阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第28号
貞光町の藍作と紺屋と織物について

史学班 上田利夫

 旧端山村吉良(きら)に忌部の祖が居たと云う事が論義されて来た。忌部は農耕の氏族で、木綿阿良多培(ゆふあらたえ)、藍の外粟稗(ひえ)等を作って来た。然し、記録として、それを裏付けする物が少ない。従って、蜂須賀家政入国以前の藍作について述べる事に少々不安を感じるのである。此の度の調査は、確かな云い伝えや、記録として残っている事柄について調査した結果を述べる。即ち、阿波の藍は蜂須賀家政入国後、藍作奨励の為播磨の国より藍を移植し、呉島に植付けせしめたと云われている。呉島も鴨島と旧学島村にあって、何処の呉島が本当なのか古い記録には鴨島とある。
 寛永年間に播磨の国より播磨屋与右衛門(現在石井町藍畑にその子孫が田中姓として居住す)外数名を藍作技術者として招き、本格的に藍作を始めたのが鴨島の呉島(上下島の南西の一角)である。
 藍作地も麻植郡から名西、名東、板野、阿波、美馬、三好、勝浦、那賀の各郡の村へ藍作地域が拡大され、美馬郡では脇町、三島、貞光が郡内で早くから藍作を始めたと云われ、端山では山地を開拓して貞光より早く藍作が行われた。当時の戸数について、20戸とも50戸とも云われているが定かでない。又貞光でも、何戸位藍作農家があったのか記録されてないが、確実な云い伝えとして50戸余りあったと云う。特に平地の少ない地域では、広い面積を作る事は容易でなく、畑地を作るには開墾して切畑を造ったり、山林を山焼きして焼畑を造ったりして拡げて行った。
 明治30年迄、藍の外穀類が栽培されて来たが、詳しい事は分からない。明治30年から35年にかけて端山で140戸、貞光で100戸が藍を作り、反半り30貫から50貫の藍を収穫し、1俵15貫入として1俵7円から7円50銭で取引されていた。明治44年になると、東端山で188反藍が作られ7,500貫の収穫があり、1俵15貫入りの物4円50銭で取引された。余り上物が出来なかったので値段も安かった。
 大正9年に、貞光の全戸数1,133戸の内560戸が藍を作り、端山で全戸数850戸の内420戸が藍を作っていた。大正10年に藍作戸数が貞光で450戸178反の藍作り、端山で約320戸200反の藍作り、大正12年に貞光で152反の藍作り、端山で155反の藍作り、大正14年に貞光で590戸32反の藍作り、端山で430戸52反の藍作り、昭和2年に貞光で35反、端山で48反の藍作り、昭和4年に貞光で13反、端山で20反、昭和6年に貞光で5反、端山で10反、昭和8年に貞光で2反、端山になく、昭和9年に貞光になく、端山に9反藍作りが行われ、貞光では昭和9年以降、端山で昭和10年以降藍作が行われなかったが、貞光の大須賀地区で4戸が、昭和20年頃藍を作っていた。
 明治年間から大正中頃にかけて、藍作していた戸数は道万、僧地、柴内、西、太田の地域全部で、約100戸の農家が16町余り藍を作り、反当り30貫から50貫の藍が収穫された。太田の対岸に1町3反歩位の畑地で藍を作っていた。その地域の藍作人の中で、2戸が■(すくも)作りをしていた。今でも寝床が残って居て、昔の面影を偲ぶ事が出来た。江ノ脇では26戸の藍作農家の内4戸が■(すくも)作り、畑枝では4戸の藍作農家の内■作りはなく、宮内では3戸の藍作農家が全部■作り、大泉では13戸の藍作農家の内4戸が■作り、馬出では1戸の藍作農家があり、東浦では藍作農家はなく、藍作農家より葉藍を購入して、■作り(自分の家に寝床があった)をしていた家が2戸。野口では10戸の藍作農家があり、大坊では20戸の藍作農家があり、寺町では8戸の藍作農家があって3戸が■作り、四辻で1戸の藍作農家が■も作っていた。前田では10戸の藍作農家があった。岡でも4戸が藍を作っていた。
 端山で各集落毎の調査が難しく、町役場の資料や、一宇村の古老の方々の話を綜合して、昔の端山の藍作状況を知る事が出来た。それによると、500戸位の藍作戸数の内、10戸位が■作りをしていた。それ等の家には寝床があって藍をねさしていた。反当り30貫から50貫の藍の収穫があった。収量も貞光の方と差はなかった様である。
