阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第26号
池田町の公民館活動

教育社会学班

     平木正直・原田彰・武田紘一

1.池田町の社会教育の特徴
 池田町には、昭和49年7月池田町公民館(いわゆる中央公民館)が新たに開館した(1)。その後活発に利用され、学級・講座なども数多く開かれ、約5年が経過して今日にいたっている。また、池田町には18の公民館分館があるが、やはりこの5年間に、そのうちの5館は独立館として新しい施設がつくられ、地域住民の利用に供されている(2)。ここでは、こうした公民館の利用状況や事業内容の分析を試みたいのであるが、そのためには、まず池田町の社会教育の特徴を把握しておくことが必要なので、その現状を概観することから始めたい。
 池田町の社会教育の特徴といっても、それをとらえることは、実はきわめてむずかしい。むしろ、徳島県の大抵の町村に共通する面が多いのではないかと考えられる。池田町の社会教育について考えることは、徳島県の多くの町村の社会教育に共通する問題を考えることにもなるということをふまえたうえで、それでもなお、池田町の社会教育の特徴と呼べるものが引き出せないかどうか考えてみたい。とくに社会教育は、地域の社会構造、産業、人口構成、住民の実生活を直接反映して展開されるものであり、したがってこれらの変化は社会教育に大きな影響を与えずにはおかない。この観点からすれば、ここ10数年間の日本が経験してきた急激な社会構造の変化との関連で、池田町の社会教育をとらえ、そこからどんなことが言えるか検討してみる必要がある。
 (1)まず第一に、過疎化との関連が問題となる。それは具体的には人口の減少となってあらわれる。たとえば昭和35年に28,403人だった人口が昭和50年には22,067人に減少した。ちなみに、池田町は昭和46年4月に過疎町村の指定を受けている。過疎化は、社会教育人口の減少に直接つながる。たとえば青年団は、かつて昭和20年代、30年代の社会教育を支えた重要な社会教育団体であった。池田町の場合、昭和38年に12単位団468人が青年団に加入していた(3)。この時点でも、すでに団員数は減少の一途をたどってきていたと考えられるが、この傾向はますます進み、昭和51年の時点でみると、5単位団130人となっている。また青年学級も、学級員の数は、昭和40年の294人から昭和51年の41人へと、この10年間に激減している。
 昭和34年から昭和43年までの10年間の青年団の活動を記録にまとめた『池田町青年団協議会10年史年表』によれば、昭和38年度および39年度に青年団が開いた研修会や講習会のテーマに、次のようなものを見出すことができる。
 「団員が減少している中で団活動を持続していくにはどうすべきか。」
 「減少する山村青年団の活動はどのように進めるか。」
 ここには、団員がどんどん減少していく状況のなかでの青年団の悩みがにじみ出ている。
 ところで、過疎化という現象があるということは、逆にいえば、都市化現象が起こっているということでもある。都市化というのはきわめてとらえにくい概念であるが、おおまかにいって、1つには、人口の都市集中という意味が含まれている。都市に人が集まって農山村のほうは人が減るということである。しかし、もう1つには、都市化とは、都市的な生活様式、個人主義的なものの考え方が拡大浸透するということである(4)。したがって、この面からみれば、青年団を支えていた集団主義的な志向や地域共同体的意識は、都市化によってくずれていかざるをえない。都市的生活様式、個人主義的なものの考え方の農山村への浸透は、農山村の青年団が魅力をもちつづけることを困難にする。『年表』(前出)によると、たとえば昭和43年に、ある青年団の定例会で、「町内の青年に青年団に入るよう呼びかけよう」といったことが議論されている。これは逆にいえば、青年団に魅力を感じない青年たちがこの時点で出てきていたことを示しているように思われる。
 昭和50年の時点でみると、池田町内に住む20才から24才までの青年の数は、1,174人である。つまり、青年と呼ぶことのできる人たちはどんなに少なく見積もっても千人は越えているはずなのに、青年団員は前述の通り130人しかいないのである。しかし最近は、地域の崩壊に対する危機感が高まってきている面もあり、新たな形での地域づくり、町づくりの動きも見えはじめている。この点からすれば、昭和53年には、8単位団186人と、地域青年団の数も増え団員数も増加のきざしが見え、青年団のたてなおしの気運も感じられることは注一目すべきであろう。
