阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第27号
上板町の葬送について

民俗班 前川富子

1.はじめに
 葬送についてのテーマを選んで、阿波学会の調査に参加させていただくのも3回目であるが、縁起でもない。と絶わられるのではと、おそるおそるご協力をお願いするのはいつもの事である。
 ところが、冷汗の思いの申し出をどの方も心良くご承諾下さり、時の流れも混えてご見識を淡々と、まるで楽しむようにお話し下さるので、感謝の気持もさることながら、さすがにお年寄りは何もかもよく観えておられるのだと、年輪とも言うものに感銘することしきりであった。
 上板町の宗旨は真言宗、真宗が大半で寺院も多いが、法華宗、念法真宗、その他天理教、創価学会等、又神道もあるという事であった。
 上板町においてはあらゆる習俗、習慣が変革しつつあるが、古老の感じでは、総じて葬送に関する事柄が、他よりは昔の面影を残している。という事であった。
 お忙しいなかを調査にご協力下さいました妹尾貞雄氏、多田晴之氏、三谷惣一氏、妹尾照一氏、世戸茂平氏には、心からお礼申し上げます。

 

2.死とその前後
 死
 普通息を引き取ってもすぐには死人として扱わない。病人としてそのまゝ寝させておき(大体オモテに寝させてある)、一晩はヨトギをした上で、死人としての扱いになる。
 忌中札
 死亡の日に「忌中」と書いた紙を門柱、玄関等へ家人が貼る。葬式が終ると剥ぐ。
 北枕、枕カヤシ
 死の翌日(葬式の当日)に枕をかえてあげる。と言ってオクに北枕に寝させる。枕をかえるのは故人の甥の役目で、妻の場合は出里の甥がかえる。枕元に机を置き、一本線香、一本花(シキミ)をあげる。顔には白布をかける。
 神棚のオオイ
 神棚へ白紙で覆いをする。他人がするのが普通である。四十九日まで覆っておくが、もっと早くとる場合もある。
 タマシイ
 魂は、旅立ちの四十九日までは屋根、あるいは棟に留まっており、その間屋根替えをしてはいけないと言われている。魂はその後墓に行くと言うことである。
 ヨトギ、通夜
 夜中まで病人(死人)の側で血縁の者が起きている。線香の番は身の濃い者がする。
 ヨトギ見舞
 ヨトギの手伝いの人に親戚が食物を振舞う。昔はそれぞれ持ち寄っていたが、今は親戚同志で相談の上、費用を分担してうどん、巻寿し、おはぎ等を用意する。
 ヒキャク
 昔はトナリの者が2人1組になって喪家の親戚に知らせた。知らせを受けた方はヒキャクの支度(食事)にソーメンを用意する。ヒキャクはソーメンを食べて帰る。受けた家では葬式に出た時、ヒキャクに来た人にお礼に行くのが礼儀である。(口上のみ)ヒキャクは、電話の普及と共になくなった。

 

3.葬送とその準備
 (1)ソーシキ,オソーシキ
 友引の日には今も葬式は出さないが、昔はトラの日も避けていた。やむおえない場合は方角を変えて出棺する事もあった。
 昔は告別式を行なうのは特別な家のみであったが、今はほとんどが告別式を行なう。
 祭壇を飾るようになったのは戦後、告別式を行なうようになってからであり、近頃は主に葬儀屋を雇うが、寺から壇飾りを安価に借りられるようになっている地区もある。
 午前中に賄いの僧の読経があり、その間に会葬者の焼香、火葬場の都合により11時から15時の間に出棺、親戚代表の会葬者へのお礼の後、霊枢車で出るのが普通の段取りである。
 (2)入 棺
 ユカワ
 現在は息が切れたらすぐアルコールで清拭するので、入棺の前に形式的に拭くのみ。30年位前には、オクのタケザ(竹座)で死体に湯をかけて洗い、頭を剃っていた地区もある。あとは水で流して「アブラウンケンソワカ」と唱えながら塩祓いをする。なお、子供を産むのも竹座であった。
 ユカワの後で故人の好きな着物を着せ、白の単衣を重ね、胸前は反対に合せる。経帷子三角頭巾、手には数珠、首にはサンヤ袋(弁当としておむすび5コ程、菓子、タバコ等好きなものを入れておく)白足袋等をつける。
 マツゴノ水
 納棺の前に、読経しながら親戚の者がシキミのハナで水を死人の唇につける。
 入棺、納棺
 死体を棺に納め、祭壇の前へ北向きにする。戦後、棺の中に菊花を入れるのが流行するようになったが、それまでは茶の葉で、骸が動かないように詰めていた。茶の葉は紙に包んで使用、2斥位買った。
 昔は丸棺に納め、お掛軸(真言−お不動さん、お大師さん、十三仏さん)を飾った床の前に置き、逆さに着物をかけておいた。
 僧は読経の前に棺のフタをあげて、剃刀で頭を剃るまねをする。同じく梅のズバエで水をふりかける。
 棺
 昔は粗末な木製(杉の三分板)の丸棺で、終戦頃まで使用していた。丸棺使用の時は、息を引きとると硬直の前に脚を曲げ、手は合掌させておく。今は寝棺を使用。
 棺のフタは身の濃い者が打つ。
 (3)焼 香
 僧の読経の間に焼香をする。1 跡取り、2 親、嫁、家族、3 親戚の濃い順である。焼香は1人ずつ前へ進み出る場合と、盆がまわる時とある。几帳面なところでは順番に名を読みあげる。一般の人は外の台で焼香をする。
 (4)出 棺
 出棺には、ワラ火をたいて、茶碗を割る。
 六地蔵を門に立ててローソクに火をともし、ワラ火をたいて、本人のギョーギ茶碗を石に投げつけて割る場合もある。(図1 六地蔵)


