阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第21号
勝浦川上流域における林業の発展と村落構造の変貌過程

歴史地理班 羽山久男・橋本範文

はじめに
 本稿は勝浦川上流の旧福原村を対象地域として、近世における林業の発展をとくに林野の存在形態から区分を行ない、さらに、大字福原村に的を絞り、近世中期〜明治初期にいたる村落構造の変化の過程をさぐろうとする。現時点において、瀬津村組頭庄屋の美馬家文書、福原村庄屋の山本家文書および町役場所蔵の検地帳などの村方史料の筆写中であるため、本稿で史料紹介的なものにとどめた。なお、徳島藩における林業と林政の展開は主として有木純善氏(1)および勝浦川流域における林業の発展については岩井吉弥氏(2)の業績によったことをお断りしておく。

1 近世の勝浦川流域における林業の発展
(1)徳島藩における林野の存在形態
 徳島藩領内林野の大部分を御林が占めていたと推測されるが、元和期から寛永期にかけて藩体制が整備されるに従い、藩の林野制度の基盤は整い、この時期までに林野の管理体系も確立されたといわれる。
 津川正幸氏(3)は徳島藩の区分を次のように分類している。
 (一)原則として管理収益の主体が藩にあるもの−(イ)官営林〔御林〕(領主が直接使用収益するもの。(ロ)承役官林〔定請山〕(御林のうち、年々運上金を徴するか、一時に相当の料金を納めさせ年季を限って樹木秣草などの自由採取を許したもの)、〔取山〕(御林のうち木材売人に永代請所として貸下げられた山林)。
 (二)管理収益の主体が村にあるもの(入会山)〔野山〕(村民が秣肥草等を採取する山林)、〔稼山〕(渡世山ともいわれ、自姓が稼業のために用材、薪炭材を採取する山林)。
 (三)管理収益の主体が個人にあるもの。〔検地名負山〕(百姓持山林ともいわれ、個人が用材、薪炭材等を伐採する山林〕。
 津川氏は以上のように分類されているが、有木純善氏(4)はこの他に、冥加銀を納めて御林に伐畑開墾を行なう「伐畑山」もあったとされる。有木氏によると、承役官林の定請山と取山の記録は木材の商品化がかなり進行した近世中期から後期にかけて多くみられるが、取山は元禄期頃、定請山は万治期にそれぞれ存在していたと推測されている。上のように元禄期までに藩の林野制度の基礎が確立された(5)。
 (2)勝浦川流域における林業の発展
 近世における勝浦川域域林業の発展については岩井吉弥氏(6)の業績がみられるので、これに依拠しながら、現存する資料を掲示する。
 まず林産物の流送段階において、次の三つの費料がみられる。
 資料一(7)
  勝浦川筋分一之銀子弐貫目之内只今壱貫目上候慥受取候也
   元和七年七月廿日(1621年)
    蓬庵御印
     山内松軒
     寺沢六右エ門
 資料二(8)
   覚
水出之刻、吉野川筋、勝浦川筋、鮎喰川筋竝小谷筋村々田畠之上江流懸ル御用材木、附薪之儀、川長江罷出御奉行見分之上、立毛有之処分ハ、相応之地賃可被下之、立毛無之所ハ、不被下筈候、且又売人材木薪、流懸刻、木主方与地主方ヘ之地賃之儀、右同前ニ而候条、件之通可被申付候、以上。
 天和参年四月廿八日(1683年)
   賀嶋主水
  岩田小八兵エ 殿
  郷司孫右エ門 殿
  西  弥太郎 殿
 資料三
勝浦山之内とろ河内谷ニ而杉桧其外諸材木仕候而可申由尤候所江田村分一之事良喜入道江田之勝兵衛ニ申付候得其意可致取沙汰候也
 寛永五正月二十八日(1628年)
  蓬庵御印
   寺沢六右エ門 かたへ