 なお、青年学級は現在青少年地域活動(仲間づくり事業)にくみかえられている。
 (2)社会構造の変化という点で第二に指摘できるのは、高齢化である。65才以上の老齢人口の割合は、昭和50年現在、全国平均7.9%、徳島県10.7%に対して、池田町は12.3%となっており、高齢化の傾向がとくに顕著なように思われる。池田町の65才以上の人口は、昭和50年現在、2,714人、70才以上は1,748人である。今後、高齢者はその実数においてもますます増加していくことが予想されるが、これに対応する社会教育のあり方が大きな課題となってきている(5)。
 現在、池田町には老人会が14あり、高齢者教室は4つ開かれている。施設としては老人福祉センターがあるが、さらに老人憩の家が現在建設中である。昭和53年度の公民館分館事業をみると、18の分館のうち13館が何らかの形で老人対象の事業を実施している。そのなかには、「老人生きがい教室」における学習活動から婦人会主催の敬老会での祝宴にいたるまで、さまさまな事業が見られる。生涯学習の時代においては、老人が単に甘やかされたり同情の対象になるのではなく、生きがいを求めて学びとっていく積極的な姿勢も必要になるかと思われるが、しかし、そこに、とくに農山村の社会教育のむずかしい課題があるともいえよう。
 (3)第三に、就業人口の変化との関連が問題となる。もともと池田町は商業の町、木工業の町だったとはいえ、第一次産業人口の占める割合はかつては高かったわけであるが、それがどんどん低下してきている。昭和45年から昭和50年というわずか5年間をとってみても、第一次産業人口は29.4%から19.0%へと10%も減少している。農家人口も減少が著しく、また兼業農家、とくに第二種兼業農家の占める割合は、昭和50年現在、69.8%とかなり高くなっている(なお、専業農家の占める割合は12.2%である)。
 かつて農村の社会教育は、生産に関する学習内容を抜きにして考えることはできなかった。しかし最近は、公民館の学習内容に生産に関するものが含まれることは、きわめて少なくなっている。池田町の18の分館の事業内容、とくに講座や講習会で取り上げられた学習内容を見ると、昭和53年度の場合、生産に関係したものとしては、シイタケ講習会、シイタケ栽培見学、いちじく生産組合の講習会、茶栽培講習会、果樹研究会(果樹の品質改良)、農事講話(「高冷地農業の将来」)などをあげることができる。このほかに、農薬散布といった作業が分館の事業として取り上げられているところが1つだけある(6)。このように生産に関する学習内容は非常に少なく、しかもそれが取り上げられても、特定の分館に限られている。もちろん、少ないから無視してよいということではなく、こうした数少ない活動の大事さに眼を向ける必要があろう。
 (4)日本の社会教育が婦人層を中心とするものであることは、しばしば指摘されるところである。全国どこでもそうだともいえるのであるが、池田町の場合、その傾向はとくに顕著なようである。
 全国的な統計資料では、地域婦人団体加入率が次のような指標でとらえられている。つまり、加入者数を婦人有権者人口で割って100をかけたものを加入率とする。これでみると、昭和51年の場合、全国平均は13.9%、徳島県は25.2%である(7)。池田町では、婦人会加入者は昭和53年現在3,208人である。昭和50年の国勢調査によれば、婦人有権者人口は8,669人であるから、加入率は約37%と推測される(8)。これをみても、池田町の婦人会の組織率はきわめて高いことがわかる。しかも、この組織率の高さは、そのまま活動の活発さにつながっていることが指摘されねばならない(9)。このことは、婦人学級の数にもあらわれており、昭和54年度の場合18学級となっている。ちなみに、昭和53年度について徳島県下の市町村の婦人学級数をみると、神山町28、相生町25、鳴門市19、そして池田町は15である。徳島市の9、石井町の7、鴨島町の5などにくらべて、かなり多いことがわかる(10)。
 (5)すでに述べたように、都市化は現代日本の顕著な特徴である。都市化は都市的生活様式、個人主義的なものの考え方を拡大させ、それが農山村にも浸透し、地域共同体的意識を衰退させてきた(11)。最近は、こうしたことへの反省から、地域社会における連帯意識の高揚が強調されており、池田町でも町をあげての「ふるさとづくり運動」が展開されている。
