阿波学会研究紀要 |
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郷土研究発表会紀要第26号 | |
生きている中央構造線 |
地学班 阿子島功 |
地震災害についての関心が高まっている中で、吉野川地溝谷の中央構造線活断層系の解説書や教材は必ずしも多くはありませんでした。1979年の阿波学会「池田町」総合調査を機会に、35枚のカラースライドと23分間のテープ解説を作製しました。これを教材として役立てていただくため、スライド(一部省略)と解説のほぼ全文をそのままのかたちで印刷させていただきました。 1 生きている中央構造線(写真は徳島新聞刊、1979、航空写真集「とくしま」より)
2 中央構造線はいったいいつからどれだけ動いているのでしょうか。生きているという証拠は、どこにあるのでしょうか。それでは、もし中央構造線が活動したらどうなるのでしょう。この3つに焦点をあてて考えていくことにしましょう。
3 中央構造線は、西南日本規模で連なる大きな断層です。1878年に来日したエドモンド・ナウマンは、日本の地質構造を最初に総括した人で、フォッサマグナによって東北日本と西南日本とに分け、さらに中央構造線によって内帯と外帯とに分けました。
4 これは、人工衛星による写真ですが、吉野川平野の北側には、鳴門市から池田を経て伊予三島の方へ向って一直線の崖があらわれています。吉野川平野は、断層にそっておちこんだ地溝谷(リフト・バレー)とよはれています。(朝倉書店刊、1974、「日本の衛星写真」P.31より)
5 中央構造線を境にして、北側の阿讃山脈では和泉層群がみられます。和泉層群は、中生代末に浅い海で堆積した堆積岩です。南側の四国山地には、三波川結晶片岩がみられます。これは、古生代末あるいは中生代に地下深くで高い温度と圧力のもとで変成作用をうけた変成岩です。したがって、中央構造線を境に形成時代や、形成される深さのちがうものが現在同じ高さでとなりあっているということになります。(通産省地質調査所、1978:1/1,000,000日本地質図より。なお、高等地図帳の地質図など参照)
6 中央構造線の活動の歴史は、数千万年の古さをもっていますが、これが最近の地質時代にも活動していることが明らかになりました。この写真は、池田町の西方で中川典(つかさ)・中野光男両氏によって、白地衝上断層と名づけられたもので、段丘礫層の上に和泉層群がのしあげた断層です。過去数万年間の断層運動を示しています。中川・中野両氏は、吉野川全体にわたってこのような衝上断層運動があったと考えていました。(地質学雑誌、第70巻、1964より)
7(図 省略) 8(スライド省略。図1参照) 9 黒くみえるのが和泉層群が破砕されてできた断層破砕帯です。
10 中央構造線が右横ずれの活断層ではないかという考えが、1966年に金子史朗氏によって発表されました。金子氏は、航空写真によって、この図のような断層の右横ずれ運動の証拠になる地形の変形を発見しました。右の3つは、右横ずれ運動によって尾根がちぎれたり川が屈曲したりした様子を表しています。阿波池田町では、左から2つめの
(b)
にあるような段丘崖のくいちがいがみられるといわれています。
11 1968年に、岡田篤正氏はこの阿波池田の断層線にそって池田台地の西をかぎる浸食崖が東西にずれていると考えました。破線Aが、ずれる以前の崖の位置を表わしたものです。A'が、現在の崖の位置です。これは、右横ずれになります。
12 図のように池田台地面の西をかぎる侵食崖は、東西に200mずれ、垂直に段丘礫層の基底面を指標にして50mずれていると考えられました。すなわち、水平方向の移動量が、垂直方向の移動量より大きいので横ずれ断層ということになります。
13 岡田氏は、吉野川下流の全体にわたって同様の右横ずれ断層があったと考えています。1970年に、『吉野川流域の中央構造線の断層変位地形と断層運動速度』という論文にまとめています。一方、1972年の須鎗和巳論文は岡田氏の横ずれ断層運動の証拠とされたものに疑問をのべ、一様な横ずれ断層ではなくモザイク状の地塊ごとの断層運動であると論じています。そして、その後討論が繰り返されました。このスライドは、1978年に須鎗・阿子島両氏によってまとめられた吉野川流域の断層の分布図です。東西方向の断層は、南北方向の断層によってきられています。また、大規模な低角度ののし上げ断層が最近になって発見されました。図の中のA地点、J地点、L地点、M地点などです。しかし、これは全体にわたっておきているのではなく南北断層にかぎられたいくつかのブロックだけにおきている局部的現象と考えられています。「一様な横ずれ断層説」と「地塊ごとのブロック断層説」との討論のいくつかをたどってみましょう。
14 これは、池田町州津鮎苦谷川の空中写真です。「橋の下にかつて断層露頭がみられたので東西の崖Fは断層崖。ところが、鮎苦谷川の西の侵食崖AとA'は、右横ずれのようにくいちがっている」と考えられました。(徳島新聞社刊、1979:航空写真集「とくしま」より)
15 これは、その平面図です。ところが、鮎苦谷川の東側の崖は、左ずれのようになっています。
