阿波学会研究紀要

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第五回郷土研究発表会  
曹洞宗伽藍配置と丈六寺伽藍 郷土建築学会 藤目正雄
曹洞宗伽藍配置と丈六寺伽藍

郷土建築学会 藤目正雄

1、はじめに

 「阿波の丈六寺」というほうが感じがでるように思う。そう言ってはわるいが、この南の島国の一角にこんな個性のあるお寺があるのに一驚した。

 建築の手法に一家の風格のある禅寺であって、その個性な奔放さに心をひかれるものがある。と私著「丈六寺の姿」を読んだ武蔵工業大学の教授蔵田周忠先生は「建築研究四月号」に感想を書き紹介をしている。また、東北大学の横山秀哉教授は伽藍配置に就いて関心をよせられている。

 丈六寺の建造物については「丈六寺の姿」に全部集録しているから今更いうことはないが修理工事中に新しい事実を発見した。しかし、これは現場主任の清水政春氏が工事報告書として公にせられるから今の私としては公表する権利はない。こゝでは未発表である伽藍配置について、「曹洞宗丈六寺伽藍」は創建当時にどういう配置であったか、また、完備した配置であったか、もし完備していたものとすればその禅刹配置はいつの時代に崩れたかなどの問題を考えてみたいと思う。

2、丈六寺伽藍配置

 現在、といっても今は修理工事中であるから、工事に着手する前、昭和29年春を現在として説明をする。寺の配置を見よう(第一図)(05shaji_fig01.gif)

 東面する三門、それから廊は左右に出て後方に曲りて本堂に接している。左側の廊の中央に秋葉祠があり、右側の廊の中央に住職居住の家がある。この家を住宅と呼んでおく。秋葉祠と住宅は向い合って対称的になっている。本堂裏に書院とも裏座敷とも呼んでいる建造物があり、本堂左側、丁度秋葉祠の右隣に道路をはさんで経蔵が建ち、後方に離れて観音堂が建っている。

 明治3年(1870)の製作図(第2図)(05shaji_fig02.gif)によれば、三門から左右に出ている廊の隅に左の方は明王堂とその後方に雪隠、右の方は浴室が建添うている。また、本堂左側は廊下で接続した長方形の開祖堂が建っている。現在(昭和29年)とくらべると廊の左右隔の明王堂並びに雪隠、浴室、開祖堂の三棟の多いのに気がつく。棟数や広さに変りはないが注意せねばならぬものは廊中央の左右対称にある秋葉祠と住宅である。秋葉祠は「禅堂」、住宅は「衆寮」と明かに記入されていることである。

 更に古い元禄指図といわれる元禄12年作(第3図)(05shaji_fig03.gif)の建物を見ると、禅堂は「衆寮」であり、衆寮は「徳雲」であり、経蔵は「禅堂」である。本堂に接続している開祖堂はなく、小さい御影堂と釈迦堂が並んでいる。また、右側に庫裡が建ち大分違っている。そこで、建造物の用途から堂宇名が変ったものと思い。堂宇の建築年代を調べてみた。

 禅堂は永禄11年(1568)に細川真之が創建し、享保12年(1727)まで用いられこの年に経蔵に改められている。徳雲も真之の建立であって父持隆の建立した瑠璃殿を永禄6年(1563)に改築し、父持隆の戒名「徳雲院殿」徳雲を堂宇の号としたものである。父が奉安したる薬師如来や祖父成之、父持隆らの位牌をも安置していたことであろうと思われる。それが享保13年(1728)衆寮に改造せられた(文化8年棟札銘)、また、衆寮を室町末期に建立せられたと思われるが文献資料はない。衆寮の資料としては諸堂剏修畧記の中に「延宝2年綱通公修観音閣、同4年柏木氏母堂長盛院復創衆寮」とある以外、他に資料として認めるものはない。延宝4年(1676)長盛院が衆寮を建立したが、これは「復創」で旧い堂宇を復したもので朽腐していたものを建替たのであるからこれは堂宇が建立していたと解したい。

