阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第29号

鷲敷町の民家

建築学班 四宮照義

はじめに
 徳島県では県内の各学術研究団体を統合して「阿波学会」を組織し、県立図書館のお世話で毎年、夏休み初め頃、県下の市町村の協力を得て、地域を定めて総合調査をし、その年の暮れに公開の研究成果の発表と紀要を出している。今年は県南の那賀川中流の鷲敷町を調査した。
 私達建築班は、日本建築学会徳島支所の学会員が中心となって、テ−マを「鷲敷町の民家」と決めて、8月3日から8月6日までの4日間調査した。班員は福井雅彦、古山克巳(共に県建築指導係技師)、鎌田好康(創建築事務所長)、私の4名の他に、日本建築の研究にフランスからきておられるBERNARD・JEANNEL(ベルナール・ジャネル)さんと、その友人である京都の木下龍一(龍建築事務所長)の二人も客人として参加してくれた。特にべルナールさんは、日本の民家に興味を持ち、私達と民家の天井裏へ上って煤に黒ずみ、又、蛇を踏みながら山路を登って民家を訪ねたりして、調査に協力してくれて、その感想文を寄せてくれました。
 この調査に当たり町役場の方々は勿論、地元の皆様方には、色々と御協力を賜わりましたことに深く感謝申し上げます。

 

目次
1.百合谷の民家
 1 宮崎 勇氏宅(和食町大字百合谷字大坪)
2.中山の民家
 2 森美喜夫氏宅(大字中山字東内)
 3 助原守幸氏宅(中山字助友)
 4 明治17年那賀郡中山村の民家68戸の調査記録(和食町字中山 中山 孝氏所有)
3.郷士の家
 5 日下 正行氏宅(和食郷字北地)弘化3年棟札
4.造酒屋の家
 6 松浦文二氏宅(和食町字町35)
5.香場(こうば)
 7 阿井の香場
6.神社の舞台とお堂
 8 百合谷の八幡社と舞台
 9 小仁宇のお堂と舞台
 10 蛭子神社の舞台
 11 富留戸神社の舞台
 12 百合神社の舞台
 13 仁宇八幡社の舞台
 14 八坂神社の舞台と其他
7.鷲敷町の民家調査に参加して
 BERNARD・JEANNEL(ベルナール・ジャネル)さんからの手紙
8.鷲敷町の民家あちこち


 以下1 〜14 を詳述する。

1.百合谷の民家
 1 宮崎 勇氏宅(鷲敷町大字百合谷字大坪)
 大坪集落には12軒の民家があり、その内、吉本、坂本、宮崎の三氏住宅が茅葺である。宮崎氏宅から右の山路を谷に沿って登ったところに、明治19年建築の新田儀之助氏宅があり、93才になる主人の話では、百合谷の民家では主屋を中心にして、左に納屋、右にヒヤ(部屋)と呼ぶ隠居屋をとる屋敷配置が多いという。12軒ある中で藤原氏宅が一番古い家であり、いずれも裏山を切崩して石垣を築いた敷地を造成している。
 宮崎氏宅は百合谷の八幡社へ登る石段の右隣にあって、北側の山を削りとって敷地を造り、山側は2m高の石垣で南側は1.5m高の石垣を築いている。間取りは図のように正面の左側に土間のまえにわがあり、その奥にかまやがある。正面中央は、小さいながら式台付の玄関がある。玄関を入るとまえのまがあり、右には押入と書院付きの床がついているおもてがある。まえのまの左側には四畳の間(又は女中の間)があり、にわとの境に8寸角の太い欅の大黒柱がある。奥にはユルリ付のちゃのまとおくのまがあり、家の中心に佛壇が西を向いて祭られている。建物配置は、主屋の左側になやとひや(部屋・隠居屋)が一棟になった建物があり、右側には便所と風呂とが一棟になった建物がある。主人の話では90年前に建て直したものであるという。主屋の前面にはオブタ柱を建てて、寄棟茅葺の主屋屋根から本瓦葺の下屋をおろしている。この家のおくのまは増築して二つの部屋に仕切られているが、元は一つの部屋であったもので、大坪の民家間取りの標準的なものである。
スガイ……筋違のことで、柱と柱との間に斜めに入れて、地震や颱風によって家の変形するのを防ぐ部材。
ネズミノトンバシリ……長押のことで、鴨居の上に帯状に入れた部材で、押角(ヘシカク)に製材してあり、ネズミがよく走るので、この意が出たと考えられる。
ヒヤ……隠居部屋のこと。主屋の隣りに別棟で建ち、隠居した老人が住むところである。
四畳の間……百合谷大坪の民家には、玄関であったところにある「まえのま」の隣にある四畳敷の部屋で、「女中の間」ともいい、勝手口のある「まえにわ」や「かまや」に接している。


