阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第27号
上板町の石造文化について

郷土班 森甚一郎・石川重平・河野幸夫

はじめに
 昭和55年7月28日、阿波学会主催の第27回総合学術調査が板野郡上板町で実施され、私たち郷土班は石川重平、河野幸夫の両氏と私とが参加した。
 炎暑の下、人も通わぬ山路をふみわけての研究は思わぬハプニングを生じ、貴重な調査も割愛しなければならなかった。そんなこともあって限られた期間内には到底全域にわたる調査の実施は不可能で、所期の目的を達し得られなかった。
 幸い、秘蔵の出土品の数々を閲覧させていただいた町史編さん室の児島光一先生や、ご多忙の中わざわざ車で案内の労をとってくだっさった七条勝先生、その他石造物の所有者たちのご厚意によって、下記の報告書をまとめた。そのかげには阿波郷土会の松田正六氏、阿部勝太郎氏、稲井敬二氏たちの協力があったことを付記して、ともにお礼を申し上げる。
 なお報告書は
 A 西光廃寺跡の調査
  1 出土の軒丸瓦
  2 明神池の瓦窯跡
 B 経塚について
  1 大山寺の経塚
  2 和泉寺の経塚
  3 秋草双鳥鏡
 C 板碑について
  1 大山寺の板碑
  2 聖天堂裏の板碑
  3 安楽寺谷の板碑
  4 金光寺の板碑
  5 金光寺の石幢
 D 五輪塔その他について
  1 明照寺の五輪塔
  2 五智如来の石像
  3 椎宮神社の壷形碑と名号板碑
  4 神宮寺の瓦製小祠
と順序をたてて、石川重平氏が執筆し、河野幸夫氏の実測記録によるものである。(森)

〈報告書〉
 A 西光廃寺跡の調査
 まず地理的環境は第4紀新層に属し、阿讃山脈の山麓部に位置し、扇状に南に延びる洪積台地、すなわち庚申谷川の東側の山の斜面を平削して寺地が造成されている。
 現在寺地の上に明神池と呼んでいる灌漑用の大きな溜池が作られていて稲・煙草・果樹の農耕が営まれている。寺地の中程に四国縦貫道路建設の作業道路がつけられ、残りの約500平方メートルほどが畑地となっている。このすぐ下の段丘に共同墓地があって、昔寺地であった面影を伝えている。
 古瓦の発見地は寺地より100mほど下がった煙草畑から発見されたという。さらに松田氏がその東の谷川で拾った平瓦の破片を20個程持参して見せてくれた。平瓦の面に縄目の押形が残っていて、平安期の古瓦であることを確認できた。
1 出土の軒丸瓦
  八葉複蓮弁、平安時代、色調黄灰褐色、焼成やや軟。
 花弁の文様は扁平な複弁で、花弁の中に2箇の蕋(しべ)を現し、花弁と花弁の間に間弁を入れ、中房は重圏で区切り、中心に1個、周囲に9個の蓮子を現している。


 周縁の幅は広く、内区と外区の境目に1条の重圏文を施し、その外に20箇の珠文を配してある。周縁には文様をつけず、素文らしい鋸歯の跡が見えるが、それは後からついた疵跡かも知れない。全体から受ける感じは花弁に立体感がなく弱々しい感がする。形も小形で奈良時代の精錬された感じはなく田舎風に見える。いずれにしても平安時代の政治経済の乱れを反映してか文様は乱れ、退化がはげしくなる時期といえよう。
2 明神池の瓦窯跡
 さらにその日、七条氏の案内で西光廃寺跡より約300mほど東の明神池の東斜面で窯跡を見た。この窯跡は明神池の流水口のコンクリートの溝のすぐ西側の山の斜面にあって、径約2mあまりで天井はすでに落ちていて、焼土壁が火力で赤褐色に焼けている。その壁を積み上げてある壁土の中に稲藁のスサが棟込んであったと七条氏は言っていた。古代瓦窯を造るのに稲藁のスサを使うのが常法である。
 窯の底部に30〜50cmの砂岩の自然石が並列している。
 現在見る限りでは、窯の構造が登窯式か平窯式か、それとも半地下式平窯であるかは全く分からない。地形から考えると明神池が築造されている東丘陵斜面に位置するので、あるいは登窯式の瓦窯であるかも知れない。発掘調査の結果を見ないと確実な形式は不明である。瓦窯であれば西光寺の瓦を焼いた窯である可能性も強い。
 

