阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第28号
貞光町の民俗信仰

民俗班 喜多弘

 貞光町内の民俗信仰の調査をして、庚申講や甲子講など古くからの講組、一日念仏、踊り念仏、仏の正月などのめずらしい行事が、今も熱心に行なわれていることがわかった。以下その概略を記すことにする。

 

1.庚申講
 江の脇薬師の近くの道端に、2m近い庚申塔が3基並んで立っている。寛文8、9、10年と連続して建立したものである。史学班の青木幾男氏の調査では、貞光町内に39基の庚申塔があるという。そして今でも端山の広瀬、長瀬の2地区では、庚申講が行なわれている。


 1.広瀬の庚申講
 10月7日広瀬の庚申講に参加させてもらった。9日が庚申の日であるが、地区の行事のため、繰り上げたという。庚申さんの真言に「マイトリ、マイトリソワカ」とあるので、早くするのは差支えないという。当日は雨であったが、夜8時ごろには講組12戸のうち、10人が当番の家に集まった。正面床の間の掛け軸や、供え物は次のようであった。

  
 雑談の後、9時半からお勤めが始まる。「鉦打ち」の鉦に合わせて「頭取」が先唱し、講員が次の順で、真言を唱える。
 (1)懺悔文、(2)三帰(3回)、(3)三竟(3回)、(4)十善戒、(5)発菩提心真言(3回)、(6)三昧耶戒真言(3回)、(7)北斗七星真言、(8)青面金剛真言(大、小呪)、(9)般若心経(3回)、(10)光明真言(10回〜54回)、(11)回向文。
 約40分でお勤めは終了。後は煮〆、大根なますで御神酒を項きながら雑談した。その中で庚申待という古い言葉が度々出たり、庚申の日に七庚申に参詣すると、御利益がある。
 北向きの庚申さんは特に霊験あらたかで、信仰すると中風にならぬ。庚申の夜は慎しみ、泣いたり、わめいたり、子どもを大声で叱ったり、喧嘩、口論してはならぬ。この夜男女が交わると、盗人の子が生まれる。など今も信じられているという。また地区内の庚申塔には、かねの鳥居、穴あき石、松かさ、赤いくくり猿などが祭られていて、今でも参拝者が多いという。11時半ごろまで談笑して解散、宿へ帰ったのは12時前であった。
 2.長瀬の庚申講
 長瀬は広瀬より約1粁上流の50戸ほどの部落である。昔は3組の庚申講があったが、現在は西地区5戸で行なわれ、度々テレビで放映されたという。
 夏は8時ごろ、冬は7時ごろに仕事が終わるとすぐ集まり、10時ごろには解散する。昔は常会の役目もして、夜おそくまで雑談した。しかし夜明しすることはなかったという。集まるとすぐ食事を出す。献立は家によって多少違うが、赤飯、味噌汁、お皿3品(煮〆、酢の物、魚の煮付)酒、とかなり豪華である。本尊やお供え物、お勤めの仕方は、広瀬の場合とほぼ同じである。

 

2.太田地区の講組
 貞光町の東部、国道192号線沿いの太田地区には、全国でもめずらしい「甲子講」や「地蔵講」の外、「氏神講」「馬当屋組」などの講組がある。
 1.甲子(きのえね)講(子の講)
 太田には10戸ほどの「子の講」がある。甲子の日の夜、当番の家に集まり、十三仏の真言を唱えた後、茶菓を出しておそくまで雑談する。昔はすしやぼた餅などを出したという。
 甲子の夜、大黒天を祭り、大豆、黒豆、二股大根を食べ、子の刻(12時)まで起きていると、福徳を授かると信じられ、昔は「甲子待」といって、庚申待とともに各地で行なわれた。この日江戸では大黒天を祭る社寺の縁日で、福を求める人々の参拝でにぎわった。
 現在甲子講を行なっている所は、全国でもめずらしい。
 神話の大国主命は、インドの大黒天と音が通じるところから垂跡仏とされている。命が野火にあった時、鼠に救われたという古事記の記事から、鼠(子)は大黒様のお使いとされ、福を授ける大黒さんにあやかって、「お福さん」と呼ばれるのである。甲子は年6回あるので「六甲子」と呼ばれ、11月に当たると特に盛大に祝う。これは中国の夏の時代、初めて暦を作った時、11月を年の始めとし、甲子をあてたからで、11月を「子の建月(たてづき)」とも呼ばれた。
 (2)地蔵講
 太田第1地区の人々を主に、約10戸の地蔵講がある。毎月24日の地蔵さんの縁日には、輪番で当番の家に集まり、十三仏の真言を唱えた後、茶菓の接待を受けて懇談する。昔はすしやぼた餅を出したという。
 (3)氏神講
 太田の氏神講は、第1、第2地区の約10戸が講員である。毎月当番の家に集まり、お祓をあげて、家内安全、五穀豊穣を祈念する。正月には1日がかりで、各家を廻りお祓をする。
 (4)熊野神社の馬当屋組
 太田の熊野神社の秋祭は10月19日である。この日神様の乗る馬を「おさき馬」お供の馬を「お供馬」という。おさき馬は「おさき馬組」という12、3戸の馬当屋組が、輪番で出す。昔は当屋に選ばれると、新しく馬小屋を建て、しめ縄を張り、神官にお祓をしてもらい、馬当屋の旗を立てる。馬がいない家は、借りて来て繋いだ。
 今は神輿ができ、馬もいなくなったが、当屋に選ばれると、形だけの小屋の建て初めをし、養蚕の竹えびらで囲い、布に馬の絵をかいて中に入れる。祭が終わると「しめ縄上げ」といって神官がお祓をして、小屋を取りこわす。

