阿波学会研究紀要

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第四回郷土研究発表会  
高川原風俗問状答の発見 阿波郷土会 飯田義資
高川原風俗問状答の発見
阿波郷土会 飯田義資


1、凡そ文化というものは、人類の進化・人智向上の方向を中軸とし、その周辺に倒立する円錐体の表面を螺旋状に回転しつゝ次第に高く拡がって、止まる所を知らずに発展を続けて行くものと考えられる。歴史は繰り返すというが、それは単なる反復ではなくて、たとえ一見類似しているように見えても詳しく検討を加えると、その位相と次元を異にすることを発見するであろう。これを倒円錐螺旋式文化史観と名付ける。
2、然るに近い過去50年間における阿波国郷土研究の実情を回顧すると、それは単に平面上の円周を辿っているに過ぎないので、少しも上昇していないのを遺憾とする。昭和に入って新発見と号して、新聞紙上に大きい活字で発表せられたものが、明治35年頃の新聞記事よりも粗雑であったりするのは、先人の業績や過去の発表に無関心であったその発表者の独りよがりと無知を表明している以外の何ものでもない。
3、然らば果して郷土研究に新発見というものが有り得るであろうか。オリジナルなもの、フリオリティー(独創性)を持つものが存在する可能性があるであろうか。それには二つの場合が考えられるので、一つは従来未知の新史料の発掘や発見と、独創的の所論であるが、これは極めて稀有の事象に属し、往々偶然の機会に意外の場所から出現するのである。これは独創的発明すなわち専売特許もので、『上月文書』の発見や島田泉山先生の『阿波に隠れたる建武の遺臣岩松経家』・『徳島市郷土史論』、近藤辰郎先生の『郷土雑考』の述作や、本日の発表中では岩村武勇君の『鳴門塩田争議の研究』等がこの類に属するのである。他の一つは在来の史料を用いるが、既有観念に捉われず新しい立場に立ってこれに考察を加え、前人未発の学説を構成するもので、その観点や着想に価値があるので、これは結合的発明すなわち実用新案登録に対比すべく、古くは田所眉東翁の『町村史』・『郡志』や近くは井上良雄君の『阿波国交通史』などがこれに属するであろう。
 


1、屋代弘賢は、通称を太郎といい、名は詮虎、後弘賢と改め、輪池と号した。15俵2人扶持の幕府の御家人忠太夫佳房の子として、宝暦八年(1758)に生れ、7才の時幕府の右筆森尹祥に学び、冷泉為村を和歌の師とし、塙保己一の記室となって、国学を修めた。書道に優れていたので、天明2年(1782)書役に召し出され、寛政2年(1790)柴野栗山の手附となって儒学を修め、栗山に従って京都および奈良の古寺の文書を調査しこれを筆写して大に得るところがあった。寛政五年(1793)松平定信に抜擢せられて御右筆所詰支配勘定格となり、さらに表御右筆勘定格に挙げられて禄百俵を賜い、老中部屋に出入して御目見以上となった。後に神田明神下の住居から上野東照宮裏の下の不忍池畔に移り、天保12年(1841)閏正月18日に84才で病死し、小石川白山の妙清寺に葬られた。能筆と学問によって立身出世した著しい例の一つである。
 はじめ成島司直と親しかったが、南北朝の正閏を論じ意見が対立して疎遠となり、平田篤胤と交って大いにこれを庇護した。性質温健・博覧強記・能筆能文・故実に精通し、自ら奉ずること倹素で、余があれば書物を買うた。不忍池畔に3棟の書物蔵を建て、5万余巻の書籍を収めて不忍文庫と名付け、都下の蔵書家として小山田与清と双壁と称せられた。常に書斎にこもって読書と執筆を続け、夏は扇子や団扇を用いず冬は火鉢を置かず、齢80を過ぎても毎朝冷水浴を欠がさなかった。その門に入って教を受けた者は3千人に及び、著書は37部380余巻に上った。徳島藩主蜂須賀斉昌の知遇を受けて国学の諮問に答え、死後その蔵書は阿波侯に贈られて、栗山の旧蔵漢籍と共に阿波国文庫の主要部分を形成し、その大部分は徳島城に移された。
2、文化の頃、幕府の命によって『古今要覧』一千巻の編集をすることになり、局を開き10数人の学者を集めて作業を始め、文政4年12月から天保13年2月まで22年間に45回にわたって、稿本24部・254巻・560冊を撰進したが弘賢の死去によって中絶した。
 