 方丈は寛永6年(1629)蜂須賀蓬庵の再建で、この建造物は修理工事のため解体し、明白に当時の建築であることを確証せられた。故に一宮里城よりの移建問題を現本堂で(方丈)に関する限り意味なき風説として解決をした訳である。

 寛永6年の方丈再建が認められるとすればそれより前に方丈が建っていた筈である。そこに年代不明の棟札(寺蔵)の「庫裡」「方丈」等の銘文が問題となる。明応5年の方丈建立説もまた一笑に附しがたいものである。私は藩政期に入る前、天正の初頃には丈六寺は曹洞禅刹伽藍としての完備したる形式を持っていたものであると思う。

3、禪三宗

 鎌倉時代に渡来したる禅宗は仏教界に新鮮味を与えた。既成仏教の祈祷念仏に対して坐禅一味の行は改新されたものであった。これは教界ばかりではなく建築界へも新しい手法を持ち込み、古い伽藍建築に対して改革味を加えこゝに禅宗建築〔旧来は唐様(カラヨウ)といった〕また、禅様式の型を成した。

 しかし、禅宗といっても鎌倉期に渡来した臨済、曹洞の2宗と、江戸期になって渡来した黄檗宗はその宗祖の行き方が異っているため伽藍配置についても一様とはいえない。

 臨済の栄西は京、鎌倉を中心に公家権門と結び法網を広げ、皇室、幕府の帰依厚く、禅刹道場は開け、いらかはそびえた。室町時代には京五山、鎌倉五山といわれる名刹成り、末は五山文学に流れて行く。現今において国の指定を受けている重要文化財の建造物の多くは臨済宗に属している次第である。

 曹洞の道元は山村僻地の大衆の中に教線を張り簡素をもってこと足れりとした。数多くの堂宇よりも兼用したる実質的堂宇を尊んだ。もちろん寺院敷地の関係もあったであろうが、また、祈祷念仏を排し坐禅一味の行を専修した関係でもあろう、禅堂や法堂を先にした。庫裡において禅行三昧を許した。道元は宗より帰朝して深草で先づ法堂を建てた。他の仏僧であったなれば本堂(金堂・仏殿)を先づ建てたことであろうに。

 黄檗の隠元は承応3年(1654)来朝し、徳川幕府の帰依厚く、将軍家綱は隠元を援け宇治に伽藍を造営せしめた寛文元年(1661)5月西方丈の工を起して以来、延宝6年(1678)三門の竣工まで17年の長い歳月を要し、更に貞享4年(1687)威徳院の建立より総門、浴室の竣工した元禄5年(1692)まで、一時の中やすみはあったものの実に30か年の長い歳月を要して完成した、それが現在の万福寺(宇治の黄檗宗本山)である。隠元を初代とし、2世木庵以後13世竺庵まで来朝僧を住持としている。黄檗の臨済、曹洞との違っているところは坐禅一味でなく禅浄一味である。坐禅念仏である。法式は明、清の規矩をとり、経文は唐音でし、鳴器(鐘板・銅羅・鼓・銅磐・引馨等)を用いる等は臨済や曹洞と大きい相違である。堂宇にしても一般にいわれる龍宮造、私達は明(ミン)様式という形である。堂宇の配置も厳格なる意味からいえば相違している。