 他方、池田町はもともと商業の町でもあり、しかも次第に広域生活圏の中心としての都市機能の充実が期待され、都市的サービスが要請されるようになってきた。すでに完成している中央図書館、町立図書館に加えて、さらに文化センターのような施設も建設計画が立てられている(12)。こうした施設づくりによって、都市的サービスを供給することが行政に要請されているのである。しかも、あとで見るように、池田町の場合、新設の施設の利用率がきわめて高いところに特色がある。
 (6)池田町には、官公庁の出先機関がある。したがって、転勤者が少なくない。最近は、転勤者、とくにその家族(とりわけ主婦)が公民館の学級・講座に参加するというケースが見られる。転勤者、とりわけその主婦にとっては、その居住地域が親しみのあるコミュニティになるというのは、なかなかむずかしく、どこかに話し相手、仲間を見つけることが必要なのであるが、最近は、案外、公民館がそういう場となる傾向があらわれている。池田町の場合も例外ではなく、公民館の学級・講座に出てみて、幸いにも仲間を見出すことができ、しかも、やりがいのある学習の経験をもつことができたという事例も生まれている。そういう人が池田町を離れて別の土地に行って、そこは公民館活動が低調なところで面白くない、それにくらべて池田町はよかった、ほんとうに楽しかった、という手紙をくれる人があるという。
 (7)池田町には、公民館分館が18館ある。これらの分館は、その地域の特性に応じて異なった特徴を示しており、またそれぞれの分館がかかえている問題も種々様々なようである。
 各分館の事業内容をみると(13)、かなり共通に取り上げられているものと、各分館に特有なものとがある。昭和53年度の場合、比較的どの分館でも取り上げられているものとしては、同和教育、スポーツ、奉仕作業の3つをあげることができる。この3つは、18の分館のうち16館が取り上げている。ここでスポーツというのは、運動会、体育大会、球技大会、水泳大会、すもう大会などである。奉仕作業は清掃作業、草刈り、学校のプールの清掃、神社の清掃などである。またレクリエーションも13館が取り上けており、さらに趣味実用に関する講座・講習会も13館が取り上げている。レクリエーションには、たとえはクリスマスパーティ、遠足、芸能大会、花火大会、もちつき、囲碁大会などが含まれており、趣味実用というのは、料理、手芸、書道、川柳、詩吟、民謡、生花、着付などである。
 これらは比較的どこの分館でも取り上けられているものであるが、少数の分館だけが取り上げている事業もある。すでに指摘したことであるが、生産に関連した講習会はほんの一部の分館が取り上げているだけである。盆栽の展示即売会を年2度開いた分館もある。「さぎそう」をとくに取り上げて、その復元だとか展示会を開いたりしている分館もある。グループ活動が低調なため、グループの育成にとくに力を入れている分館もある。2月11日建国記念祭の祝賀式を開いた分館が1つだけある。チャリティショーのような福祉活動にとくに力を入れている分館もある。また分館が主催するのではなく、婦人会が主催して分館がそれに協力するという形をとるところもある。
 分館と小学校PTAとが共催という形をとって事業を行なっているところもある。分館の活動の独自性と多様性は尊重されねばならないが、各分館の活動のレベルを向上させるためには、分館の間の相互的な刺激と交流と相互評価の場が必要なように思われる。
 なお、公民館分館については、分館長、分館主事の活動に注目する必要がある。池田町の場合、分館長は郵便局長、農業や商業に従事する民間人が非常勤で引き受け、また分館主事は小学校長・教頭を現職とする者が多く、少数ながら民間人が従事している(14)。いずれにしても、分館の事業はこれらの人々の奉仕的活動に依存しており、そのご苦労は大変なものである。学校教育に従事する者が同時に分館主事を引き受けることは、社会教育職員(専任)としての分館主事を確保できない現状ではやむをえないとしても、あまりにも負担過重であるといわねばならない。学校教育と社会教育の協力はもちろん重要であるが、そのためには、教員、とりわけ校長や教頭が学校教育に専念できる条件をつくることが前提である。したがって、複数の分館を担当する社会教育職員を1人でも多く確保することが先決条件ではなかろうか。池田町政が国や県に先立ってこの点を少しでも改善していく方途を見出すならば、今後の池田町を社会教育の先進町村たらしめるにちがいない。

