阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第25号
市場町の葬送について

民学班 前川富子

はじめに
 市場町は吉野川のほゞ中流域の北岸に、阿讃山脈で香川県に接している。土地は肥沃とはいわれないが、商業的生産が発達し、現在は畜産が盛んである。大正から昭和にかけては養蚕をよくした。昔から川の対岸との交流は少く、隣町や、香川県とのつながりが深い。
 市場町の宗旨は戦前から真言宗、浄土真宗(門徒、一向宗)浄土宗で、戦後は日蓮宗、創価学会、天理教、キリスト教(新、旧)等もある。調査者の面接した人たちの宗旨は、真言宗と浄土真宗であった。
 死は必ず訪れても、本人もまわりの者もあらかじめ準備しておける部分は少く、葬送については古来からの習慣が深く残っているものと思われるが、戦争の影響、火葬場の発達、生活の変化、そして葬儀屋が葬式を取り仕切るようになった事等でだんだん画一化していくようである。
 調査は老人会の役員の方と、地元で紹介頂いた方の中から、なるベく土地で生れて住んでおられる方に、現在とこれまでの葬送の変遷をお教え頂いた。町当局の方方始め、地元の方々に暖かい御協力をいただき、調査が心よくすゝみました事に心から感謝致しております。

 臨終
 病人が死亡した時は、家族からまず近所へ連絡する。甕や棺桶を使用していた頃は、死後硬直の前に脚を組ませ、手を合掌させる。
 喪主は跡取りがなる。現在は長男がなっている。
 葬式の手伝い
 葬式の手伝いは、その宵から手伝い、小さい部落では部落全員があたる。普通は実行組や常会で手伝い合う。近い近所(トナリと呼ぶ)は夫婦が出る場合が多い。近所の人が集まると年長者が葬式の責任者となり、顔役、世話役、先達と呼ばれる。その他役割を決める。ヒキャクはすぐに出る。神棚は近所の人の手で白紙の覆いをする。女は炊事と掃除を分担する。
 ヒキャク・ハシリマイ
 近所の人が二人一組で死亡を親戚、知人に知らせた。昔は徒歩、その後自転車で行くようになり、ヒキャクあるいはハシリマイと言ったが、有線電話の普及により今では近所の人が電話で連絡する。
 マクラナオシ・キタマクラ
 死亡後、家族の者で北枕に寝かせる場合もあるが、普通はそのまゝ病人として寝かせておいて、葬式の朝に濃い親類が死人として頭を北に向けてオクヘ寝かせる。横に箒か日本刀を置く場合もあり、化け猫が屋根に来て死骸を奪うのを防ぐためと言われる。
 マクラノモノ・マクラノメシ
 握り飯を四個握り、八寸(膳)の四隅に置き枕元ヘ供える。八寸(膳)の真中には一本線香を立て、線香は棺に入れるまで絶やさない。握り飯はサンヤの袋に入れるが、入れない家もある。
 ヨトギ見舞・通夜見舞
 葬儀の前日に、親戚としての経費の分担を決める。その経費をヨトギ見舞と言う。今は通夜見舞と呼ぶ人もある。
 通夜・ヨトギ
 最近は友引の時のみ通夜をするという地域もあるが、必ず通夜をするのが普通で、ヨトギをすると言って、血の濃い者が起きている。通夜の食事はソーメンの汁(ソーメンの具のすまし汁)と飯が普通ということであった。
 献水
 茶腕、湯呑等に水を入れて枕元ヘ置く、正式には水の中ヘ抹香を入れる。会葬者はこの水を樒の葉につけて唇をぬらす。真言宗ではこの水を梅のズバエ(1年生の真直ぐ伸びた枝)につけて洒水をする。
 49のダンゴ
 2合の米をとぎ、茄でて49個のダンゴをつくり仏壇に供える。これは大体オムイカに下げて親戚の者が茶を飲む。
