阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第25号
市場町の婚姻習俗

民俗学班 岡田一郎

はじめに
 市場町は、阿北平野のほぼ中央にある。北を背にして讃岐山地が迫り、山を越えると香川県大川郡にいたる。城王山を分水嶺として日開谷川が南に流れ大きな扇状地を造成している。吉野川をはさんで対岸が麻植郡川島町。東は土成町、西は阿波町に接している。


 この町は、昭和30年3月31日、旧八幡町と旧市場町、旧大俣村が合併してできた。現在の人口は約12500人、戸数は約3250戸で、農業を主とする町である。
 この地方は、江戸から明治にかけては藍と砂糖が、大正から昭和にかけては養蚕と米作が、そして戦後、米作中心の農業を脱皮して野菜や家畜が盛んになった。とりわけ養豚にめざましい発展がみられる。
 また、この町には、四国八十八か所十番札所の切幡寺と、その門前町がある。そのほか、八幡の町屋敷36区や、興崎の原士の里などがあり、歴史的風土に特色がみられる。
 このような地理的、歴史的環境にある市場町に、どのような婚姻習俗がみられるか、現地調査をしたことがらを記しておきたい。

 

1.聟入婚の痕跡
 まず、婚姻習俗の発展過程を知るために、古い習俗の聟入婚から新しい習俗の嫁入婚への移行状態を考察してみた。
 聟入婚は、婚姻の成立祝いを嫁方であげ、婚舎をある期間嫁方におく婚姻習俗である。このような聟入婚は中世以前のもので、近世封建社会の成立によって嫁入婚が普及し、現在完全に定着している。しかし、このような嫁入婚に移行する過程に足入れ婚の時代があった。足入れ婚は、婚姻成立の祝いを聟方であげながら、ある期間婚舎を嫁方におく婚姻方式である。
 市場町における足入れ婚の風習は、ヨバイの風習が消滅した明治の末期にその姿を消している。足入れ婚の中に聟入婚の片鱗をみることができるが、原士の里のある市場町は、男子中心の保守的気風が強く、他町村に比ベてやや早くから嫁入婚が定着したようである。

 

2.ヨバイの風習と若者組
 ヨバイの風習は、古い妻問い時代においては、社会から容認されていた通常の求婚手段であった。一般的にヨバイを夜這いと解釈し、不道徳なものとする見方に変ってきたのは近年のことである。
 古くはヨバイは「婚」と書かれ結婚を意味していた。
 日中はきびしい労働に追われていても、夜がくると、若者同志でさそいあい娘のいる家へ遊びに行った。このころ娘たちは、夜おそくまで糸をつむいだり、米つきなどの夜なべ仕事をしていた。その仕事場ヘ、最初は集団(4〜5人の仲間)で遊びに行き、メオイといって、各自が大根やニンジンなどの野菜を持ち寄って夜食をたのしんだ。これが回を重ねるうちに、若者仲間の承認によって1対1となり、それがヨバイに発展し、婚姻が成立するというケースが多かった。
 また、大俣の八幡さん、上喜来の紅葉庵、犬の墓の太帥堂などの縁日や、盆のおどりなどに、近郷の若い男女が集まった。こうした場が男女交際の唯一のチャンスであり、ヨバイの糸ぐちとなっていた。
 この地方においては、神山町焼山寺にみられたような「ボボイチ」、一宇村太刀之本の「阿弥陀市」のような風習のあったことは聞き取れなかったが、おどりの輪の中で、男が好きな女のタモトにそっと菓子を入れて求愛する風習があった。
 また、養蚕の盛んであったころ、讃岐から山を越えてたくさんの娘たちが「カイコカイ」といって出稼に来ていた。この地方のヨバイの全盛時代は、養蚕の全盛時代と一致するといわれている。
 若者組は、年令階梯における1つの組織体であった。この地方では、若衆組とか若連といった。若連が主役をつとめたのは、村の祭礼行事や消防などであった。神輿をかつぎダンジリを引く若者の姿は今もみられるが、昔の若連は、村の年中行事に大きなかかわりをもち、村落共同体の支となっていた。
 通常15歳で若連に入会し、結婚すると脱会する。若連の頭は、最年長者の中から会員の推薦によって選ばれていた。この地方の若連で他の地方と異なるところは、たとえ若年であっても秋祭りに屋台の太鼓を打った者は、若連の成員に加えられたこと、また、たとえ30歳であっても、他村から養子に来た者は、3年間は、若衆役をつとめなければならなかった。これを「養子のキンチャクモチ」とか、「ニナイカツギ」、「ヤツコのハサミモチ」などといった。
 このように、他村から来た者は、三か年間は、村の行事について発言権が与えられなかったのである。

 

