりはやはり前近代的性格の方が強いことが推定しうるのである。高島よりは幾らか近代色が明るい。だがこのことをより確実に立証するには、改めて各角度より鋭い実態分析をさらに必要とするであろう。

三ツ石における通婚圏の実態調査

 これまで多く行われてきた通婚圏の調査においては、主として行政地区をもって広狭の区分単位として、部落内、村内他部落、同郡内他村、県内他郡、他府県等の如き区分の仕方が大多数であった。しかしこのような単位区分とは別に、社会的距離或は実際的距離にもとづく通婚地域の区分方法もあるわけである。ところで通婚の地域的区分を如何なる程度に、幾段階に分けるかという問題であるが、通婚地域の細分が多ければ多いほど、第一次的通婚圏と第二次的通婚圏との、更には第三次的通婚圏との地域的限界がますます明確になり得ると思われる。比較考察する場合便利である。右のように通婚圏に関する一般的な概括をしてきたが、さて今より三ッ石部落の通婚の実態について、具体的に究明に当ってみることにしよう。

 昭和29年7月に鳴門市役所鳴門支所の戸籍簿にもとづいて三ッ石部落の通婚を、明治、大正、昭和前期(終戦前)昭和後期(終戦後)に時間的変遷を区分して調査した結果が第一表及び第二表である。昭和を前期と後期に二分したのは、終戦によるわが国の憲法、民法の改正、更に男女の本質的平等思想、婚姻の当事者本位等への転換、戦前とは180度の急転換をなし、それが通婚現象の上にも多大の影響を与えたものと予想したからに外ならない。04shakai_tab73,04shakai_tab74,04shakai_tab75,04shakai_egu01,04shakai_tab76

 まづ内婚から見ていくと、明治時代から昭和後期までに115を数え、同期間の全婚姻数486の23.7%に当る。更に各時代の内婚と婚姻数との割合は34.3%、18.7%、15.4%と漸減する傾向をたどっている。即ち内婚の減少は外婚の増大を示している。明治以前のそれについては資料がないので知るよしもないが、一般的に考えて交通の未発達、人口移動に対する政治的制限、生業に融通性がないこと、因襲的慣習、夜這いが盛んであったことなどによって、他村、他国、他地域との通婚は相当程度の制約を受けたものと考えられ、かかる事情より推察して過去の三ツ石は部落内婚があまねく一般的に行われていたと考えられないこともない。しかし三ツ石は昔から海運、(塩や砂の運送)が盛んであり、また塩業日稼の移動も激しかったことなどにより、他地域との交流も或る程度盛んであったと考えられ、内婚率も極度に高かったとは考えられない。近辺の地域についてあまり資料がないので比較検討できないが、隣りの高島とはそう変らなかったと思われる。また地域の広狭、生活資料の自足性の問題も内婚に大いに関係があると考えられるが、三ツ石は隣接している土佐泊、高島のなかで最狭小地域を占め、高島と同様に塩業が主産業であり、とるに足らない畑が多少あるだけで、自給自足(村落内の自給自足性が高いほど、或は村落の地域が広大であるほど、内婚率は高いと考えられている)の面からしても内婚がそう多いというほどのものではなかったと考えられる。内婚が封鎖的、定着的な江戸時代にはどの自然村でも高かったのは事実であるが、三ツ石でも高かったであろうことが予想される。しかし、これも比較上の問題で極度に高いものではなかったと思う。ただ三ツ石の地勢や交通事情、生業等の面から推察したに止まり、何等の科学的な根拠があるわけではない。

 次ぎにここで地域的通婚圏の広狭(第1次的通婚圏から第2次的通婚圏)と「外婚」の問題がおきてくる。まづ第1次通婚圏の問題であるが、地域的にみて高島、土佐泊、旧瀬養町、旧里浦村(現鳴門市里浦町)、旧瀬戸町(現鳴門市瀬戸町)及び板野郡をこの範囲に入るものとする。社会的、経済的、或は実際的距離からいっても、実際、これらの地域は密接な相互関係がある。消費生活面からいうと旧撫養町、里浦、瀬戸、板野郡の鳴門市近辺が最も深く、三ツ石の生業である塩業面からみると高島、旧撫養町が関係深く、同質性が強く、とくに高島とは最も密接な関係をもっている。三ツ石のもう1つの生業である海運の面からみると、板野郡の河川を通じての砂利や砂の運搬から、川内、松茂、大津、堀江、北島と関係がある。現に三ツ石に流入してきた人の本籍の多くは以上の諸地域からの出身者が多いのである。婚姻数は第3表にある如く237を数え、全婚姻数(明治から昭和後期までの合計)486の48.7%に当る。内婚の23.7%、後述する第3次通婚圏の22.2%よりいづれも多いのである。

