阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第21号
勝浦川盆地の地史

地学班 地学団体研究会

      吉野川グループ*

1.はしがき
 勝浦川盆地のおいたちを語ることは、日本列島のおいたちを語ることである。日本列島のおいたちは大きくみて次の5つの時代にわけられる。
  第1時代 古生代シルリア紀の大陸時代
  第2時代 シルリア紀〜トリアス紀始めの本州地向斜・本州造山運動(海から陸へ)の時代
  第3時代 トリアス紀中頃〜中生代〜新生代古第三紀の変動大陸および四万十地向斜の時代
  第4時代 新三紀中新世のグリーンタフ造山運動の時代、列島分化の時代
  第5時代 新第三紀鮮新世〜第四紀の日本列島完成の時代
このうち、勝浦川盆地には、4)を除いて、1),2),3),5)の各時代の証拠が残っている。
 基盤岩類*と呼ばれるのは1),2)の時代の岩石であり、、中生界は3),第四系は5)の時代の岩石である。
 §2においては次の順序で勝浦川盆地のおいたちを概観する。
  2a.基盤岩類−4億年前の勝浦
  2b.中生界−2億年前の勝浦
  2c.第四系−200万年前以降の勝浦
 またあわせて、§3.勝浦川上流域の地辷りにおいて現在の地形変化を述べ、§4.勝浦地方の地学教材においてまとめとする。各項で述べるように、今回の調査によって、いくつかの新たな知見を得た。

 

  2.勝浦川盆地のおいたち
 勝浦川盆地に分布する地質は第1図のように、中央の地帯に中生界が、これをとりまくように南北両側に古生界が分布している。東西性・南北性の断層が発達し、地層はモザイク状に断ち切られている。辷谷から月ケ谷にかけて南北両側を断層でかぎられた東西にのびる帯状の古生界が、中生界のなかにはさみこまれて分布している。新生代第四系は、河沿いの段丘堆積層・沖積層・山地斜面をおおう地辷り堆積層である。


 2a.基盤岩類 4億年前の勝浦
 白亜系の基盤をなす古生界は、古生代末期のペルム紀の檜曽根層群・若杉層群・剣山層群・古生代後期の石炭紀の醍醐層群・古生代中期のシルル紀の辷谷層群である(第1図の断面図)。これらの地層は主として砂質泥岩・砂岩・チャート・石灰岩・海底火山噴出物からできている。のちに変成作用をうけ準片岩となっている。これらの岩石は地向斜と呼ばれる沈降のはげしい海底で堆積したものであるが、海底火山がしばしば大規模な活動を行なっていた。銘石の梅林石は海底火山の熔岩の気泡跡に石灰分が入って形成されたものである。石灰岩には紡錘虫(フズリナ.米粒位の海成の原生動物化石.古生代石炭紀中期〜ペルム紀末)の化石が多くふくまれている。全体の厚さは500〜600mである。
 3億年前、アジア大陸の前面に広くひろがっていた地向斜は、2億年前の古生代末〜中生代初めに全般的に強く褶曲し陸地となった(造山運動)。古生界が変成作用をうけ準片岩化しているのはこのためであり、複雑な地質構造が形成されたのもこのときである。地下の宮ケ谷変成岩類・辷谷層群が断層運動(黒瀬川構造帯と呼ばれる)によってひきずりあげられたのもこのときである。辷谷層群の北側には幅狭い帯状に花崗岩類(三滝火成岩類)や宮ケ谷変成岩類が分布しているが、これらの変成作用は辷谷層群に比べて強いから、シルル紀以前(辷谷層群以前)にも変成作用すなわち造山作用があったことになる。これは古生代後期の地向斜の基盤岩となっており、4億年以前は中国か朝鮮まで一連の大陸であったと考えられている。
  2b.中生界 2億年前の勝浦
 中生代になると、褶曲し隆越した古生界の山地(四国山地)の南側に内海や外海が広がった。中生代前期の三畳紀、中期のジュラ紀には黒瀬川構造帯以南〜仏像構造線以北(上勝吋辷谷・月ケ谷〜相生町)に浅海にひろがっていた。勝浦町・上勝町が内海におおわれたのは中生代後期白亜紀(1億年前)のことである。勝浦川盆地白亜系は、全体として浅い陸地に近い海で堆積したもので粒度は粗く、層相の変化が大きい。大型の貝化石や植物化石が多い。多くは海棲の動物化石であるが、汽水性の動物化石(たとえば、三角貝とよばれる二枚貝化石―写真1、2)、陸上の植物(写真3)が内海や湿地に堆積してできた石炭層などがみられる。勝浦川地方は化石の宝庫として全国に有名である。

