阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第28号
貞光町と阿波忌部氏について

郷土班 

    森甚一郎・河野幸夫・石川重平・

    阿部勝太郎

はじめに
 昭和56年7月28日に阿波学会の学術総合調査の結団式が貞光町就業センターで行われ、わが郷土班は前記4氏が参加した。式後直ちに沖田定信東福寺住職の案内で調査の活動をはじめ、まず太田の横穴式石室を持つ江の脇古墳(円墳)を、さらに薬師堂に阿弥陀如来立像を刻した板碑を見学し、ついで熊野十二所神社を尋ねた。ここには永禄2年(1382)寄進の鉄釣灯篭がある。吉良の五所神社(忌部神社)に向かったが、折からの集中豪雨で調査も不可能となり、東福寺に引揚げて、忌部十八坊の別当寺であった由来などを聞いた。
 翌29日には柳田清氏の参加を得て5名となり、まず公民館に住友治郎館長を尋ね、色々と話された時に、ぜひ鳴滝の前面にあるビシャモン嶽の磨崖仏を調査して欲しいとの懇願があった。
 それより猿飼の西岡田万平氏を尋ね、煙草の乾そうに多忙の中を心持よく迎え入れられ、古地図を拡げて説明された。裏山の新田神社へ案内された。この地は旧一宇街道の要衝であったことなどを話された。


 8月28日に三たび調査に赴き、この度は吉良の忌部神社(五所神社)へ行った。森、石川、阿部、柳田の4名のほか、稲井敬二、藤田九十九の2名を加えて6名である。まず吉良の岸本赤蔵氏を尋ね、椙尾神社の凝灰岩五輪塔残欠を調査し、ついで式内大社とされた忌部神社(五所神社)を参拝した。
 忌部神社は天日鷲命を主神とし、古来よりその鎮座地について麻植郡山川町山崎の天日鷲神社と紛争が絶えなかった。明治4年(1871)国幣中社に列格するとともに、社地を山崎に定められたが、明治14年にはこの吉良の忌部神社に決定され、その後両社間の紛争は絶えることなく、ついに喧嘩両成敗となり明治19年徳島市二軒屋町の勢見山に遷座したのである。吉良の忌部神社は境外摂社となり、社名の忌部神社を五所神社と改名した。
 この調査にあたり直接に間接にお世話していただいた東福寺の沖田住職、公民館の住友館長、猿飼の西岡田さん、吉良の岸本さん、その他、町民各位に心からお礼を申し上げ、貞光町の益々のご発展とご多幸を祈念するものである。
 下記の報告は磨崖仏については河野幸夫氏が、その他は石川重平氏が執筆したものである。(森)
 

 忌部神社論考
 この論考は従来より論争されているものである。式内大社忌部神社の所在についてその所在地を論究してゆくものである。
 この忌部神社の所在地を論争した論文は、小杉■邨と細矢康雄にはじまり、数多くの人々がこのことについて論じあった。
 然し、その論文の根元となるものは、すべて大同2年(807)に斎部広成が平城天皇に奉った「古語拾遺」と延長5年(927)に成立した「延喜式神名帳」の文献の考察であった。
 私のこのたびの調査は従前の文献だけの考察ではなく、式内社の体質論から説き、また式内社の基点となった日本の神社が、古代史の上でどのような位置と意義を持ち、さらに式内社の体質が歴史にどのような意義をもたらしたかを考えてゆきたいと思う。
 然し、いずれの研究でも総論ができると、後から段々とこまかい各説へ入ってゆくのが普通であるが、このたびの誌上発表では紙数に制限がありそれも叶い難いのである。