 次ぎに第2次通婚圏は、地域的には前述の鳴門市と板野郡を除く徳島県の他の郡部全体であり、凡ゆる面において三ツ石と関係がうすい。つぎの第3次的通婚圏と比較してもこれがいえる。三ツ石居住者で本籍がこの圏内にあるものはわずかに2/30で、出稼も7/99となっている。このことからしても前述のことがいえるわけである。ただ海運業関係では那賀川の砂利採取が盛んであることも考えられるが、これが通婚現象に及ぼす影響はまずはないといっても差支えないであろう。婚姻数は第3表にある如く26を数え、婚姻数のわずかに5.4%の低率を示している。以上の理由からして、次に述べる第3次的通婚圏よりは、社会的距離の点からも三ツ石とは遠いのであって、ただ実際的距離が第3次のそれと比較して近いことと、地域的に同県であるとの二つの事実を以てこれを第2次通婚圏としたにすぎない。

 第3次的通婚圏は、徳島県を除いて北は北海道から南は鹿児島までを含む広大な地域であって通婚も全国に分散している。この圏の考察には主として「海運関係」と「出稼」の2点より堀り下げてゆかねばならない。海運関係の大きな船を持っている人は全国各地の港に入港して通商しているが、やはりなんといっても大阪と神戸が最も関係が深い。その方面への砂や砂利の運搬、大阪から他の地区への雑貨運送、さらに大阪への石炭輸送等挙げていけばかぎりがないほど関係が深く、また船で大阪へ出稼に出ている家が多いのも以上の理由によるのであろう。そしてこの場合妻子を三ツ石に残しておくのが普通である。事実、出稼は大阪、神戸に集中していて76/99、中学卒業生が他郷に出ていくといえば必ず阪神方面であり、過去に於いても塩業が不振の時、塩業日稼の多くの人たちが大阪や神戸の近辺に出稼に出ていった事実がある。このことから、同方面とは密接な関係を持っていると断言しても差支えない。通婚現象も地域的には全国に拡がっているが、阪神がその約半数56/108を占めていることがすでに立証されている。この第3次通婚圏内の通婚は108の多きを数え、全婚姻数の22.2%を占め、第2次通婚圏よりも、遥かに多く、三ツ石とは社会的距離において近接しているといえる。

 以上の考察から結論を引き出してみると、三ツ石の主産業たる塩業と海運業から、また出稼の面からいっても三ツ石と凡ゆる面において深い関係をもつ地域ほど、通婚関係も多くなっている。いまかりに重要なそれらの地域に関係の深さに従って序列をつけてみると、その序列に一致した通婚現象の多少が見られる。従って三ツ石では生業と通婚現象とは密接不可分の関係にあると断言できるのである。

 さてここで高島との通婚関係について一応特別に吟味を加えてみたい。高島は地域的にいっても同じ島によって隣接している。同じ島にある土佐泊が農業と漁業を生業としているに反して、高島は三ツ石のそれと等しく塩業が生業である。三ツ石に畑が少しあるが高島には全然ない。高島が都会並みの純消費経済である点が多少違うだけであって、他は殆んどひとしい。普通、高島といえば三ツ石をも包含して使う場合が多いほどで、その同質性が強いことがうかがわれる。また小学校の学区も高島と同一であり、距離的にみても土佐泊とは芙蓉山(大谷山)が両者の交通を幾分阻害されているのに反して、高島とは阻害物がなくて近接している。

 わたしたちが最初調査をした時、三ツ石は高島に含まれている1つの字の名だと思っていたが、実際には文化12年の「阿波志」にはすでに三石村の記述があって、江戸時代から高島とは別箇の独立した村落であったことを知って驚いたことである。もっとも明治時代になると、高島、三ツ石、土佐泊の三村が合併して鳴門村といっていた。

地域的通婚圏の広狭を問題にする場合、内婚はあくまで三ツ石部落内部で行われた婚姻に限るのが理論上正しいのだが、前述した理由を考慮に入れてこの内婚に高島との通婚数を加えてみると実に184を数え、全婚姻数の37.8%を占めていることがわかる。内婚数と高島との通婚数の和が、実は三ツ石の全婚姻数の2/5を占めることになる。生業と地域の近似と近接、社会的・経済的事情の相似等がいかに通婚現象と深い関係をもっているかがこれによって理解される。このことは、上来述べてきた結論に何等の変更をも加えるものでないことを改めて指摘しておきたいのである。