 湯 灌
 明治時代にはたらいの中で死人を洗った。その後湯で拭くだけになり、現在はアルコールで清拭する。
 衣装なおし
 湯灌の後、白木綿の単衣を着せるが、現在では葬儀屋で用意されている。以前は親戚の女子全員が当日に、節をつくらないで返し針で縫った。手甲、脚手、足袋、三角頭巾をつける。ジュズ、さんや袋等すべて「当用もん」と言っていつでも間に合うように売っていたが、今は葬儀屋で準備されてくる。さんや袋には六文銭(六銭で代用の場合もある)、マクラノメシ、故人の好きだったものを入れる。今は火葬のため、六文銭は印刷した紙に代えている。
 入 棺
 死体を納めるには、土葬の間はカメ(土甕)でこの地域は大谷焼であった。その後村で火葬を行なうようになり、カンオケ(棺桶)になった。棺桶はカン(クワン)オケ、マルカン(クワン)・ハヤオケ等と呼ばれる。ハヤオケはカンナをかけずに急いで作るからだと言う。現在は町営の火葬場の設備の関係からすべて寝棺を使用する。オケを使用し始めたのは地域にもよるが早いところで大正時代、遅いところでは昭和20年頃から。戦後はだんだん寝棺になったが30年頃までオケを使用していた地域もある。
 カメはあらかじめ底に穴をあけて使用する。
 甕や桶では屈式で、脚を交脚させ、手を合掌させて納棺する。藁や番茶をつめて固定し木製の蓋をする。寝棺には藁や番茶をつめるところもあるが少く、生花を入れる場合がある。いずれも丁寧な場合は白い布で布団を縫って敷く。納棺には親戚の濃い者があたる。
 髪剃り
 僧は棺の蓋をとり、カミソリを清めて死人の髪を剃るかたちをする。あるいは読経しながらカミソリで十字を切る。
 会葬者の服装
 旧家では家族、親戚の女子は白無垢を戦前まで着た。忌中髷(髷が普段より小さい)に水色の繻子の角かくしをするところもあった。同じく男子は紋付き、羽織、袴の正装。特に古い家では喪主は白の上下に菅笠というところもあった。普通、男は黒の紋付き。羽織を着るのは位牌持ちのみ。女は家族と親戚が黒の一つ紋を着た。最近は会葬者全員が黒の喪服を着用する。
 祭 壇
 現在は葬儀屋(市場町では農協で扱っている)で祭壇をしつらえる。真言宗ではお大師さんの仏像、浄土真宗は阿弥陀さんのお掛軸を中心に壇飾りをする。この前で読経し、会葬者は焼香をするが、戦前は仏壇又は床に飾り、その横に桶を置いて焼香をした。真言宗の場合、床を飾るにはお不動さん、十三仏さん、お大帥さんの掛軸を掛けてその前にお供えをし、手前に位牌を置く。尚、戦前までは祭壇をつくり、会葬者が順に焼香するという事は余りなかった。
 焼香は1番に跡取り、順次濃い者から行う。
 香 料
 香料は受付が受取り、帳につけ、祭壇に供える。今は大体2000円〜3000円を包む。膳先きを出すので香典返しはないのが普通らしい。
 尚、親類は大体5000円位と、一同で盛物(果物)花環、仏前の燈籠等をする。
 膳先き
 野辺送りの前に、手伝い人全員に本膳を出す。会葬者と手伝い人には膳先きとして、通常砂糖を五斥用意する。又、女の人にはこの上にエプロン、ゲタ等を用意する。膳先きは普通50箱から100箱を用意するようである。
 出 棺
 現在は火葬場の都合で15時〜16時に棺が出る。土葬の頃は夕方日が沈んでからであった。今は時間に霊柩車が来るので、近親者4名が棺を担いで乗せる。
 デザケ・タチザケ・オミキ