 貞光では、明治年代から大正中期にかけて、700反余りの藍作りが行われた(貞光とは旧貞光を云う)。畑枝で明治年間に8戸あった藍作農家が大正年代に15戸になった。地域や逆に宮内の15戸の藍作農家が3戸に、大泉の17戸が13戸に、岡の18戸が4戸に各減少した地域もあった。
 作っていた藍の品種も山地と平地では種類を異にし、山地では乾燥に強い小上粉、赤茎千本が、平地では湿気に強い椿葉、紺葉、縮葉、百貫が比較的多く作られていた。大泉の京石作左衛門氏の様に、藍作りから寝床で葉藍をねさせて■(すくも)作りして、販売迄一貫作業をしていた家も、西浦や寺町にもあった。寺町では8戸の藍作農家の内3戸が■作りしていた。西浦で、どの家が■作りしていたか聞く事が出来なかった。
 藍作農家では、収穫された葉藍を買上げして貰う藍商と契約して、契約以外の藍商への売却はしなかった。特に貞光町内と藍作農家と藍商の結びつきは強く、他村の藍商の立入りが出来なかったが、松茂村喜来の三木与吉郎氏や徳島の原田、森六、西野の各藍商と売買契約をして、藍作りをしていた家もあったが、どの家がどの店との契約栽培をしていたか知る人がなく、調査出来なかった。
 東浦の西村商店は貞光の藍商の内で一番早く藍商を始めた家で、臼井商店や住友商店等も大泉の京石商店に次ぐ藍商であった。
 藍の積み出しは貞光川と吉野川の合流地点に近く、東浦や茂一橋の浜が船付場で今の国道に架かる橋の南西側とその上流3丁位の所であった。大柳の東出、江ノ脇の酒井、東浦の前田、辻の大久保、北町の横田の各藍商は、自己所有の帆船を持って、徳島や浪速、遠くは鳴門海峡や土佐沖を通って、豊前の国へ藍の積み出しをしていたが、外の人々は廻船問屋に頼んで藍の積み出しをしていた。
 廻船問屋には、南町の岡、北町の長井があって、徳島や外の地域へ運送をしていたが、中には積荷の関係で、対岸の喜来の船付場で、外の廻船問屋の舟に積み替えていた人もあった。端山の藍は貞光迄馬で運んで、廻船問屋に運送を頼んでいた。
 又、端山で炭焼の副産物として木灰が出来る。之を茅(かや)で編んだ俵(たわら)に4貫入に詰め、他の藍作地の肥料や紺屋の材料として廻船問屋を通して発送していた。
 一般の藍作地では藍刈りを7月、9月、11月と3回刈り取るが、貞光や端山では、土地の状態が悪く7月と10月初旬に刈り取りする事しか出来なかったので、収穫量も少なく然も上物がなかった。紺屋も原料の藍が地元にあるとは云え上物が少なく、隣の舞中島から購入していた家もあった。
 藍建に使う木灰は端山で上質の物が出来たのでそれを使用した。藍も■(すくも)は地元の藍商から購入していたが、藍玉を造っていた家は1軒もなく、他村から買わなければならなかったので、主に■を使用していたと云う。
 太田や道万では対岸の川原町に田辺紺屋があって、木綿や絹の糸を藍で染めて貰った。貞光の北中町に吉岡紺屋が主に糸染。東浦の折目紺屋、南町の美崎紺屋(張り亀)と岩井紺屋(岩紺屋)は捺染、染紋、書き紋、武者人形、鯉幟の染色。東浦に松浦嘉吉、松浦新吉(浅紺屋)、木下紺屋。南町の藤原。笠原の紺屋。大北町の今井紺屋。太田の竹田紺屋が大正年代迄主に糸染をしていた。
 又、端山には久米川、西田仁井の紺屋があって、糸染を主にし、間で風呂敷や型染をしていた家もあったと云う。大正中頃には、久米川紺屋の外の家はやめた。どの家でも「かめ」を6本から12本、1石から1石3斗入の物を住居の土間に、1尺3寸位高く埋め赤土で土間作りし、4本1組とし4本の真中に火壼を作り、保温が出来る様に築かれて、保温には炭焼で出来た粉炭を使っていた。1本のかめには、■(すくも)6貫から10貫位入れて、木灰と消石灰と、山に自生の「わらび」や「くず」の根から採取した澱粉や「さつま芋」で藍建を行い、藍染液を造っていた。その方法も家によって秘密にされ、詳しく分量を聞いた人はないと云う。
 紺屋の中でも鯉幟りや武者人形の幟、型染をしていた家の作業場は、細長く長棟型の建物で、最近迄物置にしてあったが何時の間にか取り除かれていた。