 B 経塚について
 経塚の造営はいつごろ、どのような思想と、どのような時代的、社会的背景のもとに発生し、かつ行われていったであろうか。すなわち、この経塚の発生の間題はこれを的確に解明する史料は今のところ何ひとつもない。それだけにこれを究めるのは、はなはだ困難である。
 昭和48年7月1日発行「阿洲犬伏旧釈迦堂趾出土瓦経拓」編者浪花勇次郎氏の序文に、石田茂作氏は「平安朝の末葉は仏滅後五百歳を過ぎて末法万年の初期に当たる。是を以て仏教徒の間には来るべき法滅尽期に備えて、経典を地下に埋蔵保存する事が、戦争時の防空壕を作るように盛んであった」(以下略)とある。
 この滅法尽期に備えるための意は「弥勒下生経」に説くところによっている。それは弥勒菩薩が兜卒天よりこの世に下生し、出家学道して竜華樹の下に坐し成道し、初、一、二、三会にわたって法を説き、衆生を済度すると説くものである。この弥勒成仏の折「其庭此所奉埋之経巻自然涌出、令会衆成随喜矣」とするところに、この埋経の主眼があったのである。これは明らかに弥勒信仰に立脚している。この弥勒信仰は末法思想の影響により意識されてきたもので、釈迦の説く仏法が入滅後2千年たつと、全く衰亡し、末法期に入るとの思想である。
 今日までに発見されている経塚遺物で最も古い例は、奈良県吉野郡金峯山経塚出土器である。この金銅経筒に寛弘4年(1007)8月藤原道長が自ら写経した法華経、阿弥陀経、弥勤経、般若心経など合わせて15巻の経巻を銅篋に入れ金峯山頂に埋納し、その上に金銅灯篭を建てて常灯し奉った。この旨の銘文が刻まれている。
 11世紀後半から12世紀にかけて日本国内でも、ようやく末法到来の実感が人びとの間に、より一層広まりつつあった。「扶桑略記」永承7年(1052)にある末法に入ったとする記事や、僧兵の乱暴狼籍、延暦、園城寺の勢力争いなどの事件が相いつぎ、たとえそれが迷信であったにせよ、このような事態の中にあって、貴族も民衆も末法到来の危機感を抱かずにはいられなかった。
 いずれにせよ、経塚造営は末法の危機感の高潮する11世紀後半から12世紀の初頭ごろにはじまるのである。しかし、この期の埋経例が畿内よりもむしろ北九州地方により多く群在しているのは、経塚の盛行にどんな要因が作用していたのであろうか。これは埋経が八幡信仰と密接な関係にあったからで、八幡神のもつ護国、護法、護経の性格が埋経を助勢し、これを守護するとの信仰に融合したからであるとする説もある。こうした埋経の作善が鎌倉時代を通じて室町を経て、終末は江戸時代の六十六部廻国納経の経塚もあらわれたのである。六十六部廻国納経とは室町時代に盛行した全国66か国に1国1部の法華経を奉納して歩く、いわゆる六十六部廻国納経の形態へと展開していったのである。
 徳島県の経塚分布を知る資料としては、瀬戸内海民俗資料館刊行の「四国地方経塚地名表」(昭和52年)がある。これは同資料館が中心となり、四国四県の研究者の協力によって作製されたものである。この表によると本県では確実な経塚として17か所、参考地として8か所をあげている。この他に昨年麻植郡高越寺の山頂から経塚が発見され、鉄製の経筒が出土した。その蓋内側に「泰氏女の銘文」が発見されている。
 さらに昭和53年9月30日刊行の「月刊考古学ジャーナル 特集・経塚研究の現状」で高知女子大学教授岡本健児氏が四国編を出している。
 徳島県では吉野川流域の下流北岸の板野郡に最も多くみられ、年号在銘の瓦経が板野郡板野町川端経谷から、天仁2年(1109)紀年銘が発見されている。
