阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第21号
勝浦川中上流域の過疎化の進展

地理学班 横田潤三  新居博
        富士巻尚志

1 はじめに
 「過疎」ということばがはじめて公式に登場したのは昭和41年の経済審議会地域部会の「中間報告」である。それ以来現在まで約10年の歳月が経過している。その間昭和45年に成立した「過疎地域対策緊急措置法」以下「過疎法」と略称を中心に、過疎対策が種々論議され、また実施に移されている。
 徳島県においても「過疎法」にもとづいて全県50市町村のうち28町村が過疎地域に指定(指定の条件は5年間の人口減少率10%以上で3年間の平均財政力指数0.4未満の町村となっている。)されている。
(図1)

さらに県独自で4町村を準過疎地域に指定して国に準ずる救済策を講じている。この32町村は面積では県全体の73%、人口は全県の28%に達し、過疎対策は本県が当面している重要課題の一つであるといえる。
 本稿は勝浦川中上流域に位置し、過疎地域に指定されている上勝町と準過疎地域に指定されている勝浦町について、人口流出にともないどのような過疎問題が発生し、地域住民が過疎化にどう適応しているか、さらに地域住民が過疎現象の著るしい現状をどうとらえているか追求を試みた。そして、これまでの過疎に関する研究には流出する人々に焦点を置いたものが多いが、本稿は苦悩する留村の人達にスポットをあててみた。

 

2 勝浦町・上勝町の概況
 勝浦町は勝浦川中流域に位置し、徳島市からバスで約1時間の距離にあるみかん栽培で知られる山村である。みかんの収穫量は県全体の約3分の1を占め、町内生産所得に占めるみかんの割合は最も大きい。農家一戸平均の経営面積は86.5アールで、うち果樹園65アールとなっている。昭和40年代当初までのみかん景気の好況は、テレビ・電話・水道・普通乗用車などの普及率を県内他地域の山村に比べかなり高い数字に押し上げた。しかし、最近では全国的なみかん生産過剰による市場価格の低下・若年労働力の町外流出など町の基盤をゆるがす深刻な問題をかかえ農民・町当局は苦慮している現状である。
 昭和40年から45年までの5年間の人口減少率は8.4%で「過疎法」は適用されないが、昭和43年から45年までの3年間の平均財政力指数が0.24と低く、現在県独自の準過疎地域に指定されている。
 上勝町は勝浦町よりさらにバスで約1時間の奥地・勝浦川上流域に展開する純山村である。林野面積は総面積の86%に達し、耕地面積はわずかに3.9%にすぎず、経営規模は零細で自給用の米・野菜と一部換金作物としてのみかん栽培が行なわれている程度である。基幹作目の林業もリスクが大きく常に不安定で、林業従事者数をみても昭和45年は昭和35年の40%に減少し、全就業者数に占める割合も昭和35年の14.8%から7.8%ヘ半減している。
 最近県営正木ダムの建設工事で多少活気がみられるが人口の減少は依然はげしく、昭和40年から45年までの人口減少率は18.9%を記録し、財政力指数(S.43〜45)も0.17と極めて低く「過疎法」にもとずく過疎地域となっている。こうした著しい過疎現象を打解すべく過疎債(昭和45年から48年までの総額1億3,500万円余)を中心に種々のプランが推進されている。

 

3 過疎化の進展の実態
 (1)人口の静態からみて
  a 人口の増減 図2は昭和35年から昭和48年までの徳島県、勝浦町、上勝町の人口世帯数の推移を指数で表わしたものである。

人口についてみると昭和35年から45年まではゆるやかな減少傾向を示しているが、45年以降は横ばいで、昭和48年は前年に比しやや増加している。勝浦町は昭和45年までは徳島県に比べてやや急な下降線を描いているが、それ以降は徳島県同様ほぼ横ばいで人口減少にストップがかかっている。これに対して、上勝町は急激な下降線をたどり、この18年間に2,666人減少し、指数は半数に近い57まで低下している。しかも現在なお人口減少に歯止めがかかっていない状態である。世帯数についても、徳島県の漸増、勝浦町の横ばいに対して上勝町は漸減傾向にあり、挙家離村の一端をのぞかせている。このことから上勝町は今後なお人口減少が続き、過疎化の進展が予測される。
 次に勝浦・上勝両町の地区別の人口増減率を示したのが図3である。

