阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第26号
池田士について −付・池田町の石造文化財−

郷土班 森甚一郎・石川重平・河野幸夫

概説
 昭和54年7月、阿波学会主催の第26回総合学術調査が三好郡池田町で実施され、私たち郷土班は河野幸夫、石川重平の両氏と私とが参加した。
 調査主題の“池田士”は、三名士(さんみょうし)、海部士、判形人(はんぎょうにん)、岡崎の十衆らとともに旧藩時代、国境の警備の責務を負っていた。とりわけ池田三名士は阿波、讃岐、土佐の境目御用として主要であった。この池田士を現地で古文書を繙き、実地にあたって探査研究することは日頃からの願望であった。
 天正13年(1585)蜂須賀家政が阿波に入国の際、家老の中村右近大夫重友の与力として海部鞆城に住み、土佐境目の警護にあたり、のち中村氏の大西(池田)城移住とともに池田に居住し、境目の警備に当った。
 その後、明暦2年(1656)10月中村美作近照が不心得の廉で職禄を召上げられたので、中村氏の与力から離れて、蜂須賀の直臣となり大西代官の支配となった。井口(250石)、馬宮(200石)、長浜(150石)、武川(100石)、谷(100石)、橋本(のち絶家となる)の諸氏は高取武士として池田にとどまり、従前どおり境目御用をつとめた。
 この頃より池田士と呼ぶことになった。越えて寛政12年(1800)平士に昇格し、御仕置の支配となり、明治維新までつづいた。
 このたびの調査に附随して、いくつかの石造文化財も探査され、短期間に所期の目的をほぼ達成できたことは、池田町史編さん室の吉岡浅一先生が連日にわたり、炎暑の折にもかかわらず、車を提供して案内していただき、また馬宮、武川両家の所蔵文書のコピーを快く貸与されたことや、桂林寺の内田住職さんの寺伝の古文書を閲覧させていただいたこと、さらに佐野公民館の西館長さんがわざわざ松寿庵に案内していただいたことについて郷土班を代表して深甚の謝意を表すものである。(森)
 1 池田士について
(1)池田士の出自
史料1 井口家成立書并系図共(初代太郎右衛門)天正之頃福聚院様尾州■龍野江被遊御座候砌■御奉公仕罷在候(下略)
史料2 馬宮家成立書并系図共(初代四郎兵衛信光)天正之頃福聚院様尾州被遊御座候節■御奉公仕(下略)
史料3 武川家成立書并系図共(初代三右衛門氏倶)天正之頃福聚院様播州龍野ニ被遊御座候節■御奉仕罷在(下略)
史料4 谷家成立書并系図共(初代又兵衛好久)播州平田之城主谷大膳一族ニ而大膳討死後福聚院様播州龍野ニ御座被遊候砌御随身仕候ト申伝候(下略)
史料5 長浜家成立書并系図共(初代与五郎長則)播州山崎ニ居住仕罷在候処秀吉公播州御出張之砌召出―中略―数度之合戦勲功有之候趣申伝候(下略)
 これらの史料によると、井口、馬宮両家の祖先は、蜂須賀正勝(福聚院様)の尾張在住時代からの家臣であり、武川家の祖は、正勝が播州竜野に封ぜられた時から家臣となっている。谷家の出自は、右三家と少し趣を異にし、もともと播州平田城主の一族であったが、平田落城後、竜野に入った正勝に仕えるようになった。また、長浜家の祖も播州山崎に居住していたが、豊臣秀吉の中国征伐の際、その家臣となって戦功を重ね、のち、竜野の領主となった正勝の家臣となっている。
 これら各家の出自をみるとき、三名士がもともとその土地の土豪であったことと、まったく異なっていることが知られる。
(2)阿波来国の時期とその理由
 これについても、各家の成立書によると、
・馬宮家成立書
史料6…為長曽我部元親御征伐瑞雲院様(注、蜂須賀家政)従播州龍野被遊御出陣候節御身附五拾人之内ニ相篭御供仕罷越、処々御合戦御勝利ニ相成御入国(下略)
・谷家
史料7…長曽我部為御征伐瑞雲院様播州龍野御出陣被遊候節―下略―
・武川家
史料8…同(注・天正)13酉年瑞雲院様被遣御入国候砌御供仕罷越申候(下略)
・井口家
…………瑞雲院様御入国被遊候節御供仕罷越申候(下略)
 とあることで、阿波に入った時期は天正13年。この時阿波を制圧していた長曽我部元親を討つため、豊臣秀吉の命によって、蜂須賀家政は播州竜野より出陣した。井口らはこのとき、家政に従って阿波へ進攻してきた。
 この戦功によって、家政は阿波の領主となったので、井口らも阿波に来住した。
(3)池田来住の時期とその理由
