阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第26号
ふる里のことば―地名をさぐる

徳島県方言学会 

      森重幸・川島信夫・金沢浩生

〔I〕はじめに
 ここ数年来の傾向として、「地名のルーツ」ものが目につく。ふる里を見なおそうとする動きは、政治家のキャッチフレーズ以上に、純粋かつ素朴な心情であろう。
 地名への関心は、ちょっとした場合にもうかがえる。人と話すとき、「故郷は?」「どんな字で書くの?」などとたずねる。その漢字表記を見て、なんだか納得した気持ちになる。
 柳田国男によれば、わが国の地名は、「大字(おおあざ)」だけでも約20万。これに、「小字(こあざ)」や「俗称地名」その他を加えると、何千万というほどである。これは、世界中でも、ケタ外れに多い。農耕を主として発展してきた日本は、狭いけれども起伏の多い土地を識別する必要から、多数の地名ができた。
 地名についての解釈や説話は、すでに奈良時代の風土記や古事記にさかのぼることができる。
 徳島県の地名については、藩政時代の「阿波誌」にくわしく、古文書なども多い。また、明治以後の各町村誌、郷土誌などには、地名関係が記述されている。さらに、最近では、小・中学校で、「ふる里読本」が学習されている。その中で、伝説や地名についても編集されているのは興味ぶかい。
 しかし、地名の解釈は異説や付会が多く、柳田国男が「地名の研究」で問題提起して以来の、「古くて新しい」テーマである。
 文献や史実で解明できるものはともかく、大多数は、地理学・民俗学・国語学その他を総合して考察することになる。そして、なによりも、現地を踏まえることが基本である。また、その説明が、同地名の、他の地点でも成立しなければ妥当とは言えない。
 徳島県の地名論考としては、笠井藍水・金沢治・萩沢明雄のユニークな研究が光っている。本稿は、これら先学の成果を発展させようと試みた緒論である。浅学、独断のおそれが多分にある。斯学先輩の指導を受けて進みたいと希望している。

 

〔II〕調査方法
1.従来、学習してきた方言研究と並行して、県内各地を実地調査した。
2.地名関係の文献、資料の成果を参考とした。
3.町村役場で、地図や地藉図を参照した。
4.在地年配層の識者から、往時の交通、産業、政治、開拓、民俗、伝承などについて指導をうけた。
5.以上を総合し、主として、国語学の面から考察した。また、池田町総合調査の一部としてとり組み、全県下を概観した。

 

〔III〕地名をさぐる
 池田町内の地名を中心に考察し、県内の地名に関連させたい。
 一応、つぎの地名をとりあけ、他は、あとの機会にゆずる。
1.宇井、宇井野、宇井谷、宇井ノ内……。
2.尾井ノ内、上ノ内、追立、大由ノ木頭……。
3.大枝、江田、里ノ江、十家……。
4.井ノ久保。
5.猪ノ鼻。
6.井ノ内、井内、居内。
7.井ノ谷、猪谷、湯谷……。
8.井ノ上、井ノ神、井ノ本、井ノ頭、井地岡……。
9.井口、出口、井関、猪尻……。
10.黒沢、左右山、左右内、惣後……。
11.オソゴエ、オソ谷……。
12.尾後、大後、尾越、大越。

 (1)宇井、宇井野、宇井谷、宇井ノ内……。
1.池田町ウエノは、もちろん「上野」の意であるが、同町馬路宇井野(ういの)も、上野の音変化地名である。
2.県内には、上記の同類地名がかなり多い。
 神山町下分宇井(うい)。阿南市新野町宇井谷(ういだに)。木頭村北川宇井ノ瀬(ういのせ)。同村折宇宇井ノ内(ういのうち)。徳島市飯谷(いいだに)町。
 これらは、ウエ→ウイ→イイ→の音変化によるものである。
3.具体的にみると、神山町宇井は「上井」とも考えられる。いずれにしても、「谷あいより上の部落」の意である。また、宇井ノ瀬は、北川部落の西北にあり、川の上流の岡の上、つまり岡背(おかせ)にある。
4.宇井ノ内について、折宇(おりゆう)地区の年配層は、南川(みなかわ)の奥地にあって、折宇本名から遠いので宇井ノ内といい、栩谷(とちたに)にあって、折宇本名から近いので中内(なこうち)だと対比説明している。宇井ノ内は、上流にあって、入りこんだ小平地の意である。
5.宇井谷、飯谷なども、主河川の上流にある小谷、または、その部落と考えられる。本県では、山の上部、川の上流をウエまたはソラと呼んでおり、地名に用いる場合が多い。

