阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第22号
大粟文化圏と板碑について

郷土班 石川重平

1 大粟文化圏考
 阿波学会が神山町地域の学術調査を行い,阿波郷土会が歴史一般を担当し調査をした。
 私はその中の一人としてこの調査に参加し日頃考えていた大粟文化圏と板碑について,上代から中世に至る調査研究を行いこの稿にまとめ報告をする。
 どこの市町村でも言えることであるが上代から古墳時代,奈良時代,平安時代と続く資料は少く神山町に於ても,弥生式時代の銅剣が5本も出土しているのに古墳時代,奈良,平安時代の資料が皆無と言ってよいほど少ない。だだ1つ下分上山で内黒の腕形土器が出土している。これは弥生時代後期から古墳時代に続く時期のもので,初期の埴師器ではないかと考えている。
 中世時代に入ると古文書,板碑などだんぜん資料が多く見受けられる。
 四国三郎と呼ばれる吉野川の第一支流である鮎喰川は,四国の霊峰剣山に源を発して吉野川とやや平行に北東に向って流れ下り,徳島市の北西で本流の吉野川に流れ込み,紀伊水道にそそいでいる。
 吉野川と鮎喰川の三角州の沖積層には阿波国の上代文化の中心地であり,阿波国の国府司庁,阿波国分寺,国分尼寺などの国家施設が設置され,これらの場所はいずれも鮎喰川流域沿いに建設されている。神山町はこの鮎喰川流域に点在する集落によって形成されている聚落集団であり,鮎喰川流域のほぼ中央にあたる神領上角には,阿波国の祖神である大宜都比売神を祭神とする上一宮大粟神社が鎮座する。
 土地の名称については,徳島市入田町以西名西山分の土地は古くは名方郡に属し,埴土郷(波爾)であり,名東郡は殖粟郷(恵久利)であり,内谷,矢野,一宮,佐那河内がこれにあたるので,後世には以西郡として一郡を作っている。
 この大粟の郷は「阿波国徴古雑抄」所載の長講堂文書によると,元享3年(1323)3月23日長講堂領阿波国一宮大粟〜とあり,埴土郷は荘園として一宮大粟と称され,長講堂となって持明院統が伝領せられたのである。その後一宮成宗が一宮大粟の地領となり,徳島市一宮に城を築いてより,名西山分を単に大粟山と称したのであろう。
 阿川宮分の勧善寺所蔵の大般苦経172巻の奥書に,於阿波国名西郡大粟山尾呂野観学坊書写了,至徳4年11月4日とある。元享3年は鎌倉時代末期の年号であり,至徳4年は西紀(1387)で元享3年より64年後の南北朝時代の北朝の年号である。
 大粟郷に鎮座する阿波最古の袖,大宜都比売神は,古伝読では阿波国を開き,粟を植えて農耕の法を教えられた。その地域は名西山分であると言われている。この神を祖神と崇める一団の人々が鮎喰川を遡って定住し,大粟文化圏を作ったと考えられるのである。その部族の祖神である大宜都比売神の宮司になることは,すなわちこの地域を統治する資格者である。それ故に阿波国の武士団の頭梁や豪族の長などはこの神社の宮司になることを競いあった。これらはこの神の鎮座する神領盆地(鬼籠野,下分上山をふくむ)という稲作地帯,すなわち有力な経済基盤があったからでもあろう。
 阿波国の豪族田口氏は平安時代より南北朝時代にかけてこの神社の宮司をつとめていた。田口氏は平城天皇の大同3年(808)5月9日,庄少弁従五位下,田ノ口息継が阿波国の国司に任ぜられ,阿波国府に来り阿波国の国政を行った。国司の任期は4年間であり,任期が終り都に帰ったが都では藤原氏の全盛時代であり,田ノ口氏は紀系であるので,重任に就けず自分の先の任地である阿波国に来り,石井町高川原大字桜間に館を築いて,この所を本処に吉野川下流と鮎喰川の三角州の土地をしだいに荘園化し私有地とし土着して阿波国の豪族となった。その子孫である桜間文治は,天慶3年(940)4月藤原純友が瀬戸内海で反乱を起こし天皇に叛いた。田ノ口氏である桜間文治は瀬戸内海水軍を引いて純友を討って,南海を平定し得るほどの一門の武士団の頭梁に成上っていた。阿波国で歴史上の人物として登場するのは桜間文治が最初の人物である。この田ノ口氏が名西山分の大粟山にも勢力を伸し,大宜都比売神社の宮司を兼ねていた。田ノ口氏が神宮として奉仕したことから,この神社の御名を神宮の田ノ口氏の名を取って田口神社と称していた時期もあった。
