阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第28号
東端山平野名における検地

地方史研究班

1.はじめに
 検地研究に新たな視点を与えた安良城論文「太閤検地の歴史的意義」が出されて28年になる。この間、宮川満の「革新説」、後藤陽一の「追認説」などとの対立を生み出した。
 最近では脇田修、中村吉治、尾藤正英などの批判があるが、安良城の考え方は、山口啓二、佐々木潤之介らに受け継がれている。
 安良城の出した「太閤検地封建革命説」はこのように今でもその影響力は強い。安良城は太閤検地を、小農民自立政策ととらえ、その小農民を単婚小家族であるとした。つまり太閤検地は小農民の土地緊縛と剰余の搾取を目的としているが、そのことは、それまでの名体制を解体せしめ、小農民を自立させる結果となったのである。
 東端山には、天正検地帳はなく、慶長11年の検地帳がある。この検地帳と、享保12年、寛保3年、天保4年の検地帳を使って、東端山の中の1つの名、平野(たいらの)名について以下考察したい。

 

2.平野名
 東端山において棟付帳の一番古いものは、明暦4(1655)年の『美馬郡之内東端山村棟付人改御帳』である。これによると、東端山の内部は28の名(みょう)に分かれている。また、この棟付帳には石高の記載があり、同様な記載は、延宝2(1674)年の棟付帳にも見られる。
 明暦4(1655)年の棟付帳から28の名(みょう)の石高をひろい出すと次のようになる。


 この表からもわかるように、平野名は28の名の中でも特異な存在である。それは、この名(みょう)が東端山の政所、後の肝煎、庄屋の屋敷があり、その影響が強い名だからである。
 この名(みょう)の内部はどうであろうか。当時31軒ある家の内、壱家本百姓は1軒、政所のところだけであり、あとは小家である。それも、政所助左衛門の親を除く29軒は、助左衛門の下人なのである。
 この状態は延宝2(1674)年でも同じで、46軒にふえた家数のうち壱家1軒、部屋1軒、小家44軒でこの小家は政所の下人である。
 これが明和6(1769)年になると、他の名では壱家に付け上がる家が多く、小家が極端に減る傾向があるのに対し、平野名はなお21軒の小家を残している。その小家の内三軒は本百姓と血縁関係があるが、残り18軒は未だ下人である。
 文化13(1816)年には、総数17軒に減り、内6軒が壱家、10軒が小家、1軒が部屋となる。10軒の小家のうち、7軒が「下人放」され、下人として残っているのは3軒となっている。この時期に入って、やっと名(みょう)内が形のうえからは、近世村落の様相を程してくる。
 このように、棟付の記載から見る限り、政所を項点とした中世的名(みょう)体制がくずれず、家父長的経営が幕藩体制後期まで尾をひいたように見える。
 しかしこの山深い山村の中でも、小農自立政策は進められたはずである。これを、平野最初の検地、『慶長11年、東端山検地帳』の中で追求し、享保12(1727)年の『平野名田畠御見分写帳』でその具体的な様子を可能な限り考察を試みたい。

 

