阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第25号
市場町の民家

建築学会徳島支所・郷土建築研究会共同調査        四宮照義

はじめに
 徳島県では県内の各学術研究団体を統合して「阿波学会」を組織し、県立図書館のお世話で毎年、夏休み初め頃、県下のある地域を定めて総合調査をし、その年の暮れに公開の研究成果の発表と紀要を出している。今年は徳島と香川県とが接する阿波郡市場町を調査した。
 私達建築班は、建築学会徳島支所と、郷土建築研究会と共同で、テーマを「市場町の民家」と決めて7月25日から4日間調査した。調査員は、鈴木俊夫(県住宅課長)、三橋 祐(県住宅課主幹)、四宮照義、吉田正勝(県工高建築科)、三木雅夫(日大学生)の五名で、特に、三橋、三木の両名は市場の出身であるので、地理に群しく、それに三木君のマイカーによる案内で、調査能率をあげることが出来たことはありがたい。この調査に当り、町役場の方々は物論、地元の皆様方には、私達建築調査班として、どうしても見たいプライヴェイトな家の中を調べさせて載いた御協力、御厚意に対しまして、深く感謝の念を捧げたい。


1.峠にある四国遍路宿 阿波郡市場町大影字境目 三浦良輔氏宅

 


 天保年間建築、徳島、香川県境の峠にあり、茅葺入母屋造りの2階建遍路宿としては徳島県下に唯一つしかないものである。間口5間、奥行2,5間で、何れも下屋1間を葺下している。
 阿讃山脈を越えて徳島、香川両県を結ぶ道は、藩政時代の初期、すでに十三筋あったという。阿波郡市場町と香川県大川郡白鳥町を結ぶ日開谷越もその一つである。今は自動車が通れるようになっているが、明治35年に改修される前は、牛馬がやっと通れる細い遍路道であった。しかし四国八十八箇所参りの最後の八十八番札所大窪寺に近いため、四国遍路を終えたお遍路さんが、鳴門市の撫養港から船に乗る帰り道としてにぎわった。境目という地名そのままに、県境を示す標識のすぐそばに、かつての街道宿「本ます屋」(屋号)がある。天保年間からの宿屋といわれるが「泊まるお客さんもなく5年前から宿屋をやめました。」という。いまはミセを少し改造して日用品を商っている。家のわきに弘法大師手植えと伝える大イチョウと共に「本ます屋」の名はお遍路さんに知れ渡っていた。この家の表の部分はすっかり改造されているが、欅を使った黒く光沢のある柱や廊下は年輪をうかがわせる。かつては三棟、十部屋もあったというが、二階への階段は何千人のお遍路さんが上り下りしたのだろうか、松の木のところどころが傷み、すり減って年月を経た輝きを見せている。初代の三浦克郎勝太さんは、天保年間に市場からここ境目に移ってきたといわれる。
「市場本■(ます)境目来ます、境目来たらお遍路宿します、お遍路高いとおこります」と当時のざれ歌が今も伝わっている。

 

2.県境の民家 香川県白鳥町五名1647 福光 光造氏宅

 市場町の民家と香川県境の民家を比較するために県境を越えて香川県に人り、峠の附近の民家を三軒調べた。何れも四間取農家で、表にはニワ、チョウバ(4.5畳)、オモテ(8畳)があり、裏側には、カマヤ(イタマ付もある)、ママクイバ(4,5畳)、ナンド(6畳)がある。何れも70〜80年位前に建てたという。

 

 

 

3.遅越(おちこし)の民家

 再び徳島県側に引返して遅越の民家を三軒調べた。何れもニワ、カマヤの左か右側に四間取の農家が多い。即ち、チョウバ、オモテ、ダイドコ(イタザ)、オクをもつ間取りである。一部、カマヤが出張っていて、排煙のために屋根に煙出しを設けた家もあった。

 

 

 