 棺を担く人は白い鼻緒の新しいワラゾーリをおろす。別にはき替えを持って行き、鼻緒を一本切ってサンマイへ捨てて帰る。
 棺を担くのは故人の甥である。
 (5)ソーレン
 ソーレンが出ていたのは戦前まであったところと、大正中頃までというところがある。ソーレンを葬儀屋に注文できたのはかなり裕福な家であった。ソ−レンは六角形で華やかに飾ってあり、上に天ガイをささげ、イハイ、タツノクチ、ノボリ、ボンボリ、花カゴ等が続き、女性は白無垢にかつぎをかぶり、オケから引いた白木綿の綱を引いていた。この行列が、ニワやマイトコの葬場でレン台を中心にして三回まわる。(図2 ソーレン)

 (6)泣き女
 大正始め頃まで、泣くのが上手な人が雇われて死人の前で泣くことがあった。
 (7)トナリと葬式の手伝い
 トナリ
 隣組、郷、支部等の組識で、仲間うちをトナリと呼ぶ。今は葬式、婚礼、共同作業を助け合うが、昔は田植も助け合った。葬式にはトナリから男女2名が手伝いに出る。その他に連帯感の強い株内も強力に手伝う。
 トナリの手伝い
 責任者を決め、その指揮でそれぞれ役割を分担して行なう。喪家は責任者へ費用を預けて依頼する。仕事は大体以下のとおり。
 神棚の覆い
 忌中札の準備
 ヒキャク(昔)
 寺への連絡
 診断書の準備
 役所関係の連絡
 火葬場の段取り
 棺の準備
 式具の準備と買物
 段飾りの準備、製作
 ソーレンの手配(昔)
 レン台の製作(昔)
 入棺用具の準備と買物
 支度用の買物と膳類調達
 お供えの準備と買物
 死装束の準備(座ブトン、単衣、経帷子、サンヤブクロ等)
 支度(精神料理……図3)
 四十九のダンゴ(図4)
 野辺送り用の準備と製作(チョーチン、六地蔵、杖、小判(図5)四花(図6)
 帰りの竹馬の準備(図7 ムマ)
 塩祓いの準備
 尚、近頃は葬儀屋で間に合うことが多くなった。

    


 (8)野辺送り
 昔は墓地へ行き、埋けることを野辺送りと言ったが、今は火葬場へ行くことを言う。
 野辺送りは霊枢車で出発し、車を先頭に順に送るようになって簡単になってきた。
 今は11時から15時頃に出るが、昔は日が暮れてから出た。
 夫婦の連れ合いの場合は野辺送りに行かない。
 大正中頃の野辺送りの例
 1.野辺提灯(庵坊)
 2.ソーレン(4人で担ぐ)
 3.天ガイ
 4.イ(ユ)ハイ、(ソーレンの前の場合もある)
 5.ハタ(親戚の数だけ)
 6.四花
 7.小判
 8.香炉(焼香用)
 9.お供
 (9)香奠と香奠返し
 昔はハガキ10枚程を焼香に来た人に持ち帰ってもらっていたが、近頃は香料を包んで来た人には満中陰に香奠返しをする。香奠は一般で千円、つき合いの濃い人で二千円。親戚は五千円から一万円という例がある。金額によって香奠返しの品物をかえるというところもあり、一率に五百円位の砂糖、風呂敷等という例もある。