 

3.門念仏
 端山にはお盆に「門念仏(かどねぶつ)」別名「一日(ひしとい)お看経(かんき)」という行事がある。地域の各戸から1名ずつ、人数の多い所は10人ほどの組に分かれ、各戸を廻って念仏し、最後は「結願(けちがん)」といって辻堂に集まって念仏して、解散する。西端山では新仏の供養が主で、その家に集まり、念仏を唱えて供養し、酒食の接待を受けた後、辻堂で結願のお勤めをし、解散する。新仏がないと直接お堂へいって念仏する。東端山は各戸を廻り、戸口でその家の祖先に回向する。茶菓や団子の接待は受けるが、酒食は出さない。最後はお堂で結願する。各地区の状況は次のようである。
 1.横野地区 13戸 8月13日
 横野堂に集合、新仏のある家が酒1升と、手造りの肴を仏前に供えて念仏し、終ると会食しながら、故人のありし日をしのぶ。
 2.吉良地区 30戸(5組) 8月13日
 ここでは「仏念仏(ほとけねんぶつ)」という。各組が東福寺中興の宝光坊の墓前に集まって念仏した後、新仏があればその家に上って、30分ほど念仏し、酒1升と胡瓜もみなどの接待を受ける。この時は親類も来て、共に拝む。夕方全部の組が釈迦堂に集合、本尊に念仏して解散する。
 またこの地区にはずっと昔から、お盆の21日に「盆念仏(ぼんねぶつ)」といって、全員が朝10時に釈迦堂に集合、念仏した後、各組の家へ上って念仏、その家の弘法大師や家の仏に供養し、接待を受ける。夕方また釈迦堂に集まり、結願のお勤めをする。この時「おご供」といって米1升を炊いて3つに分け、お堂の仏様に供え、後で皆が一口ずついただき、解散する。
 3.長瀬地区 50戸(四組) 東組3月21日 他は8月21日
 それぞれ朝9時から夕方5時まで、各戸を廻って念仏、酒、茶菓、団子の接待を受け、最後に全部が長瀬堂に集合、結願の後解散する。上組は輪番で、すし、おにぎり、うどんなどと、お皿(酢の物、煮〆、魚の煮付など)の昼食を出す。西組1では交代で最後の家で「お仕上げ」といって、上組のようなご馳走を出し、各100円を拠出する。
 4.日浦地区 10戸 8月13日
 日浦堂に集合、新仏のある家が酒1升と肴数種を供え、念仏した後、皆で頂き解散する。
 5.猿飼地区 20戸 8月13日
 各戸を廻って念仏した後、猿飼堂に集合、新仏の家は位牌と、酒1升、肴数種を本尊薬師如来に供え、念仏して故人の冥福を祈り、食後解散する。
 6.川見地区 17戸 8月14日
 2組に分かれて各戸を廻り、酒、茶菓、団子、ご飯などの接待を受け、最後は全員川見堂に集まり、本尊釈迦如来や弘法大師に回向し、終了後踊り念仏をする。
 7.捨子(すっこ)南地区 15戸 旧7月7日
 門念仏(かどねぶつ)という。午前中に各戸を廻り、十三仏の軸をかけて家の仏に回向し、茶菓、団子などの接待を受け、午後捨子堂の地蔵さんに念仏した後、酒1升と肴で会食して解散する。
 8.家賀(けか)地区 大久保 10戸 7月7日 峯地 13戸 8月1日
 どの組も朝8時集合、各戸を廻り、最後に四ツ足堂(上堂)に集合、阿弥陀如来にお菓子を供えて念仏し解散。経費は等分する。
 9.家賀道下地区 25戸 7月7日
 5、6年前までは、上、下2組に分かれ、各戸を廻ったが、現在は夕方5時ごろめいめいが、お供え物を持って観音堂に集まり、念仏した後解散する。
 10.胡麻平地区 13戸 3月21日
 各戸を廻って念仏し、最後に西谷堂の不動明王に回向して解散する。当番が米2合、小豆1握りを集め、小豆飯を炊いて昼食にする。

