阿波学会研究紀要

このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

第四回郷土研究発表会  
農村民家の平面の前途 郷土建築研究会 藤目正雄
農村民家の平面の前途

郷土建築研究会 藤目正雄

 農村の民家平面の基本形式は四間(よつま)形式であり、その発展変遷は一間(ひとま)形式から二間(ふたま)形式を経て三間(みつま)形式となる。この三間形をある一部の研究者は「広間(ひろま)形」というが、民家平面形式には広間形という形式はないと否定する人もある。

 原始生活はドマの生活であった。このドマにユカ(床)が設けられて土間に床(ユカ)間の生活が始まった。やがてユカの部は二つに分割せられフタマ平面の生活となって、つゞいていてミツマ形式の平面に成るのである。

 人間が食うことだけで生きていた時代にはドマ生活で良かったであろう。しかしこんな野獣生活は永久に続くものではない。人間達の増加は自然食物(野生的食物)の減少となってくる。こゝから食う物を蓄えるという心が芽生えたことゝ思われる。そうして不自由なことを脱しようとして心を砕いたものと思われる。石で作った斧で木を割るより青銅製の斧で木を割ることが容易である。石製の道具類よりも銅金製の道具類がどれほど不自由なる労作業を自由に敏捷にせしめたか、世は青銅器文化時代となり石器時代は忘れられる。人間共は物を蓄えることを知り、強者は弱者を己が勢力の下に庇いやがて搾取階級が生まれ、支配者と被支配者の別は明確となって住む家は支配者の家(宮殿)と被支配者の家(民家)に別れてくるのである。

 ドマで働き(食うための準備や終始末)ユカで休む(睡眠と食事や休憩)この生活の次が睡眠の場と食事休息の場に二区分せられる時であろう。私の調査体験や研究の結果からそう定めたもので、誤ちがあれば賢明なる研究家諸氏の御教示を賜りたい。

 昭和27年の秋、平野芳男、四宮照義の両君と当時の徳島県立工業高等学校建築課程2年生中山保夫君の案内で古宮村(現穴吹町)一円を歩いて、中山君の宅(古宮大字内田)に到り、イロリを囲んで語り枕を並べて一夜を明かした。その時、中山家の人達(両親と兄)にいろいろ聞いて教えられるところがあった。中山の家屋は100年に余るというカヤ葺で南面して建つ間口(まぐち)5間半に奥行2間半(第1図))(04minka2_fig01.gif)主屋に前方と左側にヒサシ(庇)を出し、その下は半間の廻縁(エン)で後方に当って小便所を設けその脇に湯殿を建添えている。大便所は主屋の前方に独立して建っており、食物の清洗や衣料などの洗濯はニワの出入ロ脇に谷より桶を架け水を引き貯えて用いている。

 ニワと呼んでいるドマは食事の準備場であると同時に食料(米・麦・味噌・醤油・芋・酒・その他野菜類副食物調味料や飲料等)兼雑器具(食器・炊事用器・木炭薪・ウス等)の置き場である。なお前方の右隅には農耕具や芋が置かれムシロを敷いて鋸・鉋・玄能等の大工道具がおかれている。何か手細工でもしたあとと思われる。ドマは働く場であるという印象は深い。

 9畳半のミセといわれる室は炉(イロリ)を設け家族の人達が睦まじそうに話合っている。近所の人も来る。ミセはところによってはナカノマといゝ、チョウバといゝ、地方地方によって呼びは方は違っているがドマ近くにある室で、呼称は異なっても室の在る場所は同一でまた使用方法(室の用途)も同様である。この室は来訪者と面接用談し、家族達が食事し語り合う場である。ザシキはトコを設け前面から左側にエンが廻っている。この室は氏神の祭典・法要・遠来の客に当てる場で明治末頃までは家族は就床することはできず全部ミセで睡眠したが、現在では子供らの寝室としているという。フタマ形平面の使用はここで理解が出来たが次のミツマ形はドマに近いユカの部に先に区切りが出来たか、奥の方の区切りが先であったかの問題がある。ある人達は奥の方を二分割し、来客を招じ家庭行事を行う場と就床し睡眠する場と定めた方が早いという。

 木屋平の川井小学校の裏手(西北に当る)に西野という家がある。間口5間に奥行3間(第2図)(04minka2_fig02.gif)の主屋に左側に1間巾の木納屋と右側に半間巾のワライレを建添え、正面に半間巾のエン側を設け、出入口左脇にムシ釜をすえている。