 


  2c.第四系 200万年以降の勝浦
 中生代白亜紀の海におおわれた後は、陸化し削剥をうけていた。しかしながら白亜紀の地層が、いまでも保存されていることは、隆起量が少なく、激しい侵蝕をうけることがなかったためと考えられる。

 四国島の海岸平野と山地とが分化し、現在みられるような地形の大まかなりんかくが完成したのは新生代第三紀中新世末(約2500万年前)と考えられる。
海岸平野をつくる最古の地層は、第三紀鮮新世(ごく一部は中新世)の地層であって、この時代の地層は山地をおおって分布することがない。徳島県下では第三紀鮮新世末の地層が、吉野川の断層地溝谷の谷底に分布している(鴨島町南方の山麓にある森山層。吉野川平野の地下200m以下まである北島層の下部層)。
 第四紀は約200万年前より始まり、第三紀に比べて寒冷化した時代である。とくに50万年前以降より少なくとも4回以上の著しい寒冷期(氷河期)と温暖期のくりかえしがあった。
 気候の変化に対応して海水面が昇降し、河谷底でもこれに対応して、下刻や埋積が行なわれた。


 勝浦川沿いには約9万年前以降の河床堆積物が残っている。その分布から復原された9万年前当時の河谷平野の広がりは第2−A図の通りである。かつての河床面は現在の河床より約80mほど高い段をつくって残っている(高位段丘面と呼ぶ)。この段丘面が最も良く残っているのは、勝浦町石原と小松島市櫛淵との間の高度90mの丘であり、径数10cmの玉石よりなる砂礫層(厚さ10m以下)が分布している。当時の勝浦川は立江方面にまっすぐ流れていた。一方北へむかう峡谷沿いの長柱にもこれとほぼ等しい高度の段丘面があるので勝浦川の川筋は北と東へ2つあったことになる。このような広い谷底面が形成された原因として海面上昇が考えられる。櫛淵の丘の礫層は非常に強い風化をうけ、砂岩の大礫は完全なクサリ礫となり、スコップで切れるようになっている(チャート礫は風化をうけない)。この段丘面は陸化後に、現在よりもより温暖湿潤な気候のもとで風化をうけたことを示している。その時期は陸化直後、および中位段丘面が河床であった時代〜中位段丘面の陸化直後である。


 高位段丘面は棚野南方にもみられる。棚野〜生名間の南側の高度100m前後の尾根は、当時は扇状地あるいは支谷に刻まれたごく低い河間地であった。勝浦川上流では福川の南岸高度170mの丘頂(河床より70m位)に赤色土がみられる(土色は2.5ケR5/8の赤色)。礫層はみられない。福川にはこれ以下数段の段丘面があり、高度150m面の礫は厚さ1〜2mmの赤色風化殼が形成されている。
 4万〜3万年前と考えられる段丘面の分布と当時の谷底面の広がりは第2−B図の通りである。この段丘面は横瀬北方行司、棚野〜国久〜西生名に分布するものがとくに広く、沖積から20m程度の崖をもってへだてられている。横瀬北方では、厚さ3〜4mの段丘礫層がみられる。国久では、段丘礫の赤色風化殼は厚さ1mmに満たない。風化土の土色もやや赤味を帯びている程度である。
 それぞれを9万年前、4〜3万年前としたが、段丘堆積物の風化程度に注目して、それぞれリス・ウルム間氷期、ウルム氷期のなかのゲトワイゲル亜間氷期(温暖期)と考えたためである。(阿波学会紀要No.19,p45の表1参照)
 勝浦川上流では、福川、藤川、福原、旭などに数段の段丘面がみられるが広がりは大きくない。


 むかし傍示湖層 約7000年前の湖成層


 上勝町傍示谷が約7000年前に湖であったことを示す露頭が発見された。位置は第3図×印、バイパストンネル工事現場の西側である。現在の河床より約12mの高さに段丘状の小さな平担面があり、これをつくっている堆積物は第3図の通りである。礫層のなかに粘土・砂の層(泥炭をふくむ)があり、静かな沼のような状態であったことを示している。また上部2mは黄色の特徴的な浮石(軽石)質火山灰層であり、葉理が発達し水中で堆積したことを示している。この火山灰は四国各地に分布し、愛媛県では音地と呼ばれている。九州から飛んできたと考えられ、四国内では西へいくほど厚くなる。また東でははるか堺付近でも発見されている。名地で火山灰の上下の腐植層のC14年代が測定され、約7000年前とされている。
 傍示谷に湖沼(深さは10m以下)ができた原因は、この東西性の谷が断層に一致して形成されているため、約7000年前に断層運動が起り数m規模の「かん没」があったためかもしれない。
 傍示谷の7000年間の下刻量は、8〜9m(むかし傍示湖層の基底の高さと現在の谷床の高さとの差)である。