 

 2 池田町公民館の利用状況
 池田町公民館は、昭和49年7月に開館し、その後池田町の重要な施設の一つとして位置づけられてきた。この公民館は、池田町の全地域を対象とするものであって、いわゆる「中央公民館」に当たる。改めていうまでもないが、公民館は「市町村その他一定区域内の住民のために、実際生活に即する教育、学術及び文化に関する各種の事業を行い、もって住民の教養の向上、健康の増進、情操の純化を図り、生活文化の振興、社会福祉の増進に寄与すること」(社会教育法第20条)を目的としている。そしてこの目的達成のための公民館事業としては、(1)学級、講座、展示会、集会等を開設・開催すること、(2)資料等を備え、その利用を図ること、(3)各種の団体、機関等の連絡を図ること、(4)住民の集会その他の公共的利用に供すること、などがある。したがって、公民館がその機能を果たし得ているかどうかを検討するためには、上記の目的にかなうような事業が計画・実施され、かつ公民館の施設がその目的にかなうような利用に供されているかどうかについて分析してみることが必要である。ここでは、池田町公民館の利用状況の分析を通して、この公民館が池田町においてどんな意義をもっているか考えてみたい。
 ここで使用するデータは、池田町公民館の「利用状況報告」(毎月)をもとに、各年度の利用回数と利用者数(延べ)を利用種類別に集計したものである(表1参照)。まず、「主催」、「共催」、「クラブ・同好会」、「社会教育関係団体」、「公用」、「有料」という利用種類別について簡単に説明しておきたい。「主催」とは、池田町公民館の主催事業(学級・講座など)のうち、公民館施設を利用したものをいう。「共催」とは、公民館と他の団体・機関との共催による事業のうち、公民館施設を利用したものである。「社会教育関係団体」のなかには、婦人会、青年団、体育協会、スポーツ少年団、PTA、青年会議所などが含まれている。「クラブ・同好会」は、趣味を同じくする人たちのグループであるが、詩吟、木彫、生花、俳句、墨絵、尺八、謡曲などがある。「公用」による利用の主なものとしては、予防接種、検診、同和研修会、保育所、給食センター、町役場の諸集会などがある。また「有料」による利用は、次のいずれの場合にも該当せず、上記の分類に含まれないものをいう。(1)町内の社会教育関係団体が公民館事業と同じような事業を行なう場合、(2)町の行政と密接な事業を行なう団体や機関が事業または会合を行なう場合、(3)官公署その他特別の団体が事業または会合を行なう場合、(4)町教育委員会または公民館が特に必要と認め共同主催または後援する場合、(5)前各号に掲げる場合のほか、教育委員会が特に適切な事業と認めた場合。
 表1をみて、まず何よりも印象づけられることは、利用回数も利用者数もきわめて多いということである。たとえば昭和53年度の場合、利用回数の総計は1,028回となっているが、開館日を1月平均25日として計算しても、1日平均3.4回利用されたことになる。
 利用回数の年次別変化を利用種類別にみたのが、図1である。これによると、利用回数の増加が著しいのは「有料」による利用であり、また「公用」による利用も漸増の傾向にある。これに対して「クラブ・同好会」は、昭和50年度に非常に高い利用度を示しながらも、その後は激減している。「社会教育関係団体」の利用は、「有料」や「公用」のように多くはないが、年次別にみると漸増の傾向がうかがえる。「主催」も着実に回数を増やしていることがわかる。


 利用回数にみられる以上のような特徴は、利用者数についても同様に指摘することができる(表1参照)。
 「有料」による利用が増加した理由としては、次のようなことが考えられる。すなわち、(1)使用料が比較的安く、しかも設備(駐車場、マイクロフォンなど)がそろっているため、手軽に公民館を利用する団体が増えてきていること、(2)社員研修などに利用する企業が増加していること、(3)池田町が四国の中心に位置するという地理的条件から四国四県の会合に利用される事例が増えてきたこと(15)、などである。しかし、何といっても、池田町内に気軽に利用できる施設が他にないということが一番大きな理由のようにも思われる。「有料」利用のなかには、必ずしも公民館を利用しなくてもよいのではないかと思われるものもあるようだが、現状ではやむをえないことであろう。
 「公用」の事業や会合は、池田町公民館が新設される以前は町役場会議室、池田会館、民間の会議室などを利用していたが、開館後は公民館が利用されるようになった。また「公用」の会合自体が増加しているため、利用回数も漸増している。
 「社会教育関係団体」の場合は、当初は婦人会、青年団による利用が主であったが、昭和50年度後半から体育協会、スポーツ少年団などによる利用が増加したため、それ以降の利用者数の増加が著しい。
 「クラブ・同好会」は、従来個人の家などを利用して会合を開いていたが、池田町公民館が新設されると、そこを利用するグループが増えた。その後、分館が独立館として新設されると、この分館の方が使用料も安く休館日もないため、分館施設を利用することが多くなった。池田町公民館の利用回数および利用者数が減少しているのは、そのためである(昭和50年度以降、池田町公民館から1〜2kmのところに2つの独立の分館が建設された)。また昭和51年度より、クラブ・同好会の性格によって、「有料」の方に分類されるものが出てきたことと、池田町公民館の使用料が値上げされたことが影響しているように思われる。なお、参考のため、池南、佐野、東部の各分館の利用回数および利用者数を示しておこう(表2.3.4.5.6.7)。