 1間巾のドマはカマヤといって中山宅と同一な用い方で右の室はオモテといい10畳敷であるが平常は煙草の乾場、物置等に用いている。そのためゴザ(家族はウスベリという)を敷いている。ドマとオモテの中間ある室をナカノマといって炉(イロリ)を作って外来者と面接し応談している。その後方にネマという3畳敷の小さい室があるが「ネマ」とは呼び方で実際は食事をしているという。家族が少いから睡眠はナカノマでし、食事は他人に見られるのがいけないから見えぬ処ですると答える。そして、昔はネマで寝ていたことでしょうという。

 西野宅と似通った家が勝浦川の上流福原の八重地にある(第3図)(04minka2_fig03.gif)。原という家で西野家と違っているところはドマとオモテが左右に入変っていることであるがその用途は同一である。ドマとオモテの中間にある室を西野家ではナカノマといゝ、原家では茶の間というがその用途は同一で呼び方が異っているのみである。茶の間の後方に3畳敷の物置に2畳敷のオクが並んでいて、オクで食事をして茶の間やオモテ(時々に)で睡眠する。私は物置に仏壇を置いてある理由を聞いた。「物置」とは「物を置いてある」からいっているので・簟笥・戸棚・仏壇・古い鏡台等を置いて大正時代(先代)には寝室としていたという。オクも寝室であったものを改めて食事室としていると思われる。

 ミツマ形式はこうして生れたものと考える。家庭行事(氏神の祭典・先祖の法会・地方的集会等)の場と、食室を兼ねて他人と会話し用務者と談合する場と睡眠休養の場との三つに分立したものる思う。このミツマ形式でドマに近い部が比較的に広い場合がある。これを広間形と呼んでいるが、これはミツマ形式に属しヨツマ形式に至る道程にあるものである。

 ヨツマ平面は農村民家として完成された形式だという、人間の住生活に必要である室を持っている。人間が家に住んで必要である条件は生きて行くために食うことで「食うための室」を必要とする。お互経済生活は千態万様で台所にひゞき経済事情は食物に現れる。他人様に見られず贅沢しょうが、粗食しょうが自由な独立した室が望まれる。この室名をかりに食堂(注1)としておこう。

 人間は食うのみで生きて行かれぬ。一日の活動で疲労すれば休養睡眠せねばならぬ。他より害せられずに安眠する場所を欲しがるのは当然であろう。こゝに寝室(注2)の独立がある。

 人は個立して生きられない。知己友人との語らい、いろいろな用件で来訪者もある。こんな場合に面接応談会話する室もあってよいこれを応接室(注3)と名付けておこう。

 人が一家というものを成している以上には家(家庭)の行事を催す室が必要である。結婚・法会とか誕生日や出産祝・または氏神の祭典のいろいろな行事は家というものが成り立っている以上は無用とはいえない。この室を座敷(注4)として結論に入ろう。

 原始時代からあったドマは近代でも有意義に使用している。食事の準備とあと始末・主副両食物や調味料の加工製造と保存・季節物の食物製造(例正月の餅搗等)・農耕具や燃料や野菜類の置場となる。その他、ムシロ・カマス等製造の小手工場ともなる。農村氏家のドマ使用価値こそ実に大である。

 食室(注1)・寝室(注2)・応接室(注3)は古い時代には独立しなかったが、時代の進化とともに独立した。

 現在は寝室にはベットを用い、応接室には螢光灯がともった。食室はドマの一部とともに台所の部類となって、今や台所改善は叫ばれ一歩一歩より良き台所と改善せられて行く。

 子供は学習のために勉強室を強要する。娘は個人尊重の意味から独立室を望む悴は個室の意義を説く、多くの室が入要となる。建築家は採光・通風,・換気等を力説し、道義家は風紀の上からといって親子・姉弟・兄妹の寝室分離制を主張する。6畳敷に大人2名が空気衛生からいってよいと説き出す、和室洋室折衷案が飛び出す、婦人雑誌に住宅設計を取りあげると「住宅設計」と名づく単行本が多く出る。しかし、人間生活の2,000年の歴史を考えてみよう。ドマ□型ヒトマ形式からヨツマ形式(田字型)までの長い間には人間の体験と時運の進化によって築き出された平面形式に新しい形で色ずけるとするなれば、それは1,500年昔に帰る形式となるであろう。生活の複雑化は家庭生活の住平面においても複雑化してくる。複雑の反動は単純である。複雑化して行く平面の反動として単純化せられたる平面が出現しつゝある実状である。終に鷲敷町百合谷の西原家(第4図)(04minka2_fig04.gif)平面と四間(ヨツマ)形平面の4項目図示(第5図)(04minka2_fig05.gif)を掲げて御批判を乞う。


 


 



徳島県立図書館