 以上の17世紀の資料によると勝浦川流域においても木材や薪の生産が行なわれており、大部分は送流に依存していた。資料二にあるごとく、御林から伐り出されたであろう御用材木と売人(商人)などによる木材の伐り出しや薪の送流(バラ流し)もあったことがうかがわれる。さらに、勝浦川上流の殿河内谷などから杉・桧やその他諸材木が生産され、河口部の江田村(現小松島市)付近で、徳島城下ヘ積出す材木、薪炭には運上銀である分一銀(価額の5分の1)が徴収されていた。
 勝浦川流域には御林が2か所あった。それは現在の勝浦町立川の「立川山林」と現在の上勝町殿河内の「殿川内山林」であった。立川山林は木頭千本谷・日野谷日野と共に天然杉の美林として有名であった。一方、勝浦川源流付近で名西郡神山町と境する地域が殿川内山林である。
 徳島藩の御林では原則として地元農民の草木伐採を禁じていた(10)。ただし、伐跡地へは許可を得て下草の刈取りが許されたこともあったといわれる。
 さらに、殿河内山林における商人による伐採という形での用材生産が行なわれていたことを示す資料もみられる(11)。近世へ明治初期における当地域の林業生産の中心は主として用材以外の薪炭生産が地元農民によって行なわれていたといわれる。勝浦川流域において御林の他に資料的に確認される林野は、定請山・野山・稼山・検地名負山であるといわれる。まず検地名負山について、生実名瀬津村、寛政九年(1797)の資料を掲げておこう。
 資料四(12)
          覚
鍬先
一四畝 定請銀七分 勝浦郡瀬津村
    床銀八分       国蔵
はやし 
一弐畝 定請銀三分     同村
    床銀四分       同人
同所
一三畝 定請銀三分     同村
    床銀六分       長右エ門
鈴の尾北裏
一四畝 定請銀七分     同村
    床銀八分       源蔵
牛屋そば
一弐畝 定請銀三分     同村
    床銀四分       長右エ門
国ミ畠
一四畝 定請銀七分     同村
    床銀八分       八蔵
宮ノ前
一壱反 定請銀弐分 同村
    床銀弐分      守之助
  反数合九反五畝拾五歩
  定請銀合拾六匁
  床銀合拾九匁壱分 来午年与毎霜月上
 右者此度見分之上床銀召上其方共名負林ニ申付候条諸事御検地負ノ林同様相心得年々御運上銀無滞上納可仕候万一相滞亦者林木相衰往々御運上銀難相育儀等於有之者右土地召上尚越度可申付候仍而下札如件
  寛政九已年五月 日   坂東三左エ門 印
              吉田永作   印
              右願人共方へ
 右之通申ニ付候条林木不相衰様可遂裁判候万一不埓之筋於有之者其方共迄越度可
申ニ付候以上
  已五月 日
  右村庄屋五人組方へ
 以上は、瀬津村百姓源蔵以下六人が寛政九年に願を出して定請銀・床銀を出し、毎年運上銀を上納することを条件に名負林にしてもらったことを示している。
 つぎに、明治四年における野尻村の名負林についての資料を褐げておこう。
 資料五(13)
 明治四年勝浦郡野尻村名負林下札帳
片山北ハ瀬津村境南西東御検地名負畠地切
一下林三畝       床銭壱貫八百文     名負村中
            上木代五貫文
壱番          御運上銭弐拾文
樫山北ハ御検地負田地切東山畠御検地負切西南田地御検地切
一下林弐反五畝六歩   床銀拾五貫文      名負村中
            上木代弐拾四貫文
弐番          御運上銭壱貫八文
志太尾上ハ碓来屋田北ハ切畠境南八太切下ハ御検地負境    名負
一下林五畝弐拾七歩                      □□□
            床銭弐貫弐百文
         御運上銭弐百三拾四文
畝数合壱町三反壱畝拾九歩
 運上銭四貫八百六拾弐文
 当未年与毎年十一月二十五日切上畑