 まず、忌部族は瀬戸内海沿岸地方で勢力を持っていた部族、すなわち忌部集団が大和政権の成立に伴って大和に進出し、その組織の中で伴国造(とものみやつこ)として組入れられ、当時各地方毎にその地方の特産物やその加工に技術者集団が居たのである。
 その集団に忌部の姓(かばね)を与えられたことによって、忌部の部民の組織に組入れられたものであると考えられる。大和忌部氏の移住民ではなく、従来からこの地方の山野に自生する麻や楮(かじ)を採って糸につむぎ、その糸で衣類を織るところの技術集団が居たのである。その上に国家成立に伴う中央集権で大和朝廷の用度品を作る技術集団に加わり、忌部の部民になったものであろうと考えられる。
 このことは、ただ阿波忌部だけのことではなく、この考え方からすれば、阿波忌部の祖神である天日鷲命という神の名を持って一人(ひとり)の人物と考えてはならない。それは阿波の機織集団の部族が祀る神であり、宗教である。すなわち、農耕集団が祀る神の名であると考えた方がよいと思う。(石川)
 

 古墳と古代民族
 古墳と古代民族とは当然のことながら、非常に深い相互関係を持っている。
 墳墓はその被葬者の在世中における社会、文化、信仰などを暗黙のうちに語りかけてくれるものである。問題の忌部氏族が築造したと考えられる古墳の形態がその墳墓に副葬された祭祀土器に色々な宗教的色彩を持つもので、数多く発見されている。
 例えば、美馬町の段の塚穴古墳の内部構造やこの古墳から発見された出土品。また貞光町の江の脇古墳の内部構造とこの古墳から出土した鍍金の馬具類及び須恵器。

さらに近年発掘された麻植郡山川町山崎の忌部山古墳の内部構造とその類型古墳の分布等によって、その古墳の構造の源流が何れに求めるかの考察が忌部神社の最初の所在地が分明するであろう。果たして貞光町端山の吉良かあるいは山川町の山崎山にあったものかを、考古学的な実証をもって、多方面から分析して古代氏族と古墳との関係を見究め、かつ農耕社会を背景とする壮大な古代文化の体質において知る手懸りにもなるからである。
 古墳では氏族的な問題と生産的農耕神といったようなものがお互いにつながっている。そうした考え方からすると、阿波国式内大社忌部神社の研究において一番大きな問題、それは論社ということである。
 論社とは、式内社と決定するには異論がある社(やしろ)と考えればよいと思う。
 論社は現代の言葉であって、歴史的な文献にはなく、しかも実質的には式内社のとりあい論として昔から実在したものである。
 阿波国の忌部神社もその一例で、従来論社だといっている神社は結論的によく分析してみると、もともと信仰構成の上では同一の神社であり、同一の系統の祭祀が行なわれていたものだと考えるべきが多いようである。
 従来、古墳の築造方法とか、祭祀形態の事実が見逃されており、横のつながりのみを重視していたために、式内社はおれの所じゃ、いやおれの所じゃと主張し合って、すでに永い歴史を経過してきたのである。
 私たちこのたびの総合学術調査郷土班は、細矢康雄、小杉■邨、村雲民部等の論争のように文献による資料だけではなく、考古学的すなわち古墳を発掘し、その結果を実測図に書き、古墳の同一形態の分布、出土品の解析を通して考古学的な実証のもとで総合的判断を下すべきであると思考する。
 とにかく神社に対する考証はもっと科学的にといわれている。その一例として神社に在る場所―地理的環境―付近の古墳との関係―構造及び出土品―をもっと有機的に調査してゆくことが大切であり、従来わからなかった地域の歴史性といったものが神社を中心として解明できると考える。その座標が忌部神社で、いわゆる論社ではなかろうか。(石川)
 

 地理的環境と忌部神社
 忌部神社の最初の所在地をなぜ貞光町端山の吉良にするか考察してみよう。
 私の先輩で神社関係では大家である香川県善通寺市讃岐宮の宮司矢原高幸氏がもうかれこれ10年ほど前に、阿波忌部神社は貞光町端山の吉良の地を当てるべきだと話してくれたことがある。その理由は何も云ってくれなかった。
 私は矢原氏の教示が今も耳の底に残っていて、是非吉良の地を調査したいと念願していた。このたび図らずもこの調査班に加わり、調査の報告をまとめることになった。