 田ノ口氏は平清盛に仕え平家水軍の総指揮者として忠誠を尽し,兵庫の経ケ島を築いた。平家没落にあたっては讃岐国八島に御在所を構築し御座船を仕立て,安徳天皇をお迎えした。日本海軍の司令長官であった田ノ口成良は大宣都比売神社の宮主となり,国造家と称してこの宮の宮司職をつとめた。
 平家物語巻11先帝御入水の条にこの成良のことがくわしく書かれている。その中で「息子田内左衛門教能を生捕せられ今は叶わじと思いけん」とあり,八島の合戦で一人息子の教能を源氏の伊勢三郎に捕えられた。平家最後地壇の浦で戦死した田ノ口氏は,一族郎統を引きつれて伊矛国川之江に上陸して,自分の領地桜間に帰り,やはり大粟神社の神職をつとめていたようである。
 平家を滅した源頼朝は,近江源氏である佐々木経高を文治2年(1186)に阿波国,土佐国,淡路島の三ケ国で守護職に任命した。佐々木氏は阿波国で鳥坂に城を築いて此の所を本拠として三国の守護に当った。鳥坂城は,現在の名西郡石井町字鳥坂にあり,佐々木氏が何故この位置を選んで館を築いたかについては5萬分の1地図の川島を見れば解るように,この鳥坂城は剣山山脈の東端にある山塊,海抜212mの気延山の山に延びる丘陵線の北の突端75.9mの山頂にある
ここからは阿波国府司庁が東1km足らずの所にあり,北方には前記の阿波の豪族桜間館がやはり1kmほどの位置にある。察するところ両地の旧支配者に対してにらみをきかすためにこの地を選んだものと考えられる。
 承久3年(1221)5月14日,後鳥羽上皇は執権北条義時の横暴を怒り,経高に討幕のはかりごとを打ち明けて,天皇方に加わるようにすすめた。この承久の変で宮方に付いた佐々木氏を討っために北条氏は甲斐源氏の小笠原長清を阿波国に入国させた。佐々木氏の阿波経営はわずか35年間で終り,かわって佐々木氏を滅した小笠原氏が阿波国の守護職となり,鎌倉時代,南北朝時代にかけて阿波国の実権を握っていた。
こうした政変の移り変わりにも田ノ口氏はやはり大粟神社の神宮職を続けていた。
 小笠原氏が阿波国を経営し実権を握る上で池田町に大西城を築き,名東郡一宮には一宮城を築いて小笠原成宗を配した。一宮城主になった成宗は一宮城の後方神山町神領に阿波国の名族田ノ口氏が大宜都比売神社の宮司であり,神領盆地の支配者であれば,何時叛乱をおこし,寝首を切られるかが心配であり,枕を高くしてねむることは出来なかった。それ故に一宮氏は田ノ口氏を討ち,自ら阿波国造と称して大粟神社の神官となった。
 田ノ口氏の一族はこの神山の地をはなれ,参州牛久保の城主牧野康成〜忠成がある「阿波国徴古雑抄巻7」728項に載っている。
 つぎに出土資料から見た古代神山町は,明治10年頃下分の白土利太郎氏が2本の銅剣を掘り出した。この場所は鮎喰川右岸にあたる左右山で左右山橋から東南におよそ100mほど登った左右山川右岸の畠のきしで地ならしをしていた時,石垣の下から出土したという。それは平形銅剣で出土した時には麻布でつつんであったようであったという。
 現地は海抜300mほどの所で全国に於ける銅剣出土地としては最高の位置といわれている。それを持って帰って木箱に入れて神棚に祀っていたのを,昭和初年に森敬介氏がゆずり受け徳島市に持ち帰っていたが,村中で問題となり,徳島県の社青課が中にはいり,村にかえされ下分小学校で保管されていた。昭和15年9月27日付で文部省から重要美術品として指定された。その後下分支所に保管されている。