 (2)尾井ノ内、追立、大由ノ木頭……。
1.西祖谷山村尾井ノ内(おいのうち)は、前記(1)の宇井ノ内と同類である。ウエ→ウイ→オイの音変化で説明できる。
2.西祖谷山村誌の説明では、尾井ノ内は、「二つの尾根に囲まれた地形による」としている。しかし、地形の状況をさらに検討してみよう。
3.尾井ノ内は、祖谷川支流戸ノ谷(とのたに)にある。下の部落が戸ノ谷。中の部落はナコウチ。上の部落が尾井ノ内となっている。
4.つまり、前記(1)の木頭村宇井ノ内←→中内と同様に、西祖谷山村尾井ノ内←→ナコウチと対応した地名表現である。
5.したがって、尾井ノ内は「上ノ内」の変化地名とみるのが妥当である。谷の上部にあって、入りこんだ小平地の意である。
 なお、上ノ内(うえのうち)は、上那賀町平谷上ノ内、同町海川上ノ内がある。平谷には下ノ内(しものうち)という対応した地名があり、海川はウエンチまたはウエンジョに対してシモンジョのように表現している。
6.木沢村坂州追立(おいたて)について、村誌は、「何人カヲ追立テタル……」との説明を引用しているが、上那賀町音谷追立はどうであろうか。
7.追立の原義は、前記尾井ノ内の場合と同じく、「上立(うえたて)」の変化地名とみるのが現地に適っている。つまり、「断崖、または断崖上の部落」である。
8.木沢村追立は、坂州木頭川の峡谷にのぞむ断崖地帯である。昭和16年に県道沢谷線が開通するまでは、旧沢谷村への交通は、車力を通さぬ難所であった。
9.「オイ」を「上」の意味で考えるとき、木頭村出原を大由ノ木頭(おゆ(又はおい)きとう)と古称したことも理解できよう。当地は、木沢村木頭(きとう)、木頭名(きとうみょう)とともに、往時は那賀山荘内にあった。これら三つの木頭を区別するために、大由ノ木頭(おゆ(又はおい)きとう)と呼び分けたのであろう。つまり、「上流奥地にある木頭」の意である。
10.さらに、木頭村西宇追川内(おいごち)は、その近辺にある同類地名、西宇ゴロゴーチ、折宇細川内(ほそごーち)よりも、山の上部にある、古い川内地形である。「オイ」=「上」の意味に適合している。
11.最後に麻植(おえ)郡西麻植(にしおえ)などについては、忌部氏に関連した「麻殖」説もあるが、前記オイ、オユと同じく、ウエ(上)の意ではなかろうか。往時の中心地「名方」よりウエの地方、つまり上流を意味する地名と見たい。「美馬」が「三好」を含めて別の文化圏だったとする説と考え合せて興味ぶかい。

(3)大枝、江田。里ノ江、十家……。
1.東祖谷山村大枝(おえだ)は、平家谷伝説の発祥地である。平国盛なる部将が落ちのびたといわれている。
2.当地は、若林(わかばやし)、京上(きようじよう)など現在の村の中心部よりも山上部に位置するが、県道三縄停車場菅生線、つまり祖谷街道が開通するまでは、役場や小学校があった。
3.大枝の地名解釈について、萩沢氏は「麻植田」とされている。麻■の類を田に植えるかどうかである。
4.むしろ、尾井ノ内のオイと同様に、オエ田、つまり「上田」の意味にとればどうであろうか。ウエ→オエの音変化は無理がなく、しかも大枝の地形状況にかなっている。
5.江田、江畠などの地名も、「上田・上畠」の意味にとれよう。ウエダ→エダの変化は、連母音をさける日本語の傾向である。
 神山町上分江田(えだ)。神山町上分江畠(えばたけ)。小松島市江田町大江田(おおえだ)。木沢村沢谷小畠(おばたけ)。
6.神山町の江田、江畠は、いずれも山の中腹部を中心に展開しており、「上田、上畠」の地形状況に適合している。
7.小松島市江田町は、藩政時代以来の勝浦川改修、堤防決潰などで、地形がいちゞるしく変化したことを年配層が伝えている。川ぞいにある大江田は、田地の起伏が多くて水利の便が悪い。隣接の姥ノ懐(おばのふところ)は河川の流路になって消失している。これらの地名から考え合せると、往時は、この付近が高い地形であったと推定できるのである。
8.木沢村小畠は、断崖上にある適度な平地である。「小さい畠」と見るよりも、「上畠」の地形にふさわしい。「小〜」型の地名の中には、「上〜」の意味を持つ場合がかなりあるのではなかろうか。
9.下記の地名が、「〜上」を示すかどうかは、今後検討の要があるが、関連するものとして一応とり上げた。東祖谷山村高野里ノ江(さとのえ)。一宇村十家(といえ)。上那賀町日真そうえ。上那賀町平谷ノウエ。
10.一宇村十家について、村誌は、「十戸の家」と説明しているが、「タオ上」、つまり「山の鞍部にひらけた部落」と解するのが地形に適している。
11.上那賀町そうえ、ノウエなどは、「沢上(さわうえ)・野上(のうえ)」にもとれるし、「沢辺(さわべ)・野辺(のべ)」の音変化にも理解できる。徳島市国府町の旧井ノ上(いのうえ)地区が、「井ノ辺(いのべ)」の変化地名であるのと同じである。
12.山城町粟山どうのゑ。神山町阿川曽江(そえ)。脇町曽江(そえ)なども、「〜上」「〜辺」の両意にとれるので後考したい。しかし、海部町野江(のえ)、勝浦町沼江(ぬえ)などは、「野辺・沼辺」の意とみるのが良さそうである。