 上板町神宅大山寺の経筒にも大治元年(1126)の年号在銘のものが出土していて、徳島県ではこの2つ以外には紀年銘はない。
 さらに本県18か所の中で、板野郡に7か所も集中している。このことから考えると、この地方は特に平安時代における仏教文化の隆盛な地方であったことが知れる。
1 大山寺(たいさんじ)の経塚
 板野郡上板町神宅大山寺境内。
 銅製経筒1、総高34.3cm、口径18.1cm、蓋天井部と宝珠つまみは3か所鋲どめがあり、1部に彩色の跡が残存している。明治43年(1910)国の重要文化財に指定。時代は平安時代。
銘 文
 大治元年 歳次 丙午 十月十二日甲辰日■浮提日本国阿州於大山寺如法経書写供表畢願領僧西範為結縁法界六道三有受苦者也
 この銘文は4行54文字を細毛彫タガネで陰刻していて、最後の1行の文字は細く浅くて読み取り難く見える。しかし書体筆勢ともに実に見事な党々たるものである。
 しかし、残念なことはこの経筒が何時頃、何処で掘出されたかは全く不明である。
 寺伝によると、経巻は紙本であり、発掘当時は灰状に腐朽していたという。
 大治元年は西紀1126年に当たり、崇徳天皇の時代、平清盛が8歳に当たる。10月12日の下に甲辰の干支があるのは月日の干支であろう。書体も平安期の筆法で、銘文・書体ともに実に見事な堂々たるものである。
 ■浮提(えんぶだい)
 梵語で印度大陸の称であり、転じて私たちの住んでいる世界をいうのであるが、この場合阿波国を指すものであろう。閻浮とも書き印度のいたるところに生えている喬木の名である。普通の場合はエンの字はサンズイ扁は書いてないが、この銘文にはそれがついている。
 如法経
 如法経とは平安時代の初期に慈覚大師円仁(794〜864)が始修したものであるとされているのが通説である。
 しかし、埋納経の遺例からいえば、周知のように藤原道長が発願した金峯山経塚がこれよりも数十年程前になされているから、円仁如法経が埋納経のはじめではない。
 如法経とは如法蓮華経などを写経し埋納したもので、経文の意味は常住不変の本体を説いた経文であり、真如・本覚の意味である。
 畢(ひつ)
 コトゴトクとも読み、如法経を写経し如法経埋納行儀の修法がすべて終わったという意味である。
 もともと写経は信仰の所産であって、すべて清浄の資材を用い、霊地の水を硯水とし、身心を清めて文字即仏の思想によって書くのであるから、この行儀は書写の道場を浄め、造写する人は身心を清浄にするために懺悔や入浴・浄衣薫香し、法華懺法を修し「料紙迎え」「水迎え」「如法経筆立(書写)」「十種供養」「如法経筒奉納」と次第していって、如法経は筒に納めて埋めることが基本条件とされている。
 願頌僧(がんしょうそう)
 この如法経埋納の本願者は西範であり、この筆順は平安時代より鎌倉期の遺物(写経文・梵鐘)などによく見受ける文字である。西範は僧の名で、大山寺の住職であろう。
 為結縁法界六通三有
 結縁とは仏教ではゆかりを結ぶことであり、仏菩薩が世を救うためにまず衆生に関係をつけること、または衆生が仏道を修めんため、まず仏法僧に因縁を結ぶことである。
 法界とは仏法の世界であり、万有の所在する世界で、転じて宇宙を意味している。
 六道とは地獄、餓鬼、畜生、修羅、人道、天道の6つの道を指すものである。
 三有とは三佑とも書いて不識、過失、遺志の3つをいい、その罪を許すことをいう。またこれを許すと命ずることが3度に及ぶこともいう。