増加地区は勝浦町の久国・中角の2地区のみで、他の地区はすべて減少し特に上勝町は減少率が高い。なおここで注目すべきことは、ここ数年ほぼ人口の横ばい状態の続いている勝浦町内においても、黒岩・与川内・中山各地区や後述する棚野立川部落のようにかなり高い減少率を示していることである。このことは勝浦町内の移動の活発さを示すと同時に、人口減少と過疎化の進展に歯止めがかかったかにみえる勝浦町も人口減少の続く過疎地域をかかえていることを意味している。
  b 年令別人口構成 過疎地域における年令別人口構造の特徴は、若年労働力の流出にともなう若年令層の比率の低下と高年令層の比率の増大である。表1は人口を幼年、若年、中年、老年の四つの年令層に区分し、その比率の推移をみたものである。

両町とも幼年、若年令層の比率が低下し、中年・老年令層の比率の増大という典型的な過疎地域の特徴を示している。なかでも昭和45年の上勝町の若年令層は13.2%に低下し、全国平均27.7%の半数に満たず、一方老年令層は17.7%に増大し全国平均10.7%を大きく上回っている。また性別年令別人口構成(図4)をみても、昭和30年には両町とも将来人口増加が期待されるいわゆるピラミット型であったが、昭和45年には勝浦町は人口停滞型になり、上勝町は新規学卒者の極端なまでの流出と考えられる15才から20才までの低比率をはじめ極めて不規則な人口構成を示すに至った。


 地域社会が維持され発展を続けるためには年令構造のバランスがとれていることが不可欠の条件と考えられるが、上勝町の現在のすがたは年令構成でみるかぎり発展のための条件を欠いているといわざるをえない。
(2)人口の動態からみて
人口の増減は自然増減(出生と死亡)と社会増減(転入と転出)の二つの要素から算出されるが、両町の人の増減をこの二つの要素からみたのが図5・6である。この図から留意すべき二つの事柄が読みとれる。その一つは上勝町が昭和40年・45年・46年において極端にいえば地域社会の死滅を意味する“自然減”になっていることである。もう一つは両町とも“社会減”ではあるが、人口数において勝浦町の半数にも満たない上勝町が転出数では勝浦町とほぼ肩を並べ、人口流出のはげしさを示している点である。

 
 今井幸彦氏は「日本の過疎地帯」で人口動態から過疎を人間の病気にたとえて次のように述べている。「過疎病の第1期症状は村の青年男子が職場と文化生活を求めて都会へ流動し始める。第2期は結婚相手を失った若い女性たちも都会へ流動し、それにつれて親までも離村し挙家離村がぼつぼつ現われる。末期症状の第3期は若い男女は離村し、特に老人が目立ち、自然人口は減となる。自然人口の増減をみることによって病気の軽重がわかる」上勝町の昭和40・45・46年の状態はまさにこの第3期症状に該当する。昭和47・48年が自然増になったとはいえ、他の諸条件をあわせて考えるとき、深刻な過疎の状態にたち到っていると言える。
 (3)出稼ぎからみて
  山村地域住民の最大の願いは現金収入である。都市部と変らない生活水準を維持し、子弟に高等教育を受けさせるためにはどうしても必要なのである。そして山村住民にとって現金収入の最も手っ取り早い方法は出稼ぎである。しかし、その出稼ぎは家庭を崩壊し、ふるさと意識を薄れさせ、やがては挙家離村を促し、過疎化に拍車をかけることになる。したがって、出稼ぎは過疎化への誘因として、また人口流出の前段階現象としてとらえることができる。
 表2は郡内3中学校3年生の父兄に求めたアンケート調査を集計したものである。中学3年生の父兄という限定された対象だけにかならずしも全容を示す数字とはいえないが、その概要をはあくすることができる。

上勝町の場合、調査数61戸のうち過去1年間に出稼ぎ経験のある農家数は16戸で4戸に1戸は出稼ぎの経験をもっている。したがって上勝町全体の出稼ぎ数を単純推計すれば約250戸となり、町役場調べの昭和47年2月現在の210名を上回る数字となる。また昭和41年の徳島県企画開発部の調査による出稼農家数44戸、昭和45年の農林業センサスによる96戸に比べ、調査方法のちがいを勘案しても出稼ぎが増大していることを示している。更に注目したいことは林業が出稼ぎの対象となっていない点である。それだけに都市での文化生活の経験者が多く、魅力の少ない山村に見切りをつけ挙家離村を誘発する可能性を他の山村地域以上にはらんでいるといえる。要するにこの出稼ぎの実態は、勝浦町はともかく、上勝町は今以上の人口流出・過疎化の進展を暗示していると考える。
 (4)杉地・棚野立川の場合
 勝浦郡内において最も過疎化のはげしいのは上勝町では杉地部落、勝浦町では棚野立川(中立川・奥立川)部落(図3参照)であるがその実態について述ベてみる。
 杉地部落は上勝町の南端に位置し、県道から約4km入った農家数9戸33人の小部落であるが、昭和35年には17世帯93人をかぞえた。わずかばかりの階段状の水田・斜面に農家離村のため人気のない廃家が眠ったように静まりかえり、過疎山村特有の景観をみせている。
 経営耕地面積は極めて零細で、自家消費分をまかなうのがやっとである。それに対して山林所有面積には格差が見られるが、林業のみで生活可能な20haの保有林家2戸を除いては10ha以下であり・専業3戸、第一種兼業4戸・第二種兼業2戸である。図7はその人口構成であるが、20才代が皆無で生産年令人口も54%と低い。また、多くの長男が離村しているのが特徴であり、まだまだ離村農家はふえる傾向にあると思われる。


