阿波学会研究紀要

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第五回郷土研究発表会  
阿波藩における役礼銀と冥加金の二三例 阿波郷土会 飯田義資
阿波藩における役礼銀と冥加金の二三例

阿波郷土会 飯田義資

 

一、冥加金の意義

1、明和6年の役礼銀は、役儀につけて貰った謝礼として納付した銀子という意味であろう。

2、天明2年以後は冥加金という語が用いられている。

3、冥加という語は、仏教用語であって、冥とは「無知」を意味し、自他共に知らざるをいゝ、人の目に見えざる冥々の裡にある神仏をいうので、冥利・冥助などゝ用いられる。加は加護である。従って冥加は(1)神仏の通力によって冥々の裡に人を加護すること、それから転じて(2)人知れず神仏から加護せられる利益、さらに再転して(3)冥加の利益に対して酬いるための奉献となったのである。

4、冥加銀という語は、江戸時代において、全国に通じて一般的に用いられたもので、それは次のような意味であった。(1)冥加の利益を得ようとして、または冥加に対する謝礼の意味において、神仏・寺社に奉り、または施与する金銭を指すのが本来の意義であったが、転じて(2)江戸時代の実業家が、ある業を営むことについての認可を得た時に、その利益を得た冥加として、上に納める金のことに用いられるようになり、さらに(3)臨時軍事費などに充てるために、国恩の冥加として、大実業家などに献金せしめたものを指していう場合にも用いられるようになったのである。すなわち最初は純粋な信仰的の意味に用いられたものであるが、その本源の意義が失われて、宗教的権威が政治的権威と置き換えられ、権力に追随する一つの様式となり、ついに自発的要素が無くなって全く他動的のものに変り、双務的代償交換の条件から片務的命令徴収の姿に移ったのである。

5、また前項の(2)が、さらに一般化して、普通の租税として取り扱われるようになった。すなわち雑税の中の浮役の一つを指した。いわゆる浮役には二種あって、定納の性質を有するものを運上といい、定率がなくて、献金に類する性質のものを冥加と称したのである。

6、冥加金は普通冥加銀ともいわれているのであるが、こゝには前者と区別するために、特に金の字を使うことにした。すなわち、生活の安穏という国の恩恵による冥加・加護を受けた利益に対して感謝報恩の表現方法として献金したので、国恩冥加金と呼ばれた。

 

二、冥加金の性格

1、租税は、歳入のため第一次的・本来的負担であって、一般に定率をもって賦課し、経常的に徴収したもので、その大半は物納によるのを原則とし、ある場合に代納(金納)が認められた。

2、御用金は、歳入の不足を補うため、臨時かつ任意に課する金銭上の第二次的負担であって、本来償還せられるのを原則とした。従って定率はなく、貨幣をもって納入せられ、一種の立替金と解せられる。

3、借入金は、藩外の商人等から借用した場合の称呼と考えられ、これには当然利息を支払うべきものである。

4、献金は、本来自己の意志によって自発的に献上する無償上納金で、償還しないのを原則とする。

5、冥加金は、御用金・献金に類似するもので、国用の不足を補う補充的負担である。何等当然の権限はないにも拘わらず、特定の人を指定して出金を強要し、その代償として名誉的地位を付与したもので、一種の売官である。

 

三、冥加金の発生

1、藩財政の窮乏の原因は、一つは江戸幕府の文治主義にあると考えられる。鎖国によって外敵を忘れ壺中の天地に閉じこもり、泰平の世が永く続いたので、武家政治の特色である勤倹尚武の気風を失うて、次第に文弱に流れ、文化の進展に伴うて奢侈遊惰の風を生ずるのは自然の勢である。すなわち衣食住の生活は年を追うて華美贅沢になって行くので、生産収入はこれを支えるに足らず、その結果として毎年の定額収入はその支出と比較して年毎にその不足額を増大して行く。