4.大月の民家 市場町大字犬墓字大月77 北岡 春行氏宅
 遅越から急傾斜の山路を登って40分、大月につく。民家は五軒しかなく、養蚕を営んでいた。北岡氏宅は100年位前に建てたという。図のように主屋の外にザシキ、ナヤ、ツボが並んで建っている。一般農家と変らず四間取である。

 

 

 

5.四間取をもつ市場町典型農家 S.53.7.27調(161年前)
森 嘉彦氏宅 阿波郡市場町切幡
建築年代−文政2年(1819(161年前))。
     の棟礼あり。
構  造−曲り松梁を多く使用している。天井はヤマトで、図のようにカマヤの下屋を取込んでいる。
     以前は茅葺を葺下しになっていたと思われる。
     主屋は、桁行5,5間、梁行3,5間で寄棟造茅葺下し屋根で、オブタがついている。
     この附近では草葺屋根の周囲に瓦を葺いた庇を廻すのが一般的になっていて、これを四方下(しほうげ)の家と呼んでいる。
間  取−四間取りで表側にチョウバ6、オモテ8をとり、裏側にオク5、イタザ4,5をもった、市場町の典型的間取りである。
     カマヤは、後に増築した可能性あり。
     イタザとドマとの間仕切はない。
敷  地−平地部にある農家で、約800平方メートル余りあり、中央に主屋あり、西側に瓦葺の納屋があり、その南に牛小屋がある。主屋の東側は畑で、その北側に便所がある。
其  他−上喜来の家、法寺谷の家、為後の家、中名の家、奥日開谷の家、仁賀木の家、等は四間取の平面形式で、ただ、右勝手か左勝手かが違うだけ。古い家は荒壁のまゝで、天井はヤマトが多い。 

 

6.阿波の原士の家 大窪 武氏宅 阿波郡市場町興崎 S.53.7.26調査
1,原士−「鳴門秘帳」に出てくる原士(はらし)は、江戸時代の初め、阿波藩が原野の開拓をさせるとともに、一たん事あるときには兵士として用いた郷土の一種で、いわば阿波藩特有の屯田兵(とんでんへい)である。主に浪人をあて、その救済策とする一方、軍役奉任、警備、開懇の一石三鳥をねらった。江戸時代を通じ、約60軒ぐらいあり、各要所に配していたが、最も多かったのが、西条原(広永)と呼ばれた原野のあった現在の板野郡吉野町であり、吉野町史編さん事務局長の佃恒夫氏によると、「昔は約20家あったが、今は10家ぐらい。その中でも昔ながらの屋敷が残っているのは井後、野瀬、小野寺の三家ぐらい」と言う。ここ市場にも大窪氏が一家あった。何れもゲンカン構の武家民家である。
2,建築年代−弘化4年以前(1847年)131年前 棟礼未発見.原士の家柄で、玄関構え、接客座敷がととのい、武家の住宅の面影をつたえている。
3,家相図−弘化4年と記された家相図があり、敷地の構え、井戸、牛小屋、便所等の建物の配置が、よくわかるが、現状は大分変わっている。主屋の間取は、この図とあまり変っていない。
4,間取−左勝手の間取りで、向って左に当る西側にニワをとり、部屋は表にチョウバ6畳、ゲンカン6、ザシキ8をとり、裏に、キタノマ10、オク8をもった五間取である。
5,構造−桁行7間、梁間4間半で、屋根は茅葺(現在トタンで覆っている)で、四方に本瓦葺のゲ(下屋根)を廻している。梁は、松の杣材をうまく整えて使用している。天井は、天井板を張らずに割竹を用いた所謂ヤマト天井である。座敷はトコ柱に杉の面皮柱を用いており、長押がなく、数寄屋風に造られている。
6,結び−玄関構えをもつ、数少ない阿波原士の家として、弘化4年の家相図と現況とはあまり変りなく、保存状態もよいので、民俗建築学上重要な価値あるものと考える。

 

 