  3.上勝町(勝浦川上流域)の地すべり地
 勝浦川上流域の上勝町に分布する地すべりは徳島県の指定している地すべり防止指定区域(杉山.柳谷.蔭行.日浦.大北.喰田.生実.八重地.市宇.戸越)だけでも10個所の多きに達する。この原因としては急峻な山地と脆弱な地質条件、あわせて梅雨前線.台風などによってもたらされる集中豪雨があげられる。ここでは、勝浦川上流域の地すべり地の2,3の問題について考察する。
 1)日浦地すべり地
 この地すべり地は勝浦川上流域の南北方向の流路を示す部分の左岸に位置し、地すべり防止指定区域面積約25haを有している。地質は白亜紀の羽の浦層に属する泥岩・砂岩・礫岩が互層しており、泥岩は層理・葉理の発達が良好で軟質、砂岩はいわゆる硬質砂岩であるが節理の発達が顕著である。これらの地層を岩屑性堆積物が被覆している。
 この地すべり地には、徳島県が弾性波による地下構造探査を実施している。この探査結果によると、日浦地すべり地の地下構造は5層に分けられ、それらは0.3〜0.5km/sec(崩積土層)、0.7〜0.9km/sec(崩積土層・強風化岩)、1.3〜1.5km/sec(強風化岩・風化岩)、1.9〜2.1km/sec(風化岩)、3.7〜5.1km/sec(未風化岩)である。これらの内、一応地すべりに対して安全な層とされるのは未風化岩と考えられる3.7〜5.1km/secの弾性波速度を示す部分である。この層までの深度は、おおよそ30mあり、局部的には40m程度まで達している。地表面との関係では谷の部分で浅く尾根状部で厚くなる傾向を有している。なお、基盤岩と考えられる層内にも部分的に低速度層を認めることができる。
 2)山犬嶽の崩壊地
 この崩壊地は生実地すべり防止指定区域の西方にある山犬嶽の南側斜面である。この崩壊は元祿14年(1701年)に7日7夜の大雨が続いた後に崩れ落ちたと伝えられている。(第4図)


 崩壊地は南に馬蹄形に開いた滑落崖を示しており、崖高は130m±あり、60°〜70°の急傾斜を示す。また、馬蹄形の滑落崖のさしわたしは600mに達している。冠頂部の西側の部分はナイフリッジ(やせ尾根)を呈し、尾根の部分から崩壊したことを考えさせる(写真5)。
滑落崖の前面にはツカと呼ばれる岩屑性の堆積物が残されている。この岩屑性の堆積物は径5m以上の岩塊もあって、巨礫原の様相を示している。面積は9.2ha、土量にして200〜250万立方メートルはあると推定される(写真6)

 
 この地域の地質は泥岩を主とし、シャールスタイン・チャート・砂岩などから構成されている。走向はほぼ東西で、40°〜85°で北方に傾下している。顕著な断層構造は存在しない。滑落崖の部分は主にシャールスタインが露出する。冠頂部はチャートとシャールスタインのほぼ境界付近に当る。
 この崩壊発生の地質的原因としては、崩壊原因が大雨と関係した雨水の地下浸透によるため、チャートとシャールスタインの境界面から崩れたチャートとシャールスタインの岩層内の開口性の節理面から崩れた(土佐山田市繁藤の崩壊はこのタイプともいわれる)、山犬嶽周辺の尾根状部の深層風化など挙げられる。このうち、深層風化については崩落した岩層性堆積物に巨礫が多いことから、それほど深層風化を考える必要はない。ここでは層面.節理面などに沿って崩れたことが大きな要因であると考えられる。
 3)上平の地すべり地
 上平は地すべり防止指定区域には入っていないのが、上平の上方に広がる斜面には、かって発生したと考えられるいくつかの地すべりの痕跡が認められる(第5図)。ここでは地すべりの堆積物が次のように見られる。