 冷酒を野辺送りの全員が猪口に1杯ずつ飲む。
 ワラ火・送り火
 藁束を燃やして火をかやし、その中へギョウギ茶碗を割るが、行列の出る前の場合、出た後、出棺の瞬間等、地域によりいつ燃やすかに差がある。
 この後、濃い親戚が会葬者に礼を述ベる。
 野辺送り・葬列
 昭和40年位から農協より霊柩車が来るようになって葬列は組まなくなったが、今は葬式用具をつくって持ちぞめだけをする家もある。霊柩者が来るまではカチグルマ(荷車)で運んだので、この頃は葬列を組んだ。
 僧がオブタの中で読経し、カンオケを中心にしてニワで3回まわる(右まわりが多い)。家の周囲をまわる場合もある。今も霊柩車に積む前に回るが、道路ぶちのニワのない家からだんだんしなくなった。
 つれ合いの野辺送りはしない。目下の者の野辺送りはしない等の習慣がある。
  葬列の例 1
 1 オケを親戚の血の濃い者が2人で担ぐ
 2 イハイを跡取りが持つ
 3 僧
 4 親戚
 5 他人
  葬列の例 2
 1 タイマツをトナリの男が持つ 1本
 2 ノボリを親戚の男が持つ(4本)
 3 ノイハイを跡取りが持つ
 4 盛物を親戚の男が持つ
 5 僧
 6 オケを血の濃い者が担ぐ 嫁が死んだ場合は家実の甥又は嫁入り先の孫が担ぐ
 7 親戚の男女
 8 近所(トナリ)の男
  ソーレンがつく場合は最後尾につく。
  葬列の例 3
 1 ハタ又は4本バタ 人の形に切ってある(4本)
 2 天蓋 竹で四角の枠をつくり竹竿の先に吊る(1竿)
 3 四花 短冊で花をつくり、竹に巻いて花とし、大根又はイモに刺す
 4 盛物
 5 洒水の道具。水をいれた猪口と梅のズバエを盆に乗せる
 6 イハイを跡取りが持つ。三角頭巾をつける
 7 オケを孫か甥が2人で担ぐ
 8 親戚(大体婦人)が血の濃い順に続く
  葬列の例4
 1 オケを血の濃い者が2人で担ぐ
 2 イハイを跡取りが持つ
 3 四花
 4 盛物
 5 天蓋 竹を裂き割って傘のようにしたものを竹竿の先に吊下げる
 6 ハタ。4本
 7 親戚
 8 近所の人
 9 お供の男女
 カンオケを担ぐ人はワラジを履くことになっており、今も棺を担ぐ人はワラジを履く。カンオケを担ぐ綱は3方を輪にして結び、竹の棒で担ぐ、という習慣もあった。
 ソーレン
 ソーレンは普通木の枠に白い紙を張り色紙を飾って2人で担ぐ。ソーレンの出せる家は半数位で、家に応じて造っていたが、昭和10年位から農協で貸すようになった。(当時、上等5円、普通1円)
 ソーレンだけ別に出て、墓地と別の場所の河原等にソーレン場をつくり3回まわる場合もあった。
 ソーレンの丁寧な造り方は、1m余りの正方形のレン台を作り、4人で担ぐようにする。その上に木の枠に紙を貼り六角の家の形にし屋根をつける。正面には華燈窓を紙で貼りつけ、屋根には鳳凰をつくる。もっと格式の高い家はこの上に木と紙で日覆をつくる。レン台には膳の綱をつけて親戚の女性が持つ。
 ソーレンは戦後出さなくなった。
  マイトコ・マイドコ
 ソーレンがまわる場所をマイトコという。
  レン台の出る葬列の例
 1 トウロウ一対。紙と木で作った六角形
 2 バン。4本(諸行無常・是生滅法 生滅滅為 寂滅為楽 と書く)
  トウロウとバンは竿ドメをつけて竿から吊下げる
 3 お供えのバン。親戚、その他が供えたバンをあるだけ持つ
 4 樒の花
 5 お供えのもの。あるだけを八寸(膳)や風呂敷で持つ
 6 僧