 一般には氏上(うじのかみ)が氏神を祀るというが、氏上の初見は天智天皇(7世紀)ごろからであり、それ以前は氏神の社(やしろ)は自然の神の依代(よりしろ)であり、今日のように神社(かみやしろ)ではなく、建造物も殆んどなく、ただ神の依代だけを祀った。
 阿波へ忌部が入国して来たのは3世紀ごろといわれるが、これは忌部集団の成立といった方が至当かも知れない。
 忌部氏族は主に神の祭祀を司った古代の一氏族であり、天太玉命は忌部氏の祖神で、天岩戸の神話で、中臣氏の祖神の天児屋根命とともに諸神を率いて、祭祀を行ったことが古事記、日本書紀に記されている。
 大同2年(807)斎部広成の古語拾遺にこの神は阿波の斎部の祖神天日鷲神、讃岐の斎部の祖手置帆負(ておきほおい)神、紀伊の斎部の祖彦狭知(ひこさしり)神、出雲の斎部の祖櫛明玉(くしあかるたま)神、築紫と伊勢の斎部の祖天目一箇(あめのまひとつ)神等の斎部系の諸神を率いて奉仕している。天孫降臨にも随伴したこの神々の後裔は代々大和朝廷にあって、斎蔵の長官として権力を有していた。
 斎蔵は中央政府の財物を収めた三蔵のひとつで、大蔵、内蔵とともに朝廷へ用度品を司る役所であった。
 天日鷲命を祖神とする阿波忌部は現在の美馬郡の東部及び麻植郡の西部地方に住み、おそらく5〜6世紀ごろには、ある程度の組織をもって麻、木綿などを植え、衣を織る農工技術者の集団であったことは想像ができる。
 彼等集団の氏神である天日鷲命の神魂の宿る所とは、威徳きびしい山容と神秘的な叢林で世俗人の近よりがたい禁足地であった筈である、天日鷲命すなわち雲に乗って飛来する神霊の棲む山、それは吉良山であったにちがいない。この雲のたなびく山の中から降臨し麓の人々の農耕を見守り育んでくれたと信じたいのである。
 したがって忍部氏神の天日鷲命の神霊の依代は地理的環境から考えて、貞光町端山の吉良の地が最も有力な位置だと考えるのである。
 吉良は海抜350メートルほどの所にあり、ゆるやかな傾斜地で広い畑地が多く、その台地全体を五所平(御所平)と呼んでいる。
 この吉良の地から藤原時代の和鏡が三面出土していて、現在は古宮渕名の渡辺繁蔵家に保管されている。その背面の文様は藤原時代によく使われた自然の風景の中に笆(まがり)という垣を作り、後の山には野鳥の飛び交う風景が鋳出されている。
 また椙尾神社には鎌倉時代の凝灰岩製の五輪塔の残欠が多く残っており、その中で火輪で軒の反りや厚さから鎌倉時代末期に造立された五輪塔の残欠であることを確認した。


 最後にこの吉良の地名についてであるが、各地の忌部神社の所在地には吉良(きら)の語があることに注意したい。地名は長く残るもので、現代の町名のように古い名称をやめて新しい名をつけたりするのは最近のことで、徳島の新町の一端が東京の銀座をつけて銀座通りとすることは、大変な誤りであって、為政者の注意すべきことだと思う。
 阿波忌部の天富命が開拓したという千葉県の房総半島にある安房神社の所在地は布良(めら)であり、紀州の忌部では白良(しら・今の白浜)。布良を妻良・目良に、勝浦を勝良にしており、紀州は且良(かつら)の字をあてている。これはいずれも海に関係のある地名である。(石川)
 