 離村先の傾向としては上勝町内にとどまる家は少なく、ほとんどが小松島市、徳島市等の市街地になっている。
 棚野立川は勝浦町の南端に位置し、勝浦川の支流、立川谷にそった部落であり、県道より約6km〜11kmの間に11戸が点在している。昭和43年までは、横瀬小学校立川分校があったが、生徒数の減少により本校に統合され、児童は現在、タクシー通学を行なっている。
 この立川は、江戸時代、蜂須賀氏の御用林地であり、現在でも約700haの山林を有し、町林業の中心地となっている。また、昭和17年には立川林道が完成し、木材搬出は容易になり、日用品、食料品等の講入も便利になった。しかし、終戦当時には22戸を擁していた。この部落も現在では、その半数が村を離れていき現在11戸50人の小部落になっている。経営耕地面積と同じように零細で、平均0.4aであり自家消費分も充分でない。
 一方、山林保有は20ha以上が4戸ある。専業農家は4戸、第一種兼業4戸、第二種兼業3戸となっている。
 また、図7の人口構成を見てもわかるように、60才〜70才の年令層の占める割合が最も多く20才代は少ない。生産年令人口は58%と、杉地と同様低い。また勝浦町内に土地を確保したり家を持っている人がかなりおり、長男が離村している傾向は杉地と同様であり、挙家離村はまだまだふえると思われる。離村先としては近隣の勝浦町内が圧倒的に多く、子弟の教育に便宜をはかると同時に林業を続けていくという一石二鳥をねらっているのが杉地と異っている点である。
 以上が2つの部落の概要であるが、次にこうした留村農家の人々が過疎化にどう対応しているかをみた。結論から先にいえば、人口流出にこれといった打つ手もなく、将来に不安をいだきながら生活している感じである。
 部落のある老人は「水も空気もよいこの土地を離れたくはないが、この部落もやがてはさびれてしまうだろう。2戸や3戸では部落は維持できないし、本当にさびしい。」という老人の言葉がこれを象徴している。部落の人達の願いは、何としても現金収入源と子供の教育である。日用品の買物、医療機関にも以前のように困らないし、娯楽面についても映画は見ないがテレビで結構充足できる。しかしこうした山間部においても、テレビ、冷蔵庫などの電化製品や自家用車の普及など生活水準は都市部とほとんど同じレベルに達している。その生活水準維持のために何よりも安定した現金収入が必要なのである。そして観光開発や工場誘致の促進あるいは小松島、阿南、徳島市などへの通勤を可能にするためにも県道の整備を町・県当局に強く要望している。
 さらにもうひとつ強調したいのは精神的なコミュニティの崩壊の危機である。テレビ・電話の普及はますます人々を家庭内にとじこめ月毎にあったお大師講や念仏講等も減少するなど近所づきあいが薄れていく現状に、特に老年層は孤独感を深めている。それをわずかにいやすのは老人会活動で、より活発な活動を望んでいる。

 