細形銅剣と称されるものに近い形で穂先が少しかげているが,長さ44.8cm,幅5.0cm,マチ幅4.2cm,最広部5.15cm刺状突起の部分5.8cm,厚さ1mm,刃は極めて鈍くこれは利器から脱して際器,あるいは儀式用としての形式化する平形銅剣への移行を示すものである。


 広い方は全長46.1cm,マチ幅5.5cm,広い部分で5.4cm,最も狭い部分で4.94cmほどのものである。次にこの対岸である鮎喰川北岸の東寺,農業山根実太郎氏が銅剣を掘り出して祀っていたことが解り,これは山根氏の自宅の畠の中に榊神社という屋敷神があり,四方を囲んであったが,それを大正9年に神社に合祀した。それからしばらくして整地をした時に出てきたが,たしか春であったと思うが,礫石を積んであった下にあった。それを船戸様の石垣の間に置いて,礫石や瓦は川へ捨てたからその中に破片がまじっていたかも知れない。それは昭和5年から10年の間で山根実太郎さんは当時(昭和30年)78歳であったので,記憶が不確実であった。その実太郎氏の孫が中学校に持参して下分中学教諭の稲飯幸生先生に見せ,先生は昭和30年10月15日に飯田義資氏に書簡で報告した。同12月14日当時東京国立博物館考古学課長三木文雄先生に見せていよいよ銅剣であることが確認された。これは銅剣3本でその中の1本は穂先の部分が少し欠損しているだけで,全長31.6cmで,刺状突起のやや下で2つに折れている。他の2本の寸法は略す。
 この出土地点は前に出た南岸に対して対抗する北岸から出たもので非常に資料的価置の高いものであるといえよう。これらの5本の銅剣の出土は鮎喰流域の古代文化の形態を示す資料であると共に鮎喰川下流と上流地域の文化形態の相違が知られる資料として重視している。
 それは,鮎喰川の下流と上流とを区別する咽喉首に当る現在の徳島市国府町矢野字源田には昭和23年3月中旬に銅鐸3個と銅剣1本が搬出するという貴重な遺跡があり,源田遺跡の南を流れる鮎喰の南岸には昭和34年8月に銅鐸3個を発掘された安都真遺跡がある。この2つの遺跡は鮎喰川をはさんで南北両岸のほぼ1直線上にある遺跡である。
 源田遺跡は,この山の持主である出口繁蔵さんが開墾中に掘出したもので,実に見事な袈裟襷文の銅鐸2個とその他に破片の銅鐸1個とその中央に細形銅剣1本が搬出したもので,全国的にもめずらしい遺跡であり,その埋入状態は図に示す通り3個の銅鐸は1辺の長さ1.10cmほどの正三角形に埋められていて,銅剣はその中央,より西西北に向かって斜面に向って北にずれて倒れていた。この銅剣は日本で1番長い54.3cmで細形,平形を通して最大のものである。
  日本で銅鐸と銅剣の搬出した遺跡は
   1期 広島県安佐郡福木村字福田
   2期 香川県小豆郡安田村字安田
   2期 徳島県名西郡入田村矢野字源田
   3期 香川県三豊郡一宮村大字羽方
 昭和48年11月に島根県八束郡鹿島町佐陀本郷より第2期の中広形銅剣6本と袈裟襷文銅鐸1個が出土した報告がある。
 安都真遺跡は正しくは徳島市入田町字安都真268番地の山林で高橋寛一氏所有の遺跡である。昭和34年8月26日に此所を開墾中3個の銅鐸が1ケ所に竝んで発見されている。

 徳島県で現在までに発見されている銅剣数は細形,平形を合わせて前記の源田の細形銅剣1本,神山町左右山の平形銅剣2本,同じく東寺で平形銅剣3本と美馬郡西祖谷山五社大明神の平形銅剣1本で合計7本となっている。
 その中にはこの祖谷山のものは出土地も不明であるばかりか,現在は所作が不明になっていて現物をみることが出来ない。現在出土地も解り,現物も残存する銅剣では,この鮎喰川流域出土のものだけである。
 四国の中では愛媛県が銅剣43本,銅鉾20本で銅鐸は発見されていない。
 香川県は銅剣52本,銅鉾8本。高知県は銅剣2本,銅鉾11本