(4)井ノ久保
1.イノクボは県内に5地点あり、うち2地点が池田町である。
 池田町白地井ノ久保(いのくぼ)。池田町川崎井ノ久保(いのくぼ)。三野町太刀野山井ノ窪(いのくぼ)。木屋平村大北猪ノ窪(いのくぼ)。上那賀町大殿井ノ久保(いのくぼ)。
2.イノクボの原義については、つぎの二つか考えられる。イ 「上のクボ」。ロ 「用水のあるクボ」。
3.イノクボを「上のクボ」とするみかたは、ウエノクボ→ウイノクボ→イノクボの変化で、連母音をさける日本語の傾向として無理がない。
 一方、「用水のあるクボ」とすれば、飲料・農耕に有利な地形で、とくに水耕が可能となる。これをふまえた上で現地にあたり、その原義を結論したい。
4.イ のみかたとして、まず上の〜型の地名が現実にあるかをたしかめたい。県内の状況をみると、つぎのようになった。
  ウエノクボ……1。ウワクボ……12。カミクボ……1。ナカノクボ……3。シモクボ………11。
5.その多くはウワクボであるが、イノクボの原型となる上ノクボも1例ある。他に、上ノ原、上ノ森など、上ノ〜型の地名もかなり多い。したがって、ウエノクボ→イノクボの変化もありえることが予想される。
6.つぎに、前記イノクボが上ノクボの地型になっているかどうかを現地でたしかめればよい。もちろん、何を規準にして、上ノクボと判定するかが問題であるが、何よりも現地をみることが先決である。一方、ロ を判定する規準として、稲作可能なクボがあるかを見て行くことにしよう。
7.池田町白地井ノ久保は、佐馬地川に大きくつき出した尾根にある。東南に展開した広大な緩斜地形は、農耕最適地である。当地は、さらに小区に分れ、ウワクボ、アサヒ、クリノ、下クボなどとなっている。
8.地形的には「上のクボ」と、とれなくもない。大部分が畑地である。「水さえあれば田も作れる」と説明してくれたのは、クリノの主婦のことばであった。
9.しかし、その一方で、特徴的なことは、最上部のウワクボに、まとまった水田がある。田地は、そこから発する小谷周辺にかなり作られている。以上のことから、白地井ノ久保の原義をイ 、ロ のいずれにとるか微妙な所で結論は他にゆずることにした。
10.つぎに池田町川崎井ノ久保はどうであろうか。まず川崎は、祖谷川と吉野川の合流部に突出した地形で、地名どおりの川崎である。
11.当地の井ノ久保は、川崎部落の最下部に近い地区で祖谷川に面している。川べり近くを下井ノ久保、その上段が井ノ久保である。したがって、ここでは、「上のクボ」の原義は成立しない。なお、明治初年の土地台帳によると、水田は少く、多くが畑地と山林であった。
12.木屋平村大北猪ノ窪は、神山町と接する旧川井峠に近く、山の八合目をたどって、上流の弓道(ゆどう)・谷口(たにぐち)に通ずる間道にあたっている。「あんな高い所でも、サコに水があって田んぼをしていた」と土地の人が説明してくれた。
13.上那賀町大殿井ノ久保は、丈ケ谷川をへだてて平谷の集落を見下す小さな緩傾斜地形である。ここも畑地がほとんどで、田地は、庚神を祈る岡の西側、丈ケ谷の曲流に面して少々であった。現在、柚子の畑となっており、その水源は、柿の古木のある山ぎわの石垣からの湧水であった。
14.三野町太刀野山井ノ窪は、河内谷(こうちだに)支流井ノ窪谷の最奥地である。通称五輪橋(ごりんばし)から奥の小谷と、井ノ窪谷の南斜面がその区域である。
15.井ノ窪の集落は往時17戸であったが、現在8戸となっている。標高差100m、南西むきの緩斜さこ地形が、山腹から谷の方に展開している。また、部落の近くに、かなり大きなクボ地があり、ウワクボと呼んでいる。往時、稲作も試みられたであろうが、用水不足で現在は畑地である。
16.当地は、地形上、用水の不便な所である。以前は、集落中心部の共同井戸を使用したが、夏期は、1ケ月も渇水するのが常であった。現在は上流の谷からホースで通水している。
17.こうみると、三野町の井ノ窪は「上のクボ」に理解されそうであるが、区域内の井ノ窪谷は、西ノ谷、ツヅラ谷、ニガノ谷、ナツヤケ谷などの小谷となって、多くのくぼ地形に山田がひらけているのが特徴的である。前記の五輪橋近くには、井ノ窪の祭神、伊勢大神宮の御供田(ごくでん)があるのも注目される。
18.以上を考え合せると、イノクボの原義は、「上のクボ」ではなく、「稲作もできるクボ」ということになる。稲作もできるということは、逆に言えば、畑地が主になるということである。もし、そのクボ地が、田を主とする場合には、当然、田ノクボであろうし、畑地ばかりとすれば、キリクボ、ツチクボとなるはずである。井ノクボは稲作が、いささか可能である地形に用いた地名であろう。

