阿波学会研究紀要

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郷土研究発表会6・7・8合併号  
井上勤の横顔 横山春陽
井上勤の横顔
―外国文学飜訳の先駆者―
阿波郷土会 横山春陽

 徳島県というところは,いろいろな場面へとんでもない人間が飛び出すところである。ミューテーションセオリーの人間版,阿波版とでもいうのであろうか。明治初期の外国文学翻訳者井上勤もその一人といえるだろう。
 勤,号は春泉,父は藩医,物産方,徳島女学校御用掛として多彩な足跡を残した井上不鳴の長男として,かれが阿波に初めて種痘術を伝えた。翌年の嘉永3年9月15日,徳島城下前川の中洲に生れた。勤の生い立ちを自記によると「7歳で蘭人ドンケル・クルチウスについて英語を学び,16歳神戸に出てドイツ領事ドクトル・フォケの通訳となり,間もなく大阪に移って書林三木佐助の需に応じて月世界旅行を翻訳した」となっているが,オイの堀正人教授の話では「オジは13歳のころまでは算術もロクに覚えられない鈍才であったので,父の不鳴も心を痛め,試みにオランダ語を少しばかり教えてみたところ,ビックリするような進み方で,初めてその天分が発揮された」というのである。またドイラ領事館の開設は明治元年で勤が19歳,月世界旅行の出版は明治13年だから,自記には年代の誤りがある。それからデンマークの海底電線敷設船に乗組み,北海道を回って東京に帰り,明治14年蜂須賀茂韶の命で大蔵省に入り,関税局の翻訳掛となり,米人ビッカローの“関税論”を訳し,16年文部省に転じて西村茂樹の編輯局に入った。さらに尾崎三郎に頼まれ内閣制度調査局に転任,のち官界を去った。役人時代は給料の外に片面の10行ケイ紙1枚に3,4円の翻訳手当をもらったという。そのころのことだろう「巡査の一か月分の給料はオレの1日分の翻訳料にも足りないぜ」と自慢していたということだ。
 翻訳は役人時代からぼつぼつ手がけていたことは年暦によってもわかる。ここにぬき出してみると次のとおり。(カッコ内の数字は巻数)
1「芸者の心得ちがい」(1)明治12年,大阪洗誠軒。2「九十七時二十分間月世界旅行」(10)ジュール・ベルネ,13年,二書楼,19年合本再版。3「開巻驚喜龍動鬼談」(1)ロード・リットン,13年。4「民権国家破裂論」不明。5「拿破崙言行録」(1)松村操校閲,井上勤編纂,14年,忠誠堂。6「関税論」米,ビッカロー,同年,大蔵省蔵版。7「女権新論」スペンサー,同年。8「良政府談」(1)サー・トマス・モーア,15年,名古屋思誠堂。9「全世界一大奇書」アラビアンナイトの全訳,16年,報告堂(異版数種)。10「月世界一周」ジュール・ベルネ月世界旅行の続編,同年,博聞社。11「亜非利加内地三十五日間空中旅行」(7)同年,絵入自由出版社(1冊本もある)。12「絶世奇談魯敏孫漂流記」(1)同年,博聞社。13「人肉質入裁判」(1)東京今古堂。14「英国太政大臣難船日記」17年,絵入自由出版社。15「白露革命外伝自由の征箭」ジュール・ベルネ同年,同社。16「六万英里海底旅行」(2)ベルネ,同年,博文社。(以下書名,原著者,年代だけをあげる。発行年代の同じものは年代省略)17「禽獣世界狐の裁判」(1)ゲエテ。18「学術妙用造物者驚愕試験」ベルネ,20年。19「政治小説妻の嘆」ウイルキー・コリンズ。20「恋愛と嫉妬」コンフォルト。21「政治小説佳人之血涙」(1)自由の征箭の改題。22「細君之友」(21)ドレイグ夫人。23「通俗八十日間世界一周」(1)ベルネ,21年。24「幽霊」ハムレットの訳。25「優勝劣敗猿の裁判」グレイ。26「国の境遇と地祖軽減」25年。27「姦策秘話秘密と秘密」ガボリオー,33年。28「大胆之大胆」。