・井口家成立書によると、
史料9…中村右近ニ御指添、海部ニ罷在、其後大西(注・池田)江御指替被遣候節相添罷越申候(下略)
とある。
 阿波に入った家政は、領国経営のため、領内の要地9カ所の城を重臣に命じて守らせた。いわゆる阿波9城で、鞆城(海部)には中村右近人夫、大西(池田)には牛田掃部頭を城番とし、それぞれ手勢300人を配備した。播州から家政に随従してきた井口らは中村右近大夫に指添えられて、海部に入ったが、間もなくして中村右近大夫が、池田城代に指替えられたので、これに従って池田へ移った。
(4)いわゆる池田士とよばれるようになった時期とその理由
 このたびの調査では、これを決定づける史料は、馬宮・武川両家所蔵文書の中でみることはできなかった。
 しかし、阿淡年表記録(注・嘉永4年に編集された藩の公式記録)の明暦2年(1656)の項に、
史料10 7月 中村美作 淡州在番中(注・中村家は三代中村若狭守可近が寛永14年まで池田城代であったが、四代美作近照からは洲本在番となる。)京大坂へ忍行遊興其余不届之義有之閉門被仰付。
史料11 10月5日 中村美作 不心得ニ付職禄被召放仁宇山へ山篭被仰付。
史料12 10月25日 中村美作家来
  高 250石 井口長左衛門
  同 200石 馬宮清左衛門
  同 100石 谷五左衛門
  後 絶家 橋本五郎左衛門
  高 150石 長浜弥五右衛門
  同 100石 武川角左衛門
  被召出其侭池田住居被仰付
 以上三つの史料で、これまで中村家の家臣であった井口氏らは、主君中村美作の失脚後、藩の直臣に召し出され、藩命によって池田に居住し、特別な任務(後述)が与えられた。
 それ以後、三名士に対して池田士と呼ばれるようになった。
(5)池田士の身居と禄高
 井口・馬宮・長浜・武川・谷・橋本の六氏(橋本は1代かぎりで絶家―史料12―)が、池田士とよばれるようになった当時の身居(みずわり 身分階級)と直接の支配系統などは、両家所蔵文書および「阿淡年表秘録」によって解明することができた。
 すなわち、池田廃城から25年後の寛文3年(1663)に、ときの藩主光隆が武川角左衛門氏一(3代目)に与えた次のような御判物が、武川家所蔵文書の中にある。
史料13 分国阿波之内於所々高都合百石 目録役付 在別紙 事遣之条全可領知依状如件
寛文3正月28日
  光隆花押
  武川角左衛門どのへ
 また、これと全く同文(但し、禄高200石)で、馬宮清左衛門尚信(3代目)宛の御判物が馬宮家所蔵文書中にもある。
 これによって、禄高は前記した馬宮清左衛門200石、武川角左衛門100石のほか、井口氏250石、長浜氏150石、谷・橋本両氏はそれぞれ100石が与えられている。
 さて、それらの禄は「分国阿波之内於所々都口石」と御判物にもあるように、例えば武川角左衛門に与えられた家禄100石は、
史料14 1高 50石 三好郡金丸村
  人数之内 1人 本百姓
    1人 奉公人
    1人 間人
    1人 子甥下人
  1高 30石6斗 那東郡島尻村
   人数4人之内 2人 百姓
    2人 子
  1高 14石4斗 新開 麻植郡瀬詰村
  1高 5石 新開 名西郡西覚円村
  高都合100石
   人数合12人但60歳■15歳迄役に入分右定役3人也
 とあり、また200石を給せられた馬宮家は、
史料15 1高 200右 三好郡賀茂村
   人数 28人
  1高 40石 同郡金丸村
   人数 10人
  1高 23石7斗7合勝浦郡前原村
   人数 8人
  1高 13石9斗1升7合 新開 板西郡大寺村
  1高 10石8斗4升4合 同 勝浦郡柴生村
  1高 4石3斗8升5合 同 麻植郡喜来村
  1高 4石2斗5升4合 同 美馬郡岩倉村
  1高 2石8斗9升3合 同 麻植郡三嶋村
  高都合200石
   人数合46人 老若共
となっている。このようにその拝知(家禄として領有する地域)は、近在の三好郡の外、現在の阿南市、小松島市から板野郡、名西郡、麻植郡、美馬郡と、県内各地に散在していた。この史料は、当時の藩士の拝知の状況を知るうえで極めて価値の高いものである。
 また、このような家禄が与えられていた池田士の家屋敷は、どれほどの規模であったか。武川家所蔵文書の中に、次のような記録がある。