 床銭合百拾六貫四百壱文
 茶代合八拾壱莵ら貫七百九拾文
右者此度依願遂見分向後名負ニ居遣候条運上銭毎年限月無遅滞可被上納候依而下札指出也
   史生  広田国郎
  明治四年辛未五月
   権少属小倉本蔵
    野尻村願人共方ヘ
 つぎに定請山および渡世稼山の資料をみる。
 資料六(14)
          仕上御受書之覚
殿川内御林之内東八字津井谷御林検地負境切西ハ長尾切北ハ谷川南ハ野山境尾切但四方詰之内御検地負指除
一御林壱ケ処
  定請銀三拾目
但右四方詰之内地盤村中渡世稼山之処文政十亥年奉願上御運上銀被召上定請林ニ被印付候処定請銀難育ニ付(中略)従前通渡世稼山ニ御引戻願上御聞届ニ相成右場処ヘ杉弐百五十宛年々植付手入仕筈ニ相成植付済之上御見分之上同断御林之内ヘ植付可奉仕筈
  天保十二年六月
   瀬津村  善蔵
    半兵衛
    市蔵  連判
 林方検見奉行 殿
 この資料は従来「村中」が利用する入会林であったが、文政十年に瀬津村の善蔵ら三人が定請銀を上納することを条件に定請山にしてもらった。しかし、この定請銀を年々上納できなくなったので、再びもとの渡世稼山にしてもらうよう願を出した。この願は同所に毎年杉250本植付するという条件つきで認められた。ここで問題となる点は「村中」すなわち入会村野の利用形態である。近世入会は17世紀後半から18世紀前半にかけて成立するが、その成立条件としては生産力発展による従属農民層の独立が必要である。当地域には棟付帳が保存されていないので、従属農民が村結合に支えられて自立をかちとり、薪炭、採草、放牧たどのための入会林野の広範な発展がみられたかを検証できない。善蔵以下三人が従来「村中」であったものを独占的に利用してきた上層農民であったのかどうかに不明である。
 冥加銀を納めて御林に伐畑開墾を行なう「伐畑山」の存在を示す資料を掲げる。
 資料七(15)
切払稗粟小豆ノ雑穀物蒔付是迄渡無取繋為冥加年々■弐百五拾本宛植付上納奉仕居申儀ニ御座候所、御改政御趣意被仰渡奉農候間乍恐右長尾与リ宇津以右迄之内立毛難生土地引除株書付ヲ以奉願上候由、書付ヲ以御見分ノ上右床銭被召上村中之名負林ニ御仕居被仰付候御道モ御座候得ハ壱統御願出被下百姓役取繋冥加至極難有仕合ニ様奉存仰而右之段書付ヲ以奉願上候以上
   勝浦郡瀬津村百姓惣代
  明治四未年二月十日 梅塚宮平  印
    美馬牛五郎 印
    安井銀次郎 印
 民政掛御役所 様
右之通当村百姓惣代之者共与リ御願奉仕候段相違無御座候間乍恐奉願上通リ御聞届被仰付候得ハ私共迄重々難有仕合ニ奉存候仍而奥書仕付指上候以上
  二月十日 同村庄屋
    美馬要司  印
   同五人与
    吉積利平  印
    岸野幾太郎 印
    細束浅弥  印
 民政掛御役所 様
 上の資料は御林に毎年杉250本宛植付けるかわりに伐畑を行ない稗・粟・小豆を植付け、水田、本畑生産の米穀の絶対的不足を補っていた。しかし立毛が生じ難くなったので、村中の名負林にしてほしい旨願い出ている。藩の植林政策については、享保時代より農民利用の焼畑を御林に組み入れる政策がとられてきた。その焼畑利用の反対給付として伐畑跡に植林をさせた。このような焼畑造林が中心であった。
 山村農民にとって木材と同等ないしはそれ以上に重要な収入源であったと思われる木炭生産をみる。貞享2年(1685)に、勝浦郡殿河内・名西郡神領・上山の3か所の奥山で製炭するものは、その炭を徳島売と銅山売とに区別して製炭し、製炭竈1個につき銀子五匁が課せられ、徳島売の竈手銀は御林奉行へ、銅山売のそれは銅山奉行へ差出させていた。また製炭は指定されていた村の者のみに許可されていたことがわかる(16)。