3.『慶長11年東端山検地帳』
 この検地帳の記述は、村や名(みょう)などによって8つの部分に分かれている。その記述順序に従って書き抜いてみると、白浦村、東丸井名、釜起木名、すつこ名、ごま平名、家賀谷、三木栃分、川見津のようになる。これを、明暦4年の棟付に見られた名と照合してみよう。この照合に当っては、「武田文書」(現、県立図書館所蔵)の『諸記録』の記述を参考にした。
 白浦 宮尾名、石之本名
 拾子(すっこ)捨子名、釜越木名
 広谷 広谷岡名、影名、桑内名、長木名
 家賀 平野名、西松尾名、四分一名、宮久保名、上中野名、栃谷名、鍛冶屋名、胡麻平名、古城名、見定名、寺名、岡名、下くるす名、鍛冶屋敷名
 三木栃 三木栃東名、三木栃西名
 川見 上平名、石井名、つふろ名、川見津名(川見の新開)
 丸井 東丸井名、西丸井名(西端山)
 慶長11年の検地帳で「家賀谷」と記されているところは、「家賀」とみてよいわけだが、この「家賀谷」の部分の記述は、内部にある名ごとに区切ってあるのではなく一連した記述となっているため、平野名だけ抽出することは困難難である。もし、抽出するとなると現在「平野」と言われている地域の小字名と、検地帳の小字名をつなげねばならない。この作業過程及び結果は後述する。
 一方名負人の人名から「平野」を追おうとしても無理がある。当時の政所は平野次郎衛門であるが、この検地帳の家賀谷の記載の中にはこの名まえが出てこない。わずかに、上中野(現在の家賀に含まれる)に二郎右衛門という百姓がいるが、当時の政所の屋敷が上中野にあったという事実がない限り同一人物とは言い難いであろう。
 そこで、慶長検地帳の家賀谷から平野を正確に抽出することをやめ、家賀分に限って記載方法を見てみよう。その記載を、名負人に限ってみると次の7つになる。
 王らひ野
ア  弐反八畝 切畑 四斗弐升 八蔵 同所 ごま平
イ  弐反四畝 切畑 三斗六升 太郎次郎 ミたら谷
ウ  三畝拾歩 山畠 四升七合 桑内
エ  さかの日うら 上浦分
 壱反 切畑 壱斗五升 八蔵
オ  同所(さかの日うら)ノ下 下や分
 三反 切畑 四斗五升 同人
カ  いやしき 同八蔵下人
 五畝拾五歩中畠 弐斗七升五合 左衛門太郎
キ  いやしき
 四畝九歩 中上畠 三斗四升四合 同人(八蔵)下人
 この7つの記載のうち、多いのがア イ ウ である。
 ア は、名負人が土地保有者である場合である。イ は、名負人の横に「ごま平」とあるから、ごま平の太郎次郎ととることができる。ウ の桑内は、桑内名の略であると考えられ、桑内名の本百姓の保有地ということだろう。ところが、エ オ は、イ の考えをもってすると矛盾する。エ オ は検地帳内で連続した記載であることから、この八蔵は同一人物だととらえるのが自然だろうが、そうすると気になるのが、「上浦分」「下や分」である。イ の記載と異なる点は「分」があるかないかである。
 この矛盾を解決する一つの見方は、上浦分が土地にかかる言葉、つまり、さかの日うらの一反の土地は上浦の保有地という意味にとることである。すると、そこの直接耕作者が八蔵であっても当然なのである。このとり方をイ にも採用すべきだろうか。
 カ は、いやしき五畝拾五歩を八蔵下人である左衛門太郎が耕作しているととるべきだろう。この場合「同八蔵下人」は左衛門太郎にかかることになる。ところが、同じことを言おうとしているのだろうが、キ の場合は「同人下人」とあるだけで下人の名がない。「同人」とは、その行の記述前に八蔵という名があるから八蔵と断定できるだろう。
 以上のことから、一般に言う分付記載はカ キ だと言えるが、このようにして記載された者には低石高の者が多い。次のグラフは、石高所持の有様を表したものである。

 

このグラフを見ると、二石以下の者が全体の約60パーセントを占めている。これは、それだけ土地が細分化されていることから考えると自立への配慮だともとらえられるが、これだけの石高では、生活に事欠くはずである。おそらく、より上位の者の手作り地に働きに出たはずである。
 反面、10石以上が7名いることは、家父長的経営が残っていることを意味している。このような山村という生産力の低い土地では、この形態を容易に解体することはできないのであろうか。
 他と比べて、どのくらい生産力に特徴があるかは、石盛りの比較によって明らかになる。東端山の石盛りは、慶長11年の検地帳の後ろに記載されている。
 この石盛りと、福井好行著『徳島県の歴史』120頁に引用されている「徳島藩の石盛り」とを比較してみよう。ただし、ここに引用された石盛りが、どこのものであるかその記述が無いので不明である。


 このように田の石盛りにおいては、上田で1石1斗の開きがあるが、畠では、上畠で2斗の開きしかない。中下畠以降は、東端山の石盛りが高くなっている点が注目される。
 このように慶長11年の検地帳の記載は、それ以後の検地と違い、村、名などの単位が大まかである。このことは、支配単位がまだ細分化されていないことを意味している。また、名負人の中に政所の名まえが表面上出ていないことは気になることであるし、石盛りの特徴も、平野をとらえる上で欠かせないことであろう。