 基盤岩類は大部分古生層の沢谷層群の砂岩および泥岩からなり、南方に一部白亜紀の傍示層の砂岩・礫岩および貝岩が現われる。これらの基盤岩類を被覆して地すべりによって生産された岩屑性堆積物が存在する。最上部に表土20cm、その下には基盤岩由来の砂岩を主とした角礫とそれを充填する風化土からなる岩屑性堆積物が存在する。この岩屑性堆積物は上部の1m程度は赤色化が認められないが、それより下部では2.5YR5/8%程度の赤色化が認められる。この堆積物中に含まれる角礫の外縁も風化して赤色化しており、その厚さは3mm程度あり、中位段丘M1〜M2面相当の風化程度である。また、この岩屑性堆積物中には赤色化をしていない角礫も含まれている。これらのことはM1〜M2面相当の時期以前に活動して生産された地すべり堆積物がM1〜M2面期には安定して赤色風化され、M1〜M2面期以後に再活動し、現在に至っていると考えられる。
 勝浦川土流域には多くの地すべり地が存在するが、ここでは3個所の地すベり地の概要について記載した。これらの地すべり地から判断されることは、第1に基盤岩が運動する地すべり地が存在すること(山犬嶽の崩壊)、第2に、かって発生した地すべりが再活動するものがあること(上平の上方斜面に広がる地すべり地など)である。また、日浦地すべり地で示されるように物理探査の結果からは地すべり地内のみならず尾根を形成している部分でも低速度層が厚く、崩壊を生ずる可能性がある。このことは、山犬嶽の崩壊が尾根付近から発生したことからも裏づけられる。
 ここでは3例を示したにすぎないが、勝浦川上流域には地すべり発生のおそれのある地点が多い。近年山岳道路の新設などなされているが、この種の開発はしばしば地すべりの再活動を導く可能性がある。この種の災害に対する認識を新たにする必要があろう。

 

  4.勝浦地方の地学教材
 おもな観察か所、採集か所については、第6図に示した。現地での調査のため補足的に記す。

1.河岸段丘
 高位段丘から沖積段丘までそろっているのは、勝浦町棚野で、横瀬橋から上流側をみると左手に比高数米の見事な段があり、これが沖積段丘である。棚野の円城寺境内にもレキが散在し、この面が中位段丘面である。低位段丘は寺の北東の一段低い面で久国.生名ヘと続く。円城寺のま南より少し東より、標高130mの細長い丘が高位段丘で、その北西斜面にレキ層が付着している。この段丘は石原から櫛淵へ越える丘と一連のもので、勝浦川が東流していた時代の河床である。低位段丘レキ層は中山の段丘の東端付近でよい露頭がある。段丘によってレキの風化の度合や土の色が変化していることに注意するとよい。
2.河川レキ採集
 横瀬橋上流の河原のほか、上勝町落合の河原もよい。古生層のチャート.輝緑凝灰岩のほか石灰岩や中生層の砂岩.泥岩のレキがまじる。石によって丸みや大きさ.色.数などに差がみられ、そのような差がなぜ生じたか話し合うとよい。名石の梅林石も見出される。
3.化石採集
 横瀬橋から中伊豆までは片道約10km。少し遠いが化石採集.岩石観察には変化に富んだすばらしいコースである。勝浦川本流にそう露頭では、中生代白亜紀の地層のなかにウニや二枚貝の化石が多い。広安南方で道路が大きく屈曲した部分の北半分には、植物化石が黒い層をなしている。
4.日本最古の岩石
 辷谷から中伊豆にかけて、道路は地層を横断しているので、1kmほど歩くと数億年間の地層に接することができる。立川付近は下部白亜系(約1.3億年前)のレキ岩.砂岩.辷谷の家のあたりは二畳紀中〜後期(約2.5億年前)の砂岩.泥岩.すぐ南に南北を蛇紋岩ではさまれた下部白亜系が約400mの間でてくる。その南に花崗閃緑岩.閃緑岩(三滝火成岩類)が約60m間にみられる。続いて約300mの間に、北半は角閃岩類、南半は黒雲母片岩を主とする宮ケ谷変成岩類(先シルル系、約5億?年前)がある。辷谷層群(約4.2億年前)はすぐ南に接しているが、その境界線付近に幅数米の石灰岩層がある。中心は灰白色だが周辺部は紅色を帯び天然記念物に指定されているので、母岩の採取は禁じられている。ハチノスサンゴやクサリサンゴの化石が含まれている。辷谷層群は流紋岩類で肉眼では緑色にみえる。幅は約4.00mである。中伊豆の北端あたりから再び下部白亜系となる。
5.ダム見学と化石採集
 藤川東から正木ダムを通り、柳谷に至るコースである。正木ダム付近は勝浦川盆地の白亜系の中央部にあたり、砂岩.礫岩および貝岩よりなる傍示層に属し、炭層をはさみ以前は採炭していた。ダム下流左岸に炭坑跡がある。ダムは総貯水量1505万立方メートルで、堤高は67mである。水は下流の中小屋までトンネルで導かれ、最大11300KWの発電をおこなう。傍示層は化石が多く、とくにトリゴニア(三角貝)が目立つ。柳谷中部には過去の地すべりの押出しが小さな丘となって谷底にみられる。
6.湖成層と火山灰層
 傍示から藤川へ越える新道の西入口の北側に、基盤上に厚さ5〜7mの沖積層がある。表土の下部に厚さ約1mの黄褐色層が認められる。これはオンジとよばれる火山灰層で、下部の粘土層(0.3m)や砂レキ層(4m)とともに、このあたりが7千年前に湖であったことを示している。なおトンネル付近は黒色貝岩で、破砕が進んでいる。
7.温泉と地層の見学
 温泉(正式には鉱泉)のある平間から南の杉地入口までは地層に変化が多い。喰田北方では道路の西斜面に中生界の露頭があり、ポリメソーダの化石がでる。喰田には厚い蛇紋岩が分布し、風化と断層により、地すべり.山くずれなどが起りやすい不安定左地形をつくっている。
8.名石採集
 梅林石は海底火山による熔岩の気泡跡に石灰分が入って形成されたもので、瀬津の谷がとくに名高いが、大北付近の林道沿いにもあるといわれる。輝緑凝灰岩は赤紫色をして、林道脇の各所に露頭している。大北南西の百間滝は古生界の固いチャートのところに形成されたもので、見事な紅色のチャートが印象的である。
9 崩壊地と堆積丘
 山犬岳は1701(元禄14)年に豪雨のため大崩壊し、崩落物は2つの丘をふくむ9.2haの地域に堆積し、その部分はツカとよばれている。高さ10m以上の輝緑凝灰岩などの巨レキが多数みられ、新四国八十八カ所が設けられている。なおツカは末端の一部が再度崩壊しているが、これが瀬津の谷の梅林石の供給源と考えられる。山犬岳は頂上付近に大師堂があり、チャートの巨岩が多い。