 

4.帰りの作法
 ゾーリ
 棺を担いだ人は、かわりの履物を持っていて、ゾーリを捨てる。
 ムマ(竹馬)
 野辺送りから帰った人は、モンヤヘ入る前に馬(竹馬−図7)を跨ぐ。又は跨いだ後タライの中へ入っていたが、今はタライを置かず○印を書いてその中へ足を入れる。
 塩祓い
 家の中へ入る前に、玄関に待っている人が塩祓いをする。あるいは塩水で手を洗う。

 

5.葬法
 土葬
 70年位前には土葬であった地域もある。ダイロクという大谷焼のカメを使用して埋めていた。
 土葬の穴を掘るのは手伝いの中では身分の低い者の仕事であって、墓掘りには不祝儀を出した。
 火葬
 ヤキバと言って、古くは丸棺で火葬する設備が各旧村にあった。火葬場のクドは崩れて使用できない事もあって、その場合は川原で火葬した。その頃の燃料は割木で、松の木を主に使用していた。喪家で薪と莚を用意しておくとオンボが運んで行く。オンボ弁当、夜食等も用意した。暮方から火葬にするので遣骨を拾うのは翌朝になった。
 現在の火葬場は寝棺用の設備で、身の濃い者が点火し、焼けるまで休みながら待っている。遺骨はムナボトケさんと他の部分を少しづつ拾って持ち帰る。
 改葬
 寄せ墓にすることはあるが、単独で改葬する習慣は聞かない。

 

6.墓と墓地
 オタマ屋
 戦前までは、片流れ屋根に三方を四十九本のソトバで格子(この場合は四十九日までソトバは立てない)に打ったオタマ屋を墓所に建てていた地区があり、現在もオタマ屋を建てる地区がある。こゝでは切妻の屋根で三方を囲むのは同じである。中にはオガミ石を置き、上にノイハイを安置し、水、菓子等を供える。いずれも、石塔の墓ができるまでとの事である。
 ハカ
 墓は石塔・主に撫養石と呼ぶ砂岩を使用していたが、近頃は庵治石(御影石)が増えている。
 ひとつ墓(単独墓)夫婦墓は以前からあり、累代墓(又は寄せ墓)は大正4〜5年頃から始まって近頃とみに多くなった。
 単独墓は地中のカマ(骨堂)、台石、シン、カサからなっており、累代墓は三つ台で、カマ、クモ石、大台、台石(ネコアシ又は台)シン、カサからなっているのが普通の形である。
 名がついておれば石塔のハカが切れるということであるが、墓をたてる時期は3年以上経ってから、という場合。あるいは四十九日、盆、彼岸、命日、法事の時に限る等とも言う。ハザ(普段)の日には仏を呼ぶ、と言ってたてない。
 舟石塔
 子供のためには小さい舟石塔を切る場合もあり、大人のために大きめの舟石塔を切る場合もあった。戒名だけの場合と、地蔵を切り出してある場合がある。
 寄せ墓になって舟石塔は切らなくなった。
 ボチ、サンマイ、ハカチ、ハカバ
 墓地は山際に多い。
 古老の話ではサンマイと言うのはキヨラカと言う意味という事である。
 墓地は官有地(共同墓地)と個人地があって、地区により埋ける墓地はきまっている。
 昔は共同墓地には六地蔵、庵とニワ又はマイトコ(庵の前のソーレンの回るところ)があった。
 墓地と樹木
 墓地にはあまり木を植えない。マツ、シキミは植えてはいけないと言うところと、シキミは植えてよいと言うところがある。又、墓のフチに囲いをしない方がよいと言われている。

 

7.死 穢
 (1)ブク
 忌服は四十九日、あるいは百日と言われるが、正月行事、祭礼の神輿まわし、年番(部落の当番の世話人)神参りは1年間しない。
 喪家から年賀状の交換を遠慮する旨のハガキを12月に出す習慣が2〜3年前から流行し、最近ではほとんどがしている。
 (2)別 火
 正月15日間に限り、葬式の手伝いをする人は、火が混らないように他の人の炊いた食事で支度して出かける。もし炊く人がなければ、トナリで助け合う。
 正月(松の内)に死亡した場合は、家の者はトナリで所帯をしてもらう。
 火が混ると言って、喪家の者は正月の注連内は他家を訪問しない。又喪家では客があっても茶を出さない。注連内は元旦から15日間。