 

4.『享保12年、平野名田畑御見分写帳』
 享保12(1727)年の御見分写幟には石高が記載されていない。平野名の検地は、享保以後、寛保3(1743)年、天保4(1833)年のものがあるが、これらには石高が記載されている。享保12年のものは「写」であるからでもあろうか。
 また、先にあげた、寛保と天保の検地帳の内容は、ほとんど享保のものと同じで、違う点は、名負人で肝煎の沢右衛門が万右衛門となった点と、名負人の名が若干変わること、そして、士地の記載順が記載の後ろの方で少し入れかわることだけである。従って、平野名での検地は、享保12年が最初であると考えるのだが、このことは後述する。
 さて、ここで享保の「田畑御見分帳」を、その記載形式、土地集積のようす、名負人の平野名内での位置の3つの角度から可能な限り考察することにする。
 まず、記載形式であるが、大きく2つに分けられる。
 ゑほし石
ア 下々畠 五畝十五歩 右同人方ヘアサ七 沢右衛門 水ノさこ
イ 山畠 壱反七畝 十二 同人与次兵衛
 ア のように分付記載のないものと、イ のように同人(すなわちここでは、肝煎の沢右衛門)の支配下にある与次兵衛が耕作していることを示すものとがある。ア の「右同人方へ」とは、前の関係で同人とは直兵衛であり、そこへ売ったことを後で加筆したものであろうと考えられるが、その下の「アサ」が不明である。もう一つア で名負人沢右衛門の記載の上に「七」という番号があるが、これは検地順位を示すものであろうか。土地台帳の番号と一致するか検討したが、関係がなかった。
 ア のような記載は、名負人が数名にしぼられる。沢右衛門、官右衛門、喜三兵衛、万右衛門、竹右衛門、伴次郎、喜三右衛門、茂平の8人であり、後は、イ のように沢右衛門、万右衛門、竹右衛門の下側に分付されている。


 この状態を耕作面積の分布から見ると、1町以下がその大半を占め、その中でも、5反以内が半数を占めている。10町以上耕作しているのは、沢右衛門であり、2町5反未満の2人は、万右衛門と官右衛門である。沢右衛門は肝煎だとして、万右衛門、官右衛門は何者だろうか。また、この帳に名をのせている名負人たちは、平野名内でどのような位置をしめるものであろうか。
 これらを明らかにするには、棟付帳が必要である。幸いにも、享保九(1724)年に棟付改が実施されており、この棟付帳の中で名負人を追ってみよう。
 検地名負人を棟付帳で追ってみたのが次の表である。


 (表1)で3人が棟付帳の記載の中になかった。沢右衛門、万右衛門、喜三兵衛、官右衛門に血縁関係があることは注目される。平野名は中世的色彩が強く、そのことは棟付帳からもうかがえるが、この名(みょう)を本百姓沢右衛門は私領のように取り扱っていることが(表1)から言えるのではなかろうか。(表2)ではさらにそのことを裏づけている。手作り地を除く土地は、沢右衛門とその子万右衛門にほぼ握られているからである。家父長的経営は、このようにして近世の中に持ち込まれているのである。
 この下人たちにも、内部で上下関係があったはずである。現に、享保5年段階で4人が壱家百姓となっている。この棟付の記載と現実の社会的、経済的地位とが一致するものであるかどうかを論ずるには、年貢、夫役の納入状態をも入れた考察が必要であるが、本稿の域を出るので、ここでは省略する。

 

