阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第26号
池田町における百手の神事について

民俗班 喜多弘

1 はじめに
 弓術では甲矢(はや)、乙矢(おとや)という2本の矢を射ることを「一手」といい、百手を射るのが「百手(ももて)」である。馬上で射る流鏑馬(やぶさめ)などに対して、馬に乗らずに射つので「歩射(ぶしゃ)」ともいう。
 元来弓矢は狩猟や戦斗の道具であるが、各種の儀礼や呪具としても使われるようになった。「お的(まと)」「お弓」「百手講」「百手祭」などとも呼ばれ、新春に神前で百手を奉納して、氏子の息災延命、五穀豊穣を祈る儀式は古来県内各地で行なわれたが、太平洋戦が起こり食糧や人手不足から中止した所が多い。池川町内では現在も次の神社で古式に則り厳粛に行なわれている。

 

2 池田町における百手
 (1)境宮神社の「百射手(ももて)」、宇馬路宮の下(川之江行きバス境宮下車)に鎮座する。この社の祭神は五瀬命、宇沙都比古命宇沙都比売命外六柱で、天平時代泉州堺より勧請したので「堺宮三所大明神」と称したが、明治初年現在の社名に改めた。境内に昔分霊を乗せて来たという馬の塚がある。百手は旧暦2月4日に氏子の安全(厄除け)、五穀豊穣を祈って行われる。


 射手は「射手(いご)」といい、12傍示の氏子から各1名が選ばれるが厄年の人が多い。当屋の地区からは射子の長である「当本(とうもと)の射子(いご)」と「矢取り」2名が選ばれる。当屋は羽織・袴、射子は裃を着用する。「的」は「本的」と「お客的」がある。本的は3尺(約90cm)四方、1年生の篠竹を割って縦5本、横6本を骨に組み図のような模様をかく。お客的は直径1尺の円形で5重の同心円をかく。社殿に向かって左の大いちょうの下に的を置く。射座との距離は弓八はいである。
 当日の日程は次のようである。「当屋での儀式」、昔は射子は前日から当屋に泊りこみ、よく朝馬路川で禊(みそぎ)をしたが、現在は8時に集合して弓の持ち方などの作法を習い、的に向かって稽古をする。10時半裃を着け神官とともに「当日の儀式が滞りなく終わるよう」祈願し、巻わらの的を射る。昔は全員が射たが今は当本の射子と客座の1名だけが射る。食事が終わると一同列んで神社に向かう。昔は先導役がついたが、今は神官が先頭に立つ。「神前での儀式」、拝殿でお祓いの後「百射手の儀式を行うので、御照覧あって氏子の安全、五穀の豊穣をお守り下さるよう。」との祝詞を奏上、庭に下りて射座に着き的を祓う。射座は昔はまこもの莚を敷いたが、現在はわら莚の上にゴザを敷く。的に向かって右の射座が上で神官、当屋、当本の射子、射子の順に並び左側に客座の6人が向かい合って坐る。これは昔宮中で行った「賭弓」の形式を継いだものであろう。初めに当本の射子、ついで5人が射座に出て各2本ずつの矢を放し、下手の6人と交代する。全体の約半分を射た時「矢分け」の行事がある。当本の射子が番(つか)えた矢に扇を沿え「シイ」という声を3回あげた後、扇をふところ差し、本的に沿えた小的を射る。ついで全員が1本ずつ射た後「中休み」をする。中休みは当屋の造った煮〆で神酒を頂いた後休けいする。中休みの後ふたたび的を射て、全部で千八筋を射ちつくして本的の行事を終わり、お客的を射つ。「お客的の行事」は参詣人(主に厄年の人)が飛び入りで、「神代より受け継ぐ道は一すじに、弥栄え行く君が御代かな」という唱え言をして的を射る。矢には賞金や賞品が結ばれているので、子どもたちが争って矢を拾う。
 お客的が終わるとお祓があって、午後4時ごろ総ての行事が終わる。的はお守りとして氏子が持ち帰る。協力者(宮内一馬氏、大久保潔氏)
 (2)佐野神社の「百々手(ももて)」、字佐野(川之江行きバス佐野下車)に鎮座、祭神は天御中主命、五瀬命、菟狭津彦(うさつひこ)命、菟狭津姫命である。明治11年9月14日官許を得て馬路の境宮神社の分霊を現位置に勧請した。百々手は旧暦2月4日「悪鬼を払い氏子の安全と厄除け、五穀豊穣」を祈念して行う。射手を「射子」といい、三地区から4人ずつを選ぶが厄年の者、家族に厄年のある者が優先する。矢取りは2名である。総代は射座の後にいて進行、審判、記録を司る。的は3尺4方、中心より黒、白、赤の同心円で、前方20mの安土に掛ける。