 阿波に於ける染色の歴史は、山野に自生する植物や鉱山から掘出された鉱物を使って染色されて来た。4世紀、今から700年前に、鴨島の唐人の地でまんだら織の糸染をしたのが最も古く、忌部族の織物も染められていたが、本格的に染色が行われる様になったのは、天文10年(1541)に京都より青屋四郎兵衛なる者が阿波に来て染色を始めたのが始まりとされ、鴨島を中心に西へ東へと地域が拡大され、貞光に於ても可成り古くから紺屋があって、紋染や型染は高度な技術を必要としたので、職人の育成も容易でなかったであろう。京都との技術交流があったればこそ捺染や紋染が出来たのである。
 染色分布を調べて見ても、型紙染型置(筒引染)や捺染、紋染が行われた地域は、徳島、鴨島の外二三ケ所あるだけで、県南に1ケ所と外は県西地方許(ばか)り、如何他地域に比しその時代の染色技術が進歩していたか窺(うかが)い知る事が出来る。
 綛糸を括って絞り絣糸にする方法もあったが、絣糸を染めていたと云う記録はなく話として聞かなかった。布染は武者人形の幟や紋付の紋染と商家の半天着、定紋付の風呂敷、ゆたん幕等の染色が行われていた。
 隣村の半田でも型染の紺屋があって、貞光の紺屋へ弟子入りして習って来たと云う話を聞いた。染物の依頼人も貞光の人だけでなく隣接の村落からが多く、態々徳島の方から染物を頼みに来た人があったと云う。
 紺屋で頼まれた染物が出来ると徳島方面の物は、廻船問屋に頼んで茂一橋の浜から船積みして送った。船の積荷は葉藍や■(すくも)の外、炭焼の副産物で出来た木灰があって、帰りの舟には雑貨の外塩、焼物、肥料として藍作人向けに干鰯、鰊粕等が積んであった。船付場附近には茶店や宿屋があったと云うが、今はその跡さえ見る事が出来ない。
 藍作りには肥料として干鰯(ほしか)、鰊粕(にしんかす)の外加里肥料として炭焼で出来た木灰が使われ、町家から出る下肥(しもごえ)が窒素肥料の一部に利用されていた。干鰯、鰊粕は出来るだけ使用を節約していた貞光は、隣村の三島村、舞中島の様な上物の藍の収穫が出来なかったが、それでも農家経済は苦しくなかった。
 染色の材料として藍の外、山野に自生する植物(柏、はぎ、南天、もっこく等)が使われ、渋の含まれている櫟の実と、鉄分の含まれている泥を使って染めていたと云う話も聞いた。鹿児島の大島紬や大島絣だけかと思っていたが貞光でこんな話を聞くとは思わなかった。県内も随分調べたが余り例がなく、那賀の山分にあった外はなかった。
 那賀の山間で水銀の含まれている鉱石を砕いて染色に利用していたと云う事も聞いた。葉藍や■の外に古くから青藍があった。明治2年頃より沈澱藍と呼び名も変わり貞光で採取されたと云う記録はなく話もなかったが、軸や額の山水画や水墨画に絵の具として書かれてあった。軸の書等も沈澱藍が使われて居り、塗り物の漆器の内、什箱、膳椀等も沈澱藍を漆で練って使用された物を見掛けたので、貞光でも可成り使用されていた事を知った。
 ■の代わりに沈澱藍が染色に利用されていたが、多くの染色物を見たが何を使って染めたか判断出来なかったが、疑わしいものもあって、亦一度再調査の必要有りと思った。
 山地の多い貞光端山では、まむし除けに野良着、脚胖、手合を藍で染めて着用していた事も聞いた。衣類の虫除けや健康保持にも藍染した物が多く使用されていたと故老の方々から聞いた。
 又、焼物の高級品、伊万里焼や有田焼を藍で染めた布で包んで箱に入れて、上から落しても割れないと云う。昔の紺屋今はなく、当時使われた道具も何一つ見る事が出来なかった。
 住友さんや京石さんの寝床は昔の侭で藍こなしや、ねせこみの道具が保存されていたので、民俗資料として永久に残して貰う様に頼んでおいた。住友さんの表の間に沈澱藍を使って書かれたと思われる軸や額が見られた。外の家でも見受けたがどの家であったか分からない。
 建物の大きな家へお邪魔すると老人の方が臥床中であったが、不遠慮に押掛けて昔の事を聞いた。言葉もはっきりしなかったが大変勉強になった。早く全快して亦昔の話をもっと聞かせて欲しいと思い乍ら次の集落へ向かった。
 道端で草刈りしている老母の方に昔機織(はたお)りしていた家はと聞くと、親切に教えて呉れたが役場で調べた記録からによると、衣織神社の祭神は栲機千々姫で、此の地に来て麻木綿(ゆふ)を作り、忌部族が糸に紡ぎ反物に織る方法を教えたと云う事が伝説として書かれてあった。麻は古くから作られ衣類として、絹も養蚕が古く行われ衣類として用いられた。