5.慶長の検地帳と享保の検地帳
 東端山において、慶長の検地と享保の検地の間には断絶がある。その疑いを持ったのは享保12年の『平野名田畑御見分写帳』が、慶長11年の『東端山検地帳』を底本としていないと思われる節があるからである。それは記載順位が違い、『東端山検地帳』の中に、『平野名田畑御見分写帳』の一筆一筆を探すことが容易でないことである。
 では、その違いを明らかにしてみよう。検地帳の記載順は、ある一定の順序に並んでいるように思える。その順序とは、検地役人が検地に廻った順序ではないかとも考えられる。それを確かめるためには、地図上に当時の耕地状態を復元する必要がある。
 そのため、まず地籍図を用意し、その土地番号に、土地台帳からひろい出した土地の種別と面積を記入していった。土地は、田、畑、宅地、山林の4種類に別けて見やすいように、田は緑、畠は黄、宅地は赤と色別けした。この作業中、土地台帳の面積と検地帳の面積がピタリと合うのではないかとの期待もあったが、何百という土地でありそれを確かめるのは容易なことではない。次の作業は、古老に、検地帳の小字名をたよりに聞き、地図上におとすことである。手懸りは数多くあり、特に注目されたのは、昔の小字名が、現在の平野にある家号の中に生きているという事実であった。それは、次のような形で残っている。
 (家号)(苗字)(家号)(苗字)
 母屋――武田  柿ノ久保―松尾
 上門――金岡  根木上――岡本
 西ノ岡――藤村 根木下――竹岡
 久保ノ浦―藤田 田尾――原
 片山――藤田  新宅――市原
 中西――丸本  原田――下藤
 大藤――谷
ただ、この中で検地帳の記載に見られないのは「母屋」「上門」「新宅」の3件である。
 そこでこれらを地籍図の上におとし、その小字名の近くの田畠面積を検地帳の面積と比定していく作業に入った。残念なことに土地台帳に書かれている面積と検地帳の面積は合致するものが無かった。おそらく、土地台帳作成の時、測定し直したのであろう。
 この作業途中で判明したことは、検地帳の「平野」と現在の「平野」とが一致しないということである。検地帳の「平野」が広域であり、現在の字西谷、字谷向、字家賀、字広谷、字中山の一部をその領域内に入れていたと思われる。
 検地帳の土地を地籍図の土地に比定し、復元することは難しい。そこで、当初の計画どおり検地帳の記載順を地籍図上で追ってみた。
 そこで、享保12年の検地帳の主な小字名を順に列記するが、これを地域ごとに11の小グループに分けてみた。
 (1)一ノ瀬→ゑぼし石→水のさこ→くろとこさこ→たのさこ→もりの下→とらくふち
 (2)わらびの→くろまつ→はりたに→もりのひうら→北川ふち→まんから谷
 (3)けさかいわや→さかむかい→しょうぶさこ→しょうぶのはな→おそごへ→さかのやぶらさこ→やこさこ→かけのまえ
 (4)松のさこ→ふどひうら→しぶのふち→大東
 (5)平谷→いやしき(武田屋敷)→平の北川ふち→原田→夫婦ふち
 (6)西の谷→庵どこ→楠日浦→わらび川
 (7)大ふじ→中西→大古畠→くぼのうら→西ノ谷
 (8)森ノ下→西ノ岡→西やしき→東屋敷→六分一
 (9)おち神久保→弥宜畠→山見谷→こんこう龍→上中野
 (10)田野浦→寺尾→中山
 (11)古城→森やしき→論田かげ→とどろ日浦
 この11の分類は正確でない。こまごまとした小字名に対してその所在が詳細にわからないからである。従って、全く関係のない地名がこの中に入っていることがあるかもしれないが、11の分類はおそらく、これ以上にはならないものだと思われる。
 この小字名で、場所が判明しているところをたよりに地図上におとしていくと次のようになる。ただし、この地図は、現在の「平野」である。


 この地図でもわかるように、大まかにみて記載順序には1つの流れがあるようである。もし、このように検地したとするなら、10日前後必要であろう。
 享保12(1727)年の『平野名田畑御見分写帳』の見聞き部に次のような記載がある。
   享保拾弐年
  平野名 田畑御見分写帳
  未ノ三月廿九日晩二 ごま平■平野へ沢口新兵衛様御出被為遊四月十日迄平野ニ御逗留被遊四日□□□加左衛門所木ノ□御出被成■
    三月廿七日
 これによると、検地役人と思われる沢口新兵衛は、3月29日平野入りし、4月10日までの13日間滞在したことになる。前後1日は除いて11日、その中で整理の日を1日おいたとして10日くらいで検地したのではあるまいか。これでいくと、ほぼ記載上の小字のグループの数と、実日数が合ってきて、記載順=検地順ということが言えそうにも思う。
 では、慶長の検地の場合はどうだろう。家賀の中で、享保12年の『平野名田畠御見分写帳』の中に出ている小字名の周辺を書き抜いてみると次のようになる。
 わらびの→くろまつ→宮脇→ぼうのはな→うるし谷→いつみのうち→とどろ→川原畠→ミタラ谷→おくの谷
 さかの→さかのひうら→大ひがし→おちかみくぼ→弥宜畠→東屋敷→西屋敷→森の下→森の上→大古畠→平野北川ふち→ひわさこ東→六分一→かみやしき→西谷上下→わらび谷→大ふぢ→大ふぢの上→はやし→四分一上中野→森脇西→なし平→こんこう龍→ころび石