 

 文献(一部)
 阿子島功・寺戸恒夫(1972):徳島県の地質§1地形(1/150,000徳島県地質図説明書、徳島県)p.1〜10
 平山健・山下昇・須鎗和已・中川衷三(1956):1/75,000剣山図幅・同説明書
 中居功(1968):徳島県勝浦川盆地の白亜系層序、地質雑、V.74,p.279−293
 須鎗和已・板東祐司・波田重熙(1969):四国東部の秩父累帯古生界の構造−とくに深層断面について−徳島大学教養部紀要(自然科学)V3,p9−18(1972):徳島県の地質§2−1・3秩父帯(1/150,000徳島県地質図説明書,徳島県)p18〜23
寺戸恒夫(1966):徳島県東部の段丘とその形成、阿南高専研究紀要No.2、p49〜65
山下昇(1946):徳島県に於ける後島紀層の発見、地質雑、V52 p17
写真1.中生代白亜紀のトリゴニア(三角貝)化石。
 上勝町神明の神社の境内。化石の密集している帯が化石床であり、海底で貝殼が水の流れではきよせられたため密集している。
写真2.白亜紀のトリゴニア(三角貝)化石。上勝町正木、傍示谷出口の県道沿いの崖。貴重な露頭であり、保存されることがのぞましい。
写真3.白亜紀のシダ化石(グラドクレビス)。上勝町正木産。この写真は県立博物館に展示されたもの。
写真4.上勝町福川の河岸段丘。最下位の段は河床より5〜10m、下流(左手)方へゆくと蛇行した河道跡となっている。丘頂との間に一段(右手)みえる。
写真5.山犬嶽の崩壊跡地。南東の久保よりみる。1701年に大崩壊をした。滑券崖の幅はさしわたり600mある。
写真6.同上の崩積層。ツカと呼ばれる巨岩群。
崩壊土量は200〜250万立方メートルと推定される。

 

* 阿子島功(徳島大・教育学部) 久米嘉明(阿南市伊島中)、近藤和雄(徳島市千松小)、東明省三(富岡西高)、祖父江勝孝(脇町高)、須鎗和已(徳島大、教養部)、寺戸恒夫(阿南高専)、古谷尊彦(京都大、防災研、徳島地すべり観測所) (ABC順)
* 中生界(中生代の地層)は、古生界の上に重なつているから、中生界を中心に考えると古生界は基盤岩ということになる。新生代第四系(第四紀の地層)を中心に考えると中生界は第四系の基盤岩になる。


徳島県立図書館