 これは昭和35年の調査であるから其後多少の増はあると考えられるが,今日に於ても愛媛県では,銅鐸の出土はないようである。
従来の学説では,銅剣文化は北九州文化圏といい,銅鐸文化は近畿文化圏であると考えていた。しからばこの神山町すなわち大粟文化圏は,古代北九州文化が強く支配していたのではないかと考えさせられるのである。
  日本に於ける銅剣の分布状態は
   1北九州 2九州,四国西半径 3中国,四国近畿西南であり
  銅鐸の分布状態は
   1四国,中国,近畿東部 2近畿 3伊勢湾周辺である。

 

2 板碑考
(1)神山町の中世
 板碑とは,石で造くった,卒塔婆のことで偏平な板状であることは,主として緑泥片岩という粘板岩質の材石を使用しているという基本的条件に左右されているものと思われる。
 形態は,頭部を三角形にとがらしその下に二条の線を刻にその線が側面にまで廻ているものもあり碑面には輪廊を造り,種子(如来や菩薩などを像として表わすかわりに,梵字サンスクリット古代インド文学を組みあわせてその味意を示すもの)で自分が信仰する仏を刻しそめ下部に造立の主意や願文を刻し更に造立年月日を刻してある。
 徳島県には今のところ3500基〜4000基の板碑が残在している。私は板碑と取り組んで40年あまりになり,この神山町の板碑を調査し当時徳島毎日新聞史談に鮎喰川流域の板碑と題して昭和13年8月8日より6週間わたり報告発表した。
 それから17年過ぎているが,まだ実見していない板碑も沢山あると思う。
 幸い当町の文化財保護委員の方々によって約400基あまりの調査をなされている。私も今年の学術総合調査に参加して今までに調査済のものは再調査し拓本を取り直したり,文字の判読をもした。他の金石文の調査をやっている人にしかられるかも知らないが。この学問をやっている人の中には拓本を取らずに文字を読んだり拓本を取ってもそれをためるだけを趣味にやっている人も多いようである。
 板碑を学問の部分ではいまだに「昭和8年に出版された服部清五郎著の板碑概説」の論説より一歩も進んでいない。
(2)版碑創建当時の世相
 平安時代末期から,鎌倉時代の初頭にかけて各地で兵乱や天災などによる社会不安の混乱と結びついて,末法思想が広ろがり,現世で平穏な生活が望めないなら,せめては死後には魂の安らぎを頼おうとする関心が強くなった。
 こうした世相の中から従来の仏教にあきたらない人々による新らしい仏教を求める動きが生れた。阿弥陀の慈悲にすがって極楽浮土に往生しようとする教え,いわゆる浄土信仰である。浄土信仰は10世紀の空也の踊る念仏や,源信の往生要集が広ろまり鎌倉時代には末法思想をもとにして新らしい宗教運動がおこった。法然と親鸞,法然は天台宗や真言宗がむつかしい学問や修業をおもんじたにたいし,だれでもただ一生懸命に念仏を唱なさえすれば阿弥仏は極楽にさそってくれるという,浄土宗をひらいた。弟子の親鸞は善人さえ極楽に往生できるのだからまして悪人が極楽に往生できないはずがないとのベ法然の教をさらに一歩すすめた,これを悪人正機の説という。
 親鸞によると人間は自分の心をよく反省すればするほど心の奥底にかくれている悪に気づくものである。末法の世に生きる人はみな罪深い悪人ですくいの道は自分をすてて阿弥陀の慈悲をたのむほかはない,仏の慈悲は僧侶や貴族といった特別の人々だけをすくうものではない,どんないやしい職業に従事していても弥陀を心から信仰すれば,男も女も平等にすくってくれるという,これが浄土真宗である。
 法然の教えを受けつぎこれを発展させることによって,新らしい立場に達したのが親鸞であるとすれば,法然の教をうち破らうと努めながらかえってその影響を受け彼と同じ立場に帰着したのが日蓮である。法然の一派が末世の凡夫は聖道の行にたえがたく念仏の他に往生の道―としたのに対し日蓮は法華経こそ諸経の王,最勝の教えであり末世凡夫は阿弥陀の教の如き浅き教えによって救われるものでなく唯,法華教を信ずることによってのみ成仏することが出来ると主張した日蓮は法華経最勝の立場からその宗教思想体系づけ五綱,三大秘法を説き法華経こそ現在の日本に広めるべき唯一の教えであることを論証した。