 これらの中で、享保の検地との関係で確認できる小字名をたよりに地図上におとしたのが前頁の図である。
 この記載順は、享保12年の検地帳の記載順と異なる。特に、夫婦橋付近から大藤までの記載は逆になっている。
 これらのことから、慶長11年の検地と享保12年の検地の間には断絶があり、実際に縄打をしたのは、享保12年ではないかと考えられる。平野名では、これ以後寛保3(1743)年、天保4(1833)年の検地帳が残っているが、そのどれも享保12年のものと同じである。おそらく、明治までこの検地を基準としたのではないかと思われる。
 そうすると、慶長11年の検地帳は「差し出し」ということになる。この検地帳に「家賀谷」として一括して記入されているということは、慶長11年当時、享保期よりもなお広範にわたる家父長的経営がなされていたことを物語るのではないか。そして、享保期も、明治の地籍図の「平野」よりも広い地域を「平野」としていたと考えられることから、明治期より、より広範な地域が、武田家を中心として経営がなされていたと考えられるのである。
 もう一つ、ここの検地の差異は、筆数である。享保の検地の筆数は、平野だけで413あるが、慶長の筆数は家賀(平野名外13名(みょう)を含む)で623しかないことである。

 

6.享保期以降の検地
 先述したように、享保期以降、寛保3年と天保4年の検地帳が残存している。寛保の検地帳の名負人は、享保期と相違があることから当時のものと考えられるが、天保4年のものは、寛保の検地の写しであり、名負人は変化していない。従って、検地帳から平野の土地の変化を追おうとするならば、天保の検地帳の「付け紙」を重視せねばならない。
 ここでは、史料を総て引用することはできないが、享保、寛保、天保とその名負人の変化の型を、いくつかひろい出してみよう。
   享保   寛保   天保(付け紙)
 (1)沢右衛門→万右衛門→丸井名右衛門方へ
 (2)沢右衛門 太次郎右衛門→万右衛門→万右衛門(付け紙なし)
 (3)沢右衛門 長四郎→万右衛門→万右衛門 胡摩平虎太方へ譲地
 (4)沢右衛門 与兵衛→万右衛門→万右衛門 釜越木孫五郎より捨子名弥十郎へ
           釜越木孫五郎方へ譲り
 (5)沢右衛門 藤助→万右衛門 龍兵衛→万右衛門 安永六 新蔵方へ
 (6)沢右衛門扣→万右衛門→万右衛門(付け紙なし)
 (6)は武田の手作地であろう。他の株は天保段階までに同名、あるいは他名の者の手にわたっている。付け紙を見ると半数以上が(1)から(5)のような変化を示している。このことは小農が実質的に力を持ち出し、同時に家父長的経営がようやくくずれ出したと言えるのではなかろうか。
 

 7.おわりに
 山村において、小農がどのように自立していくか、その具体的姿は検地帳のみで追うことはできない。それは、夫役、年貢の徴収簿との関連で、名負人の村落内部での経済的位置をより明確にする必要がある。
 平野名のような山村の小宇宙において、近世前の支配、被支配の階級関係が、被支配階級内の階層の関係に転化しにくく、幕藩体制社会に於いて、二重の支配構造を長く持っていたと言える。それは、初期検地のねらった一職支配と矛盾するものではあるが、平野の地理的条件とその生産力を考えるとき、壱家−小家体制と結びついて、年貢のより安定した収奪体制であったのかもしれない。


徳島県立図書館