 4 過疎問題とその対策
 (1)生活における問題点
 以上みてきたように、現在の上勝町はその人口減少傾向からみて、昭和35〜45ごろをピークに人口流出は峠をこし、人口減少率は低下しつつある。いわば離村の意志があり、条件の整ったものは離村しつくし、離村の意志のないもの、あるいは離村したくても、条件が整わない人達が留村し、これ以上急に減りようのなくなったいわゆる「西日本型」の段階にあるといえる。
 この過疎化のもたらした社会的影響を上勝町を中心としてこれら地元に残っている人達の現実生活における問題点からみてみよう。
 1  老人問題
 過疎地帯における人口構成の特徴は青・壮年層の流出に伴なう人口の老令化である。上勝町もその例外ではない。65才以上の人口比率は昭和30年の7.5%から昭和45年には13.1%と激増している。
 地域住民の主要就業形態が、従来の山林労務から町外への出稼ぎに変化し、前述のごとくアンケートの推計では、出稼ぎ戸数は250戸即ち4戸に1戸の割合に達している。この出稼ぎ増加も現実の日常生活の老人化・女性化に拍車をかけている。
 過疎地域での老人問題は青・壮年層の流出、あるいは出稼ぎから取り残された孤独な老人世帯、1人暮し老人に最も端的に表われる。
 昭和45年、上勝町葛又で1人暮しの老人が死後数日を経過して発見されるという事件が発生し、老人問題として大きくクローズアップされた。
 町の老人福祉対策の一環として、昭和48年7月に定員50名の老人ホームを開設した。この老人ホームには現在出稼ぎ家庭や1人暮しなどの老人46名が入所している。
 問題は老人ホームに入所していない老人の生活である。現在上勝町で1人暮し老人7名、寝たきり老人23名が、2名の家庭奉仕員(ホームヘルパー)の巡回奉仕をうけている。
 過疎化の最大の犠牲者はこのような1人暮し老人であろう。7人中家族に死別して身寄りがなくて1人暮しをしている老人は1名で、他は子供達がありながら子供達が転出あるいは出稼ぎのため別れて生活している老人である。
 家庭奉仕員によるとそれらの老人達は子供達と同居するか、老人ホームに入所することで1人暮しを解消しようと思えばできるのだが、「1人暮しが呑気でいい」「住みなれた家を離れるのが嫌だ」「他人との共同生活で気をつかいたくない」「都会生活にはなじめない」などの理由で1人暮しを続けているのが実情のようである。74〜78才のこの老人達は家庭奉仕員の巡回を気の毒がるほどで表面的には気楽に悠々と生活しているようにみえる。しかし理由のいかんを問わず老人の1人暮しは不自然であり、これら老人が過疎の最大の犠牲者と思われる。
 なお町の福祉対策としては前記の老人ホーム、家庭奉仕員の巡回以外に、1人暮し老人家庭に近所の家とインターホンを設置し朝夕連絡をとるとか、65才以上の老人全員に1か月に2回の町営月ケ谷温泉の無料入浴券を配布するなどを行なっている。将来計画として町内に老人憩いの家を建設する計画もある。
 いずれにしても、過疎化の波をまともにかぶったこれら老人たちの意識の内面をさぐり、キメの細かい福祉対策が望まれる。
 2  医療問題
 僻地における医師不足は過疎問題がクローズアップされる以前からの問題であり、無医村地区の解消が大きな課題であった。
 上勝町では福原地区、高鉾地区にそれぞれ町営の診療所があり、医師2名が常駐している。したがって日常の風邪やけがなど軽症の場合の応急処置にはことかかない。また、重症の場合は勝浦町立病院まで車で30分、小松島市へ1時間、徳島市へ1.5時間で専門医院の治療が受けられる。こうしてみると医療に関してはほとんど問題はないようだが、現実はそうではない。例えば歯科医の治療をうける場合など通常可成りの日数の通院が必要だが、バスで往復すれば1日つぶれ、バス代だけでも1,160円もかかるのである。
 また、診療所の経営も医師の人件費等のため、昭和48年度には2,000万円の赤字となっている。2人の医師とはともに高令で後任の医師確保のめどは全然たたない状態だという。
 離村理由として就職先、子弟の教育とならんで医療の不便が大きなウエイトを占めている。
 3  教育問題
 一般に老人、医療問題とならんで過疎がもたらす大きな社会問題として教育の問題がある。上勝町でも転出理由の中で「子供の教育」が大きなウエイトを占めている。
 過疎地域での教育問題に義務教育と高校教育の二面がある。
 前者では、児童・生徒数の減少に伴なう複式学級化による教育環境の悪化である。この対策として上勝町では昭和44年に3複式学級編成となった福原小学校を生実小学校に上勝西小学校に統合した。現在でも傍示小学校が3複式学級編成となっているが、県よりの1名の特配教員と町費による2名の教員を配置して6学級編成としている。なお、2校の中学校とも各3学級となり、教科別の教員が確保できず特例として家庭科・音楽など2校兼務や町費で2名の補充を行なっている。
 さらに昭和49年5月1日現在における昭和55年までの小学校入学児童数調査によれば、表3のごとく、昭和51年に旭小、52年には上勝西小を除いて全て複式学級が出現する。