(5)猪ノ鼻
1.猪ノ鼻(いのはな)は県内に三地点あり、いずれも交通の難所である。ハナが断崖を意味することで理解できる。
 池田町西山猪ノ鼻。土成町平間猪鼻(いのはな)。宍喰町小谷猪ノ鼻(いのはな)。
2.では、猪ノはどのような原義であろうか。これについては、つぎの場合が一考えられる。イ 「上ノハナ」―つまり、「山上の断崖」の意。ロ 「井ノハナ」―つまり、「清水のある断崖」の意。ハ 「猪の鼻」と同じような地形―つまり、断崖の先端部が小屹立した地形。
3.以上をふまえた上で、現地にあたってみよう。池田町猪ノ鼻は、西部阿讃の県境で、断崖の峠として有名である。もっとも、藩政時代は、6km北にある二軒茶屋(にけんじやや)を越すのが本道であった。
4.明治以来、幹線が猪ノ鼻峠に移った。現在は国道が改修されて墜道となり、5・6戸あった部落も、全戸下山転出している。かつての在住者によると、峠は、かなりにぎやかで、茶屋、旅館がいとなまれたという。耕地は畑だけで、飲料水は岩の間から湧く清水を用いた。夏涸れはほとんどなく、1年に1〜2回、下の谷水を利用するにすぎない。二軒茶屋の場合も同様で、近くの湧水を「一升水」と呼んでいる。多くはないが絶対に涸れないことで珍重されていた。
5.宍喰町の猪ノ鼻は、県道宍喰久尾線にある。角坂(かくざか)から猪ノ峠(いのとうげ)につゞく山道で、宍喰川に面した40mの断崖地形である。山腹から川につき出た断崖平地には相当広い水田がある。池田町のような、山上部の断崖ではない。
6.部落は約10戸。飲料水は、各家庭の裏山の岩の湧水を利用してきた。もちろん、最近は、川の上流からホースで通水する場合もある。
7.旧道は、現在の県道よりずっと低く、川岸に近かった。下尻氏宅の下から川べりを上り、橋谷氏宅の下を南岸に渡った。そして、猪ノ鼻の断崖の下を川ぞいに上って、支流曽引谷に入り、その東岸を上って西岸に渡り、現在の猪ノ峠より、さらに上にある旧峠のトンネルに達したという。旧トンネルは180mで明治以前のものである。
8.土成町の猪鼻は、宮川内谷(みやごうちだに)と支流八丁谷(はつちようだに)の合流点に近い谷ぎわの断崖である。地形そのものが猪の鼻に似ている。
9.往時は、苅前(かりまえ)部落と相坂(あいさか)部落の間は峡谷のため通行できなかった。八丁谷の人々は、北岸をたどって猪鼻の断崖直下の谷に下りた。石を飛び渡って南岸の猪鼻地形の鼻の凹みを平間(ひらま)部落に出たのである。
10.平間の水田は、猪鼻の断崖の下で八丁谷から取水する。岩がオーバハングした所の30mは、谷底から3〜4mの石垣をきずき、竹や松丸太を渡し、棕梠と赤土による水路を作った。
11.以上を考え合せると、猪ノ鼻の原義は、イ の「山上の断崖」には無理がある。ハ の猪の鼻に似た地形というのも共通性がない。結局、猪ノ鼻は、ロ の「清水の出る断崖」の意がもっとも近いものであろう。
12.井ノ頭(いのがしら)、井地ノ元(いじのもと)、井ノ元(いのもと)などが湧水地形を直接示すのに対し、猪ノ鼻は、断崖の方に主点があるようで、猪は、いろいろな用い方になっている。つまり、池田町猪ノ鼻は湧水のある断崖であり、宍喰町猪ノ鼻は、用水湧水を利用した断崖田地を示している。そして、土成町の猪ノ鼻は、断崖下をとおる用水路であり取水口を示すことになる。