2 福原地区における村落構造の変貌過程
 (1)対象地区の概観と地域的特質
 上勝町福原地区は藩政時代の旧村(大字)で、明治22年に生実村・旭村とともに福原村となった。図1に示したように、正木・日浦・平間に至る区域は勝浦川の穿入蛇行によって形成されたけわしいV字谷が発達し、南から杉地谷・月か谷などの支谷が合流する。集落は勝浦川の河成段丘上に陸地する平間部落を除いて、大部分は山腹緩斜面に立地する。


 旧福原村(福原・生実・旭)の林野率は96.2%に達し、農業集落27のうち、林業で生計を立てている農家の多い集落は20ある(17)。耕地利用は水田が卓越し、畑・果樹園(みかん)はあわせて30%以下である。
 (2)近世中期における村落構造
 近世中期の貞享3年(1686)の福原村検地帳(18)によると、表1に示したように、野尻村の2戸を除いた48戸の階層構成(うち下人3戸)をみる。10〜13石層は2戸、5〜10石層8戸(16%)、3〜5石層8戸、1〜3石層14戸(28%)、1石未満18戸(36%)で3石未満が64%を占める。
 所有面積からみると、2町以上1戸、1〜2町6戸、5反〜1町9戸、3〜5反9戸、3反未満35戸で3反未満が全体の70%を占める。


 一村全体の所有耕地面積25町9反1畝のうち田畑面積は54.3%にあたる14町8畝あるが、このうち田が9町3反1畝、畑が5町1反7畝で田が畑の約2倍ある。しかも1戸平均の水田所有面積は約1反9畝で、石高も1戸平均2.8石であり、年間せいぜい2人を養う生産力であった。それだけに、本田畑以外の山畠、切畑に依存する度合は高く、稗・粟・ソバ・キビ等の雑穀はむしろ主食であった。すなわち、山畠は2町5反5畝(9.8%)、切畑は8町9反3畝(34.5%)もあり合せて耕地面積の約45%を占める。それだけに本田畑を中心とした米穀生産の上に基盤があったのではなく、焼畑生産の上にあった。表1にあるごとく、村落上層農民には切畑・山畠の所有面積が大きく、これに対して、下層農民はおおむね小さい。また上層農民には生産力の高い中上田・中上畠の所有が大きいことも当然であろう。
 本村のような低生産を補うものには、上述のように、1 焼畑における雑穀と豆類、2 茶楮・桑・漆などの商品作物、3 役牛飼育、4 木炭・薪・用材などの林業生産物であった。
 いま2 の農産物について、貞享三年勝浦郡福原村上毛御検地帳(19)からみる。
  茶数千四拾九坪
  高拾石四斗九升
  楮数五百四拾五畔
  高壱石六斗三升五合
  桑数二拾七本
  高壱斗八升九合
  漆数拾三本
  高五升二合
 高惣合拾弐石三斗六升六合
以上のようであり1戸平均になおすと、茶は20坪、楮は10畔、桑は0.5本、漆は0.2本でほとんどが自家用生産であり、余剰分を商品化して生産するだけの発展はみられなかった。しかし、瀬津村の美馬家文書によると、明和〜天保期の楮皮代金書類や椎茸作付方についての文書・製茶の積下し、樟脳製造、作牛他国へ積出方についてなどの文書が保存されており、自家用以外はかなり商品化がみられた記録があり、この点の究明については今後の課題としたい。
 (3)元禄〜享保期における生産力の発展