 なお、今後の挙家離村でさらに減少も予想される。教育委員会ではすでに昭和44年2月に中学校1校、小学校2校に統合する計画を町当局に提示している。このような児童・生徒数減少対策としての学校統合の問題として、予算、校地の位置、父兄の意見もさることながら通学距離の延長の問題がある。現に旧福原小学校区の杉地では片道8kmとなり父兄の送り迎えを余儀なくされている状態である。
 さらに高校進学に際しては、隣町の勝浦園芸高校以外は通学が不可能で下宿せざるを得ない環境は最近の高校進学率の上昇(昭和49年80%)とあいまって高校生をもつ父兄の大きな経済的負担となっている。したがって、子弟の高校進学を機に、あるいはそれを考慮して離村するケースも極めて多い。町営の高校進学者のための寄宿舎設置の強い要望がでている。
 4  防災問題
 過疎にかかわるもう一つの社会的影響として防災とくに消防活動の低下が問題となる。
 過疎や出稼ぎに伴なう老令化や女性化のため、従来のごとく地域消防団による消防活動に依存できなくなる状態が出現している。上勝町でも各地区ごとに10分団の消防団が組織されているが、名目上の団員数も昭和40年の600人から49年の334人に減少し、出稼ぎや徳島への通勤のため、昼火事で出動できる実人員は100人を下まわるものとみられている。
 昨年の昼火事では2人しか集らず、分団に配置されている位置にポンプをかろうじて移動できる状態であった。
 このため町では中心集落の落合、藤川分団にポンプ自動車を配置し、人手の不足を機械力で補なう方針をとっており、ポンプ車の通行できる道路のある地域では、問題は少ない。
 ただ、「火道を切る」など多人数を必要とする山火事の消火は全く心許ない状態である。
 5  交通問題
 後にふれるアンケート結果にも現われているように、道路の整備は地域住民の願いであり、町の重点施策の1つでもある。県道の改良により徳島へ1時間の実現が徳島への通勤圏を希望する町民の願いである。
 町民の足となっていた、徳島バスが昭和46年の大幅減便によって、上勝町福原地区の動脈ともいうべき落合東−大北、田野々−八重地線を廃止してしまった。このため・小中学生の通学にも支障をきたすこととなり、県下でも少ない町営マイクロバスを落合−八重地6便、大北3便運転している。しかし、大北便では大北始発は2名という状態で赤字はまぬがれず、減便または廃止が検討されている。
 県道と並行して各集落への耕作道としての町道の整備もすすみ、ほとんどの集落へ車の乗り入れが可能となり、モータリゼーションの普及とともに交通事情も一変した。しかし、問題は以外なところに表われてきている。即ち過疎化の進展に伴なう集落の構成メンバー戸数の減少で、集落道の1戸当り補修費の地元負担分が増大して、維持・修理ができない状態が生じ、これがひいては離村要因ともなっている。
(2)産業の振興
 過疎に悩む町当局の重点施策は、(1)林業(森林組合の育成)・果樹の振興、(2)工場誘致、(3)道路の整備、(4)老人ホーム、学校施設(体育館・プール)、(5)集落の集会所の建設、(6)観光開発(月ケ谷保養センター)などがあげられているが、ここでは地場産業の育成という過疎への積極的な対応の面をとりあげてみよう。
 1  観光関発
 徳島から上勝町へ向う県道徳島−上那賀線ぞいに「温泉とアメゴの町上勝町」という真新しい看板が目をひく。どの過疎地域も考えるように、ここでも美しい恵まれた自然を生かす観光開発の姿勢が伺われる。
 町内には慈眼寺、灌頂ケ滝、高丸山の自然林、殿川内溪谷、月ケ谷鉱泉など観光資源は豊かである。昭和48年7月に町営のアルカリ性硫化水素泉の月ケ谷鉱泉を利用した30人の宿泊施設をもった保養センターが開設された。