 昔は「精進入り」といって前夜から当屋に泊り清斎したが、現代は当日朝9時に神社に集まり、お祓、祝詞の後「矢分け」の行事をする。
 矢分けは東、西と書いた12本の矢を神前に供え、それを神官が後手に持ち、射子に1本ずつ渡して、東西に組分けする。初め東組6人が各2本ずつ放し、西組と交代する。
 これを42回くり返して千八筋を射る。「東矢」といって10回目ぐらいから直径1尺の円形の小的をかけ、2本続けて命中するとその的が与えられる。持ち帰った的はもぐら除けの呪にしたが、現在は神棚に祭る。百々手が終わった後厄年の人は2・300円の菓子袋に、何の年の男(女)と書き神前に供えたものを射てもらって、無病息災・厄除けを祈る。命中させた人はその菓子袋をもらう。菓子袋の外土益(かわうけ)も射る。これで神事が終わる。協力者(伊藤明氏)
 (3)三所神社の春御祈祷(お日待と百々手)字川崎(国鉄祖谷口下車、吉野川を渡るか祖谷行きバス川崎橋下車)に鎮座し、祭神は大山祇命、倭建(やまとたける)命、菊理(きくり)姫命の三柱で、寿永年間と、正治年間に小笠原長房が再建したとの棟札があるという。期日は旧暦1月11日の祈年祭に併せて行われたが、食糧や人手の不足で中断された。今から20年前伝統を惜しむ氏子たちによって復活し、昭和52年から2月の第1日曜にお日待ちの行事の後「悪鬼を払い、氏子の健康と五穀豊穣」を祈念して行う。


 射手は氏子を13地区に分け、12地区より1名ずつの「射子」を出す。残り1地区は会計を担当するがよく年は射子の長である「射太郎(いだろう)」を勤める。射子は昔は裃を着けたが現在は服のままである。的は三柱の祭神を別々に図のように造り、どれも中心の円に鬼の字を書く。向かって右を前といい、左を後という。
 射座の前方約20m拝殿の左の石垣を「■(あづち)」にする。■は堋、安土とも書き的を置く土壇のことである。「いくはどころ」ともいうがいくはは的の古語である。
 射子は前夜「当屋ごもり」といって講組の人々とともにお日待ち当屋に集まる。当屋は室内にお日待ち棚を設けて、その年の月の数だけのお供え(鏡餅)と野菜、海産物、お札などを三宝に乗せて祭り、神官を招いて宵、夜中、日の出の3回お勤めをする。参会者は米一升五合、厄年の人は酒一升を添えて持ち寄り、当屋はご馳走を出すが、戦時中中断していた。現在は成年式をした人が酒一升を出す。
 お日待の後射子は川に入って禊をしたが現在はしない。朝食後一同神社に向かい神前でお祓を受け、神官を先頭に直径40cmほどのうすい「しめ太鼓」を打ちながらお宮を3回廻る「お宮廻(めぐ)り」の後「おすみおろし」といって百々手の場所定めをする。終わると前(向かって右)の射子が射座に移り、先ず射太郎が空に向かって白羽の矢を放しついで各2本ずつ12本を放して後(左)の射子と交代し、これをくり返して千八筋の矢を放す。終了するとまたお宮廻りを3回して拝殿に入って「おすず(金幣)」を戴いて「結願(けちがん)」となる。
 結願の後氏子の有志が直径3寸(約10cm)ほどの小的を射てもらう。これには1,000円程度の賞金がある。的が小さい上に賞金があるので射手も見物人も手に汗をにぎる。また扇やパン、みかんも射てもらうが、これは当日の行事を盛り上げるアトラクションでもある。協力者(内田四郎氏)
 (4)池南八幡神社での「百手(ももて)」字シンヤマ3,582国鉄池田駅南約2平方キロメートルの丘の上の八幡神社は祭神本多和気命で創立は天文年間すでに鎮座していたという。(次の3社みな同じ)古来八幡宮と称したが明治3年3月今の名前に改めた。慶安戊子年12月22日中村美作が社殿を改築したという棟札がある。