史料16 元文6年(注・1741)酉3月5日 武川弥太郎氏定(5代目)家屋
敷相改帳
 屋敷 西東21間、北南27間半、坪数585坪但西東北籔アリ
  2間ニ2間半 座敷
  萱葺板敷天井アリ、但南之方半間ニ2間半瓦庇板椽天井有
  3間半ニ7間 本家
   萱葺板敷
  門 3間ニ4間 天井アリ
  門 2間ニ3間 土座アリ
  但シ南之方 半間ニ2間 瓦庇板椽
   北之方 半間ニ4間 枌庇板椽
  戸数9枚 障子5枚 襖4枚
  2間4方 カマ屋 萱葺土座 戸数1枚
  2間4方 物置 萱葺 竹座
  2間4方 土蔵 板敷 戸数1枚
  2間ニ7間 長屋 萱葺 戸数3枚
  長2間 門 萱葺 戸数2枚
  1間ニ1間半 湯殿 戸数1枚
  樹木品々大小 29本 
これは武川角左衛門氏尚(6代目)が、父弥太郎の死亡によって家督相続した際に、福屋甚太兵衛宛に提出したものである。これで家禄100石程度の藩士の居住した家屋敷は約600坪、本家の外、座敷、カマ屋、土蔵、物置、湯殿、長屋などの建物がすべて萱葺であったことがわかった。
 池田士の身居に関する史料は馬宮・武川両家所蔵文書の中に、数多く見ることができる。1例を挙げると、
史料17 覚(馬宮家 文書)
 此度池田三名士之儀 与士同様と相心得候様被仰付候事ニ候。(中略)触事等の儀は美馬三好御郡代之面々より時々通達有之候(下略)
1諸願紙面当職宛之事(注・当職とは本〆のこと)
 取次之儀は御郡代内又は何れにても相願指出候事
1横切(注・よこぎれ 私文書)覚書等之儀本〆御目付宛ニテ、其品ニ応ジ指出候事
1諸伺之儀与士同様之引合ニ候ヘバ御年寄之面々迄伺申上候事
1触事等之儀ハ美馬三好御郡代之面々ヨリ通達可仕候事
上の記録は、寛政12年(1800)11月の日付のもので、この時、池田士は三名士と共に与士(注・くみし 騎馬士を含む平士のうち、藩の役職につかず組頭に預けられている士)同様の処遇を受けたことがわかる。
(6)池田士の任務・職能
 われわれ郷土班は、さきの山城町総合学術調査において、三名士(さんみょうし)の成立と職能を明らかにして、これを記要第24号で報告した。三名士は山城町の下名・上名・西宇の要地に居住した土豪であり、蜂須賀入国後、登用されて家臣団に加わり、境目御押之御用(土佐・伊予の国境警備)のほか、吉野川流木御用などに当った。
 池田士・三名土と併称されるように、池田士の任務も、阿波西境の最要地池田に居住して、土佐・伊予はもとより讃岐への押えに当ったことは、容易に想像できた。
史料18 寛文3年正月(阿淡年表秘録)
 池田士之面々へ被仰出三好郡大西口ハ土州予州讃州三国之御境目猶以白地渡口之儀は他国よりの通路第一御大切之御場処ニ付池田士両人宛月番可相勤候右当番之面々八五節句又ハ如何様之儀有之候共御山下へ罷越義無用之旨被仰出。この史料を裏付ける記録を、両家所蔵文書の中から、数多く見出すことができた。
史料19 覚(馬宮家文書)
 御隣国万一異変等の砌、遠近何者ニよらず私共下知ニ相従候様兼而被仰付置被下候ハバ徳嶋表■御人数参候迄御境目御堅出来可仕様在役候 以上
  仲間 5人
史料20 覚(馬宮家文書)
 従 公義御尋7人姓名書を以御触之御趣奉承知、召仕之下々之者迄吟味仕候得共存知之者無御座候。且白地舟渡之儀弥■入念可申付旨被仰出奉畏候。右御請之儀可然様被御上口被下候 以上
  8月11日 馬宮豊太郎
  三間勝蔵殿
史料21 覚(馬宮家文書)
 1筆令啓達侯 其方儀去夏御巡検使被罷越候節右御用相勤候段骨折被思召旨被仰出候条可被得其意候 恐々謹言
  3月4日 賀島出雲
   政延 花押
  馬宮半左衛門殿
史料22 覚(馬宮家文書)
 私儀白地御番ニ罷在候ニ付年頭御札出府不仕候。以上
  12月18日 馬宮豊太郎
  中尾佐五右衛門殿
   外
 以上の史料によって、池田士の任務を整理すると、
(1)国境警備 土佐・伊予・讃岐などの隣国から、万一進攻されたとき、徳島表からの軍勢が到着するまでの間、池田士がその周辺の手勢を指揮して防戦につとめるという任務(史料19)
(2)白地渡し場の管理と通行人の検問(史料20)
(3)巡検使の警備(史料21)
 なお、22は、たまたま白地渡口御番の月番として勤役中の馬宮豊太郎が、年頭のあいさつのため登城しないことを届け出たもので、藩が池田士の任務をどれほど重視したかを想像することができる。