1、弘賢は『古今要覧』の撰述にあたって、その資料を文書・記録等のみに求める従来の慣行である文献学的方法の他に、現実の生活である風俗習慣等をも採録し、これに拠って新機軸を出し新生面を拓こうと企てた。そこでその第一着手として『諸国風俗問状』というものを編成してこれを木版印刷の小冊子に作り、全国諸藩の儒者や知己である和漢の学者に配付して回答を求めた。その内容は、正月から12月までの年中行事・着帯・袍衣・誕生・結婚・葬儀・老人祝・棟上・疫病除・庚申待その他のいわゆる風俗習慣の各項目について、それぞれ数箇条の質問を列記したもので、今日の民俗学的方法の先駆をなしているのである。
 この問状の写しの実物は、現に旧組頭庄屋であった名東郡国府町字日開742番地の榎本利夫氏方に保存せられていて、それは「御大典記念阿波藩民政資料上巻」(徳島県―大正5年)の832-845頁に収載せられているが、随分誤脱がある。ところが折角の計画も、その結果は案外不良であったらしく、それはいわゆる儒者や国学者は当時一般に行われた文字を取扱う研究には習熟していたが、このような生活事実の採集などは見当違いで不得手であったためと、学者通有のセクショナリズム・進取的態度の欠如・保守性・排他性・体面を重んずる保身術等に基づくものと解すべきであろう。これは現代日本の国立大学にも著しく封建性として濃厚に残存しているといわれている。
2、すなわち『問状に対する答書』の現存しているものは、全国でわずかに15部に過ぎず、かつて存在したが現在は行方不明になっている4部を加えても、ようやく19部を数えるに止まるので、参考のために次にそれらを列記する。順序は地理的分布に従って北から順次南に及び、×印を付したものは現今所在不明のもの、○印を付したものは一村の答書と考えられるものである。
 1、奥州秋田風俗問状答          2、陸奥南部(花巻駅)年中行事記 ◯
 3、陸奥国信夫郡伊達郡風俗記       4、奥州白河風俗問状答
 5、佐土国風俗土産 ×          6、諸国風俗問状越後国長岡領古志三島蒲原三郡答書
 7、若狭小浜風俗問状答          8、諸国風俗問状三河国吉田領答書附遠江国風俗大概
 9、参河吉田領風俗大概 ×        10、松坂風俗 ×
 11、荊萩峯邑風俗 ◯           12、大和高取藩風俗問状答
 13、和歌山風俗記             14、丹後峯山領風俗問状答
 15、淡路国風俗              16、阿波国風俗
 17、備後福山風俗問状答 ×        18、備後国沼隈郡浦崎村風俗問状答 ◯
 19、天草風俗
 これを成立年代から見ると、文化11年2月10日の『信夫郡伊達郡』を最初とし、文政元年6月の『備後浦崎村』が最後になるが、紀年の存するものは僅に7部に過ぎない。以上の叙述は『校註諸国風俗問状答』(中山太郎―昭和7年)から引用した部分が多いのでこゝに記して謹でその学恩を謝するものである。ところが前掲榎本氏所蔵の『問状』の付帯文書には藩から発送した日付が、文化14年9月7日となっているので、弘賢は全国へ一斉に発送したものではなくて、数年間に次々と送って行ったものらしいことが判明するのである。
3、ところが、こゝに一つの疑問がある。阿波国文庫は徳島城内に特に建築せられた阿波国文庫蔵という一つの土蔵の中に保管せられ、この一部は江戸の藩邸内に置かれていたようであるが、維新後旧城の建築が取り毀たれた時でもあろうか、大体これを二分してその一半は西の丸の長久館に置き、他は常三島の旧長江邸に設けられた蜂須賀侯爵家別邸の土蔵に収められた。この蜂須賀別邸の土蔵の中の書物を見た人は極めて少数であるが、その一人である猪ロ繁太郎先生から曽て承ったお話によると、その中に『屋代問答』という写本があったので、これは斉昌と弘賢との間に行われた国学上の質問とそれに対する解答であろうと思って興味と期待を持って開いて見たところ、その内容は全然別箇のもので甚だ失望したということであった。それで敗戦後小出植男先生にこのことをお尋したところ、どうもあれは『諸国風俗問状答』ではなかったらしい、分量もそう大部なものではなかった、しかし内容を充分見た人は誰もないというお話であった。しかしどうもこれは『問状答』の一部らしいと思われ、今も全国中の何処かにかくれているような気がしてならないのである。
 