 磐坂(いわさか)神社はシンヤマ3,959にあり、祭神石凝娩命(いしこりとめ)、もと磐坂比古命(大国主命)を祭ったが元亀年間社名をそのままに石凝娩命を祭り婦人の悩みを救った。
 霹靂(びゃくらく)神社はサラダ1,875に鎮座、雷神を祭る。霹靂大明神と称したが明治3年3月今のように改称した。
 山神社は磐坂神社の隣に在り、祭神大山祇命、沿革は不明である。
 上4社の百手は1月15日池南八幡神社で同時に行う。昭和55年1月15日百手の当日拝観のために池田町を訪れた。7月末に調査したことを併せて、見学したことを記す。
 11時半池田駅に着く汽車が池田町に近づくころから吹雪である。「夏阿波学会の調査に来た時は暑い最中だったのに」など思いながら心覚えの道を年行事(総代)東口竹芳氏を訪れる。温かい室に通され、夏の調査もれのことを尋ねて整理する。
 射子は昔は14人、矢取2人で20才前後の独身の青年が選ばれた。現在は東、北組各6名、南4名、西3名計19名を選ぶ。昔は射子の長を「本間(ほんま)の射太郎(いたろう)」といったが今は平等で「年行事(ねんぎょうじ)」といい中老年の人が多い。矢取りはなくてめいめいが拾うという。12時半出発して神社に向かう。だらだら坂を登る途中新池の下に出る。昔は射子衆は1週間前から朝は神社で、夜は射子の家で型や作法を習い、射的の稽古をした。前夜は総代(百手当屋)に泊り、家へ帰ることは許されない。夜が明けると古池の氷を割って水浴する。後には新池で禊をした。うすい襦袢の上に裃を着けて終日矢を射たが寒くなかったという。
 神社の庭でたき火にあたる中に、おしめを持った射子たちが集まる。2時拝殿に着座しお祓い、祝詞、玉串奉呈の後的を祓って、百手が始まる。矢を放す度に太鼓が鳴らされる。三神の的射がすんで、山神社の的を射る。三神の的は4尺4方で三重の同心円、山神社のは径3尺の円形、これを玉垣を一部除いて砂を盛った■にかけ、15、6m離れて射つ。他に勝負的、お客的といって径1尺、後に柄のついた円形の的がある。年行事の老人たちが射るが昔取った杵づかでよく当たる。どの人も青年のころ射子に出たことを誇らしげに話してくれた。後になるほど矢が1か所に集まる。