(6)井ノ内、井内、居内
1.井ノ内、居内は、表記は異なるが同じ地名と考えられる。井ノ内、井内は少ないが、居内は多い。しかも、これらは、山地、平地をとわず散在しているのが特徴である。以下代表的なものを検討してみよう。
 池田町川崎居内(いうち)。阿南市七見町居内(いうち)。阿南市学原町居内(いうち)。鳴門市大麻町市場居内(いうち)。海部町芝居内(いうち)。井川町井ノ内(いのうち)。上板町瀬部井ノ内(いのうち)。
2.池田町川崎については、井ノ久保のところで説明した。ここの居内は川崎の高台にあり、安養寺の付近である。周囲の地名には、釣井、中内などがあるが、居内の原義は速断できない。一応つぎの二つの場合を考えた。イ 中内よりも山上部にある。したがって、「上ノ内」ではなかろうか。ロ 釣井(つるい)と同じ高さで隣接している。釣井には共同井戸があり、居内にも井戸がある。したがって用水と関係するのではないか。まず、この点から分析してみたい。
3.川崎の居内は、地形的には部落の上部にあたる小平地である。したがって、「上ノ内」の音変化とみても不都合ではない。つまり、ウエウチ→ウイウチ→イウチである。
4.しかし、この場合、吉野川や那賀川など下流のデルタ地帯の居内は、どう考えるべきであろうか。こうみると、結局、居内は用水に関する地名ではないかと考えたのである。
5.そこで、山地の居内と状況が異なるデルタの居内を見ることにした。阿南市七見町は富岡町東部の一毛田低地帯である。東居内、中居内、西居内の三居内がある。地図上でみると、その地形的特徴は、三居内の集落が黒津地町に向う道路に直線的に並んでいることである。
6.当地の人によると、居内の状況は、つぎのようであった。イ 七見町の低地帯では、居内がもっとも高い。ロ 飲料水は、少し掘ると、清澄な伏流水が湧出する。
7.以上のことだけでは、居内の原義が「上ノ内によるのか」「用水」によるのかは分らない。考えるまでもなく、低地帯では、住居を、いささかでも高所に構えるのは理の当然である。では、デルタ地帯の小山に、なぜ住居がないのであろうか。それは飲料水との関係である。七見町の南部、王子山周辺には伏流水がなく、したがって住居がないわけである。つまり、居内は、イ 高い所。ロ 用水がある。の二つを満足する所であるが、用水との関係がより深いと言えよう。
8.この結論をたしかめるために、阿南市学原町居内にあたってみた。当地は、国鉄阿南駅と見能林(みのばやし)駅の間にあり、国道55号線の東側である。農業用水は、富岡町西ノ口から桑野川の水を通している。飲料水は予期したとおり、清澄な伏流水があるとの事だった。
9.上水道完備の現在も学原町居内の人は井戸水も使用している。ところが、国道西側の前田は伏流水がなく、飲料水の不便なところだと話してくれた。たゞ残念なことは、数年前、近所にボーリングセンターができて、井戸水の具合が悪くなったとこぼしていたのが印象的である。
10.また、学原(がくばら)町居内も比較的高い地区である。大正7年、頷家町(りょうけちょう)の土手が切れて、桑野川が氾らんした。富岡町周辺が浸水したが、ここの居内は安全だったとの話である。
11.鳴門市大麻町市場居内は、旧吉野川べりのデルタの居内である。当地も良質の井戸水があり、飲料水に恵まれている。しかも、デルタ地帯では比較的土地が高く、付近の人は、これを「市場の高田池」と呼んだと言う。往時、かんがい用水は、もっぱら足ぶみ水車にたよった。隣接の喜来(きらい)が浸水しやすかったのと対照的である。
12.板野町那東(なとう)居内は、四国三番札所の奥ノ院藍染院(あいぜんいん)の付近である。当地の井戸は、松谷などの伏流水があり、那東で、もっとも強く良質だと言われている。
13.松谷(まつだに)とキビガ谷に貯水池があり、その農業用水が居内で二幹線に分岐する、のど首でもある。
14.海部町芝居内は、旧川西村の主集落野江に隣接している。裏手に、新井(あらい)神社の岡と、お薬師さんの小山がある。
15.飲料用の井戸は水深5m、良質で夏涸れは、まったくない。芝の居内は、芝用水の根源である。水源は部落から100mの上流で、海部川四岸梅ノ木谷から取水している。用水路の巾×1.5m、高さ×2m、延長40mの暗渠は岩盤をくっさくした大工事である。居内の西谷に開口し、下流の高園(たかぞの)まで配水していた。しかし、現在は、海部川共同用水に編入されている。
16.当地の特徴も、土地が高く、いかなる水害もうけないこと、用水の取水元であることなど、他の居内と共通している。
17.こうみると、井川町井ノ内も、おのずと理解できる。井川町は、旧辻町と旧井ノ内谷村の合併によるものである。町名の井川は、往時、この付近が井川庄と呼はれたことに由来している。井川の意味は、後記する井ノ谷と同じく、はやくから農業用水に利用されたことによるのであろう。
18.旧井ノ内谷村は、井ノ内谷川の流域で、井ノ内とも井内とも呼んでいる。旧町村界は、下流の辻町側が金竜山(きんりゅうざん)、井関(いせき)で、井ノ内谷村側は、落倉(おちくら)、流堂(ながれどう)、吹(ふき)などである。地名が示すように、峡谷断崖の地形である。井ノ内谷村は、全体が袋状の盆地で、「〜内」型の地名にふさわしい地形である。
19.井ノ内の原義も、池田町川崎居内の場合と同様に考えられる。すなわち、イ 井関の内側、つまり水源地にあたる。ロ「上ノ内」の地形である。そのいずれにも該当するが、やはり、用水関係に重点がありそうに思える。
20.ここで注目されるのは、山村名の呼称が下流部の人―つまり外部の人によって命名されやすい傾向である。これについては、一宇村史がすでに指摘している。美馬郡一宇村は、最下流部にある一宇部落の氏神境内に、イッチューガシの大木があり、村名起源とされている。そして、貞光谷下流の人が、一宇村の最下流部落名で一宇村全体を指示したと言うのである。
21.同様に、那賀郡木頭村を、往時、大由の木頭と呼んだのも、下流の、外部の者であった。とすれば、井ノ内谷村の場合も、下流の辻の人々による呼び名と思われる。
22.上板町瀬部(せべ)井ノ内は、吉野川下流北岸にある川べりの集落である。上板町の平地帯は、従来、吉野川と宮川内谷川に影響される低地帯であった。昭和40年までは、大洪水のたびに堤防決潰による浸水被害が絶えなかった。しかし、井ノ内地区は、いかなる水害にも安全な「上ノ内」であった。
23.しかも、飲料水は、吉野川の伏流水の得やすい所で、井ノ内の地名にふさわしい。ついでに、隣接の吉野町西条井ノ元も、また同じ地形と言えよう。
24.以上、いろいろと検討したが、井ノ内、居内の原義は、「用水の得やすい高み」とみてよい。これが、さらに「水源地」をも意味することになる。
25.なお、つぎの地点は未調査である。
 徳島市川内町中島居内。同市国府町和田居内。北島町高房(たかほう)居内。
 これらは、地形的にいずれも、デルタの居内、または、これに準ずる居内であり、その概要が予想できるので、今後の調査にゆずった。