2、参勤交代は、江戸幕府が諸大名に対して、物質的にその富強となることを防止する政策であった。勿論一年間生活の場を共にすることによって、幕府の勢威に畏服せしめ、個人的親睦感を持続せしめるという精神的方面よりも、財力消耗をねらったことが主目的であったと解すべきであろう。

3、藩の出費は定期的に行われる参勤交代の外に、臨時に幕府から賦課せられる巨額の出金があった。皇居や江戸城などが火災によって焼失したり災厄を被った時は、その復旧の建築費を諸大名に割り当てた。またある地方すなわち幕府の所領である天領の河川改修や災害復旧工事を諸大名に負担させたので、その経費も莫大であった。

4、藩内に旱害・虫害・出水・風害等が発生すると収入は激減する。伝染病が流行したり、大火事で街が焼失したり、洪水で家が流出したり、津浪で村が壊滅したり、地震で家屋が倒壊したり、飢饉が発生するような、天災地変に処しては、応急の救助を行って人民を賑恤した。この場合には収入が減少するのと反対に支出が増大せざるを得ず、財政は危機に陥ったのである。

5、上述のような歳入の缺陥を補填する方法として、各種の方策が案出せられ、それが実施せられた。まず消極的方面としては、支出額を縮少する倹約令であって、「蜂須賀家記」を見ると、幕末期には「冗費を節せしむ」という語が頻繁に出ているのである。

6、これに対して積極的に収入増加をはかるものとして、貢租の税率の引上・新税の創設・隠田の摘発・新開籔開の督励・新田の開発・新物産の創始の奨励などが挙げられるであろう。そうしてそれらは、ある程度成功したことが伝えられているのである。

7、なお、補填策の一として、藩士の禄の5分の1、4分の1、時にはその3分の1を藩に没収したのである。つまり強制献金を物納の形式によって徴収したのである。

8、さらに、大阪の富豪町人から借金をする方法もあった。これは利息を付して年賦で返済する筈であったが、年々累積して明治維新に至り、支払能力がなくてそのまゝになったものも多いと伝えられている。

9、また、藩内の富裕な町人や大地主に対し、調達金といって必要金額を示し、これを割り付けて出金せしめた。これは組頭庄屋の仕事で、大体予定額が納入せられている。つまり無償の献金である。

10、それから、こゝに述べる冥加金である。すなわち金が出来れば次には地位・名誉を欲する資本家の名誉慾を利用して、献金の額に応じて特権を付与する一種の売官である。そもそもわが国の売官の歴史は、すでに早く奈良時代に現われたといわれ、平安時代の「成功(じょうごう)」などの著名なものもあり、いつの時代にも無いことはなかったらしく、昭和の現代にも売勲事件などが起ったのである。

 

四、農村住民の身居(階層)

1、江戸時代は階級の世である。身分階級がこまかく分れて、これが厳守せられたので、これは江戸幕府が中央集権的封建制度を維持するための根本政策の一つで、諸法度が制定せられ、それが励行せられたのである。大名にも種類階級があって上下の格式は厳格に守られ、藩士にも上下の区別があって厳重に行われた。

2、四民というが、実は支配階級の士と、被支配階級の農工商との二階級であったのである。ところがその農民にも上下の区別があって従属関係が厳守せられていたのである。阿波藩では、農民の家格すなわち身分上の位置づけを身居(みずわり)という。これは、その身(個人)を据える(座せしめる)ところ(地位)という意味らしいが、未だかつて先人がこの語に対して解釈を下したものを知らないから、ここに仮りに私見を記してみた。この語は古来阿波国では普通名詞として暗黙の中に了解せられて通用して来たのであるが、他府県の人々には一寸異様に感じられて了解困難な点があるらしいし、また阿波国でも若い人達にはもうすでにわかりにくい語になって来ていると思うので、あえてこゝに一言を費した訳である。