1、本年4月23日、高川原村史の編集のための史料採訪の目的で村内の旧家を歴訪した時、共に編集委員である徳島大学学芸学部助教授福井好行、阿波板碑研究の篤学者石川重平の両氏と一緒に、名西郡石井町大字高川原字高川原376番地の坂東為七氏のお宅へ参上した。同家は旧与頭庄屋の家柄で、多くの古文書・古記録を所蔵して居られるのであるが、石川氏が予め選び出して置かれた古書類の中から偶然にも『諸国風俗問状、高川原村答書』の草稿を発見した。これは20数年来心に懸って捜索を続けていたものだけに、実に奇遇ともいうべく、本書を手にした瞬間茫然として暫く我を忘れたのであった。あるいは突然雷に打たれた時にはあの様な感じを受けるのではあるまいかと後から回想したことである。実によくもまあこれが今まで保存せられたものであると感激し真に何物にも勝る一大収穫に驚喜したのであった。これは前記の表の中16と17の間に入るべきものであって、この発見によって総計20に達した訳である。
2、本書は第一次の草稿と考えられる極めて粗末なしかも汚損した零本であって、半紙16枚をこよりで上下2か所を仮綴にした袋双子で、縦24.0センチメートル、横17.0センチメートルあり、表紙が失われているので標題も作成年月日もわからなくなり、裏表紙も小口の端が上から下まで切損している。本文は15丁で1丁に6行乃至13行、1行に18字乃至40字詰に記され、字体は行・草の混交した走り書きで、当て字は勿論相当誤脱があり、乱雑なところも見え、抹消や記入は到る所にあり、上欄や下欄へ書き入れた所も多く、甚しいのは横書にした箇所さえあって極めて読み難い。
 内容は、忠実に問状に対応し、正月から12月に至る年中行事を逐条的に記載し、その他の風習をも附載して一応完結しているのは有難い。すなわち定型的な答書の標式の一つである。
 


1、この中に記されている内容によって、140年前にこの村で行われた庶民生活の一面が如実に伝えられているので、これを今日の状況と比較すると民間伝承というものゝ姿がわかって、実に興味津々たるものがある。
2、現存する阿波藩の『風俗問状答』は、市中のものだけであって、これに対する郷分之部はその有無さえ疑問視されていたのであるが、この書の存在によって恐らくそれは作成せられたものと想像せられるのである。すなわち与頭庄屋をして調査を纏めて提出せしめた組織網の一端が明らかになったのである。それでこれと同様の程度の『答書』が各与頭庄屋の手許に保存せられていたことは、想像に難くないのであるが、それが何時かの時代に散佚か亡失あるいは処分せられて仕舞ったものであろう。つまり公文書でもなく、かつ些細なものであり、しかもその内容が村では万人周知の平凡極まる事柄であるから、別に貴重とも重要とも考えられないからである。つまり軽視せられて取扱が疎漏になる要件は充分備えているのである。
3、茲に至って、本書が過去相当の長年月間反故にもせられず、水害にも遭わず、火災にも罹らず、虫にも食われず、鼠にも荒らされることなく、あらゆる禍難から免れ得て、よくも今日に至るまで保存せられたことを感謝せずには居られない。それにつけても旧来の日本の家というものについて一種の感慨を催し、それには色々の面に於て美点や長所の存することを認めずには居られないのである。
4、なお本書の全文は、いずれ近く刊行せられる『高川原村史』の附録に収める筈になって居り、また別に筆者はこれに註釈を加え、かつ関係参考資料の一切を包含する詳細でやゝ専門的な一書を著作公刊しようとする用意と希を持っていることを付加してこの拙い発表を終ることにする。


 



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