 表2は元禄4年(1691)〜享保19年(1734)の約40年間にいたる6回の新開御検地帳より新たに開墾された田畠面積およびその石高を示した。とくに正徳3年(1713)には田畠合計2町1反1畝、石高7石4斗7升の増加がみられ、また、享保19年には8反7畝、4石7升の新開があった。元禄〜享保にいたる近世中期に4町1反3畝、16石5斗8升の増加があり本村のような低生産地帯においても生産力の発展がみられた。
 しかし、勝浦川の度々の濫氾によって、下位濫氾原上の田畠や茶、楮などの樹木畑が被害を受けている。
 資料八(20)
 享保十九年勝浦郡福原村川成改引帳
本高七石四斗七升五合之内正徳三年御帳
□□ぶち壱本地四畝六歩四斗六升弐合之内中田廿一歩七升七合 与一兵衛
 引分三畝十五畝三斗八升五合
   請夏秋納升四ッ成
   麦高石二六升懸
本高壱石七斗七升壱合之内享保十一年御帳
た国ノ向本地弐反拾弐歩壱石四斗弐升八合之内下々下田壱畝廿四歩 壱年弐升六合 為左エ門
 引分壱反八畝十八歩 壱石三斗弐合
 請麦懸り右同断
右者亥戍ノ秋与御年貢引
  享保十九寅年十一月十日
      武市甚左エ門
      川田喜惣弥
      塩田平次右エ門
      猪子八右ヱ門
 資料九
 享保拾九年
 鍬下三年床銀四匁
 勝浦郡福原村川成床開帰指出帳
下久保本地壱反四畝拾弐歩弐石三斗四合ノ内上々田八畝拾弐歩 高壱石三斗四合 先名負
 内五畝六歩 高八斗三升二合 徳兵衛
 同三畝六歩 高五斗一升二合 願人
  御請夏秋納升四ッ壱分 為右エ門
             惣左エ門
   麦高石二付三升六合一勺懸リ
右之通当村田地元禄十五午年川成御引捨被遊下候所、此節少々宛愈上リ申候尤今以荒石原ニ罷成居申候エ共私共名田無数御座候ニ付開戻ニ奉願上候御鍬下五カ年被下居候ハパ土入相仕荒石取除ク則土手堤ニ仕度奉存候御成米之儀ニ御座候ヘバ少々之冥加銀上納可仕候条御慈悲之上奉願通被為仰付被下侯ハバ難有可奉存候以上
  福原村願人 惣左エ門 印
   為右エ門 印
 享保拾九寅年三月十五日
御蔵所 様
右奉願通相違無御座村中付之障モ無御座候間奉願通被仰付被下候ハバ私共占難有可奉存候当村庄屋元兵衛様去秋病死仕伜無御座今以組役人不被仰付候ニ付私共奥書仕指上申候以上
 寅年三月十五日
  福原村五人与 惣左エ門 印
  田野々村五人与 徳兵衛 印
御蔵所 様
右之通其方共開地ニ願出村申相鍬御之処モ無之旨申出侯ニ付当寅カ来ル辰迄三ケ年鍬下遣シ翌已年与御年貢成ニ相極願之通夫々名負ニ申付候条随分開立鍬下明与右請麦懸之通御年貢上納下仕候若開不立候ハバ早速田地召上其上越度可申付候以上下札
如件 御蔵所 印
 享保拾九年三月十六日
   右村願人共方へ
右之通開地申付候条若開不立候ハバ早々可申出候以上
     御蔵所 印
   三月十六日
      同村庄屋五人組共方へ
 以上の資料によって、川成床八畝拾弐歩の再開墾とその鍬下年季を願い出ている事情がよくわかる。
 (4)近世後期(文化期を中心として)