 ところで、池田町公民館には大ホール(400人収容)がある。会議室、和室など他の部屋の収容人員は50人以下であり、多人数を収容することができるのは大ホールだけである。表8は、大ホールの利用状況を年度別に示したものであるが、1回当り100人を超える会合は、「有料」や「公用」による利用の場合に多くなっている。

とくに「有料」の場合は、昭和53年度についてみると、大ホールで75回開かれた会合に集まった人員は1回平均144.8人である。従来、多人数の会合は池田会館(1,000人収容)が利用されていたが、池田町公民館が新設されてからは、400人以下の集会の場合は、池田町公民館が手軽に利用できる施設となったのである。もちろん、400人を超える場合は、池田町公民館を利用することはできない。そのときは池田会館を利用するほかないのであるが、これは現在体育館として使用されており、集会施設としての機能は必ずしも十分ではない。この点からすれば、その建設が予定されているところの「文化センター」の早期完成が望まれるわけである。
 以上、池田町公民館の利用状況について概観した。過去5年間、この公民館はきわめて高い利用度を示してきた。しかし、今後、農村婦人の家、老人憩の家などが整備され、さらに文化センターなどの施設が完成して、本来公民館を利用するのが一番ふさわしいと考えられる団体やグループによる公民館利用が本格化する時期がきたときこそ、その利用の質が問われねばならなくなるのではなかろうか。
 〔注〕
(1)池田町公民館は1968.35平方メートル鉄筋造4階建であり、町立図書館に隣接している。収容人員400人の大ホール、会議室(3室)、和室(2室)、視聴覚室(2室)、調理教室(1室)その他の設備を備えている。昭和54年度の場合、公民館費は1,180万6千円であり、公民館事業としては、婦人学級(料理、衣服、健康)、自主グループ(染物、焼物、木彫)、講座(書道、家庭園芸、民踊、民謡)、放送大学、母と子の公民館活動などが開催されている。なお、社会教育課が館内に置かれている。
(2)昭和54年現在、独立館5館、併置館13館(そのうち小学校併置10館)となっている。独立館は白地(昭49)、池南・佐野(昭52)、箸蔵・東部(昭53)の5館である。
(3)この数字は、池田町青年団協議会の調査に拠っている(『池田町青年団協議会10年史年表』87ページ)。
(4)ここでは、『急激な社会構造の変化に対処する社会教育のあり方について』(社教審答申、昭46)に出てくる「都市的生活様式、個人主義的意識」ということばをほぼそのまま借用した。しかし、個人主義的意識ということばはきわめてあいまいであり、その意味は必ずしも明らかではない。むしろ、「私生活中心主義的意識」といったほうがよいかもしれない。
(5)『池田町総合計画』(昭54)によれば、昭和62年における老令人口の占める割合は15%に近づくと推定されている。
(6)池田町公民館、『あゆみ』6集(昭和53年度公民館分館事業報告書)参照。
(7)『社会教育行政必携』、昭和54年版、第一法規、637−639ぺージ。
(8)昭和53年の婦人有権者人口を知ることができなかったので、昭和50年のもので代用した。
(9)婦人会の活動内容については、『池田町婦人会委員総会資料』参照。
(10)徳島県教育委員会、『資料・統計』、社会教育手引シリーズ(資5)、昭和54年3月、参照。
(11)注の(4)参照。
(12)池田町には、従来から池田会館があり、現在体育館として使用されているが、集会にも使用できる(収容人員1,000人)。なお、分化施設として農村婦人の家が建設中であり、一般施設として文化センターの建設が予定されている。また専門施設として郷土館の建設が要望されている。
(13)池田町公民館、『あゆみ』6集(昭和53年度公民館分館事業報告書)、参照。
(14)池田町公民館、『わが町の社会教育』(昭和53年度)、参照。
(15)なお、町外の者が公民館を利用する場合、使用料は町内の者の3割増となっている。


徳島県立図書館