 以上で銘文の意味の解説が終わったと思うが、総体にはこの如法経の埋納の功徳によって、法界衆生一切の者共が受ける苦脳を済度できるようにとの願文である。
 前に述べたが経塚造営については如法経を経筒に入れ埋納し、それを供養した法具、たとえば香子、青磁の椀とか皿などを入れ、それを守護する鏡や刀子を副葬しているのが普通であるが大山寺にはこれらの副葬品は伝世していない。発掘当時にこの経筒だけを掘り出し、他の副葬品はそのまま地中に残しているのか、それともあまり注意せずにそのまま捨ててしまったものか、今となってはその事情を知るよしもない。経塚の位置が分かっておれば再調査もできるが、それも今のところ不明であると聞いている。
 2 和泉寺の経塚(泉谷経塚)
 板野郡上板町泉谷字西縁10、和泉寺山門前和泉寺裏山にある。
 出土遺物は銅板製打物経筒1、総高25.6cm、径10.0cm。埋蔵の際、紙で包んだことを示すように全面にわたって紙片の附着があり、経巻8巻が入れてあったことを示す紙片8条も附着していた。蓋裏にもその痕跡があった。経巻8巻は巻いたまま棒状になっており、経文は妙法蓮華経であった。
 その外出土したものは陶製甕外容器(高さ30.0cm、口径15.0cm)。
 銅鋳製秋草双鳥鏡1(径11.5cm)。
 刀子残片1(現存長さ18.2cm)。
これらの時代は平安未期のものと推定している。
3 秋草双鳥鏡
 鏡といえば現代の人びとは、ガラス製の文様も何もない単なる姿見としての鏡を頭の中に浮かべるであろう。しかし、日本の古来から宗教的、倫理的意義を持つものとして作られ、かつ使用されてきた。今も神社の御神体として多く鏡が祀られ、また鏡を壊すと不吉な兆であると信ずる人びとがあるのは、かかる歴史的背景があるからである。
 我国で鏡が作られるようになったのは、弥生式時代後期であると考えられている。しかも鏡は銅製であり、背面に色々な宗教的意図と思われる文様が鋳付けられていた。記紀によると鏡は人間死後の生活に光明をあたえ、妖鬼を除去するに必要であった。
 奈良時代には仏教思想と結合して寺院の仏具として使用された。藤原氏が勢力を得るにしたがい、鏡の文様も変わってきた。すなわち、鳳凰、鴛鴦、唐草に代わって菊、山吹、紅葉、薄(すすき)、萩などに雀か蝶を配した庭先の一風景、あるいは野外の風景を表現している図柄が現れた。藤原後期よりは松に鶴を配したものが流行し、それらはいくぶんずつ変化して江戸時代に引きつがれた。
 しかし、藤原期の持色としては鏡を経塚へ埋納することである。これは鏡が除魔的な力を持つものであると信じられていたからである。埋納した経筒内の法華経を守護するためと埋納者の祈願を意味するものとを考えるのである。
 この鏡の文様は咲き誇る菊花一輪の下に、嬉戯する二羽の小鳥を描き、菊花はたがい違いに鏡の内区を一廻りして、その一つが外区に延びている。内区の重圏文に沿って薄(すすき)が一株描かれ穂花が出ている。外区にも秋草が描かれている。
 菊花を鑑賞しだしたのは平安時代の初頃からで、長寿を得るという中国の説話から齢草(よわいぐさ)といって親しまれていた。
 この和鏡は鋳上りも申し分なく、本県経塚出土のものとして最も優れたものの1つである。