 日蓮は温厚な,法然や親鸞と違いその思想も行動もすこぶる戦闘的な精神にみちていた。
 新仏教と旧仏教がこのような関係をもってたがいに刺激を交換してゐる間に,これとは全く別個の新らしい一つの流れを形ち造ったのは禅宗であって,禅はその法系に於て印度にさかのぼるといわれ,またその修業の形式にも原始仏教のそれを忠実に伝えているとしながらも我国に渡来した宗代の禅宗は実は全く支那に於て独自の発達を遂げ支那僧堂の特殊な生活様式を特長とする純支那的宗教であった。
(3)板碑が創建された時代の人々の精神生活
 平安末期以後,いわゆる中世という時代には日本の各地でそれぞれの土地に処る土豪を中心に土着の小勢力が血縁などによって結びついて武士団が形成された。かれらは,たがいに領地をめぐって果しない争をつづけていた,他人の領地を奪いいあい,あるいはやぶれては,一族郎党と共に新天地を求めて各地を流れ歩いた者もいた,それらの戦闘の前面で常に主役を演じているのは,中,下級の武士たちで彼らは下人を従えて絶えず戦場をかけめぐり,血なまぐさい殺しあいの場に臨んでいたであろう,肉親同士が戦場で刀を合すことも珍らしいことではなかった,武士団の統領として鎌倉に幕府が出来てからも,領地をめぐって小ぜりあいは絶えなかった。いざ,戦いともなればいやでも戦場に赴かねばならなかった。
 つねに死と敗北の凄まじさと直面し,罪業を犯さなければならない運命を負わされていた彼らには,明日をも知らぬ,生の不安,犯してしまった罪業への苦しみ,地獄へ墜ちるかもしれない死後の世界への不安がぬぐいきれないものとして重なりあっていたであろう。
 その苦しみを救ってくれるものなら何にでもすがってみたい,そうした彼等の気もちが阿弥陀仏ヘの信仰を受け入れ,浄土での住生をかなえてもらうための行為へとかりたてていったものと思われる。
 板碑を造立したのは,武士や土豪といっても広い領地があったり幕府の中の権力者で寺や堂塔を建てることのできる上級武士とはちがって,それほど経済力を持たない中、下級の者で彼らはそれぞれの領地で下人や農民に田畑を耕作させ,土地の関発や治水の指揮をとるなど,土地と着した生活をしていた。農繁期ともなれば,田植や刈入に白分も働らかなければならない者もいたと思う。その点からすれば歴史上有名な人物が板碑に表わさてくる可能生は極めて少くないと言えよう。
 板碑の造立は鎌倉時代の中ごろから盛になり南北朝時代を経て室町時代まで続くが,時期によって造立した人々の層が少しづつちがっていることが形や銘文などによってある程度わかる。
 初期のものは大型のものが多く比較的経済力があったと思われる,名主や地頭,それと関係をもつ僧侶の名が見受ける。たとえば藤原成弘(板野郡板野町矢武金剛院所在,応安板碑)内藤入道行心(徳島市寺町浄智寺所在の貞治6年板碑)など名門の姓を持った者や僧位を示す僧侶の名前が表されている。
 後期には小型のものが多く標式の種子にも勢がなくなんとなくいしゅくした感じのものが多くなり法名にも沙弥何々とか二郎三郎など農民の名前と考うれる法名の板碑が多い。
 そのほかに逆修供養の標しに建られた逆修板碑や,多勢の人が集つまってお金を出しあい一基の板碑を造立した,いわゆる結泉板碑なども造立されている。
(4)板碑の終末
 板碑が造立されたのは,政治的にも,宗教的にも経済的にも大きく揺れ動いていた時期のことで,政権の文代や生産の必要から社会の上層,下層をとわず人々の流動は現在私達が考えている以上に活発だったようである。
 それが一応の安定に向かおうとするころ,すなわち,中世から近世へ移っていくその繋ぎめの時期にバッタリと板碑が消えている。