 忌部部族と古墳
 美馬郡を中心とする阿波郡、麻植郡にかけて約20キロの吉野川沿岸に見られる、一つの型式を持つ石室の構造、それは天井石を前後に持ち送ったドーム式の天井であり、側壁を左右に持ち送った胴張りの平面であり、それらの天井、平面の横穴式石室古墳の築造方法が存在している。
 この型の古墳を築造した古代氏族の族名については諸説まちまちである。昭和57年1月12日に徳島県文化財研修会(徳島県教育研究センター)に於て秋山泰氏は、美馬郡美馬町の段の塚穴及び野村八幡古墳の築造部族は佐伯直(さへきのあたい)であろうと発表された。
 また故笠井新也氏は粟国造(くにのみやつこ)家の物としては、やや西偏しすぎるので、阿波国は那賀川流域と海岸地方を合わせた長の国と、吉野川流域の粟の国の他に、美馬郡、三好郡を一国として、そこを支配した豪族が存在したと説き、阿波三国説を提唱された。
 しかし、その部族の名は挙げていない。私はこのたびの調査で、この型式の古墳を調査し、合わして今までに発表された先学の文献を考察した結果、段の塚穴の様式を基本とする古墳形態は、この美馬郡地方の豪族忌部部族の古墳であると推定したのである。
 忌部氏は前記の如く、この地方の機織集団の在地首長であり、このような在地首長の支配する部民は、首長の命ぜられる徭役労働に従事させられた。この地方に残る大古墳もこれらの部民の徭役によって築造されたものである。
 それ故にこそ、この大古墳が出来たのである。阿波忌部は6世紀初頭から農具の鉄器化に伴ってU字型のクワ、スキが曲刃の鉄鎌となり、それが普及し始めると、乾田経営が拡まり、さらに吉野川流域の土壌的環境に恵まれ農業の発展を契機に、この地域に群集墳の成立を見るようになった。たとえば段の塚穴を中心とするその周辺、山崎の忌部山古墳などがそれである。
 この古墳の築造者こそ忌部部族のものであろう。
 忌部氏は古事記には「五伴緒」、日本書紀には「五部神」として現われる。物部や忌部は古代豪族である。それにくらべて佐伯部は志田淳一氏の説によると「佐伯部とは声を発する呪術を行なう集団である」と佐伯部の性格について述べられている。したがって、この地方の古墳は佐伯部集団の古墳と見るより、忌部集団の古墳と見るのが妥当性が強いと考えるものである。
 この型式については、徳島県博物館の天羽利夫氏が発表したものを同氏の許可を受けて一部を載せることにする。(石川)

 

 鉄釣燈籠


 貞光町太田 熊野十二所神社
 徳島県指定有形文化財(工芸)
 銘文 阿洲太田
 権現燈籠
  大檀那 沙弥義浄 源 信嗣
  大願主 金剛佛子了海
  永徳二年 壬 戍 六月廿四日
この鉄燈籠は総高37センチあまりで、一辺の長さ15センチの六角形に造り、扉は鉄板で上部を菱形に切り抜いている。また扉の三方はうすい鉄帯を鋲どめにして、鋲釘の下に蓮華文の伏金を入れてある。扉の取付は縦柱に2個のチョウツガイで鋲どめにしている。現在では扉の面以外は何もなく、この菱形の部分に紙が張られていたのであろうと考えられ、笠の反りもよく時代の様相を現わしている。
 銘文は菱形の窓の下に細いタガネ彫りで5行に38文字を記している。永徳2年(1382)は南北朝時代の北朝年号であり、大檀那(この燈籠を造る経費を出した人)沙弥義浄と源信嗣の2人が奉納し、大願主である金剛佛子了海(僧侶)はこの太田十二所神社(八幡宮)の別当職であったのであろう。
 銘文中で、徳島県指定の説明板に金剛佛子印海とあるのは了海の誤りで、この了か印かについては、西宮市の田岡香逸氏と私が再度調査の結果“了”であることを確認したので、このたびの報告書で訂正しておきたい。


 この鉄釣燈籠は材質が鉄であるので、サビ易い上に細いタガネで浅く彫ってあり、磨滅がひどく、現在も拓本を取ってみないと、なかなか読み取ることはできない。
 これ以上腐蝕が進むと銘文は読めなくなるので、今後の管理に注意していただきたいと書添えるものである。(石川)
 

 板碑
 1.大日一尊種子板碑
 貞光町西山 真光寺墓地
 標識 バン(梵字)大日如来種子
 銘文 延文四年
  七月七日 敬 白
 高さ 55センチ
 幅 23センチ
 厚さ 4センチ
 上部を山形に造り、二線の切込みはなく、碑面は輪廓を刻り、上部に種子“バン”大きく彫刻している。その下に2行に10文字の銘文で造立年月日を銘記してある。延文4年(1359)は南北朝時代の北朝の年号である。
 2.線刻阿弥陀如来板碑