 参考資料
(1)馬宮家所蔵文書
 ・成立書并系図共(寛政5)馬宮四郎兵衛
 ・知行高并役付目録(寛文4)馬宮清左衛門
 ・光隆公御判物 上同人宛
 ・書状 蜂須賀飛騨 馬宮清左衛門宛
 ・書状 賀島主水 馬宮金右衛門宛
 ・書状 山田斎之助 上同人宛
 ・覚 長江・長坂宛書状 上同人
 ・覚 仲間5人より寺沢・中尾・民沢・牛田宛書状
 ・覚 境目御堅メ 仲間5人
 ・覚 池田士・三名士よりの書状
 ・覚 元〆へ指出書面
 ・池田士・三名士への申達状 2通
 ・郡代よりの申達状 2通
 ・改名許可状 馬宮半左衛門宛
 ・覚 役付目録 馬宮清左衛門宛
 ・覚 年頭出府不参届 馬宮豊太郎
 ・覚 三間勝蔵宛書状 上同人
   外 3点
(2)武川家所蔵文書
 ・成立書并系図共(寛政3・天保5 文久元)
 ・光隆公御判物(寛政5) 武川三左衛門
 ・同御定役目録(寛政5) 上同人
 ・知行高并役付目録(寛文4) 武川角左衛門
 ・拝知之帳(貞享3) 武川六郎左衛門
 ・武川弥太郎家屋敷相改帳(元文6) 武川角左衛門
 ・名西郡西覚円村谷聞之丞様御拝知指出帳(天明4)
 ・武川代続帳面(文化4) 武川氏長
 ・拝知高物成人数年付帳控(慶応4)
 ・家督1巻控(明治2)
 ・申上覚(明治5) 武川音三郎
   外8点
 2 桂林寺について
 鳳栖山桂林寺は、慶長19年(1614)寅12月16日、大坂冬の陣大坂城夜討ちの節、討死した、池田城代中村右近大夫重勝の菩提寺として、建立された。
史料1 (桂林寺所蔵文書)
  以上
 ―前略―仍拙者家来中村右近去16日夜於大坂仙波表致討死候。彼者為追善貴山ニ燈炉挑申度候。為其領銀子一貫200目遣之候。時宣可然様ニ頼入計候
 恐惺謹言
  12月19日 蜂須賀阿波守
   至鎮 花押
 高野山光明院
  御同宿中
 蜂須賀至鎮が中村右近大夫の討死を悼んで高野山光明院へ灯篭を奉納したことが、この史料で知られる。次いで池田にこの桂林寺を建立したものと思われる。今、桂林寺境内墓地に中村右近の墓と共に、功績を記した碑がある。
 なお、この至鎮の奉納した灯篭については、
史料2(桂林寺所蔵文書)
 峻徳院様(注・蜂須賀至鎮)■桂林院殿(注・中村右近大夫)為菩提高野山江金燈篭寄附被遊候御書写所持仕候ニ付、尚文書写指上申候。右之品光明院ニ歴然と相存候。以昼夜常燈明相挑御座候
  弘化4未年11月12日
   立石儀右衛門
という史料がある。
弘化4年(1847)といえば、この灯篭が光明院に奉納されてから、実に233年も経ていることになる。この間、常時絶やすことなく灯明が点灯されたことが確認されたわけである。
 この桂林寺墓地には、中村家の墓と共に、その配下にあった馬宮・武川・長浜・谷の各家の墓所がある。各家とも先祖代々墓(近年の建立と思われる)を中心として、先祖以来代々の墓碑を周囲に配置し、極めて整然と整備されていて、往時の池田士の権勢をしのぶことができる。