 従業員5名で運営しており現在まで黒字経営を続けている。温泉と町内で養殖される美味で姿の美しい溪流の女性アメゴをつかった料理が人気をよび、その利用者数は表4のごとく、夏場を中心に徐々に増加の傾向にある。その7〜8割は阿南・徳島、小松島など町外だが、宿泊者は約2割に過ぎない。しかし、付近には民宿も開設され、観光地らしい景観をみせはじめている。目下宿泊施設の増築工事が進行中である。そのPRもさることながら、入湯だけでなく、地元産の土産品の開発、観光ルートの整備などいま一つ町民への波及効果のための工夫が望まれる。
 2  アメゴの養殖
 地元の若い人達による積極的な地場産業の振興として、他の過疎地域と同様上勝町にもアメゴ養殖が行なわれている。
 家を継いで町に残った25〜27才の青年達が働きがいと町の発展を願って始めたもので岐阜県への視察や県水産試験場での2年間の研究を経て昭和45年から実施されたものである。
 天然アメゴの棲息する清らかな冷水の自然条件を生かして、当初5人でスタートしたアメゴ養殖組合も上勝町で13人のメンバーとなり、アメゴ養殖専業の体勢を目ざしている。
 さらに勝浦川漁協より河川の一定区間を借用し、アメゴを放流してアメゴ釣りの観光施設経営も計画している。
 養殖につきものの稚魚の病死が問題点であるが、過疎化の進むなかでこれら若者達のアメゴ養殖にかける情熱は町発展の希望の灯とも感じられる。町としても積極的な助成が必要なのではないだろうか。
 3  工場誘致
 工場誘致は地域の産業振興および人口流出阻止の有力な対策と考えられている。地元への税収入、地域住民の就業先等がその具体的なメリットとされるが、上勝町には適例がないので、ここでは勝浦町に昭和43年9月に誘致された勝浦電子を例に、誘致工場がいかに人口流出阻止、Uターンにかかわっているかをみてみよう。
 勝浦電子は町が旧横瀬中学校の校舎跡に誘致した弱電気部品の組立工場であり、現在従業員は152名である。昭和43年の設立当初の資料で従業員(男子25、女子105計130名)の出身地域をみると勝浦町80%、上勝町10%、その他阿南・小松島・徳島市などの10%と当然のことながら地元が圧倒的に多い。
 つぎに、勝浦電子に就職する以前の状態をみるとつぎのごとくである。


 このうち県外・県内他町村勤務者はUターンとみなし、学卒者を勝浦電子がなければ町外に流出したとみなすと46%にあたる60名を地元にとどめたことになる。女子の「自営および家事」56名はほとんど「家事」であるが、農繁期にはみかんの収穫に従事していた人達が多いとみられ、勝浦電子はこれらの人達の農閑期の格好の町内就業先といえよう。

 

5 地域住民の意識調査
 住民の意識調査については、上勝町61名、勝浦町78名について、それぞれ中学生を持つ家庭という条件でアンケート調査を実施した。以下、父兄と中学生別に地域住民の意向をみてみよう。
(1)父兄について
問1現在のあなたの町は住みやすいと思いますか。


 図1からもわかるように、勝浦町においては、「住みやすい」または「普通」と答えたものが約90%で、住みにくいと答えたのが約10%で、現時点では生活にそう不便を感じていないということがうかがえるが、ただ与川内地区で「住みにくい」が33%あり、これは町の平均よりかなり高い。その理由としては、交通、日常の買物の不便さと共に、平地の少なさによる将来の発展への期待が持てないということからではなかろうかと思う。
 上勝町においては、「住みやすい」が6%、逆に「住みにくい」が36%もあり、その比率が勝浦町に比べてはるかに高い。
 これは交通の不便さ、医療機関の不備による生命への不安、子弟の教育の困難さ、日常の買物の不便さ等が大きな原因であろう。
問2 あなたは事情が許せば町から出たいと思いますか。


 図2からわかるように、勝浦町では、「出たい」が9%、逆に「出たくない」が67%である。
 これはまだまだみかん産業に対する将来性への希望、工場誘致による職場の拡張、また通勤する場合でも、自家用車であれば徳島市に40分程度で行く事ができ、生活的にそう不便を感じないというのがその原因と思われる。
 上勝町では、「出たい」ものが33%もあるが、これは問1における日常生活の不便さ現金収入の場の少なさ、将来への不安からの結果と思われ、今後の挙家離村による人口流出を暗示している。
 問3 あなたの生活をよくするため、町・県・国に何を要望しますか。