7.政所(庄屋)の家 松永 薫氏宅 阿波郡市場町日開谷大北
S.53.7.25調査
1,「犬の墓の政所(まんどころ)」と呼ばれる屋敷がある。くぎのさび跡が走り、黒ずんだ釘蔭し(くぎかくし)八双金物(はっそうかなもの)が打ちつけられた表門は、武家屋敷を思わせるがん丈さで、歴史を刻んで立ちはだかる。戦国時代の武将、松永久秀と阿波の国から妻としてつかえた三橋呉竹の血をひく松永源太夫が、庄屋として建てたと伝える市場町犬ノ墓、松永薫氏宅である。敷地約2000平方メートル、建面積:約1800平方メートル、天井裏で見つかった寛永通宝の一文銭を十数枚重ねてくぎ打ちしてある棟礼によると、元禄10年の建築。母屋の張り出した縁側の前に石の踏み台。簣戸の内側は、3,3平方メートルほどの板の間になっている。ここが政所である。板の間に机を置いて、農民から年貢を取り立て、土木工事をした人夫に労賃を支払ったり、訴訟の取り扱いなど、政治、庶務の仕事をつかさどっていた。表門の横には、2,3人の女中が寝泊まりしていた丸竹づくりの竹座が残っているが、いまは物置になっている。こんな広い屋敷に押し入れが1か所もない。昔は、長持ちに衣類、ふとんなどをしまったためである。
2.建築年代−元禄10年(1697(281年前))棟札あり。
3.敷  地−南北55m、東西37m、南に長屋門があり、ブロック塀で囲んでいる。
4.間  取−表側にチョウバ10、ナカノマ5、オモテ10の3室があり、後側にイタノマ4、キタノマ8、オクの3室を配した所謂6間取りであり、ナカノマはゲンカン付である。
   この家の当初の間取りを推定すると、四間取りであった可能性が強い。即ち庄屋なるが故に、ナカノマ(ゲンカン構え)をつけて五間にし、時代下って接客用のオモテを増して、6間取りに発展さしたものと考えられる。特に、オモテの一隅にあるトコノマからは天井が傾斜しており、中途で改築したものである。
5.絵図面−明治29年の図面が保管されている。これによると、現状の主屋の間取りに近いものであるが、主屋の上手の前に別棟の座敷が見られる。
6.結 び−元禄10年から今日まで、幾度か、改増策なされているので、柱・梁に残る柄穴等、日時をかけて、詳細に調べる必要あり。

 

    

 

 

8.山奉行の家 松永 理氏宅 阿波郡市場町日開谷 S.53.7.26
1. 阿讃山脈の森林を管理する山奉行であり、又、川西16か村の組頭庄屋を勤めた旧家で、多くの貴重な古文書を保管している。式台を設けたゲンカン構え、接客座敷もととのい、行政事務を行ったであろうゲンカンわきのゴジョーマを持つ堂々とした風格の溢れる家である。
2.建築年代−宝歴2年の棟礼がある。現在はオモテ廻り、裏側のカマヤ、化粧室等一部改造されている。
3.構  造−主屋は木造茅葺(現在は鉄板で覆っている)桁行11間、梁行5,5間、基礎石はムヤ石の砂岩(阿讃山脈から採れる石)を用い、柱は15cm角である。梁組は太い材を組立てて立派である。
4.間  取−表側に、チョウバ10畳、ゲンカン(ナカノマ)8、オモテ(客間)8、の3室をとり、裏側に、ナイショ(イタノマ)12,5、中奥(イマ)6、奥8の3室を配した玄関構えをもつ竹謂6間取である。裏側のカマヤ、料理場などは後に改造されたものである。オモテは広さ10畳の一隅にトコノマをとり、書院を設けている。
5.敷  地−広大な敷地は、西は竹籔垣、南は長屋門、東は土塀、北は竹籔で囲まれ、敷地内には主屋の他に供部屋、倉、離れ座敷、井戸屋形があったが、現在取りこわしている。

 

 

 

 

 

 


徳島県立図書館