 7 ノイハイを喪主が持つ
 8 レンダイ(密葬のあった場合、火葬の時は遺骨、土葬の時は何も乗せていない)
 9 ゼンのツナを2〜3本つけて親戚の女がお供をする
 10 オケ。近所の人が担ぐ。大八車で行く場合もある
 11 手伝のお供
 埋 葬(土葬)
 最近では10年位前に土葬をした人があったが、昭和初め頃から昭和20年位までにほとんど火葬になっている。
 トナリの人が4尺、4尺2寸、6尺等にカメの大きさに合わせて掘った穴に埋葬する。カメには木のフタがあるが、その上にトナリの人が河原等で捜してきた岩ブタを置く。岩ブタのない地域では緑色片岩をフタ用に切ったものを買って使用した。上から土をきせてオガミ石を置きその上にノイハイを立て線香を供える。僧が来る場合も来ない場合もある。
 火 葬(古い火葬)
 大正になって共同火葬場ができるまでは、火葬にする場合、山で石を並ベてカマドをつくり、オケを乗せ、薪をもたせかけて火を点ける。かなり燃えた頃に上からぬれ莚をかけるとよく焼ける。僧は点火の前に読経して先に帰る。近所の人が後に残り焼けぐあいを見、翌朝親戚代表2〜3人が遺骨を迎えに行き、カメに拾って帰る。
 火葬(火葬場での火葬)
 焼場が旧村にできてからは火葬するようになった。始めのうちはトナリの人が薪を持って来て火葬にし、翌日遺骨を迎えに行った。町営の火葬場になってからは、その日に遺骨を拾って帰る。
 焼場で火を点けるのは跡取りに決まっているところもあった。焼けるのに1時間位かゝるため、トナリの人が茶、菓子、煮メ、酒等の用意をする。
 遺骨は血の濃い者から順に拾い、火夫(隠亡)に教えられてムナボトケを拾い、その他の部分も拾う。首から上の骨を拾うというところもある。骨壷に入れて持ち帰る。
 きよめの例
 1 塩払い
 葬式や火葬場からの帰り、家に入る時に他人の手でしてもらう。
 2 きよめ
  野辺送りのあと、自宅で洗面器に水を張り中に塩と抹香を混ぜて手を洗う。
 3 まな板なおし
  野辺から帰ったあと、刺身等、生臭もののついた膳で食事をとる。
 アゲネブツ
葬式の終った夜、部落の経の読める人を先達にして部落中の者が経をあげる。
 ムユカ・ムイカ
 昭和初期頃までは、亡くなって6日目にムユカをした。現在は火葬場から帰ると、遺骨と位齬を床の祭壇に飾り読経した後で夕飯を食ベる。食事はなく、ダンゴを下げて茶を飲むところもある。
 墓地・サンマイ
 墓地をサンマイと呼ぶ老人もある。墓の所在をボチトコという場合もある。今は町営の墓地もあるが、ほとんどの土地に共同墓地があり、耕作に適さない場所や、山が選ばれている。昔は自分の働いて得た土地や、好きな所、先祖の埋っている所等に遺言により埋葬していたが、明治末頃から共同墓地の利用がほとんどになった。墓地に特に施設はないが六地蔵のある墓地がある。共同墓地は手狭になると新しい墓地を選び、シンボチとした。シンボチと呼ばれる墓地は現在もある。墓地に墓を建てる時は、南へ向けて北からつめる習慣がある。
 オタマ屋
 土葬の頃にはオタマ屋を造ることもあった。オタマ屋は、埋葬した上にオガミ石を置き、家の形で囲った。家は、木製で屋根と三方の柵でできているものと、木と麦ワラの片庇の家で正面に米や線香を供えるための手を入れる入口を開けてあるものとがあった。オタマ屋は石碑を切るまでの仮の場合もある。
 ハ カ