(7)井ノ谷、猪谷、湯谷
1.井ノ谷、猪谷、湯谷が同じ地名群であることは先学が指摘している。これらの地名は県内に多数散在している。
2.共通した特徴は、つぎのようである。
 イ すべて小谷である。河川最上流の小谷が多い。
 ロ 急傾斜の小谷が多い。
 ハ 階段状の田地が発達している。
3.井ノ谷の意味は、「上の谷」ととれなくもないが、このような小谷に命名した必然性は、やはり、稲作との関係と見るのが自然であろう。
4.急傾斜の井ノ谷流域では、石積みして田地を作る苦労はあるが、用水の確保は竹樋一本で十分である。往時は、広い田地を作って長い用水路を引くことが技術的に困難だったのである。
5.相生町井ノ谷は大字地名である。井ノ谷特徴を端的にしめす地形状況として興味ぶかい。
6.井ノ谷は温泉説話と結びつく傾向がある。湯谷と音変化したときに、いっそう決定的となる。
7.三加茂町毛田猪ノ谷(けたいのたに)は、弘法大師が行脚の折に温泉を発見されたといわれる。以来、遍路や近辺の人々が湯治したそうである。ところが不心得者が馬の死骸をほうりこんだため、不浄の湯は、たちまちにして出なくなったと言う。類似した伝承は各地にあって、町村誌が記載している。

(8)井ノ上、井ノ神、井ノ本、井ノ頭、井地岡……。
1.いずれも、自然湧水、井泉に関係する地名群で、先学の結論が定まっている。
2.井ノ上はイノウエ、イノカミいずれにも発音するが、本義は大体同じとみてよい。強いて言えば、イノウエは井ノ辺と関連があり、井泉の近辺をさす場合が多く、イノカミは用水の上手、上流部をさす場合が多い。
3.井ノ本、夷ノ本、猪ノ本の類は県内に多数散在している。これらは、いずれも井泉の湧く所ないし取水口と関連している。飲用、潅漑などに用いられ、その重要性の故に水神を杞る場合が多い。したがって井ノ神の地名も出来るのである。
4.井ノ頭、猪ノ頭は、ともに井ノ本と同じ地名である。地名としてはあまり多くはないが、山地の家で、家号となる場合もある。
5.井地は「井泉」の意である。井地岡、井地ノ本は井ノ頭と同じ地名とみてよい。勝浦川、那賀川流域を主として、県南地方に特徴的な地名である。

(9)井口、出口、井関、井尻
1.井ノ口、井口の地名もかなり多い。とくに吉野川北岸支流の用水取水口の地名となっている。阿讃山地から流下する天井谷は、山麓近くで伏流水となる。井口は、伏流水となる前の地点で用水路に確保する所である。井口は井出口ともよばれ、また出口と呼んでいる。
2.さらに、阿波郡・板野郡では、逆に伏流水が露頭する所があり、これもまた、出口と呼んで用水としている。
3.井関は、水量豊富な吉野川南岸から県南に多い地名である。
4.井ノ尻は用水路の最末端部の地名である。県内に6地点あるが、いずれも用水不足がおこりやすい。
5.脇町大字猪尻(いのしり)はその代表地点と言えよう。当地は古来県西部の中心地であった。藩政時代には家老の稲田屋敷もあったが、飲用水、潅漑水ともに不便であった。猪尻の人々は、通称「鎌倉の泉」から水を汲むのが早朝の仕事であった。また、この泉から遠い地区では、10m以上の深井戸を持つ旧家にもらい水をしたのである。
6.猪尻地区の農業用水は、さらに不便な配水経路をとっている。いわゆる井口は大谷の奥にあり、天神池、ガク池、成田池に用水路をつなぎながら数キロにおよぶ配水路を作った。その末端が猪尻である。
7.程度の差はあれ、他の井ノ尻でも用水利用には苦しんでいる。一宇村実平(さねひら)猪ノ尻、鳴門市櫛木(くしぎ)井ノ尻などで、用水関係のトラブルが現在も語りつがれているのは、その辺の事情を物語るものであろう。
8.用水に関する地名は、このほか、井ノ浦、井ノ下、井ノク(奥)のほか多様である。「井〜」型の地名と関係した苗字(姓)を持つ家が、近辺に多数あるのは言うまでもない。