 これは一体どういうことであろうか,よほど大きな宗教生活上の変化があったとは思われるが歴史に名を残すような人々が関係していたものでないだけにその理由を文献上にあきらかにすることはできない。
 もちろん板碑だけを材料にしてそれを考えることは不可能に近いことで,民族学や,宗教史学などと一緒に研究する必要がある。
 前にも述べたが中世において墓標を建ることの出来る階層はかなり限定されていた 近世に入ると寺檀制度の確立に伴ない寺院と関連して墓地が形成される傾向が認められ墓標の普及が促進されてくる。しかし五輪や宝篋印塔などの墓標として建立しえない階層は板碑型をした簡素な墓標を建るようになる。たとえば,神山町字広野ヨメゴーチにある板碑型墓標がそれである。総高50cm足らずの板石に碑面に輪廊を付け上部に弥陀三尊の種子を刻しその下部に妙西禅尼と四文字の銘文を施したのが見受られた。
 このような場合供養塔婆は,木製あるいは竹などの材料に変化していったので残在されなかったものと思われる。
る坂道登り松尾部落の氏神社の東側に相原一家がある板碑は,相原家の母家の東側を山手に50mほど登ったところに南向にすこしうつむきに立っている。板碑の全高地上160cm,幅50cm,厚さ3.5cm,相原家の奥さんにも手伝ってもらい拓本を取った。碑がうつむいているのと真夏の暑い太陽が照り付け,苦労の末やっとのことで1枚の拓本を取ることができた。最初見た時は銘文は読めないのではないかと心配していたが,拓本を取って見ると標識の五輪塔は無論のこと地輪に刻されている,造立の主意や年月日まで読むことが出来た。
 銘文によるとこの板碑も駒坂板碑と同じ逆修善根故に造立したことがわかり年号も明徳元年である。年号,銘文が同じであるばかりか寸法及形態も全く同形で五輪塔の様式も同じである。これは,碑文や梵字を書いた僧侶も同一人物でありこれを造った石工も同一人物であろう,駒坂の碑も松尾の碑も同じ逆修の供養の為造立したことである。
 逆修とは預修とも書き生前に死後の菩提を利かさんがため修する法要で37日,あるいは,77日の間一定の法式に従って修するなどその方法は各流各人によって異なるであろうがその根本は灌項随願往生十方浄土経第11の
  普広菩薩復白佛言 若四輩男女 能解法戒
  知身如幻 精勤修習行菩提道 末終之時
  逆修三七 燃燈續明 懸絵旛蓋 請召泉僧
  轉誦尊経 修諸福業 得福多不 佛言普広
  其福無量不可度量 随心祈獲其果
 なる文にも書かれているといわれもってその修法を知ることができる。
 太平記巻10 監田父子自害の事の條に,「先立ちぬる子息の菩提をも祈り,我逆修にも備へんとや思はれけん,子息戸骸に向いて年来誦み給いける,持経の紐をとき要文処々打ち上げ心閑に読語し給いけり」
 と見えているのも南北朝時代の武士が逆修のために読経した一例とも見るベきである。
 法然上人の作といわれる書冊が世に傅っているが,これによれば浄土宗内に行なわれた逆修法と見ることができるその37日の條に逆修の功徳を説いて
 阿弥陀佛如此願行成就,得此壽命無量徳也,然則今此逆修77日間供佛施僧之営,即是壽命長遠業也,と記してあった。これらは阿弥陀佛を中心として行う逆修の供養の功徳を説いたものである。古文書に残っている逆修の行なわれた最古のもので「百練妙」に見える正歴5年(994)10月2日に関白藤原道隆が東三條に於て逆修の修法を行ったと記されている,また嘉應2年(1170)10月に入道相国平清盛が福原で逆修をしたこともよく知られている。
 板碑に現われてくるのは鎌倉時代末頃で南北朝時代にかけて多く造立され室町時代に稍や少くなりその余韻は江戸時代にまで及んでいる。
 また板碑の願文の中に「七分全得」の文字が多く見受られるがこれも逆修の意味でる。