 勝浦町においては、1 みかんの振興、2 地元で働ける工場の誘致、3 道路の整備、4 老人・同和対策、5 観光開発等となっている。
 町の主産業であるみかんの振興は町自体もその対策に真剣に取り組んでいるが、町民の期待もまた同じであり、町当局と町民とが一致協力すれば、全国的なみかん市況を無視できないにしてもその発展は可能と思われる。
 上勝町においては、1 地元で働ける工場の誘致、2 町外と結ぶ道路の整備、3 農林業の振興、4 医療・水道などの生活環境の整備等が上位を占めている。
 町の過疎化対策としては、町の主産業である農林業の振興、教育文化の向上、観光開発、道路の整備等が挙げられているが、とにかく過疎化の進展の著しい現時点では、町民の期待は安定した現金収入の道を開いてほしいという要求が強く出ている。
 以上を通して全般的に言えることは、勝浦町は現時点では生活の場としてはそう不便を感じないということ、県下的に見ても、経済的にはまだまだ豊かであることなどから住民としてどうしても離れたいという強い理由がなく、これが過疎化の急速な進展をくい止めている大きな理由と思われる。しかし、時代のすう盛とは言いながら、若年層の町外流出はかなりはげしく、それに伴なう出生率の低下や出稼者の増大など潜在的な過疎化の進行が推察される。町としては、長期的な展望に立った過疎化対策をすすめる必要があろう。
 上勝町は、地理的要因からくる生活環境の悪さとか、将来への見通しの暗さ、現金収入の場が少ないことなどが重なって、これまで培かわれた人間関係をふり切ってでも、町を出たいという意識が強く出ている。
 町当局としても、過疎地域振興計画とともに昭和48年に産業振興協議会を結成し、花木、ユコウ、シイタケ、和牛、アメゴ等の振興を具体的な方策を示し、現金収入の道を開こうと積極的に取りくんでいる。
(2)中学生について
 中学生の意識調査については、上勝町81名、勝浦町74名の3年生から回答を得た。
問1 あなたはあなたの家をつぐ予定ですか。


 家をつぐとかつがないとかは、男女の差とか、長男次男によってちがってくるが、図1より長男においてさえも、「つぐ予定」と答えた者が勝浦町で45%、上勝町で24%となり、勝浦町よりも上勝町における比率が非常に低く、上勝町で「つがない」が22%と、勝浦町の5%に比較して高い。中学3年生の段階として約半数を占める「わからない」の存在とも合わせて、ここでも上勝町の人口流出を予測させる結果となっている。
問2 現在あなたの町は住みやすいと思いますか。


 図2より「住みやすい」と答えた者は、勝浦町23%(父兄40%)、上勝町18%(6%)、「住みにくい」と答えた者が勝浦町10%(父兄同じ)、上勝町24%(36%)となり、中学生の意識としては、そう住みにくいという感じは持っていないように思われるが、上勝町の生実、旭地区においては、住みにくいと答えた者がそれぞれ41%、33%と他地域に比較して高くなっている。この両地区共に、上勝町でも一番奥地に属し、生活経験の少ない中学生にもその生活の不便さが感じられるのであろう。
間3 あなたは将来事情が許せば、町から出たいと思いますか。


 図3より「出たい」と答えた者、勝浦町43%(父兄9%)、上勝町48%(33%)となっている。長男が家をつぐ予定と答えた者の中にも、上勝町では30%の者が出たいと考えている。逆に「出たくない」と答えた者は、勝浦町8%(父兄67%)、上勝町12%(41%)となっている。
 「出たい」理由として、図4からわかるように、上勝町では、1 日常生活が不便である。2 町に適当な職場がない。3 農林業に希望がもてない等である。
 勝浦町の場合は、1 町に適当な職場がない。2 農林業に希望がもてない。3 親元を離れてくらしたい等となっており、両町共に魅力的な職場が少ないことが中学生をして町外へ出たいという気持ちにさせるのであろう。
 いっぽう、出たくないと答えた者の理由として、1 自然環境に恵まれている。2 都会生活になじめそうにない。3 日常生活に不便を感じないというのが両町に共通している。中には、自分達の町を、自分達の手でもっと活気のある町にしたいという積極的な意識を示す者もいた。
間4 あなたの町の将来の望ましい姿について、あなたがえがくイメージはどんなものですか。
上勝町の生徒
 1 観光に生きる町
 2 公害のない工場の町
 3 農業、農産物を主とする町
勝浦町の生徒
 1 みかんの特産地として生きる町
 2 農業、農産物を主とする町
 3 公害のない工場の町
となっている。
 全般的に言えることは、中学生の場合、住みやすいとか住みにくいとかの意識は父兄ほど強いものとして出てきていないが、生活を真剣に考える場が少ないせいであろう。
 また、町を出たいと答えたものが両町共に40%台であり父兄より多い。これは、自分の進路を決定する場合やはり現在の町内では、充分な生きがいを見出すことが少ないことや、何となく都会にあこがれる気持ちからであろう。
 このような郷土に対して、たいした印象ももっていない中学生にどう意識づけていくかが教育の今後の課題と思われる。

 