3、元来身居は、名誉的特権であって、農民の家筋・経歴や、勤功と忠実の表彰として、上から与えられたものであった。それが生活に余裕が出来、農村にも資本主義の萠芽が現われて、旦那衆(阿波の方言では「だんなんし」)という資本階級が発生すると、金や邸宅や庭園や別荘や妾宅などの物質慾の次には、家格を挙げて名誉を得、祖先を表わす名誉慾を持つに至り、系図を買ったり作らせたりし、さらに進んで羽振を利かせ人を支配しょうという権力慾を抱いて政治的に進出しょうと企てるようになる。人情は今も昔も少しも変りはないものらしい、実に馬鹿げた話である。そこで、この下からの慾望を餌にして、これに希望するものを与える代りに、大金を釣り上げようとするのは経済的に窮していた当時に為政者の巧智であり、ずるさであり、当然の帰結である。すべて取引というものは一方だけでは成立しないものであって、当事者双方の合意を必要とするものである。

4、そのためには、阿波の農民の階級すなわち身居が、極めて繁雑で多様であったことは非常に都合がよかった訳である。それで次に阿波の農民の身居りについて概観することにする。

5、中山太郎『生活と民俗』(昭和17年)の第175頁において、阿波・熊本・紀州の三藩を、全国的に農民階級の複雑な例として掲げ、『新野町史』・『阿波郡誌』・『川田町史』等から引用して27級に差別せられたことを挙げている。最近山本登美男(日和佐高等学校教諭)氏は『徳島教育第120号』(昭和32年11月)に「阿波社会経済史―江戸時代について―」を掲げて、これに触れている。

6、従来郡史・町村史などに記載せられている身居を見ると、どうも分類の基礎がはっきりしないために混乱し雑然として明晰を欠いでいるようである。そこで、こゝには分類の基礎に対する私案を提示し、それに従って配列することによって一種の整理を試みた。

一、武士および武士待遇

1、郷士 郷士格 原士 

2、小高取 小高取格 

3、郷鉄砲 御鉄砲 龍王鍛冶 加子

4、御譜代家来 駆出奉公人 御小人 

5、御林目付 御鳥見役 取立人 郷目付

6、先規奉公人 権下奉公人 

7、一領一匹 二領二匹 三領一匹

8、郡付浪人 構浪人 建置浪人 

9、郷付浪人 

10、支配外帳付人※(御目見得人)

二、担税関係による農民

1、夫中(夫負) 

2、夫外 

3、無役人(夫役御免人) 

4、本百姓 百姓

5、間人 

6、潰れ人(絶え人・倒れ百姓)走り人 隠れ人 洩れ人

7、来り人 

8、見懸人

三、従 属 関 係

1、御蔵百姓 

2、頭入(拝地)百姓 

3、一家(本家) 

4、小家(分家・別家)忌懸忌外

5、部屋 影人 

6、名子 

7、下子

四、商 工 業 者

1、鍛冶 大工 左官 紺屋 

2、郷町人 

3、(木地屋)

五、宗 教 関 係

1、彌宜 別当 社人 神主 下司(神職) 

2、出家 道心(僧侶)

3、山伏(修験道)虚無僧(普化宗) 

4(座頭)

六 賤   民

1、屠戸(穢多) 

2、非人 掃除 乞食 

3、傀儡(人形廻)猿牽 茶筌師 鉦叩

 

7、参 考 書 目

(1)徳島県―『阿波藩民政資料』(大正3)P149。

(2)徳島県―『御大典記念阿波藩民政資料』(大正5)上巻 P411・440、下巻 P1471。

(3)近藤有地蔵―『改訂増補市場町史』(昭和4)P23。

(4)近藤辰郎―『山城谷村史』(大正7)P76―、P128―。

(5)中山太郎『生活と民俗』(昭和17)P175。

五、地方行政組織

藩主 郡奉行(郡代) 与(組)頭庄屋 庄屋 肝煎 五人与(組) 百姓

庄屋助役

歩き(行)(触使)