  
 なお、桂林寺では池田士墓所の調査のほか、下記の古文書、古記文録類を所見することができた。
(1)綸旨(いわゆる薄墨の綸旨と呼ばれるもの)
 ・滅道和尚禅室宛 権右中弁頼要
 ・楚山和尚 〃 宛 権右中弁俊持
 ・雪渓和尚 〃 宛 右大弁 輔長
(2)綴帳類
 ・当寺庫裏寄附名面帳
 ・寺領池田畠反高帳(承応3)
 ・固堂座元転位一会入目結算帳(天保10)
 ・桂山座元    〃    (慶応2)
 ・滅道和尚退休并恭同座元入院1件記録(延享3)
 ・宝暦9卯歳雑記
 ・公儀本山触書并指出控(天明6)
 ・桂林寺領地割帳之写(天保10)
 ・桂林寺例控
 ・仏祖三経会雲衲名簿
 ・虚堂録会日記(天保12)
 ・同 名簿(天保12)
 ・寺領之内下札指遣写(天保10)
 ・兀山和尚100年讃諸記録(慶応元)
 ・改名心得書(天保2)
 ・桂林院殿250回忌記録(文久3)
 ・金蓮寺仮方丈御修覆帳(嘉永6)
 ・桂林寺末暦并寺例控写(明治2)
 ・徴首座入院賀茶記録(文久2)
(3)一紙類
  覚・控・書状など(26点)
(4)過去帳
史料3 桂林寺由緒
1該寺儀ハ往古ヨリ御巡見役御通行ノ節、御休泊被仰付来候。其節蜂須賀家ヨリ御修覆万端被仰付候。寺領高15石2斗4合5勺。
1寺中居屋敷3段9畝高3石9斗 四方竹木共 承応3年9月23日蜂須賀家ヨリ僧玄宥首座江賜ル
史料4 覚
当寺之儀往古御建立被仰付其後御巡検役御宿ヲモ被仰付来候儀ニ御座候処、去天明8(注・1788)申年冬ノ頃御通行御座候節御繕被仰付御宿仕候以来、最早多年ニ相成候事故追々破壊ニ相及ビ―中略―本〆中又ハ御作事方ニテモ尚又御修覆之儀申出候様致可申哉イマダ表立候御沙汰モ無之儀指越申出候段モ恐入候ヘドモ己ムヲ得ザル事申出置候間重々トモ宜シク御含置可被下候
  以上
 5月 桂林寺
 この二つの史料で、(1)桂林寺が巡検使の休息所又は宿泊所に使われたこと。(2)その都度、藩費によって修覆が行われたこと。(3)藩の保護によって維持管理された寺院の宿命として藩よりの出費がなければ、たちまち経営難におちいることなどが知られる。(河野)
 