6 むすび
 勝浦川中上流域の上勝、勝浦両町における過疎の実態について、主として、上勝町を中心に著しい過疎化の進展のなかで、地元にとどまった人達の生活や意識に焦点をあて調査したが、その要点をまとめると次のとおりである。
(1)まず人口の面から過疎化の実態をみると、両町とも昭和35〜45年に著しい減少を示し、上勝町では40〜45年にかけては自然減で、絶対数でも昭和30年に比してほぼ半減している。勝浦町は45年以降横ばいの状態となっているが、上勝町では現在も減少傾向が鈍化しつつも続行しており、典型的な「西日本型」を示し、年令構成でも著しい老令化をみせている。
(2)この過疎化の進展が地元住民の生活面での問題として、1 独り暮し老人、2 県道の整備と道路維持の困難、3 長期通院に伴なう医療問題、4 子弟の教育とくに高校進学の経済的負担増、5 山火事などの防災問題、6 近所づきあいの薄れに伴なうコミュニティーの崩壊などがある。
(3) 積極的な過疎への対応の面としては、月ケ谷鉱泉を利用した観光開発と、過疎化の進展するなかで、地元にとどまり、生きがいを求めて若い情熱をそそぐアメゴ養殖がある。
(4)地域住民の過疎についての意識では、勝浦、上勝でかなりの差異が認められる。
過疎の進展の著しい上勝町では36%が生活の不便と現金収入源の乏しさを理由に「住みにくい」と感じ、3人に1人が事情が許せば町から「出たい」と答えている。また、地域の次代をになう中学生でも、「生活に不便」「適当な職場がない」を理由に町から「出たい」がほぼ半数に達している。こうした状況の中でさし迫った住民の願いは地元で働ける工場誘致にみられるように安定した現金収入である。
 調査にあたっては、過疎という暗いイメージの中で努めて明るいプラス面を求めたが、わずかにアメゴ養殖に励む若者達以外には発見できず、あらためてこの問題の重大さを感じた。
 最後にこの調査にあたってご指導いただいた徳島大学の高木秀樹教授および両町当局ならびにアンケート調杳にご協力いただいたかたがたに厚く御礼申し上げます。
 参考文献
(1)今井幸彦編著「日本の過疎地帯」岩波新書
(2)伊藤善市編著「過密過疎への挑戦」学陽書房
(3)羽山久男「剣山地における挙家離村について」地理の広場第7号1969年

 

アンケート調査票(父兄用)
 阿波学会 地理班
 この調査は阿波学会の勝浦郡総合学術調査の一環として行なうものです。ご多用中恐縮ですがよろしくご協力くださるようお願いいたします。なお、この調査でお聞きしたことを他にもらすようなことはいたしません。

記入にあたって
・それぞれの質問に対し、用意した答のなかから該当するものの記号に○をつけてください。(自分の回答した答から矢印が出ている場合は矢印に従って回答を続けてください)
・その他に○をつけた方は( )内にあてはまるものを書き込んでください。
回答してくださるあなた自身について記入してください。(住所は○でかこむ)
性別(男・女) 年令(満 才)
住所 勝浦町……沼江石原・今山・山西掛・黒岩・中角・星谷・久国
        棚野・中山・横瀬・与川内・生名・坂本
   上勝町……正木・傍示・福原・生実・旭
問1 現在のあなたの町は住みやすいと思いますか。


問2 あなたは事情が許せば町から出たいと思いますか。

問3 あなたの生活をよくするため町・県・国に何を要望しますか。(2つ以上○をつけてよい。主なもの一つに◎)


問4 あなたの家族の中で出稼ぎの経験者はいますか。
(昭和48年8月〜昭和49年7月)


 

アンケート調査票(中学生用)
 阿波学会 地理班
 この調査は、阿波学会の勝浦郡総合学術調査の一環として行うものです。ご多用中恐縮ですがよろしくご協力くださるようお願いいたします。なお、この調査でお聞きしたことを他にもらすようなことはいたしません。

記入にあたって
・それぞれの質問に対し、用意した答のなかから該当するものの記号に○をつけてください。(自分の回答した答から矢印が出ている場合は矢印に従って回答を続けてください。
・その他に○をつけた方は( )内にあてはまるものを書きこんでください。
回答してくださるあなた自身について記入してください。(住所は○でかこむ)
性別(男・女) 年令(満 才)
住所 勝浦町……沼江石原・今山・山西掛・黒岩・中角・星谷・生名
        久国・棚野・中山・横瀬・与川内・坂本
   上勝町……正木・傍示・福原・生実・旭
問1 あなたは、あなたの家をつぐ予定ですか。


問2 現在のあなたの町は住みやすいと思いますか。


問3 あなたは将来事情が許せば町から出たいと思いますか。


問4 あなたの町の将来の望ましい姿について、あなたがえがくイメージに最も近いのは、次のどれですか。ひとつだけ○をつけてください。


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