 この主意は「地臓本願寺」の中でくわしく説かれていて,死後の追善供養は七分の功徳の内六分は供養者の所得になって亡者には一分のみの功徳しか与えられないが,しかし生前に善根を施せば七分功徳はすべて行者の所得になるというのである。
(5)神山町の面像板碑
 神山町の画像板碑は,年号在銘のもので3基あり広野長瀬の旧道路の峠の道の北側に南向に立っているもの
    銘文 為□□乃主法界平等利益□□結衆
       應安6年癸丑2月23日
 この板碑は全高170cm幅70cm厚さ7cmの大形碑で碑面一パイに阿弥陀佛の立像を刻し実に立派な板碑である。
    所在地 広野峯瀬阿弥陀堂
    銘 文 為過去大和尚
        應永5年戍寅10月□日
 この板碑は広野五反地より上へ2キロあまり登ったところ海抜約400mの峯長瀬部落にある堂内には16基の板碑が安置されていてその中の1基がこの板碑で磨滅も少なく弥陀の姿容も美くしく立派な碑である。全高100cm幅35cm厚3cmの中形の板碑であり弥陀立像の下に2人の男女人物を刻り付けてある。
これは本尊弥陀に帰依する夫婦の者を現した図意であろう。部落の大磯氏の話しによると大正の初年にこの附近の畑を開こん中に堀り出してこの堂を建て安置したものだと言う。


  所在地 広野南養瀬佐藤清一宅裏
  銘 文 右志者□□観禅門□
      應永4年□□□
 この板碑も南養瀬の部落用の地神社の境内に石の祠がありその後に10基の板碑を立てかけてありその中の1基であり長瀬及峯長瀬の画像板碑と同じで取り立ててどうと言うこともない。
 神山町の板碑の中で年号在銘のものが現在までに調査したもので54基あり,最古の年号在銘の板碑は,阿川伊の谷所在の正和4年(1315)の鎌倉時代のもので,是も新しいものは弘治2年(1559)下分上山赤松にあるものである。
 これら在銘のものや年号は見えないが形態のかわっているものや標識である梵字などのものただ一ヶ所だけであるが広野名田川河にある板碑郡など解説を加えて行くことにする。


  所在地 神川町阿川字伊の谷
  標 識 五輪塔 線刻
  銘 文 正和4年3月6日
      文保2年7月8日
      為□□□13也
 この板碑は、神山線(県道)北岸線の阿川伊の谷徳島バス停留所で下車し50mほど後戻りして西側の山手を見るとこの板碑が目に付く,碑は全長1.20mほどの中形のもので碑面一パイに実に雄大な五輪塔の線刻があり各輪に大きな五大種子を配し更にその下の地輪の右側に正和4年3月6日(1315)と刻しその行にならんで,文保2年7月8日(1318)と刻しある,よく見ると正和年号の書体と文保年号の書体は異なっているのが気付く,その左側にに為(3字不明)十三也と文字が読めるが磨滅がひどいので全文を読取ることはできない。
 写真で見る如くこの板碑は,普通の板碑の形態のように,上部を三角形に尖らしたり二線や輪廊の彫込みはなく,ただの青石の板石に彫刻したものらしく,勿論造立当初のもので1ケ所の破損もないとは断言できないが現在の形とはあまり変化はなかったであろうと考られる。
 碑面に刻されている五輪塔の各輪の種子は実に見事であり鎌倉時代の精神を反映して標識の梵字に重点を置き実質的なそして剛健な当時の思想がよくあらわれている「キヤ,カ,ラ,バン,アン」の梵字に地輪水輪の種子に「ン」,の荘厳点を付けたのは五大種子の意味を強く響かす意志を表示したか,または,金剛界大日如来の種子「バン」と胎臓法大日如来の種子「アン」を両方かねて書いてあるのかそのヘんのところは末だ研究を積んでいないので私にはよく解らない。
 刻法の薬研刻で五輪塔の各輪の線はいかにも鎌倉時代の様式を余すところなく表している,欠輪の軒は厚く両隅に向って力強く反り水輪は正円でふっくらとした線は無駄のない美しさを示し全体に悠揚として迫らぬ大きい気分を感じさせる。五輪塔の全高は93cmで地輪の幅35,2cm高さ31cm水輪直経32cm等で以下は写真で対照して下さい。