3.通婚圏
 明治・大正年代までは村内婚が主であった。昭和の初期にいたって近郷町村へとが広がり、戦後の交通機関の急速な発達と、高度経済成長に伴う都市化現象によって、若者の行動範囲が広がり遠方婚へと移行した。
 村内婚の時代が長くつづいた後、明治末年ごろから、隣接町村の阿波町・土成町・吉野町へと広がり、また、阿波大影から讃岐の大楢・五名方面へのびた。昭和年代にはいり、中央橋や瀬結橋が完成して、吉野川南岸の麻植郡内の町村との通婚がみられるようになった。橋のなかった時代は、「川越えは間にあわない」といってけいえんされたという。
 阿波と讃岐との通婚は、讃岐の娘が阿波へ嫁ぐことはあっても、阿波の娘が讃岐へ嫁ぐことは稀であった。
 興崎地区の原士の家は、家筋を重んじ、吉野町の広永組(原士)や方々組(散在している原士)との通婚が多かった。また、蜂須賀入国時に、徳島城下の町造りに貢献して、1人1区3畝3歩、36区が免税とされた八幡の町屋敷組も仲間意識が強く、同族通婚の傾向が強かったようである。
 そのほか、この地方は、県南でみられたような京阪神方面との通婚はきわめて少なく、全般的にみて、通婚における閉鎖性がみられる。

 

4.嫁入婚
 婚姻の成立祝いを聟方でおこない、当初から婚舎を聟方におく嫁入婚が一般庶民の間に定着したのは、そう古いことではない。もともと、この嫁入婚方式は、中世の武家社会によってつくられた婚姻習俗で、男性優位・家中心の婚姻方式である。
 最近は、男女同権・夫婦中心を基本とする恋愛結婚が多くなって、新しい形の嫁入婚が普及しつつある。しかし、戦前までは、婚姻の自由はなかった。嫁入婚は、親が仲人を介して、相手方の承諾を求め、結納を交わし、婚礼の日を定めて、婚家において婚儀と披露宴を行うのが通例であった。
 「仲人は草鞋千足」といわれるように、婚姻成立のために両家を何回となく足しげく行き来しなければならなかった。その苦労に報いるため「仲人3年親の義理といわれて、世話になった者は、3年間は、正月、盆、節句には仲人の家を訪ね礼をする風習があった。3組以上の仲人をつとめた者は、めでたく福が招来するということで好んで仲人を引き受けた。また、数回仲人をつとめると、大へん名誉なこととして、近所の人々を招いてご馳走をしてふるまう「樽びらき」という風習があった。
 婚約の結納をいれることを「たのみ」をいれるという。結納の額は、その家の経済力によって多少の違いがあるが、明治・大正の頃は、酒一升が普通であった。今日は、高校卒で50万円、大学卒で100万円という話を聞いた。(昭和53年8月市場公民館で聞いた話)
 結納をいれる日や、婚礼の日は、大安吉日を選ぶ、この風習は昔も今もあまり変わらない。
 嫁が生家を出る前に、里の氏神と先祖の墓まいりをする。また生家の門前で藁火をを炊き茶わんを割る。これは、葬送の場合と同じで2度と生家ヘ帰ることのないようにとの意味をもつものである。(嫁送りは藁束を立て、葬送の場合は藁束を逆に立てる。)
 嫁入行列は、夕方からチョウチンをつけて野路を行くのが普通であった。富豪の娘は人力車に乗って嫁入りした。嫁入行列をわざと邪魔する「嫁さんいじめ」の風習は、この地では聴くことができなかった。県南地方では聟が嫁を迎えに行くが、この地方では、仲人が聟に代って嫁迎えに行く。嫁入りの途中で他の嫁入行列とすれちがうことがある。そのときタカラバチ(タケノコの皮で作った傘)を持参していて交換する風習があった。これは、古い破れた傘ほどよいといわれる。昨今は、麦藁ぼうしに代っているが、これは開運を意味するものらしい。
 嫁は、聟の家に着くと、勝手口から座敷に上る。このとき、山城町でみられたような足を洗う風習はみられない。座敷に上ると、奥の間で三三九度の杯をかわす。
 かための杯をすますと、仲人が「一国二国三国一の嫁とりすませた。」と、嫁取り宣言を行う。昔は、仲人が夫婦の床入りを確認し、チリ紙をみせて大任を果したことを公表していた。
 嫁は、披露宴の前に宮詣りをして氏子となる。また、実家の母親が嫁をつれて門歩きをする。披露宴は、最近は、町の料亭や結婚式場で行う例が多いが、昭和20年代まではたいてい実家で行うのが普通であった。近所・知人・親類が大勢集まり、夜が明けるまで酒宴が続けられた。なかには、夜が明けぬよう戸を閉めて酒宴を長びかせる風習があったという。
 婚礼の翌日「道具みせ」といって、嫁入道具を一般にみせる。タンス、ナガモチ、フトン、ザブトン、タライ、テオケ、ホカイ、重箱、針サシ、鏡台(大正から昭和初期の嫁入道具)などを並ベてみせた。みに来た人々に菓子やタバコをあげる風習があった。
 嫁入り後、3日目に聟入りをする。聟入りの人数は、嫁入りのときの人数と同じで、その費用は嫁の実家が負担する。みやげ品として下駄や風呂敷を持参していた。