 図2に文化10年(1813)の福原村平間部落における土地利用状況を同村分間絵図より作成し示した。同部落は勝浦川と杉地谷川の合流地点にあり、勝浦川の右岸の段丘上に耕地と家屋が立地している状態がよくわかる。杉地谷合流地付近には広大な河川敷が広がり、両岸には岩石段丘の発達している様子を物語るように岩が露出している。耕地の大部分を水田が占め、畑は上位段丘面と高位斜面に分布し、家屋もここを占地している。
 明治19年の福原村地籍(22)によると、田は4畝6畝23歩(67筆)で、畑は3反1畝19歩(16筆)、宅地は6反6畝1歩(15筆)、寺院敷地8畝8歩(15筆)である。しかし、本田畑を築くための崖が1町1反7畝25歩、石地1畝1歩もあり、溜池4畝23歩(2筆)、畦畔1町1反7畝11歩、用水路敷1反8畝28歩(11筆)で、いかに多くの労力を投入して田畑を開墾・修復したかがうかがわれる。
 山林は29町6反4畝25歩あり、このほか村中の入会林野が7反5畝21歩(2筆)みられる。
 表3には文化11年(1814)の福原村地調掴帳(23)(3冊のうち1冊)より作成した39戸の階層構成を示した。39戸のうち小家と記載されているものが3戸みられる。石高でみると1石未満が19戸で49%、3石以上は7戸(18%)、1〜3石は13戸(33%)で中間層が少なく、前に示した貞享3年(1686)に比較して、1石未満が増大し、3石以上は減少している。また3石以上層は切畑、山畠の面積もかなり大きく、茶、楮などの工芸作物の栽培も大きいことが知られる。


 表3で注目すべき点は所有耕地面積の52%が切畑と山畠で占められていることである。低生産力地帯にあって、水田の造成が困難であれば、焼畑農業に依存せざるを得ない状況を反映しているものと考えられる。
 (5)明治初期における土地利有
 明治4年の廃藩置県が行なわれ、徳島藩においては藩有林は民間に払下処分にされ、それまでの取山や名負地の所有者は下流商人や地元上層農民に個人所有地になったといわれている(24)。有木氏によればそれ以外の買手のつかない奥山や荒れ山は、極めて安い代価で村へ「共有地」として払い下げたとされている。
 福原村において明治維新〜地租改正の変革期にどのような土地所有が形成されたかは定かでない。
 いま図3に明治9年の地租改正期における同村の空間的な配置を示した。

第1号字の下日浦から第14号字の杉地までの集落が第七号字の平間を除いてそれぞれ山腹緩斜面に立地している。大正4年に福原街道が開設される以前の道路交通の配置状態がよくわかる。勝浦川沿いの道路と各集落をつなぐ道および杉地谷より那賀郡内山村(現相生町)と平間より月ケ谷を経て横瀬立川にいたる峠道がみられる。
 表4に明治19年における各字別の地籍の内訳を示した。

総地籍の84%が山林と山で耕地は61町2反1畝で総地籍の5.2%である。
 明治9年における福原村の村持林野(入会林)は『山林原野丈量反別壱筆限帳』によると、表5に示したごとく、26筆、215町4反2畝で林野反別21.6%に相当する。かなりの広範な入会林野の形成ぶりを反映している。

とくに奥山に多く、杉地48町3反、吉ケ平46町3反、月ケ谷52町6反2畝、下日浦252反4畝に多く見られる。このような入会林野がどのような過程を経て形成せられたかは不明である。
 つぎに明治3年の福原村戸籍下調帳(25)より階層構成をみると、表6に示したごとく、1町以上6戸(5%)、5反〜1町11戸(9.2%)、3〜5反28戸(23.3%)、3反以下61戸(59.2%)で、貞享3年、文化11年と比較して大きな変化はみられない。


 さらに、福原村内に所在する山林の所有面積規模別階層をみると、20〜50町4戸(3.5%)、10〜20町13戸(11.5%)、5〜10町17戸(15.0%)、1〜5町50戸(44.2%)、1町未満29戸(25.6%)で1〜5町層が最大部分を占めている。
 所有耕地面積の規模と山林保有面積のそれとはおおむね正比例しているが、杉地・吉ケ平、月ケ谷などの奥山の農家には104番農家のように所有耕地8畝山林12町5反の例外もみられる。4番農家は1町2反3畝の耕地と村内最大の山林面積46町5反5畝を保有し、1番、2番、6番農家とともに、地元上層農民を形成している。
 明治3年の田畠面積22町9畝に対し、山畠(大部分は焼畑と考えられる)が17町4反7畝もあり、耕地面積の44%を占めている。1戸平均の水田面積は1反3畝にすぎないが、水田を全く所有しない農家は9戸にすぎなく、また、山畠(焼畑)を全く所有しないものは8戸にすぎない。すなわち、水稲と焼畑農業はきわめて密接な補完関係をなしていたものと考えられる。いま表7に明治20年の福原村焼畑明細帳を示した。