 すでに内婚のところで述べておいたが、内婚の減少は外婚の増大を示すものであることはいうまでもない。これを具体的に考察してみると、第1表で示されている如く、婚入、婚出共に第1次通婚圏では内婚と同様に減少の傾向を見せているのに反し、第2次的、第3次的通婚圏では逆に増大の傾向を取りつつある。しかしながら第1次的通婚圏をみてみると、減少していっているのは表の通り事実には違いないが、依然として高率であり、とくに婚入の方が婚出より高率である。この事は婚入に限って第1次的通婚圏は今迄通り三ツ石とは関係が深いことを如実に示しているといってもよい。即ち第1次的通婚圏は婚入の場合に限って固定的であるといえる。これに反して第2次的、第3次的通婚圏の増大を検討してみると、婚入より婚出の方がその増加の比率が大であり、とくに第3次的通婚圏の場合その傾向が強い。また婚入より婚出の方が第1表で示されているように第2次的、第3次的通婚圏において多いことは、婚出の方が婚入と比較して通婚の地域的範囲が広大であることを意味している。

 ここにおいて婚入と婚出との関係が明らかにされる必要が生じてくる。婚入とは三ツ石の部落内婚を除き、三ッ石外部の出身者が三ツ石の内部へ通婚によって流入してきて現住しているような場合をいい、逆に婚出とは、三ッ石の人たちが三ツ石の外部へ通婚によって流れ出て、現在地が三ツ石以外であるような場合をいうのである。三ツ石からの婚出は、明治、大正と現在とでは通婚地域がしだいに拡大し、遠距離結婚が増大しているが近距離結婚は減少してきている。これに反して婚入の場合、第1次的通婚圏と内婚が依然として多いのである。

 従ってこの傾向から婚入は婚出に比して地域的範囲は狭く封鎖的であるし、時間的変遷においても変動性が少いといえるだろう。それ故に第1次的通婚圏は婚入の場合その比重は高いが、婚出の場合は逆に地域的範囲も時間的変遷も可変性に富むため、第2次的、第3次的通婚圏と密接な関連をもっているといえるだろう。そしてこのような両者の差異は、結局、塩業の特質たる原始産業性とそれに伴う人口飽和状態、海運業による他地域への人口移動がひんぱんに行われ、出稼が多いこと、さらには交通通信の発達、転職や転任に対する政治的制限の排除、教育程度の向上、その他の事情が手伝って三ッ石は急速に開放の一路を辿り人ロ移動も増加するにいたっている。しかも三ッ石に出入する人口は、流入よりも流出する方がはるかに多く、これら流出する人々の多数は主として大阪や神戸等の都会地へ向っている。従ってこのような人口移動の影響によって、明治以前に廻船関係の人々が三ッ石を開放する上に力があった以上に、多数のこれらの流出者が直接乃至間接に三ッ石を開放せしめ、近代的文化の伝播、都市化への傾向を増すものと思われる。とくに若い女性に対してはこのような事情が、第二次的、第三次的通婚圏、とくに第三次的通婚圏を次第に拡大せしめていくものと考えられる。そしてまた婚入よりも婚出した者の方が、将来の三ッ石の実際的開放にとってはより促進的な役割を果すであろうことは今更説明を要しないであろう。そしてこのことは三ッ石だけのことでなく、大体同じ条件を具えている高島にも当てはまることが推察できるのである。

 

 

(別表)新聞についての実態調査票

  整理番号No.  名簿番号No.

明治             調査員        印

大正   年  月  日生  調査員        印 検

昭和             昭和32年  月  日調

 

1 お宅にはラジオがございますか、何台お持ちですか。(ある  台  ない)

2 お宅にはテレビがございますか。(ある  ない)

3 あなたは一日ラジオを聞くのに使う時間はどれくらいありますか。(  時  分)

   一番よく聞く時刻はいつでしょうか(起床後 朝食後 昼食前後 三時どき 夕食前後 夜)

   最もよく興味をもっておききになる番組はどれでしょうか(                )

4 あなたが一日でテレビを見るのに使う時間はどれくらいありますか。(  時  分)

   テレビで一番よくみる時刻はいつでしょうか(起床後 朝食後 昼食前後 三時どき 夕食前後 夜)

   テレビで最もよく興味をもってみる番組はどれでしょうか。(                )

5 あなたはどんな雑誌を買っていらっしゃいますか。

   買っている(雑誌名        )    よそでよむ  (雑誌名        )

   借りてよむ(雑誌名        )    回覧雑誌をみる(雑誌名        )

   よまない

6 あなたのご趣味について深いものから番号をつけて下さい。

   碁    将 棋  マージャン  パチンコ  競 輪  競 艇  釣 り  映 画  スボーツ

   読 書  庭作り  生 花  茶 湯  音 楽  ダンス  旅 行  カメラ  その他  なし

7 お宅では何新聞をおとになっていらっしゃいますか。

   徳島新聞 朝日新聞 毎日新聞 読売新聞 産業経済新聞 スポーツ新聞 その他 とっていない

8 とってはいないが外でよく買っている新聞はありませんか。

   家庭のどなたがお買いになっているのでも結構です。(                   )