8.爼なおし
 ムイカの後にとる食事を爼なおし、あるいは六日越しと呼ぶ、その日は普通仕出しをとっているようだが、魚を食ベる事を指す場合や、四十九の餅を残さず参会者で食べ切る、あるいは赤飯の場合等もある。

 

9.追善
 ムイカ
 元来は六日目の行事であったが、戦後は葬式の当日、焼場から帰ってするようになった。オムイカには濃い親戚からオコワ(赤飯)を持参する地区もある。床に祭壇を設け、掛軸(真言−弘法大師、十三仏、不動明王)を飾り、その前にイハイを安置して供え物をする。僧の読経のあと会食する。この食事は爼なおし、六日越し等と言われる。参会者は親類のみ。近くの2〜3軒から男女の手伝いがある。
 四十九日,旅立ち
 四十九日までは七日目毎のお勤めに、寺から読経に来る。
 四十九日は旅立ちと言い霊が墓に行くらしい。今はこの日に遣骨を墓へ納める。
 四十九日には四十九の餅を用意する。大抵菓子屋に注文するが、小さな、平べったい丸い餅で、盆に盛って参会者に回ってくるので、これは頭、これは足、などと言って分けて食べる。
 僧の読経、焼香、会食(精進料理又は会席膳)、墓参等以下同じである。
 その他の法事としては
 ムカワレ、命日、一周忌
 三年(忌)
 七年(忌)
 十三年(忌)
 十七年(忌)
 二十五年(忌)
 三十三年(忌)
 三十五年(忌)
 五十年(忌)
 六十一年(これで終りのところもある)
 百年(忌)
以下五十年毎。等の年忌がある。

 

10.祖霊祭
 祖霊祭を行なう株内もある。株内の本家の田の中にあるヒメミヤ神社ということで、10月に祭っているということであるが詳細は不明。

 

11.墓参
 墓参は大むねハナ(シキミ)米、線香、水、故人の好物等を持参する。
 追善の日
 お祥月(若い人の死亡の場合が多い)
 春秋の彼岸の中日又はその前後
 正月の前
 正月元旦から15日の間(墓に門松を立てる場合もある)
 盆14日。盆礼の場合は8月中。
 命日(月毎)
等に墓参するが、家により少しづつ違う。

 

12.盆
 期間
 盆は旧7月15日であったが、大正始め頃から新暦8月15日となった。
 霊供(一例)
 仏壇には霊供の膳の器の1つ毎にハスの葉を裂いて敷き、供物を供える。仏壇の両側にオガラを一本づつ立てる。
 行事
 8月12日(旧7月12日)
 墓掃除
 8月13日
 お参り(仏壇)。
 初盆の場合は親戚が寄る。
 8月14日
 精霊棚、水棚、水の棚を主に竹で編んでつくり、ハスの葉を敷いて、ダンゴ、ナスビ、キューリ等供物を供え、水をあげる。ハナを竹筒に供える。棚経はこの日が正しいとの事。
 迎え火を夕食後、水棚の近くでたく。枕石を置いてタイマツをたくという場合と、竹をねかせて支えにし、三カ所で火をたく場合がある。三カ所は先祖代々、便所、泉(井戸−水神)の神様であるという。無病息災のためこの煙を頭、目、足など悪いところへあてる。
 8月15日
 普通は何もしない。
 盆礼と言って、手みやげを持ち実家ヘ帰る。盆礼に来た人にはひやしそうめんで食事にする。盆礼は八朔(旧)まででよいと言われている。
 8月16日
 送りダンゴを仏壇に供え、精霊棚とダンゴ供物を川へ流す。
 結衆によるトーロー流しが、夕方吉野川の高瀬橋であったが、10年位前からしなくなった。
 ショーロー、トーロー
 ギフチョーチン、ボンボリとも言う。提灯を初盆から3年間、昔は7月1日から16日間、今は8月1日から16日まで、家のオモテの縁側のノキ、あるいはオブタの中に吊る。一つの霊に一個吊る。
 三年目の8月20日頃にトーローを流す。


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