 

4.踊り念仏
 端山の木屋堂と川見堂で、お盆に行なわれる「踊り念仏」は、死者の霊を慰めるための踊りで、娯楽を主とした踊りとはちがう、めずらしい形式を残していて、昭和56年5月6日、「庶民信仰との係りを持ち、芸能の発生や変遷の過程を示す貴重な民俗芸能である。」との理由で県の無形民俗文化財に指定された。
 1.木屋堂の踊り念仏
 木屋堂は吉良発電所の上方にある。本尊大日如来、端四国第三九番札所、建物は宝形造、トタン葺、間口、奥行とも3間の吹き抜け、三方に廻り縁、床は板張りで正面に本尊を安置する。
 踊りは地区内に新仏がある時に行なわれる。前は旧7月13日であったが、昭和50年から新暦8月13日に改められた。夜地区の人々が集まって、次の順に念仏した後堂内で踊る。
 踊は時計の針の1時〜2時の方向に、後ずさりしながら踊る。これを左廻りといい、死者に対する踊り方であるという。終了後も本尊に念仏する。順序は次のようである。
 (1)本尊に念仏を唱える。
  (a)懺悔文 (b)三帰 (c)三竟以上鉦なし
  (d)南無地蔵菩薩と唱える。 数珠三掛 鉦○−○ ○−○−○
  (e)大日如来真言を唱える。 数珠七掛 鉦流し打ち
  (f)南無阿弥陀仏(新仏のため)を唱える。 数珠三掛 鉦流し打ち
  (g)光明真言を唱える。 数珠三掛 鉦流し打ち
  (h)大金剛輪陀羅尼経を唱える。 数珠三掛 鉦流し打ち
 (2)踊り
  (a)第1回踊、南無地蔵菩薩と唱えながら数珠一掛鉦に合わせ踊る。
  (b)第2、3回踊、上におなじ。
  (c)第4回踊(南無阿弥陀仏(ナンマミドーヤ))と唱えながら数珠一掛踊る。鉦○=○=○ ○=○=○
  (d)第5〜第8回踊 上に同じ。
  (e)第9回踊 カネタイコドーヤと唱えながら数珠一掛踊る。鉦○=○=○ ○=○=○
  (f)第10〜第11回踊 上に同じ。
 各回とも次第にテンポが早くなり、終ると礼拝する。(数珠一掛は108回)
 (3)本尊に向かって礼拝
 踊りがすむと全員が本尊の前に正座し、初めのような順で念仏して終わる。
 2.川見堂の踊り念仏
 川見堂は端山小学校の対岸から、山路を登った川見部落の中央にある。本尊釈迦如来、弘法大師を併せ祭る。端四国第十九番札所、建物は宝形造、トタン葺、間口、奥行とも2間半、吹き抜け、入口に彫刻を施したりっぱな唐破風の向拝がある。床は板張り、正面の厨子に仏像を安置する。堂の後方に樹令約400年の椋と椿の大木がある。踊りは昔は旧盆の14日の夜行なわれたが、今は8月14日で、女人禁制が守られている。お勤の後踊るが、1しきり踊ると、鉦を合図に全員が2米ほども跳び上がって、踊りは終わる。後で「清め踊り」を踊ったというが、現在は消滅してわからない。多分廻り踊りであろうという。
 (1)本尊に礼拝
 初め本尊に、ついで東方高野山に向かって念仏を唱える。順序は次の通り
 (a)懺悔文 (b)三帰 (c)三竟 鉦なし
 (d)光明真言 数珠半掛 鉦流し打ち
 (e)南無地蔵大菩薩 数珠一掛 鉦○−○ ○−○−○
 (f)南無釈迦牟尼仏 数珠一掛 鉦○−○ ○−○−○
 (g)南無観世音菩薩 数珠一掛 鉦○−○ ○−○−○
 (h)十三仏真言 各仏真言を3回ずつ 鉦各仏終わりに1つ
 (i)般若心経 1回 鉦なし
 (j)舎利頂礼 3回 鉦流し打ち
 (k)十句観音経 3回 鉦流し打ち
 (l)大金剛輪陀羅尼経 3回 鉦流し打ち
 上は本尊に対して、弘法大師にも同様
 (2)踊り
 礼拝がすむと、先達の音頭で円形を作り、内側に向かう。鉦打ち2人は円陣の中で鉦を打つ。
 踊り手は鉦の方に向き、「ナムアミドーヤ」を3回唱えながら右に跳ぶ。次いで「ナモーデ、ナモーデ」と唱えながら左に大きく跳ぶ。これをくり返して最後に大きく跳び上がり、踊りは終わる。
 (3)結願
 最後に初めのように念仏して散会する。