 

5.その他婚姻関係の風習
1 張り込み
 婚姻が、男女の恋愛により成立することは稀であった。男の親は、家がつりあわないとか、血統や相性が悪いとかの理由をつけて、親の気に入らぬ嫁は家に入れなかった。しかし、いくら男子中心の嫁入婚の時代であるとはいえ、1度男と交渉をもった女は強気になる。周囲の反対をおしきって男の家に人り込み妻の座を得ようとした。このような女を「張り込みの女」といった。なかには、2人の女に張り込まれて困った家もあったという。このような「張り込み」が、明治・大正のころしばしばみられた。
2 居坐り
 四国八十八か所十番の礼所、切幡寺の門前には、へんろ宿が多かった。全国各地から若いへんろがやってきて宿をとったが、なかには、この土地の娘の家に留まり「居坐る」者があった。とくに、あととりのない家に居坐わるケースが多かったといわれる。また、讃岐の「カイコカイ」が居坐ることもあったという。
3 足あらい
 田植えが終わると嫁は、2,3日の休暇をもらって生れ里へ骨休みに帰る風習があった。これを「足あらい」といった。この足あらいと、盆、正月と秋祭りに里帰りすることが、嫁にとってはこの上もない楽しみであったといわれる。
4 安産祈願
 この地方の人々は、安産祈願のために、吉野町篠原の常慶寺の子安地蔵さんへまいりに行く。8月24日と1月24日が縁日で、この日の市をハラボテ市といって、各地から安産祈願に来る人が多い。また、乳の出ない人は、大影のイチョウや、高瀬のイチョウの木に願をかけた。また、夫婦円満祈願のために、阿波町の根性(こんせい)さんへ詣りに行く人が多かった。
5 オハグロ
 鉄漿付(かねつ)けのことである。この地方では、明治の中頃までオハグロをつけた婦人がいた。
 古釘や古鍬などを焼いて粉にし、茶でねる。酒を少し加えるとさらによい。歯につきやすくするためにフシの粉(ゴバイ虫の粉)をまぜて、小筆で歯を黒くそめた。古くは娘が婚約をするとオハグロをつけたが、明治時代においては、既婚者のしるしとしてつけられていたようである。この風習は、原士の里である興崎の婦人が比較的おそくまで(明治末〜大正の初)おこなっていた。現在もなお鉄漿付道具を保存している家がある。

6 嫁のあと風呂
 大正年代までは、5.6軒に1か所ぐらいしか風呂のある家がなかった。その家の嫁は近所からやってくる風呂入客のサービスに大変であった。風呂が湧くと、「お風呂をどうぞおめしなして」といって連絡をしてやる。風呂入人がくるとお茶を出す。「湯加減はどうですか」と、何回か聞く。マキを加えて炊きとおす。
 お年寄りには、「お背流しましょうか」と声をかけてやる。
 入浴の順番は、家の年寄り、主人、客人、子供、嫁さんの順である。風呂場はたいてい別棟の吹きざらしの五右衛門風呂であった。嫁が風呂をしまうのは12時近くになったという。
 よく働く、やさしい嫁が当時の嫁の勤務評定であった。農村においては、小作人の小家の嫁より、小地主の中農家の嫁の苦労が大きかったようである。現代の嫁と比較すると、隔世の感がある。

 

おわりに
 婚姻、出産、葬祭の習俗は、人生の三大節目をなすものとして、昔から大切に伝承されてきた。そして、これらの習俗は、人間形成に大きなかかわりをもつものとして重要視されることは今も昔も変らない。
 戦後、社会構造の変化と、社会環境の急変によって婚姻習俗の変り方は大きい。このことは、明治・大正生れの人が、自分の結婚した当時と、現在の息子や孫の結婚式を比較すれば実感としてうなづけることと思われる。
 土地がらがなくなり、田舎も都会も同じものとなりつつある。戦後間もなく結婚改善が叫ばれ華美な風潮をつつしむ傾向がみられたが、もうその声もない。商人の魔力によって一大ショウ化しつつあるとさえいわれる。はたして、これで人生の大切な節目ができるのであろうか。婚姻風俗のありかたを再検討する必要を痛感する。
 最後に、この調査にあたり、格別の御協力をいただいた市場町教育委員会・市場町内の公民館、坂本裕二、三木 厳、内田三郎、大窪サカエ、平尾サカエ、平尾清子、井内秀雄、川上広一、大西正五郎、山本常次郎の各氏に対し深甚の敬意と感謝を申し上げたい。


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