 貞光町道満 薬師堂内
 標識 阿弥陀立像(画像)
 高さ 67.9センチ
 幅 19.2センチ
 厚さ 6.4センチ
 上部を山形に造り、その下に二線の輪廓を刻り、碑面に阿弥陀立像を線刻した画像板碑である。
 阿弥陀如来は蓮華台座の上に正面に向かって立ち、印相は来迎印を結び、頭部に月輪光背を負い、2条ずつの放射線光背を7条14本の線で刻している。
 銘文は不明であり、文字らしい跡も残っていない。最初から記してなかったのであろうか。全体から受ける感じでは南北朝時代末期の室町時代初期の造立と考えられる。(石川)

 

磨崖仏について
 問題の石仏は、一宇村との村境に近い、海抜600mほどの山陵から、少し下がったところにある、北西から南東の方向に、延々1.5kmに及ぶ、大岩壁の西北端に近い所に所在することを、地図上で確認した。(地図参照)
 

 車を走らせて現地に臨んでみると、県道よりの比高は、予想以上に高く、且つ現場に近づくには、特別な装備を必要とすることがわかった。今回の調査班のメンバーでは、とても登はんは不可能であった。残念ながら対岸の鳴滝付近から、望遠鏡で観測するより外に、方法がなかった。
 その結果、前掲のスライドと対照しながら作成したのが、この写生図である。
 この図でみるかぎり、仏像といわれるものは、大小2つの立像である。形としては小さい方(大きい方の向かって左脇にある)が、頭部と胴部のほかに、手らしいものも2つあって、仏像には一そう近い形をしている。2つとも、左右不均整で、形としては整ったものではない。
 さて、これを磨崖仏(まがいぶつ)とするためには、少なくとも次の3つの条件が具備されていなければならない。(「仏教大辞典」による)
 まず1 露出した石面に、2 仏の立像を、3 彫り出したもの、このうち、1 と2 の条件は具備している。問題は3 である。ここにあるこの仏像らしきものが、はたして人の手で彫られたものか、それとも、単なる岩の割れ目が、たまたま仏像らしく見えるものか。この実証がされない限り、磨崖仏か否かの判定はできない。そのためにも、現場に臨んで観察して、人工の跡、例えばノミ跡のようなものの有無を確認する必要がある。
 今回は、この確認ができなかったので、決論を出すことを留保しておきたい。今後、地元研究家のご検証を期待申しあげる次第である。
 いずれにしても、古くから信仰の対象となっていたことは、まごう事のない事実で、特に剣山信仰の行者たちが、参拝の途次、まず、鳴滝にうたれて斎戒沐浴して、この石像を仰ぎ礼拝したという。(古老聞書)
 古代の人たちは、山や巨岩に神秘性をみいだして、これを信仰の対象としたといわれる。たとえここの石仏らしきものが、単なる岩の節理に過ぎなくとも、古来からの信仰の対象となったものとして、貴重な存在である。
 これがもし、磨崖仏であるという断定を得たなら、徳島県内では唯一最大の磨崖仏として、その価値はさらに倍加されるであろう。
 ちなみに、現在の県道貞光剣山線が開通するまで、一宇村や剣山へ通ずる道は、貞光―大坊―(登坂)浦山―(尾根伝い)笠仏峠―八代―四方志野峠―(下る)花棚―猿飼であったという。
 この旧道を通って、借耕牛(かりこ牛)が讃岐へおわれて行った。また、藩主が鳴滝見物に来たときは、沿道にある民家の便所を目にかからぬ所に移さされたという話も伝わっている。
 往時、奥の一宇村は1,500戸、人口5,000人以上の村であった。その人たちの生活路として、この旧道筋は人馬の往来しげく、猿飼だけでも宿屋(もみじ屋)と飲食(うどん)店が2軒もあった。旅館もみじ屋跡近く、新田神社の見事な社叢の中にもみじの老木がある。この社叢の中央を貫いて新道が開設されるとか、測量用の杭が打たれていた。この社叢がそんなことで、切り倒されることだけは、どうしても阻止しなければならない。植物班にもこのことは連絡しておいたが、町当局に計画変更を要望しておきたい。(河野)


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