 C 板碑について
 日本に仏教が伝わった6世紀前半から今日に到るまで、時代により様々な変化をみせながらも、人びとの生活に大きな役割を果たしてきた。日本の文化全般に著しい影響を与えてきたことは、今日、私たちの目に触れる文化遺産は、仏教関係が非常に多いことである。
 さて板碑とは、仏教関係遺物の中で“卒塔婆”、“塔婆”、“塔”と呼ばれる一種で、これはインドにおいて釈迦の遺骨を納め、礼拝の対象とした構築物を指す「ストウーバ」という語が、仏教の伝播とともに漢字におきかえられ、略されたものである。また、その形態も中国、朝鮮を経る間に各地の一般建造物の影響を受けたり、仏教教理の研究の進展などにより、様々な形式の塔婆が作り出された。とくに仏教東伝の最後の地である日本では、壮大な木造五重塔から、今日でも法要などの際に墓石の背後に立てる「ソトバ」まで非常に多くの形式をみることができる。
 これらの造立の目的は仏に対する供養のためである場合が多く、いわゆる墓石ではない。板碑の形態的持色は板石塔婆とも呼ばれるように、板状に成形した石の頭部を三角形とし、その下に2条の切り込みを入れていることを第1にあげることができる。また、その一方の面のみに塔婆としての諸要素を配していること、つまり五重塔などが立体的であるのに対し、平面的であること。さらに1箇の石材で形成されていることが第2の特色である。
 板碑は13世紀前半から16世紀にかけて全国各地で造立されているが、その分布は地域により粗密がある。またその形態も地域により大きな相違がある。自然石をそのまま使用している東北北部や北陸地方のもの、全国でも最も形態の整っているのは徳島県の阿波型板碑と、埼玉県を中心とする武蔵型板碑である。阿波型板碑は板状に剥離する性質を持つ緑泥片岩を用材としているため、非常に薄く形成することができる。このような板碑にはその塔身上半に本尊を、下半に銘文等を刻むのが通例で、本尊は種子(梵字を組み合わせて特定の仏、菩薩を示したもの)画像、名号等の文字により表されているが、なかでも種子が多数を占めている。本尊の種類は阿弥陀如来や大日如来が一般的で、特定の仏菩薩が一定の地域に集中している場合もあり、当時の信仰の様子を示している。銘文としては造立の年月日、人名、造立の趣旨、また偈(げ)などを刻んでいる。
1 大山寺の板碑
 イ 材質 砂岩
   標識 弥陀三尊種子
   銘文 文明五年九月十四日、宥恵
   全高35cm、下部破損、幅24cm、厚5cm。
 ロ 材質 砂岩
   標識 五輪塔浮彫
   銘文 妙空
   全高45cm、幅27cm、厚5cm。
 (イ)(ロ)ともに大山寺本堂裏山の歴代住職の墓地の石垣の中に積み込んであったものを、当寺の副住職が発見したもので、(イ)は上部を三角形に尖らし、阿弥陀三尊の種子を刻み、その下に一線を画し、文明5年(1473)9月14日の造立の紀年銘、及び中央に宥恵と2字の人名を刻んでいる。下部は破損しているので造立当初の寸法は解らない。
 (ロ)の板碑も同所より発見したもので、碑面一杯に五輪塔を薄く浮彫にし、地輪の右側に妙空の2字が刻まれている。五輪塔の各輪にキャ、カ、ラ、バ、アの種子を彫り、その形態も当時の姿をよく現している。この碑も同所の文明5年頃の五輪塔の形態を知る一資料となる。
2 聖天堂裏の板碑
 材質 砂岩
 標識 大日如来種子(ア)
 銘文 應永五 十月廿三日、道弘敬白
 全高50cm、幅27cm、厚さ10cm。
 聖天堂裏の墓地の中に南向きに建ててある板碑で、材質はこの山にいくらでもある砂岩で、自然石ではあるが、上部の三角形のものを使い、碑身上部に月輪光背の中に“ア”の種子を太字で現し、その下に12文字の銘文が読める。