番非人

六、身居売買の数例

1、昭和六年十月の役礼銀

五 人 組    一 匁  大政所裁判 二 匁  庄屋 帯刀 四 匁

郷高取 組頭庄屋 銀二両  大 政 所 銀三両  帯刀 指免 四 匁

脇指 御免    一 匁 (近藤辰郎『山城谷村史』(大正7年)P106―108)

2、天明二年六月の冥加金

組頭庄屋中宗判別帳・諸願手代宛 五 両  庄屋より組頭庄屋 五十両

庄屋 苗字帯刀 二十両  組頭庄屋より郡付浪人 百 両

平庄屋より郡付浪人 百五十両  郷付浪人より郡付浪人 三十両

平庄屋 宗判別帳 五 両  肝煎より庄屋 三 両

五人組 脇指御免 一 両  無役人 諸願手代宛 十五両

御蔵百姓 脇指 二十両  百姓 苗字帯刀 五十両

先規奉公人 苗字帯刀 十 両  見懸人 脇指御免 二 両

(『山城谷村史』P106―108)

3、享和元年の冥加金(口碑)

郷土格 千 両  小高取 八百両

郷付浪人 百五十両  一領一匹 百 両

郷付浪人 庄屋支配外 百 両  郷付浪人 庄屋支配 五十両

御鉄砲 三十両(『山城谷村史』P106―108)

4、文政十三年七月二十九日の冥加金

夫役外小高取格 千三百両  夫中小高取格 千 両

夫外郡付浪人 七百両  夫中郡付浪人 五百両

一領一匹 五百両  所役人支配無役人 苗字帯刀 四百両

無役人 苗字帯刀 三百両  無役人 脇差 二百両

本人惣領 夫役脇差御免 百五十両  其身一人 夫役脇差御免 百 両

郷付浪人 二百両  頭入の儘苗字帯刀一家夫役御免 三百両

頭入の儘脇差 一家夫役御免 二百両  頭入の儘本人惣領脇差夫役御免 百五十両

〃   其身一人脇差夫役御免 百両  頭入先規奉公人苗字帯刀御免   五十両

寺院境内殺生禁断 二十両

(岡崎信夫―『板野郡誌』(大正15年)P169―170、田所市太―『羽浦町史』(昭和3年)P66―67、福井好行・坂東愛一―『大俣村誌』(昭和31年)P51―52)

5、慶応年間の冥加金

夫外小高取格 千 両  夫中小高取格 七百両

夫中郡付浪人 三百両  一領一匹 三百両

所役人支配外無役人苗字帯刀御免 二百五十両  無役人 苗字帯刀御免 二百両

無役人 脇指御免 百 両  郷付浪人 百五十両

頭入の儘苗字帯刀一家夫役御免 百五十両  頭入先規奉公人 名字帯刀御免 五十両

寺院境内殺生禁断 五十両

(井上良雄一『中野島村史』(昭和32年)P46)

6、一覧表

 

 この一覧表を通覧すると、種々のことが考えられて興味がある。(1)時代によって提供した身居の種別に差異のあること(2)年と共に漸次騰貴していること(3)慶応には下落していること(4)これを当年の物価の騰貴率と対比することが出来るとよいのであるが、その暇がなかった。

7、付 帯 経 費

 以上記した価格は、藩へ納めた金額であるが、これ以外に雑費が入用であったことは、兵庫県三原郡西淡町湊の菊川兼男氏が所蔵して居られる『天保十三寅年二月 小高取格ニ被仰付候節之諸筆記 菊川太兵衛』という記録を見れば明瞭にわかる。天保十三年二月九日の身居売出については記録が未だ発見せられていないのであるが、前掲書によると、これに応募したもの十六人の氏名が判明し、また当日の模様がわかるのである。その次にそれぞれの関係役人に対して謝礼や心付を贈ったことを詳記しているが、その総数は五十人であって、金額は総計四十一両二分二朱、代二貫六百八十八匁九分八厘に達しているのである。名誉税もなかなか容易なことではなかったことが了解せられるであろう。



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