9 あなたはよそでおよみになったり、あるいは借りておよみになっている新聞はありませんか。(    )

10 お宅でこれからとりたいと思っておられるか、あるいはやめるつもりの新聞がありますか、それはどうしてですか。

   とりたい新聞(        )        やめたい新聞(        )

   理    由(                                       )

11 (新聞をとっている、およびよんでいる人に)どうしてその新聞をおとりになったり、およみになっておられるのですか。

   理    由(                                       )

12(新聞をとっていない、あるいはよんでいない人に)なぜ新聞をおとりにならないのですか。

 (1)金がないから     (2)新聞の記事が面白くないから (3)必要と思わないから

 (4)新聞は信頼できないから(5)配達時間がおそいから    (6)ラジオの方が早くてこれでいいから

 (7)販売人がきらいだから (8)読めないから        (9)その他

13 お宅では新聞をとる、とらないについてはどなたの意見が一番主になりますか。(           )

14 あなたは新聞のつぎの記事をどの程度およみになりますか。04shakai_tab77

 

15 あなたが新聞をよむのに使う昨間は一日でどれくらいですか。(  時  分)

   もし新聞の広告のみに費された時間のわかる人はその時間をおっしゃって下さい。(  時  分)

   区別してよまない

   一日のうちで新聞をもっともよくよむときはいつでしょうか。(起床後 朝食後 昼食前後 三時どき

   夕食前後 夜)

16 少しお金の余裕ができればさしあたり何を一番にお求めになりますか。

   食料品(          )  化粧品(          )  医薬品(          )

   乗 物(          )  衣料品(          )  家庭機具(         )

   その他の機具(       )  新聞、書籍、雑誌(                      )

   映画その他ごらく(     )  雑 品(          )

   家屋修繕等(        )  貯 金(          )

17 あなたは新聞広告をよまれますか。

   よむ  よまない

   (よむ場合)ばく然とよみますか、それとも商売上または何か買物のために(何らかの目的をもって)また何かさがしてよんでおられますか。(ここ一か月間ぐらいを対象にしてもよい)

   ばく然とよむ  何か目的をもってよむ

18 新聞広告はどの面の広告が一番目につきますか。

   一面  二面  三面  四面  五面  六面  七面  八面

19 あなたは最近新聞の広告を実際に利用されたことがありますか。

   映画の案内  就職のため

   ものを買うため(具体的に三ついって下さい) (     )(     )(     )

20 あなたは最近ラジオの広告を利用して物を買ったことがありますか。ある  ない (それは何でしょうか)

21 あなたは最近テレビの広告を利用して物を買ったことがありますか。ある  ない (それは何でしょうか)

22 あなたは新聞の広告、ラジオの広告、テレビの広告のなかで何が一番印象にのこりますか。

    新聞  ラジオ  テレビ

   また三つの広告のうちで何が一番利用度が高いと思いますか。

    新聞  ラジオ  テレビ

23 あなたはくすり、食品、化粧品などの効き目や使い方を知りために、ラジオやテレビのスイッチを入れることがありますか。(注;番組提供者の広告をきく目的でラジオやテレビをきくかという意味)

    ある・ない

44 広告をご利用になってその商品を買い、使ってみてあなたは満足なさいましたか。

    (            )

25 あなたのお宅では夕刊をとっておられますか。

    とっている  とっていない  とりたいと思う

26 (とっている人に)あなたは夕刊のどこに一番興味をもってみられますか。

    (            )

27 (とらない人に)どうして夕刊をおとりにならないのですか。

   (1)つまらないから(理由       ) (2)面白くないから(理由       )

   (3)配達がない              (4)記事が重複するから

   (5)金額がかさむから           (6)参考にならぬから

   (7)必要と思わないから          (8)その他

28 あなたは朝刊の広告と、夕刊の広告と、どちらの広告がよく目につきますか。

    朝刊  夕刊  両方

29(徳島薪聞をとっている、およびよんでいるという人に)04shakai_fig78

  (1)徳島新聞でもっと欲しい記事はありませんか。

  (2)徳島新聞の記事のわるいと思うところをおっしゃって下さい。

  (3)その他徳島新聞の記事および広告に注意したいことはありませんか

  (4)徳島新聞の記事はむずかしくありませんか。

  また他の新聞はどうでしょう。(            )

  (5)徳島新聞は現在朝刊八ページ、夕刊四ページですが、もっとページ数をふやす必要はありませんか。

 

                                        (        )

30 住居(自宅  借家  借間)    市町村民税      円

31 家  族04shakai_fig79


 


 



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