 本尊の種子は“ア”字であるので、大日如来を種子で現したものと考えるのが妥当と思うが、“ア”字は諸尊共通の種子であるのであるいは他の仏を現したものかも知れぬ。応永5年(1398)の銘文は上板町の石造文化財のうち、最古の年号在銘の板碑である。
3 安楽寺谷の板碑
  材質 砂岩
  標識 種子(ア)
  銘文 應永七年庚辰七月
  全高70cm、幅50cm、厚さ15cm。
 安楽寺谷の谷川が流れている上板町の町境の谷川に沿った山道の右上に種子“ア”を仰けにして倒れている。材質に砂岩を選び、形態は自然石で面の上部に月輪光背の中に梵字の“ア”字が刻まれて、その下に簡単な蓮華台座を彫り左側1行に應永7年(1140)庚辰7月と造立の年月を刻んでいる。本尊種子の“ア”字は胎蔵大日如来を現す種子であるが、ここの土地の人が“月天さん”と呼んでいるので、月天尊の種子のつもりで刻んだものか、あるいは後世の人が月天さんとして信仰したのか、今のところはっきりしないが、前に述べたように“ア”字は諸仏共通の種子であるので、やはり土地の人の言う月天明王の種子と考えておきたい。


4 金光寺の板碑
 材質 緑泥片岩
 標識 弥陀三尊種子
 銘文 不明(文字跡があるが読難い)
 全高70cm、幅25cm、厚4cm
 碑面上部を三角形に尖らし、幅の広い二線を刻み、その下に輪部をつけ、碑身上部に見事な弥陀三尊の種子、すなわち“キリーク、サ、サク”の梵字を薬研彫りの刻法で彫っている。下部の右側は一石五輪塔を碑面にそってコンクリートで固めているので不明であるが、左側の方は造立紀年銘の元号は磨滅して読めぬが、3年10月8日敬白の文字が判読できる。
 形態及び種子の勢いから推して南北朝時代の造立になる本格的な板碑である。
5 金光寺の石幢


 この板碑の後に凝灰岩製の石幢が建っている。幢は梵語で Dhvajah といい、幢旗、幢幟などと訳される。石幢は通常、基壇、幢身、笠、宝珠の各部から成り、幢身には所望の経文、陀羅尼、仏像等を刻む。我国では平安時代から現れ、一般に流行したのは鎌倉時代から南北朝時代にわたるが、あまり盛大ではなかった。造立の趣旨は過去、現在、未来の三世にわたり、衆生の罪障消滅や寿命増長を祈願することにあった。時代が下がるに従って造立の目的は墳墓上に建て、墓碑や墓標の役をつとめるにあるが、その発生期は南北朝時代にあったと思われる。ここの石幢は材質が凝灰岩を使用し、幢身に仏像を陽刻し、四角の幢身の面取りが大きい。それ故、全体から受ける感じとしては南北朝末期から室町初期の建造と見るべきである。


 阿波では数少くない凝灰岩製の石幢が残っていることは、仏教文化を知る資料として貴重である。
 つぎにこの寺に道祖神の二人像があるとの報告で拓本を取り調査した結果、道祖神ではなく1石に石地蔵尊を2体並べて彫刻してあることがわかった。