 

5.灯篭流し


 貞光町内の新仏のある家では、盆の月一ぱい、軒先で灯篭に灯をともし、晦に川へ流す「灯篭流し」がある。旧暦7月1日「灯篭立て」といって、切子灯篭や岐阜提灯に初めて火を入れる、7月一ぱいともし、3年めの7月晦に「とぼし上げ」といって、僧や親類を招き、団子、すし、酒などを出して供養し、夕方陽が落ちてから、大勢で吉野川へ行き、わらや板で造った船に、灯を入れた灯篭をのせ、なす、胡瓜、菓子、果物などをそえて流す。近年は8月1日に灯篭立てをし、1年だけで、8月31日に流す。端山地区も吉野川まで出て来るし、太田地区は小島の潜水橋まで行って橋の上から流す。この日は見物人も大勢出て、流れ下る灯篭を見送る。
 8月16日の夜、貞光川下流の長橋で、無縁仏供養の灯篭流しが行なわれる。川べりに造られた水棚には、供物や線香が供えられ、その前には読経する10人ほどの僧のための、座敷が設けられる。陽が落ちて、水棚に明りが灯されると、読経が始まる。小さな板の上を、赤、黄、青の紙でおおった高さ20センチほどの灯篭に火が入れられて、次々と川に流される。川面一ぱいに流れる灯篭や、読経の声が静かに闇の中に流れて、参列者を幽玄の世界に誘う。

 

6.仏の正月
 貞光町内の新仏のある家では、12月に「仏の正月」という行事がある。平坦部では12月初めの辰と巳の日、山間部では巳、午の日に行なう。忌があると、正月の祭りごとをしないので、年末に新仏を招いて正月と同じ行事をして、楽しかった正月気分を味わってもらおうという、やさしい心遣いである。
 新仏のある家では、餅を搗いて親類や近所に配る。配られた家は当日の夜、豆腐を持って集まる。辰の日(山分は巳の日)仏壇を掃除し、1臼分の重ねない鏡餅を供える。これは仏が「一丁豆腐に腰掛けて、一臼餅の楽しさよ」といって、よろこぶからだという。墓地もきれいに掃除し、門松を立てたり、しめを張りして、酒、菓子、線香、草履を供え、草履を持って仏を迎えて帰る。その夜は酒食を出して仏とともに楽しく会食し、夜中には里芋や持参した豆腐で田楽をして食べ、仏のことを話し合う。昔は一晩中起きていたが、今は夜中を過ぎると寝る。よく日は早朝「烏の鳴かないうちに」仏を送って墓地に行き、おがらや青竹をもやし、その火で鏡餅を焼き、ナイフに突きさして、後手に差し出す。それを恐る恐る口で受けて食べる。そのおかしな姿を見たり、青竹がポン、ポン鳴る音を聞いて、仏は喜んで帰っていくという。墓地から帰ると、雑炊をよばれて帰る所と、食事やゴマ酢(酒)を出し、午後解散する所とがある。
 この日は「巳の日の荒れ」といって、寒い風や雪の日が多い。また辰の日の夜、一般の家を訪ねると「げんが悪い」といって、きらわれることがある。よく日の午の日は、新仏のない家は、餅や団子を作り、すしをして祝う。
 近年経済の高度成長のためか、物質文化が謳歌せられ、宗教関係の民俗行事は、しだいに簡便化されたり、消滅しつつある。貞光町内で以上のような、祖先を尊び、追慕する各種行事が今もなお継続されていることは、町民のよい意味での保守性と、深い信仰心の上に、先達の人々の熱心な指導があるからであろう。遠い祖先から受け継いだこれらの民俗信仰の行事が、いつまでも続けられることを祈って止まない。


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