以上のうち「人肉質入裁判」は新富座上演題本としてはヴェニスの商人を訳したもの,シェークスピアの邦訳初期のものとして,標題の奇抜なのと,文章のすぐれていることで,勤の文名一時にあがり,一時に5万部を売尽したばかりでなく,続々と5種の異本が出版されており,尚いかに読書家をとらえたかが推測される。「猿の裁判」はダーヴィンの人猿同祖説を反ばくしたもの,人間の代表5人がダーウィンを訴え,原告の勝訴となる。発売禁止処分をうけた。文章もぎこちなく,他の勤の訳書とは比較にならぬほどまずいという。「狐の裁判」は妻のオイであった内田魯庵が大部分を訳したといわれ,4版を重ねている。勤の著書はすべてよく売れた。それは題名が好奇心に投じたためで,勤自身も読者の注意をひくような題名に苦心したとのことだが,それから考えると商才もあったようだ。これだけ多くの出版に著作権を持っておらず,最初の翻訳料をもらっただけで,「明治文化全集」に「人肉質入裁判」と「狐の裁判」が集録されたのにも,1部をもらっただけで喜んでいたという。以上のほかにパーテル会話の補訳がある。英仏独の3か国語に,ローマ字で日本語を加え,明治30年ごろまで大いに流行し,当時の英学生を益したものだが,その下訳には魯庵が助手として従事した。
 勤は英,仏,独,露の4か国語とエスペラントにも達していたが,それをどこでどうして覚えたかはわからない。明治24,5年ごろ神戸市に移り,葺合村(のちの布引町2丁目電車通)で神戸園といって西洋草花を栽培し,外人や外国鑑船へ売った。外国語はお手のもののペラペラで,もうけも多かったようだという。漢学にも深い素養があって,時々漢詩の英訳をジャパンタイムスに送っていた。酒は飲まなかったが,生活はかなりハデだったらしいけれど,晩年は豊かではなかったようだし,露語教授の看板を出していたこともある。
 短気でよくカンシャクを起し,実弟とも度々ケンカをして義絶同様になっていたともいう。商売も一時に大もうけすることばかり考えたので永続せず,園芸をはじめたのちにもステンレスのようなものを作ったり,ラジオを早くやれと唱えたり,気合術を習って他人に施術したこともある。
 年をとってからはツルのようにやせて,身長はあまり高くもないのに2メートルもあるツエをつき,夏も冬も白いヒゲに水ばなをつけて平気,声が大きく友人の家などへ出かけると話声は近所合壁にきこえ渡り,おまけに午前2時,3時ごろまで腰をすえて帰らないので迷惑がられたという。
 女房運が悪かったのか,それとも飽きっぽくて別れたのか,初め山西ツネ,2度目に橋本タネと結婚,3度目の妻が吉沢コウ(内田魯庵の伯母),4人目に赤木琴野と結婚したが半年ほどで離婚,5人目が渡辺アイで入籍はせず,長男泰人,長女高峯,2男芳人を産んだ。泰人はすばらしい秀才だったが布引の滝から落ちて死に,芳人は大阪でラジオ商の店員になった。
 勤は大正14.5年ごろ神戸の安藤書店で脳出血を起し,昭和3年10月22日布引町2丁目の宅で老衰で死んだ。生前には貸家も3軒ほど持っていたそうだのに,死後には一物もないといってよいほどであった。戒名は正学院釈浄勤居士。とにかく明治の初期において28種の翻訳書を公にしたかれの業績は大きい。
 勤の実弟百千は不鳴の実家堀家の養子になった。春潭と号し,神戸税関に長くつとめ「春潭遺稿」3冊があり,大滝山にある井上不鳴の碑は,勤が計画していたのを百千が建てたのだという。その次男正人氏は英文学者で京大助教授から関西大教授になった。勤の血はオイによってつがれているといえようか。勤の末妹にカナというのがあった。松田米次郎と結婚したが別れるとき,2人の間に生れたミナという女子を連れて出て渡瀬茂平と再婚した。松田米次郎にはカナとの間であるか,それとも他の女との間に生れたかはっきりしないが,トク(徳島田口氏から養子を迎えて西宮市に居住)タカマサ(文字不明,死亡)ヨシタロウの3子があり,ヨシタロウには娘が2人あって1人は徳島に現存しているという。

徳島県立図書館