 D 五輪塔その他について
 五輪塔は密教の所伝であり、方、円、三角、半月、團形の五形を重ね、空風火水地の種子を各輪に配したものである。即事而真、凡身即仏を究める密教では、この物的形態は黄白赤黒青の色相、堅、湿、煙、動、無礙の性徳を有し、さらに成所作智、妙観察智、平等性智及び法界体性智の五仏徳をも具顕すると説く。すなわち五輪は萬徳萬法を網羅し、一つとして欠くことのできない法身の体である。この塔を大日如来の三摩耶形とし、空風火水地の五大は物質構成の五元素と説き、五輪塔の各部は一元体の1部で、決して増減廃合の許せない存在である。五輪塔が日本に渡来したのは平安時代前期の頃、僧空海によって密教とともに請来したと伝えている。
 五輪塔が墓碑、あるいは供養塔として出現するのは平安末期から鎌倉時代にかけてで、他の宝篋印塔や宝塔、層塔、板碑等の石造美術が出現しはじめる時期より早く造立を見ることができる。
 阿波では鎌倉・南北朝時代の建造銘のあるものは未だ発見されていない。
 板碑では文永7年(1270)の鎌倉中期のものはあるが五輪塔ではない。しかし年号は不明であるが形態的に見て、鎌倉末期あるいは南北朝時代頃の建造と推定されるものは、私の知るところでは3基ほどである。ここの五輪塔もその1つで昭和51年11月にこの付近を調査中に発見したものである。
1 明照寺の五輪塔
 五輪塔2基、鎌倉末期。
  材質 凝灰岩。A 総高120cm。
         B 風、空輪破損、総高不明なれどAとほぼ同形である。
  地輪 高さ7.0cm 幅58.0cm
  水輪   38.0   47.0
  火輪   28.0   58.0 軒厚7.0 軒上幅24.0
  風輪   18.0   30.0
  空輪   16.0   26.0
 このように繁をいとわず、この五輪塔の構造、手法の寸法及び実測図、写真を提示したのは数少くないこの塔を他所の塔との比較検討し、鎌倉末期における五輪塔の形態の変化を知ってもらうためである。


 この塔のもう一つの特徴は五大種子を四方に刻んでいることで、多くの五輪塔はキヤ、カ、ラ、バアの発心門の種子だけを刻んであるのが普通である。しかしこの塔には四門東西南北の発心門から涅槃門まで、塔の四方に大きな梵字で、しかもタッチの鋭い薬研彫りで刻んでいる。これは鎌倉時代の豪健な思想が種子の彫刻にも反映したものであると考える。
 材質が上質の凝灰岩製で高さ120cmは四尺塔として造られ、各輪の数値も当時の規格に当てはまる基準形態の割付をしたものである。
 本塔は以上述べた如く、鎌倉末期あるいは南北朝初頭の遺品と認められるが、造立当初よりすでに6百有余年の長い星霜を経た今日、私たちにその姿を見せてくれることは実に偉観である。
2 五智如来の石像
 明照寺墓地に享保13年(1728)造立銘のある五智如来の石造仏がある。材質は砂岩で総高98cm、幅58cmの石材を舟形光背に造り、各如来像を陽刻している。


 向かって左より釈迦、弥陀、大日、宝生、阿■如来とほとんど同寸法で彫刻してある。像の頭上にその仏の種子を刻み、その空白のところに漢字で如来名を刻し、左端の釈迦如来の像だけに享保戊申13年の紀年銘とその下に願主大道心、反対側に勧進本実坊の銘文が刻まれている。
 中央の大日如来像のものに勧進本実坊二代建立とあり、外の四像は同文の銘文である。
 これによるとこの五智如来石像の建立は願主大道心の発願により、それを支え、かつ勧誘する本実坊によって建造されたことが解される。
 五智如来とは金剛界曼荼羅成身会と胎蔵界曼荼羅中台八葉院にある諸尊のうち、五尊を指すものである。古くは平安後期から鎌倉時代にかけての石造物に仏種子、または像造で現し、造立したものを多く見受けられる。


 明照寺墓地のは江戸中期の造立銘があり、本願主の大道心の熱烈な信仰のあまり本実坊の勧進によって、この計画に賛同し協力する結縁者によって建立されたものであろうが、この造立の趣意はただ大道心個人的な往生願でなく、この墓地域に葬られている聖霊及び法界衆生一切の極楽往生を願っての造立である。
 五智如来の配列の順序は中央に大日如来が配されることは昔も今も変わりはないが、なぜかここでは左端に釈迦如来を配している。この仏像配列は何かの経典の教義によると思うが、門外漢の私には知るよしもない。普通は中央に大日如来、東に阿■如来、南に宝生如来、西に阿弥陀如来、北に不空成就である。
 ここの五智如来像は1列に並べてあり、中央の大日如来は金剛界大日如来で智挙印を結んでいる。
 石工の技術も実に見事な出来ばえであり、各仏像の容姿も儀軌に従って造られ、彫刻的にも優美な趣があり、江戸時代の石造文化財としての価値を充分に備えている。