 栄西や道元は坐禅一味を標榜した。隠元は坐禅念仏であった。こゝに「禅行の場」僧堂、禅堂の配置や衆寮の配置が問題となる。僧堂はカワラユカが単6尺の坐床(ユカのこと)を設け函櫃(カンキ)を備える。函櫃には寝具・日常必需品のみを収納する。こゝでは坐禅の他、朝タの行鉢(食事)、打睡(睡眠のこと)、喫茶する。衆寮は土間で中央に須彌壇を設け観音像を安置し、看読床を設け経櫃(キンキ)を備える。こゝで仏典宗録を看読する。声を出して読むのではない。一声も発してはならぬ。心で読む場である。僧堂においての食事でも茶碗の音でもすると大変である。これは丈六寺現住の豊田知雄師の話であるが、若い頃、永山で修行していた時、1人の同僧がカリカリと沢庵をかむ音をさせた。そのタ食に沢庵は出ない。翌朝に沢庵は出ていない。その明くる日も、その翌日も、1週間余るが沢庵は顔を出さぬ。「お山に沢庵は品切か、一つたづねてみよう」と相談の上、代表の者が上座に沢庵が一片も出ないのはどうしたことかと聞くと、上座は音の出るような食べ方をする者がいる掟を守れない者が居るので、といった。こゝに禅修行の価値がある。

 僧堂の単6尺の坐床のことについて「起きて3尺、寝て6尺、これで人生は良い」と悟切った人はいう。無慾淡白なる道元の思想を表現する言葉として面白い。

4、禪堂と衆寮

 曹洞宗では僧堂で坐禅・打睡・行鉢・喫茶をする。衆寮では仏典宗録を看読する。この両堂宇とも禅修行の場で密接に関連している。そのために並立するを理想としている。現在の曹洞伽藍にこの配置の存在するは古い型を踏襲しているものであろう。古い型といっても禅宗渡来の鎌倉時代の伽藍配置は明白でない。東北大学の横山教授は永平寺か鶴見総持寺が古い型に属しているといっていられる。丈六寺も堂宇名称を旧い呼び方にすると古い型に属すると思う。

 曹洞宗の僧堂や衆寮に対して、黄檗宗の禅堂や衆寮(斉堂)がある。黄檗では禅堂の単を3尺として坐禅念仏の場としている。衆寮はタタミ敷で食事・睡眠・喫茶・読書・講演の場となり学寮的なる役目を持っている。近時曹洞禅刹においてもタタミ敷の衆寮の存在を認めるは黄檗禅の影響であろう。時代の変遷による自然的なる発達変化、(日本的になってきたこと)であろう。鎌倉時代に盛であった禅宗活動は室町末の戦国時代といわれた時代には中絶の形であった。これは禅宗ばかりではなく他の宗派も同様に衰微の形であった。泰平に治らんとする芽生えの江戸上期隠元の来朝によって黄檗は弘められた。既成宗教に飽きた人達は黄檗に走り隠元の教理は教界の人さえ共鳴し彼に教を乞うた。黄檗の思想とこれにともなった建築手法は新しい世代を築いた。

 禅刹配置も多分に影響をうけたに違いない。丈六寺もその中の一つと見なすことができる。堂宇名の変更はその堂宇がその名の示す如くに使用せられていたことを表わすものである。禅堂と衆寮の対称的なるものをこゝに取あげると、明治3年図の如く黄檗宗に似通ったる配置となる。横山教授は丈六寺配置を「双林寺式配置」と呼んでいる。双林寺は群馬県北群馬郡白郷井村に在り、「双林十人老僧之法問」の道場として有名である。この寺は三門の正面に本堂があり、左側に禅堂、右側に衆寮が建ち廻廊をもって接続している。丈六寺と同一配置である。

 丈六寺の明治3年図と現在配置を見ても、また元禄指図を見ても小堂宇の改変取除はあるが三門・方丈・禅堂・衆寮の配置の変化はない。ただ堂宇名が変っているのみである。黄檗または明清様式の影響を受けた双林寺配置と同一である丈六寺配置は江戸中期に改悪された配置と私はいゝたい。横山教授が指適しているように曹洞伽藍に黄檗伽藍が影響した時代は元禄頃であるとするなれば丈六寺伽藍は享保12年頃は堂宇の使用が変ったのであるから、この頃までは元禄指図に示すような曹洞伽藍であったものと思われる。こゝに堂宇にその用途変更のため改称せられた堂宇名や年代等を表してみる。