正和4年は鎌倉時代で花園天皇の御宇で守邦親王の院政時代,将軍は熈時であった。
 阿波の国で板碑に五輪塔の線刻をしたものでは現在のところ最古のものである。この板碑には,正和4年の年号の次の行に3年後の文保2年(1318)7月8日の書体の異なる刻銘がある,文保2年は正和4年より3年後の年号で,一度正和の年に建てた板碑を3年後にもう一度使って追善供養を営みその年号を刻したものである。改名を追刻してないところから同一亡者の供養に二度使ったものである。
  所在 神山町阿川字駒坂不動堂裏
  銘文 右志者為逆修結楽37日
     明徳元季庚午11月13日敬白
  標識 五輪塔線刻
 この板碑は,鮎喰川左岸の駒坂部落の西朝男家の西側に阿川福原の方へ越る旧道を登りつめた峠に不動堂があり堂の裏に東向に立ている板碑を保存状態もよく磨滅が非常に少なく当時の姿のまま建っている。全長167cm,幅50cm,厚さ6cm,の大形の板碑で碑面一杯に五輪塔の線刻を施し各輪に登心門の五大種子を刻してあり地輪の右側に造立の主意を刻り左側に造立年月日を記すという定法の板碑であり銘文の25文字は全部読むことできるもので五輪塔の全高122cmと碑面を一杯に使ってあり実に見事な碑である。明徳元年(1390)は南北朝時代の末期の年号でこの年より3年後の明徳3年閏10月5日に楠木正成の二男楠木正儀と細川頼之の間で講和が和議が成立して南朝後亀山天皇が北朝後小松天皇に,譲位された明徳年号は南北朝時代74年間の最後年号である。
 標識の五輪塔の形態も前期正和4年のものとは時代が下りているので正和板碑ほどの安定感と各輪の曲線にはなんとなく力弱い感がする。とくに火輪の軒の反りと空風二輪の形が不安定ではあるがそれでもやはり南北朝時代の五輪塔の標準形として申分ないと考える。
  所在地 神山町阿川字松尾相原一家
  銘 文 右為逆修善根故也敬白
      明徳元季庚午11月□日
  標 識 五輪塔線刻
 阿川本名より二宮方面に通ずる道路を二宮神社前を更に奥へ登り松尾部落に通じ

 

神山町 板碑年表
 本年表は,神山町に残在する板碑で年号在銘のものである。本町には,板碑総数は500基あまりもあり,その中でこの53基は,実際に踏査し,実測して拓本や写真を撮り年号銘文,寸法,標識,二線,輪郭の有無を書きとめたものである。ただ一基正平7年8月7日の銘のある鬼籠野の板碑は,岸栗野先生の大粟里史によるものである。
 しかし板碑の発見は日日新しさを加えこれを神山町の板碑の全部とは言い切れないのである。とくに神山町に於いては実在数は本年表に記載以上に多いことと思う。
 年号銘で中央ですでに改元されていたが,阿波国その他の地方においては,中央より改元の通知がおくれ,改元後もなお依然として前年号を襲用していたことが多くあった。
 たとえば,広野名田河の康永4年の板碑がそれである。康永4年は10月21日に貞和と改元されているので,西紀1345年10月以後は年表では貞和元年が正しいが,板碑の銘文通りにした。
 同じ場所で同じ年月日が2つ相並んでいるのは,重複でなく事実2基の存在を示すもので,この種のものは双式碑(夫婦板碑)の場合に多く見受けられる。
 板碑の中心信仰である標識を明細に書きとめることは,はん雑になるので省略した。例えば阿弥陀三尊種子の記した場合は,梵字の「キリク,サ,サク」を表わしてあるものである。
 板碑の碑面に荘厳用として蓮台,天蓋,光背など多くの仏具を刻してあるものもあるがこれも省いた。
 板碑の銘文の文字の中に俗字や異字が使用してあるが活字の都合で正字にして現わした。
 ただ一基の板碑を2度使用して年号に元名銘を2度書いてあるがこれは間違いでななく事実,一基の板碑に2つの年号があるのでその通りに記してある。


徳島県立図書館