 木綿は天文年間(1532)以降に文禄年間(1592)には多くの棉種が輸入されて近畿、中国、四国、九州、東海道、関東で棉が作られ、阿波でも桓武天皇の延暦18年以降に棉の栽培が行われ、特に山地で平地より多く作られていたが、栽培技術が未熟で失敗し文禄年間から寛永年間へ、更に延享年間から天文年間にかけて本格的に作られる様になった。天文年間以前は苧麻や木綿(ゆふ)(楮)が栽培され織物の原料として使用された。寛永年間から延享年間にかけて絹、麻、太布の織物が出来、天保年間には木綿や絹の織物が織られた。
 明治初期には端山で180戸、貞光で460戸が格子縞、経縞、地絣を織っていた。貞光や端山には織元が2.3軒あって、農家の農閑期に貞光の町家では常時、織元から糸の供給を受け賃織りしていた。織元では紺屋で糸を染め「くず」の糊をして織屋に送っていたが、糸染専門の紺屋が少なく、川原町や半田の紺屋で主に染めていたと云う。昔の織元も代が変わって今はその面影がなく昔の事を多く語らなかった。機織りしていた家も織機(はた)は殆んどっぶして終い、残してある家は納屋の2階に片附けてあった。中央公民館には1台あった位で、昔織っていた老母も往時を思い出し乍ら語って呉れ懐しそうであった。
 昭和年代に入っても町筋では機織りの音が聞こえたが今は聞く由もないと云う。明治年代から大正年代にかけて機織(はたお)りしていた家は、道万、僧地、柴内西、太田の全域では家によって違うが、高織機(たかばた)と座織機(いざりばた)を使って80戸位の家で、着物用として木綿や絹の縞柄を織っていた。江ノ脇では20戸位が木綿と太布を織り、畑枝では3戸が木綿と太布。宮内では1戸が木綿。大泉では2戸が木綿と太布を織り、家によっでは棉作りから糸に紡ぎ、紺屋で染めて反物にしていた。東浦では家並みに機織りが行われ、その戸数も分からないが、木綿や絹の格子縞や夏の浴衣地絣を織り商品として売却していた。野口では10戸が木綿と太布、大坊で10戸が木綿と太布、寺町では10戸が木綿と太布を織り商品化して居り、平石では3戸が木綿と太布を、前田では10戸が木綿と太布を織元から糸を貰って賃織りしていた。岡では4戸が木綿と太布、西浦では木綿や絹が家毎に織られていたが戸数不明、端山では多くの集落があり、地域別の機織り戸数を知っている人がなかった。大体600戸位であろうと云う事で、主に木綿や絹の縞柄や家によっては絣を織っていたと云う。
 古い人は座機織(ざばた)を使い、若い人は高機織(たかばた)を使っていたが、大正年代に至り改(かい)良され、しゃくり機織(ばた)になった。貞光でも東浦や西浦、野口、寺町でしゃっくり機織(ばた)に変わった。之等の地域では1反を2日位で織り上げた人や、1反織るのに4日もかかった人もいたが、それでも農家や町家の経済に潤いをもたらした昔の織物も見せて貰って、譲って呉れる様話したが駄目であった。端山では格子縞や経縞の木綿や、絹の織物の品質が良かったので商品として高く評価された。貞光の町家でも、機織(はたお)りを職業にしていた家もあった。織元では織屋で出来た反物は船積みして、徳島の織物問屋や呉服商に送っていた。貞光での調査に限りがあり、調査も未だ未だ出来たかも分からないが、悔いの無い調査が出来た。貞光許りに日程を費やす訳にもいかず、次の調査地へ行く事にした。それも56年中に県内全域の藍作と紺屋と織物についての歴史調査を終えて1冊の原稿にまとめたいからで、元気な内にやらなければ不安が残るからでもあった。51年8月に出版した増補改訂阿波藍民俗史、附徳島県織物史の補稿に、重要な役割を果たす資料でもあった。貞光での調査に当たって教育委員会の教育長さんや職員の方々、商工観光課長や外の職員の方々、各集落へお邪魔して色色と御教示下さった方々に厚く御礼を申し上げると共に、何時迄も御元気でいて欲しいと祈り乍ら次の調査地へ向かった。

  

  

  

  

  

 


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