16 写真のB、B'の崖がこれです。(14図参照) 17 これは、約30km下流の脇町・岩倉付近です。断層線に沿って川は右にずれているとされています。しかし、断層破砕帯があれば谷は、破砕帯に沿って流れるのが当然で、その時の地形の傾きによって、左に曲ったり、右に曲ったりしますから、必ずしも横にずれたとは限りません。
18 池田町の10km東の地点では、平面図のような断層破砕帯の露頭がみられました。北側の和泉層群の断層粘土と南の三波川結晶片岩とが、左上写真のように互いにくいこみあっていることから、この断層は、右横ずれの運動によって、1
・2 ・3 のようになったと考えられています。しかし、この露頭は、平面でみていますから垂直方向にどれだけずれたかはわかりません。縦ずれでも、1 ・2
・3 の様に差し違え構造はできます。
19 池田の西の下馬路深川谷で発見された材木は、炭化しており、放射性同位元素を用いて約26,000年前のものと測定されました。材木は、中央構造線の断層破砕帯にまきこまれて、東西に向いたと考えられています。
20 しかし、須鎗・阿子島氏によれば、この材木は、断層による窪地の中で堆積したものであり、断層運動によって、東西を向いたものではないと考えられました。さらに、和泉層群と結晶片岩の境である中央構造線は、この地点よりも南を通るとされました。(徳島大学教養部紀要、自然科学、第11巻より)
21 これは、岡田氏による中央構造線の位置を示した図です。深川谷は、地点1です。岡田氏によれば、中央構造線は池田の町の北側を通ると考えられました。中央構造線の南側の新山には、和泉層群があります。これは、吉野川の北の地すべり地からおちてきたと考えられました。地点3・地点4の白地衝上断層は、断層ではなく結晶片岩や段丘礫層の上に和泉層群の地すべり堆積物がのっかったものと考えられました。
22 手前が新山で、和泉層群の露頭があります。
23 吉野川の北の地すべり地の写真です。新山は、ここからおちてきたのでしょうか。
24 これは、須鎗・阿子島両氏による地質図です。中央構造線は、池田の町の南側を通ると考えられました。地点1の深川谷から、地点2の馬谷川、地点3のハクチ、地点4板野、地点5シンイケの間は、北側が隆起する衝上断層と考えられています。
25 これは、地点2の馬谷川の露頭で、左下から右上に断層面があります。南側の砂礫層に北側の和泉層群破砕帯がのしあげています。砂礫層の下には、結晶片岩があると予想されます。
26 (図24参照) 27 この地形模型にあらわれているように、池田の町は、東西断層と南北断層のくみあわせによってできたかんおけ状のおちこみになっています。(模型は徳島大学教育学部学生作製 水平縮尺1/5,000。垂直縮尺が水平縮尺の2倍になっている。)
28 これは、三野町太刀野山付近の航空写真ですが、台地面を切って、F−F'の東西方向の断層崖ができています。F''地点では、砂礫層に和泉層群がのしあげた衝上断層の露頭があります。ところが、東西の断層崖FとF'とは、まっすぐにつながらずに南北の崖を境に南北にくいちがっています。横ずれ断層なら、このようなことはありえないのです。(徳新刊、1979:航空写真集「とくしま」より)
29 これは、美馬町荒川の衝上断層の露頭です。上部は和泉層群の破砕帯、下部は3万年よりやゝ古い扇状地礫層です。北側地魂が100m以上隆起したため、のし上げ断層となったものです。
30 この写真は、1891年の濃尾地震の時に、突然あらわれた根尾谷断層の写真です。崖の高さが6mあります。すなわち、断層の地形は地震の化石であるといえます。中央構造線に沿って、再び地震がおきるとすれば、どのような断層運動があるでしょう。
31 これは、活断層の動きを、松田時彦氏が模式的なグラフに表わしたものです。グラフ(a)は、ふだんからズルズル動く「クリープ型」。グラフ(b)は、地震の時にだけ動く「地震断層型」。中央構造線に沿って、ふだんのずれは認められていませんから、(b)型と考えられます。
32 池田断層の場合、約2万年の間に50mの垂直のずれがありますから1000年あたり2.5mとなります。そして、過去1000年以上地震の記録がないので、今度地震があれば2.5mずれます。2000年間地震がなければ、今度地震があれば5mずれます。落差が2mの断層は、マグニチュードが約7の地震によって生じます。中央構造線に現在ひずみがたまりつつあるのでしょうか。それとも、もう動かないのでしょうか。
33 (略図1参照)
文献 第四紀前期においては北側地塊上昇の逆断層。第四紀後期にはさらに低角度の衝上断層(砂礫層に基盤岩がのし上げる)で北側地塊の隆起。古い逆断層を新しい衝上断層が切っている。 水平移動成分よりも垂直移動成分がはるかに大きく、本質的な運動は急角度の垂直運動であり、おしかぶせ断層は局部的現象である。断層のパターンは南北系・東西系の組み合わさったモザイク状をなし、阿讃山脈から吉野川谷中央にかけて階段状に落ち込んでいる。 池田町付近において、衝上断層運動と右横ずれ成分の大きい垂直に近い断層とがあり、前者は後者に切られているとする。 |
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