3 椎宮神社の壷形碑と名号板碑
 A 材質 凝灰岩
  全高(地上)80cm、径85cm。
 B 材質 凝灰岩
   全高(地上)75cm、径72cm。
 この凝灰岩製の壷形碑は椎宮神社境内本殿の東側に約1mほどの基壇を造りその中にこの2基の碑を東西に並べて建ててある。
 材質は上質の凝灰岩を使い、円形の曲線も見事で鎌倉時代の特色をよく形態の様相で現している。2基ともに上部中央に突起を造り、突起も2段に彫刻している。土地の人は“おかめさん”と呼んでいる。近藤一氏の説によると椎本字椎宮449−2の樋口浜蔵氏の墓地にあった。大きな椋の木があり南向きの間口3m、奥行2mの瓦葺の本殿の中にあり、これを御神体として祀っていた。昔は正月1日、7日、15日には参りに行ったという。この壷形碑は県下で、凝灰岩製では私の知る限りでは最大のもので、鎌倉時代のものである。鎌倉時代の凝灰岩製の五輪塔の水輪でないかとも考えられたが、この付近からこれに似あった各輪が1個も出土していない。また宝塔の塔身かとも考えられたが、これに類似の石造物は発見されていない。

  


 したがって、只今のところ壷形石塔の身部であろうと考えている。いずれにせよ、これだけの大形の塔身を造立し得る経済保有者がこの付近に住んでいた一証左となる貴重な資料である。
 なお同所には緑泥片岩製の名号板碑があり、時代は南北朝の本格的な形態をしている。
4 神宮寺の瓦製小祠
 A 瓦製神殿 宝形造
  銘文ヘラ書 享保二十天
        卯九月九日
        願主 三宅彦太。
  全高約35cm、側面幅20cm。
  色調 薄黒。
 B 瓦製神殿 流造
  銘文ヘラ書 元文二
        六月■
        奉寄進
        与洲宇摩郡妻島村 三宅彦太。
 全高 約32cm、側面幅25cm。
 色調 薄黒。

  
 この瓦製小祠は三井義之氏所有地にコンクリートで保護倉が建てられ、その中に大切に保存されている。上板町では昭和51年9月9日に町有形文化財に、この神殿2基と小皿2点を指定したが、現在では小皿2点は見当たらない。
 Aの神殿は銘文の示すように享保20年(1735)9月9日に三宅彦太が寄進したもので、この神殿は構造上は宝形造りで、御殿の右側に造建の年月と、願主である三宅彦太の名前がヘラ書で銘記されている。
 Bは元文2年(1737)6月の造建銘があり、寄進者は与洲宇摩郡妻鳥村三宅彦太の銘がある。元文2年は享保20年より2年後であり、享保銘の三宅彦太は元文銘の三宅彦太と同じ人であろう。
 妻鳥村は現在の川之江市で妻鳥は“めんどり”と読み、川之江城主妻鳥采女正は鉄炮の名人、土佐の長宗我部元親に従い、阿波に来て一宮長門守とともに戦った人。また妻鳥は面取とも書き、妻鳥を称した移住者が居たという。(高田、猪井両氏の教示による)
 しかし神宮寺のこの瓦製神殿の造建者が同人であるか否かは今のところ確定はできないが、いずれにせよ遠く離れた伊予の三宅彦太はどのような因縁で、当地に寄進されたか興味は探い。
 この瓦製神殿は現在完全な形で残っているが、今後さらに保存に注意されたい。(石川・河野)


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