永禄期  桃山期  元禄頃  明治初頃  現 在

三門(建)(三門には変化はない)     三 門

方 丈  方 丈(寛永建)方 丈→本 堂→本 堂

僧堂(建)僧 堂→僧 堂→経 蔵→経 蔵

徳雲(建)徳 雲→徳 雲→衆 寮→住 宅

衆 寮→衆 寮→衆 寮(延宝建)禅 堂→秋葉祠

 これで見ると禅刹に必要なる三門・方丈・僧堂・衆寮の四堂宇は創建時代よりあったものと思われる。そしてその配置は明治3年図の如き黄檗、明清様式の影響による配置と、それより以前の曹洞伽藍としての完備していた配置とが知れる(前掲図表参照)、曹洞宗にして僧堂と衆寮との並立時代、他の影響による対称的時代が明かに知れる。

5、丈六寺に禪堂は無し

 私は禅堂という言葉を用いてきた。元禄指図に「禅堂」と明かに記入せられているからである。指図には禅堂となっているが、他の文献資料には「禅堂」の文字を見ることはできぬ。諸堂改修畧記には真之が「又建僧堂」とある。寛永21年の棟札に「僧堂修補」とあり、天正17年棟札銘にも「僧堂修補」の文字が読める。享保12年の経蔵棟札は「僧堂」を改めて経蔵と成したと明かにしている。他にも「僧堂」と書いた文書がある。元禄指図のみが「禅堂」となっている。思うに、これは坐禅をしていたから不如意に「禅堂」と書入れたものであろう。現在の経蔵内部を見ると左右の板ユカは6尺であるから元禄期頃は禅堂でなく僧堂として用いていたものかと思われる。禅堂はたゞ坐禅修行の場であり、僧堂は日常修行の場である。その使用法に大きい差異があることを認めねばならぬ。

 僧堂では食事を採るために外堂が必要である。享和2年(1802)の僧堂棟札に旧僧堂には待合寮、裏露地が無く困難であった。この僧堂には待合寮・裏露地を作ったと記し、上部に平面図を書いている。これを見ると裏露地とかいわれる場は他の堂宇への連絡路であり、待合寮とは禅堂に入る前の休憩所のように見られる。そして内部平面は板ユカらしいから僧堂というものの用途は禅堂であったと思う。この堂宇は現在の秋葉祠で、柏木長盛院の建立の衆寮を改造したものでその当時の棟札である。元の僧堂という真之創建の僧堂は永禄11年の建造物とは思えない。経蔵に改められる以前に改築せられたかも知れない。柱や礎盤、また、カワラ等は室町時代の香もするが堂字の柱間隔の尺寸が異っているために創建のまゝとは思えず、僧堂としてどういう方法で用いたかを明白に言えない。室町期に「禅堂」という言葉がなく「僧堂」といっていたと思うがこの点は言切ることはできぬ。

 いづれにせよ江戸中期までは禅堂と衆寮は並立して、方丈右側に庫裡が建っていたことは配置図によって知れる。この配置形式こそは曹洞宗伽藍として最良のものである。

6、学者の関心

 三門、観音堂の修理工事は完成し、方丈の修理も進んでいる。この修理工事の完成の暁は住宅を元の徳雲に復旧し仏像。仏画、寺宝を収納し、衆寮は経蔵の経典および古書を蔵収し、新しい意味の衆寮として再現することである。現経蔵は僧堂に復し近代的禅堂の道場とすることである。東司、浴室の再建と境内整備、それによって成之創建の浄苑とし、開基金岡理想の禅刹として室町の香を放つようにしたいものである。

 南の島国にも、曹洞伽藍とて配置正ししい禅刹あり、建築技法また劣らず、細川、三好の血腥い争の裏に咲いた建築美、それを建築史学界は注目している。それなのに地元民の余りの無関心さよ。私は地元民が無関心であればあるほど建築文化推進、建築啓蒙のため終生を捧げたいと思う。4月14日 終

 東北大学横山秀哉教授の「曹洞宗伽藍建築の研究」を参考にしたことを記し、先生の日頃の御教示に感謝の意を表わす次第である。



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