これによると41筆、8町3反5畝18歩の焼畑が行なわれ、ほぼ20〜25年の輪換年限で、初年にソバ、第2年目に粟、第3年目小豆または裨が植付けられている。この焼畑面積は同年の畑面積19町7反6畝の42%を占めており、とくに、杉地、栩ケ谷、上日浦、北川などに多く分布している。焼畑は輪換年限が15〜25年にわたるので、台帳に表われた面積の約30倍の林野で行なわれているものと推定されている。この計算に従うと、福原村では約270町歩になり、総林野面積の27%が焼畑農業にあてられていたことになる。いずれにしても、自給経済下で、裨・粟・ソバ・大豆を栽培収穫しなければならない必要から、焼畑への依存度は高かったとみなければならない。
 しかし、明治初期の地租改正は焼畑地や入会林野にも金納地租を強制したので、それによって促進された商品経済の浸透は農業に現金収入の道を期待できない山村農民の分解を早める結果となった。焼畑共有林や入会林野が激しい分解をおこし、地租改正から明治14年のデフレ期にかけて、すでに地元農民の手から放れており、村内外の地主・商人資本の手に集積が生じていたといわれる(26)。


  おわりに
 以上、勝浦川上流における林業の発展と大字福原村における村落構造の変化の過程を概観してきた。林野の存在形態では、御林と定請山・名負林・渡世稼山・伐畑山などの関係を明確にすることができなかった。また地租改正以降における入会林野の形成と分解および村内外地主や下流商業資本による林野の集積の過程とそのメカニズムなどは捨象されている。さらにまた低生産力の自給経済下で地元農民にとって最も重要な食糧確保の役割を担った焼畑の実態とその配置が不明であり、村落構造の上でいかなる階層によって主として行なわれたのかという問題点が残る。
 さらに、入会林野の形成が主としていつ、どのような形態で行なわれたのか、また遅れた経済構造をもつ隔絶された山村で、従属農民の経済的自立を背景として形成されたのかどうかという重要な問題点が残された。上勝町にはこの問題をさぐる重要な手がかりとなる棟付帳が全く保存されていないことも残念であった。
 以上のような諸点を将来において解明することを期して本稿をおく。
〈注〉
1)有木純善(1969):古屋川流域における林業の展開(四手井綱英、半田良一編著『木頭の林業発展と日野家の林業経営』所収)。
同(1972):藩政期の林業と林政(徳島県林業史編さん協議会編『徳島県林業史』所収)。
2)岩井吉弥(1972):勝浦川流域における林業の発展(前掲『徳島県林業史』所収)。
3)津川正幸、近世の木頭林業 関西大学経済論集6の5 P55。
4)有木前掲1):古屋川流域の林業、P246。
5)有木前掲1):『徳島県林業史』、P9。
6)岩井前掲2):P191〜207。
7)『勝浦郡志』中編 P55。
8)農林省編『日本林制史資料:徳島藩・宇和島藩』、P70。
9)『勝浦郡志』中編P56。
10)前掲『林制史資料』 P39(寛文十年の記録)
11)『徳島県史』第2巻 P383。
12)上勝町福原村瀬津の美馬治文氏蔵文書。
13)上勝町役場蔵文書。
14)『勝浦郡志』中編 P289。
15)前掲美馬家文書。
16)有木前掲『徳島県林業史』P24。
17)1960年林業センサスによる。
18)上勝町福原村平間の山本英和氏蔵
19)上勝町役場蔵
20)山本家蔵文書
21)山本家蔵文書
22)上勝町役場蔵
23)山本家蔵文書
24)有木前掲:古屋川流域における林業 P263。
25)上勝町役場蔵
26)有木前掲:P54。


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