 2 池田町の石造文化財
 このたびの総合調査において、われわれ郷土班は、史料による池田士の解明につとめるかたわら、池田町全域に所在する石造文化財についての調査を実施した。
 しかし、限られた期間内においては、到底全域にわたる分布調盃の実施は不可能であったから、重点的に、
 (1)洲津地区
 (2)佐野地区
 (3)白地地区
 にとどめ、そこに所在する板碑・石仏・五輪塔・経塚(?)・石造民具などについての調査を試みた。
 (1)洲津地区
 (a)弥陀一尊種子板碑


 所在地 池田町洲津 滝の不動さん前
 寸法 上幅23糎 下幅30糎 長さ57糎
 2条線 中央蓮台の上に、弥陀如来を示す種子(しゅじ)キリークが彫られている。
 鎌倉時代末期の造立と推定。
 特に注意すべきことは、この板碑が三好郡以外の地域から移転されたものでなく、当初から現地に造立されたものとすると、本県における現存板碑の西限を示すものとなる。今後の検討をまって決論を出したいと思っている。
 (b)石造子持地蔵


 所在地 池田町洲津 滝の不動さん登山 口多聞寺前道路西側
 蓮台から下は後補されたものと思われるが、上部は江戸前期のものと推定。
 他の地蔵に比して、如何にもユーモラスな表情がおもしろい。珍らしい地蔵に注目したい。
 (2)佐野地区
 (a)五輪塔 2基
 所在地 池田町佐野松寿庵境内


 (b)凝灰岩造石臼 3個
 所在地 松寿庵境内 前記寛文銘五輪塔の横


 この石臼で特に注目されることは、凝灰岩造という、石臼の石材としては、常識をはずれたものが用いられていることである。何を作るときに使用されたものか、地域産業とどう結びつくか、今後の研究を期侍したい。
 なお、この地区には、雲辺寺登山口の丁石・へんろ石など、価値高い石造文化財が所在している。
 (3)白地地区
 (a)石積塚 6基
 所在地 池田町白地仙野 伝報恩寺跡付近
 地元の人たちが、8人塚とよび戦国争乱期の戦死者の墓でないかといっているもの。


 われわれ調査班は、あるいは経塚でないかと判断したが、発掘調査を実施しない限り決論は出しにくい。とりあえず実測して平面図を作成したにとどめたが、今後の学術的な調査の実施を要望し、その調査結果の報告を期侍するものである。(石川・河野)


徳島県立図書館