(10)黒沢、左右山、左右内、惣後……。
1.五のつく地名は多数ある。沢はサワ・サオ・ソーなどと発音する。一宇村広沢(ひろぞう)、半田町八千代大惣(おおそう)、上勝町旭菅蔵(すげぞう)、上那賀町音谷惣谷(おんだにそうだに)などのようにきりがない。
2.池田町漆川黒沢(くろそう)は有名な湿原台地である。他に、木沢村小畠黒沢(くろそう)、鷲敷町中山黒沢(くろそう)がある。地名辞典によれば、黒沢は「クラ沢」つまり「岩沢」と説明されている。
3.羽ノ浦町宮倉沢田は、山あいの湿田である。徳島市勝占町惣田(そうだ)、美馬町藤宇惣田(そうだ)、東祖谷山村落合宗田(そうだ)など、いずれも沢田と同じく湿田の地名である。
4.神山町下分左右内(そうち)、貞光町太田僧地(そうち)は、ともに「沢内」の意である。小谷を入った小平地があり、いわゆる沢の多い地形状況をしめしている。
5.同じく神山町下分左右山(そうやま)、貞光町太田僧山(そうやま)は、「沢山」の意である。沢の多い蔭地の山、左右山では土地柄を生かした養鱒場が有名である。
6.美馬町惣後(そうご)は、町内の郡里山と重清山に介在する地区である。阿讃山地の南面傾斜地に多数の小溝が流下する地形で、原義は「沢越」であろう。池田町松尾尾後が「尾越」であるのと同じである。
7.上那賀町日真そうえ、神山町阿川曽江は「沢辺」ないし「沢上」の意であろう。脇町曽江名曽江山は「添山」と解する説があるが、何れに添うた地形であろうか。
8.県内各地にある西沢、南沢、長沢、柳沢などは字義どおり理解できるが、日和佐町山河内白沢は「シロザワ」ならともかく、「ハクサワ」ではよくわからない。
9.木沢村沢谷与沢(よざわ)は「岩沢」の意であろう。上那賀町桜谷(さくらだに)、井川町井内桜(さくら)などのサクラについては先学の諸説があるが、なおよく学習したい。
(11)オソゴエ、遅越、細越、オソ谷。
1.池田町大利オソゴエは、祖谷川に突出した大申の尾根の基部を越える道で一ある。大申は「尾廻し」の意である。尾根を廻ると1kmほどあるが、オソゴエの道は300m以下である。しかも往時は、尾根まわりの道がなかっただけに、やはりオソゴエは、重要な道だったにちがいない。
2.オソゴエの地名は県内に16地点をかぞえる。若干の地点で地名説話があるので、それを含めて考えてみたい。
3.神山町神領北オソゴエは、鮎喰川上支左右内谷口の曲流部にある。二またに開いて突出した尾根の基部を越える道がオソゴエである。四国八十八ケ所の12番札所焼山寺の旧参道になっている。年配の人の説明は、「かわうそがこの道を越したので呼び伝えている」とのことだった。
4.市場町日開谷遅越(おそごえ)は、旧讃岐街道にある。現在はまったくの平担路で、どこを越すのかよく分らなかった。しかし、日開谷につき出た先太りの尾根の基部を通る道が遅越であろうと判断した。
5.当地の年配の方の話によれば、遅越の由来はつぎのようである。
 讃岐の腕ききの大工が発願し、切幡寺に一夜建立に出かけた。仕事を終えて帰る途中、弟子たちに遅れた。当地を越すことが出来ずに夜が明けて果てた。大工をまつった地蔵が現存しているという。
6.相生町蔭谷おそごえは、那賀川中支蔭谷の曲流部である。突出した尾根は三段にひらかれた田地である。所有者川田氏によれば、四代まえの吉蔵がひらいた。下に岩があって浅田であるが日照と水利がよくて良田である。この尾根の基部の小道は通称赤線一郡道で、隣部落の横石に通じている。
7.その由来について年配の方の説明はつぎのようであった。明治になって土地が払い下げになった時、横石部落との境界設定がもめた。隣村のことでもあり、つき合いや縁組みもあるので、結局話し合いとなった。両者夜明けとともに牛を追って山行し、相会した所を村界にしようというのである。
8.横石がわの山が険しいので、蔭谷のシ(人)はゆっくりかまえていた。ところが横石のシ(人)は未明から行動した。夜明けにはすでに山を越え、蔭谷部落のまぢかに来て「遅いぞ!」とトエタ(叫んだ)のである。ここがおそごえで、つまり部落の境界となっている。
9.上那賀町深森ヲソゴエは、那賀川上支古屋谷川の曲流部で、古屋野々尻との境界になっている。
10.曲流の突出部は円形の小山で、細い頭部を旧道が通っている。地形はきわめて特徴的で、ヲソゴエの代表地形を見る感があった。土地の人は、小山をハナマルと呼んでいる。全山にハナシバ(樒)が密生していたからだと説明してくれた。
11.しかし、ハナマルの由来は、ハナシバによるのでなく、むしろ、その地形によったと思われる。那賀川上流地方では、円形の突出部を、すべてハナマルと呼ぶからである。原義は「端丸(はなまる)」であろう。
12.なお、ここには二戸在住している。土地の人は、古屋側のをトンネルと呼び、深森側をオソゴエと呼んでいる。当地ヲソゴエの頚部に30mの用水トンネルがある。四代まえの先代が開通したという。
13.深森にある、もう一つのオソコエも同じ地形である。県道小浜日和佐線のトンネルが通っている。土地の人に旧道をたずねたが分らなかった。県道が通じたために、ヲソゴエの道がはやく消滅したのであろう。
14.上那賀町白石ヲソゴエは、那賀川上流の国道192号線の道路が通っている。町内の人も、とうしてヲソゴエと呼ぶのか分らないと言っている。