 昔はほとんど単独のハカで、自然石、自然石に戒名を切ったもの。石塔(単独)。石塔(夫婦墓)であったが、大正時代から始まって戦後ヨセバカが増え、現在はほとんどヨセバカで、コッドウバカ、ルイダイバカとも呼ばれており、石塔で、骨堂に遺骨を納める。この以前は、大体石塔を切る地域もあるが、自然石の丸い石を置いたゞけの多い地域もあった。ハカの字は跡取りが書く家もある。
 ブン石
 富裕な家では、ハカの隣に平たい石を建ててハカの建立者の名を切る。
 子供のハカ
 現在はヨセバカなので、子供も骨堂に入れるが、舟石塔を別に切る場合もある。ヨセバカになる前は、中流以上の家や、可愛がった子供を死亡させた家では、舟型光背で、地蔵や戒名を切った舟石塔をたてた。年令は7〜8才位までが多いが15才位までという場合もある。子供のハカを「お地蔵(おっぞ)はん」と呼ぶ。死産した場合、上板の六地蔵に預ける場合もあった。
 異常死の場合
 妊婦が5〜6カ月以上で死んだ場合、子供と別々に葬っていて、現在も別々に火葬にするという土地もある。
 産み流れの子や、水死した人のために、命日などに地蔵流しと言って、寺でうけて来た千枚地蔵を川へ流す。
 ブ ク
 死の忌をブクと呼ぶ。普通ブクの期間は49日間で、50日目に神棚の白紙をはがしてまわる。100日間という家も多い。1年間というところもある。身の濃い者程ブクの期間は長く、濃い親類にもブクはある。ブクの期間中は、神祭りをしない。神事に参加できない。年賀をしない。火が混じるので客来をしない。他人の家を訪問しない。魂が棟におるので造作をしない等の忌がある。葬式の手伝いをした人も当日は神祭りをしない。ブクの意識は10年位前から、若い人の中から薄れてきている。
 マワリメ
 ムユカが終ると7日目毎をマワリメと言い、ヒトナヌカ、フタナヌカ、ミナヌカ、ヨナヌカ、イツナヌカと呼ぶ。床に遺骨を移して、食物をまつりかえる。家族、親戚、株うち等で経をあげる。僧は昔は来ない場合がほとんどだが、現在は呼ぶ場合が増えている。イツナヌカで仕上げをすると言って、遺骨を骨堂へ納める土地もある。
 四十九日 旅立ち
 今は大体四十九日に遺骨を墓へ送る。イノハイをこの時に墓に置いておく士地もある。墓から帰って本膳で食事をしたり、四十九の餅を食ベる。餅は米の粉をダンゴにして茄でるが、今は焼きまんじゅうを買ってすませる家もある。この餅を兵隊検査の時に食ベると不合格になると言って、とっておいたこともある。翌日近所へ配り物をするところもある。(満中陰)四十九日を旅立ちともいう。
 百カ日の法事
 百カ日の法事をする家もある。僧の読経の後墓まいりをし、一同で本膳につく。満大陰の配り物を近所ヘ配る。
 このあと追善は法事と呼び、1年日のムカワレ以後、家や土地により違いがあるが、共通しているのはムカワレと3年目(3年、3回忌、3周忌、3年忌など)と7年目で、ほかは4年〜100年以上まで色々である。法事にはイハイをオモテの床に移して、掛軸を飾り、家により精一杯のものをまつる。オツイモンという米の粉のダンゴをまつるところもある。宵法事と言って、法事の手伝いの人がその前日に集まり、念仏をあげて本膳でよばれてくるところもある。
 追善の膳は、アブラゲ、ナラエ(大根、ニンジン、シイタケの3杯酢)飯と味味噌汁、真中に白アエ又は三度豆という料理で、酒がつく。今は仕出し(魚つき)をとる家が半数位になっている。


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