的を調べたら30本命中し、内2本は中心に当たっていた。神官の宮内さんは千八筋とは多くの矢を射ることで、数にこだわることはないという。年行事の話では昔は立居振舞が極めて厳格であり、宰領の許しがなければ膝もくずせなかったという。雨乞にも百手をすることや「掛け飯」といって百手当屋で山盛りの飯を一粒残さず食べねばならぬことなど話してくれた。これは秋の豊作を願ってのことであろう。百手が終わって的を祓い祝詞を奏上人々は三々五々帰路につく。夜は当屋の家で年行事の交代があるという。駅に着いた時は雪もはれていて4時過ぎであった。協力者(宮内一馬氏、東口竹芳氏、外年行事多勢)
 (5)野呂内八幡神社め「百々手」、池田町白地字ノロウチ地区は猪の鼻峠の西方の山村で、池田駅前からタクシーで約40分ほどかかる。ここに鎮座する野呂内八幡神社の祭神は応神天皇であるが、神社の由緒等は棟札もなく詳らかでない。
 この神社では毎年1月16日に「氏子の安全」、「厄除け」、「五穀豊穣」を祈願して百々手の神事が行われる。
 射手を「射子」といい15名である。的は1辺1.4mの方形の「大的」が1と、直径約20cmの円形の「小的」3が、10mほど前方の安土に掛けて射られる。
 「当日の日程」昔は射子は前日から当屋に泊まりこみ、まかないはすべて男子の手で行われ、女子には一切手を出させなかった。当日は早朝川で禊をして体を清め、羽織袴で神前に向かった。現在はすべてが簡略されて当日正午ごろ神社に集まる。服装も自由である。拝殿で弓矢や参加者を祓い、神前で祝詞を奏上する。その後一同庭に下りて的を祓った後左右に分かれ、片側から射座に出て二矢ずつ放し、千八筋の矢を放した後的を祓い神事が終わったことを奏上して神事を終わる。協力者(木下人見氏、吉岡浅一氏)
 なお字漆川の漆川八幡神社でも、大正7、8年ごろまで百手が奉納されていた。同地の高井武男、大西角夫両氏から昔のようすを次のように話してもらった。
 (6)漆川八幡神社の百手、池田町漆川
 この神社の百手は現在は行われていない。祭神は応神天皇と神功皇后である。今から400年前の天正8年伊予国宇摩郡から、新田山城守という武将が八幡神社の御神体を持って当地に来て、梅の谷に勧請したのが始まりで、人々は「やわたはん」といって尊崇した。その後約100年たって社地が手ぜまになったので、元禄のころ今の場所に移ったという。
 百手は旧歴正月9日に氏神や境内社、村内各神社の祭神の降臨を願い、悪疫退散、五穀豊穣、村内安全を祈って行われる。
 射手は20人、矢取り2人、神官、組親、当屋、進行係、合図係各1名が参列する。射手は裃を着用し、片肌をぬいで弓道の礼式に従い太鼓を合図に的を射る。


 的は直径1mほどの大的と、その半分ほどの小的を各神社ごとに造る。安土は境内の芝を掘り取り、奥行1m横2mほどに積み上げそこに的を置く。射座と的の距離は15m〜20mで、まわりに立入禁止のしめ縄をはる。「百手当屋」はくじで決める。前日神官をはじめ村内各社の氏子代表が、斎戒沐浴して当屋に集まり、射場や的の準備をする。夜は当屋に泊り祝詞をあげ、夕食を共にする。よく日は朝食後供え物、的、弓矢など必要品をもって神社に向かい、拝殿で無事行事が終るよう祝詞を奏上、庭に下りて太鼓を合図に的を祓い「諸神が降臨して百手の神事をご照覧下さるよう。」祝詞を奏上し、図のように着座する。進行係の指図に従い、太鼓を合図に2名ずつ射座に出て射を射つ。射儀が終わると腕に覚えのある人々によって、余興の的射が行われる。みかんやかわらけを的にし、うまく命中して的がとび散ると、見物人から拍手がわく。終わると的を祓い祝詞を上げて解散する。
 漆川神社の百手は大正7、8年ごろまで行われたが、現在は行われていない。古老たちは滅び去ったこの神事を記録に止め、ぜひ復活したいと願っている。協力者(高井武男氏、大西角夫氏)

 

3 おわりに
 昨年7月末の調査の際、池田町内の各地で百手の神事について懇切な説明を受け、さらに本年1月15日池南八幡神社の百手を目のあたり見ることができた。戦前は県内各地の神社で新春の大切な行事として百手が執行されていた。
 前日当屋に泊りこみ、食事を共にし、当日は厳寒の川水で禊をし、服装を正して古式に則り厳粛に奉仕した。ところが太平洋戦争を境に中止した所が多い。池田町内では形式に多少のちがいはあり、簡略化された面もあるが今日なお厳粛に継続されている。今後いつまでもこの古い行事が受け継がれることを祈ってやまない。


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