15.これについて、ヲソゴエ山に在住する山岡氏(明28年生)の説明は明快であった。明治時代の旧道は、下流の中内から山腹をたどり、同氏宅の上の灯篭の所を通った。ここから白石への道はさらに上りとなり、市宇への道は谷に下りたという。
16.つまり、ヲソゴエの道は那賀川ぞいの道が、村道、県道、国道と改修されるにつれてヲソゴエ山の尾根をくっさくしながら現在の平担路まで下りてきたのである。その尾根の断痕が山岡氏宅直下のコンクリート擁壁である。国道直下の尾根状の田地は、オソゴエ山の尾根の先端部である。
17.上那賀町丈ケ谷細越は那賀川上支丈ケ谷川支東谷の山中にある急峻な小細尾根である。現在は林道が通じているが、往時、ここを通行した人の難渋ぶりが察せられて、心の痛む思いがした。
18.ともあれ、今までのオソゴエを通観すると、「河谷の曲流部に突出した先太りの尾根、その頚部ないし基部を近道とする通路」の地形である。その原義は、細越にあると判断できそうである。つまり、ホソオゴエ→ホソゴエ→オソゴエの音変化による地名である。
19.なお、オソゴエの解釈について、池田氏は、「ウツ・ウトにつながる空洞状地形ないし凹状地形」とされている。
20.本県でも、同様な地形をウト、ウトソと言う場合がある。ウトソ→ウソ→オソの変化も考えられるが、前記の解釈、「細尾越」の方が、他の地名説明に便利な点もあるので今後検討していきたい。
21.山城町粟山オソゴエは吉野川上支白川谷と、その支流アキ谷の合流部に突出した先太りの尾根である。土地の人に聞いたが、頚部を越す道はないとの事であった。通行の都合により、はやく消滅したのであろう。
22.山城町上名ヲソゴヘは、吉野川上支藤川谷上流の曲流部に突出した二また尾根である。その頚部を通る旧道がヲソゴヘで、ここに居住した方の家号もオソゴエである。現在の住居は、対岸の尾根に移転したものである。
23.木頭村出原ヲソゴヘは、数時間捜索したが確認できなかった。地籍図によれば田地もあるが現在は杉林になって判然としない。
24.現地調査のできなかったのは、つぎの四地点である。
 木沢村岩倉オソゴエ。木沢村小畠オソゴエ。木屋平村下名オソゴエ。東祖谷山村オソゴエ谷。
25.オソ谷は、井川町井内、三好町東山石木(いしぎ)、上那賀町川俣(かわまた)などのほか各地にあるようで調査中である。
26.この三地点に共通する特徴はつぎのようである。
イ 飛び渡りができそうな細い谷。ロ 比較的急傾斜の谷。ハ 谷の巾のわりには長い谷。ニ 谷の水は多くはないが夏涸れもしない。
27.オソ谷の解釈も、オソゴエの場合と同じく、「細谷」の音変化と考えられる。
(12)尾後、大後、尾越、大越。
1.尾後、ヲゴーは、県内に若干見られる地名である。池田町大利上尾後(かみおごう)、同町松尾下尾後(しもおごう)がある。尾後は、県道三縄停車場菅生線―祖谷街道が出合に開通するまでは、旧三縄村内の重要交通路にあった。出合より奥の松尾川流域の人々は、尾後を経由して漆川に出た。大きい笠松のある、高い尾根道である。
2.上尾後の「カザスキ大師」は、この尾根を越える人々の安全を守る、ありがたい「オダイッサン」であった。山を下りて出て行く人は、雄大な吉野川と里分を眼下に見下して決意したであろう。また、山に帰る人は、この赤松の尾根に辿りついて安堵したにちがいない。つまり、尾後は、「尾越え」の意である。
3.ヲゴーは、山城町大野、同小川谷のほか、市場町日開谷なとにある。いずれも「尾越え」の地形にかなっている。しかし、土地の人々は、尾後、ヲゴーの原義が分からなくなっている。
4.市場町の場合、ヲゴーとともにオーゴンとも併称して、黄金説話が聞かれた。昔、盗賊の首領が、この尾根に黄金を埋めて去ったという。戦後、好事家が試堀したが失敗に終った。数年まえに国道改修が行なわれたときにも、土地の人が期待と関心を寄せた。しかし黄金は出なかった。
5.山城町上名ヲウゴエ、井川町井内尾越は、その原義を示す地名である。いずれも尾根越しの道があり、土地の人は当然に、その意味を理解していた。
6.なお、井川町井内大後は、オゴー、オーシロを併称している。また、上那賀町大後はオーウスロと呼ぶ。多少ニュアンスがあるので、いずれ現地に当って検討してみたい。
7.日和佐町山河内大越(おおごし)は「尾越し」の意である。当地は、上那賀町谷山、日和佐町赤松などに通ずる旧道がある。この場合は、分水嶺を越す峠の意味も含んでいる。
8.尾越え型の地名は、県内にかなりあると思われるので、さらにくわしく調査していきたい。

おわりに
 「ふる里の地名」解釈について試論をのべたが、初めての考察で独断も多いと反省している。今後も先輩の指導により補正し、学習したい。
 なお、地名の研究は、多くの意見が実を上げる最大の方法だと思った。同学の方の参加と、共同研究を希望している。
 最後に、このテーマについて、各町村の皆様に、物心両面での御支援をいただき、深く感謝しています。いずれ、結果を報告申し上げることとし、ここで略儀ながら御礼を申し上げます。ありがとうございました。


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