2.中山の民家
 2  森美喜夫氏宅(大字中山字東内)
 文久5年頃建てたという農家で,茅葺四方下(シホウゲ)の家である。土間の「にわ」と座敷との境に椎の木の7寸×6寸の大黒柱がある。間取りは、まえ・おもてが表通りにあり、奥にちゃのま・おくの各部屋をもつ所謂「製型四間取」である。この家は農家のかたわら大工もしていたので■(かねだい)の屋号をもっている。正面の下屋には太い下屋梁を二本出して下屋庇(オブタともいう)を支えており、この下屋梁のことを太郎(「おもて」)、次郎「まえ」の前の梁)と呼ぶ。

にわ、まえ、おもて
「おもて」の床の間
太郎・次郎の持出し梁

 

 3  助原 守幸氏宅(大字中山字助友)
 茅葺四間取りの安政5年の棟札があり、柱は栗材を用いており、23cm角の杉材の大黒柱と14cm角の小黒柱がある。主屋の背部と右部に増築したこん跡がある。敷地は裏山を削りとって造成して図のように屋敷配置したもので、中山の標準的な建物配置である。


 4  明治17年那賀郡中山村の民家68戸の調査記録
  (和食町字中山 中山 孝氏所有)
 中山地域の民家を調査中に、中山氏がこんなものを持っているとのことで、見せて頂くと、明治17年に陸軍の演習があったとみえて、中山村の民家68戸の間取りを全部調べてある。書式は、「間取図、総坪数合計拾九坪、徴発ニ供スル坪数八坪、家族八人坪数拾壱坪内物置、内庭、庖厨、寝所。右私所有之居宅図面之通御遠之付御届仕居也。明治十七年那賀郡山口村外二ケ村戸長、滝庫太郎殿」とある。これによると当時中山村には民家68戸あって、これを三段階に分けてみると、43坪8合の森道次郎氏宅が最も大きな家であって、六間取りで一戸だけ。次に22坪から16坪の広さの家が29戸(三間取と四間取)、15坪から、7坪の家が27戸(二間取)、5坪の家が11戸(1間取)であったことが知れる。


3.郷土の家
 5 日下正行氏宅(和食郷字北地)
 弘化3年の棟札があり、現在の建物は昭和38年に切妻瓦葺にしたもので、以前は茅葺寄棟屋根であった。図のように六間取りの平面形式をもち、二段の式台付の玄関構えである。おもてには本書院付の床の間が設けられ、椽と濡れ縁が廻っており、郷士住宅の面影をとどめている。屋敷も広く、倉、井戸屋形、納屋、木納屋、風呂等の建物が配置されてゐる。大黒柱は29cm角、小黒柱は20cm角で共に欅の大面取で仕上げてある。以前は長屋門もあったという。この家の東側に先祖の墓地があり、寛政3年の銘がみられ、北側にも年号不明の古い墓が埋もれている。


4.造酒屋の家
 6  松浦文二氏宅(和食字町35)
 鷲敷町の本通りにある造酒屋、阿波丹生谷の酒の「旭若松」の家である。町屋でよくみるように入口を入るとみせがあり、奥まで通り土間がある。みせの右側にちょうばがあり、その横につぎのま、その奥に庭作りのよいおもてにはが見える書院造りのおもての客間がある。主屋は中二階建になっており、みせから二つの階段が上へ通じている。主屋の西側に廊下で結んだトコ付の八畳と四畳をもった座敷の別棟がある。この家は敷地が広く、図のような建物配置になっている。特に裏門は長屋門になっており、右側にあるはなれざしきは、トコ、壁等に数寄屋風をとり入れて造られている。


5.香場(こうば)
 7  阿井の香場(鷲敷町阿井)
 山の田には水が大切である。村人達は裏山の谷から水を引くため、総出で水路普請をして、この香場まで導いてきた。香場から各戸の田甫へ水を分配する。香場には常時2人の香番が詰めていて、香寸箱の中にある「マツコウ」の燃焼時間(約40分の燃焼時間で一反の田に水を分配する)で各戸の田に分水する。分水時間が終われば水止めはばい(用水をさばく用具)によって行う。香寸箱での分水も、14年位前から時計に代わってしまったと、氷年香番を見つめてきた73才になる北淵光雄さんは、今は思い出残る香水箱に手を触れながら話してくれた。香屋の大きさは、間口2.95m、奥行2mで、左側に約1mの差掛を付けて物置にしている。内部は入口の土間の正面と左側に板張りの床を付けて、むしろを敷いであり、左隅に1尺角の香寸箱が置かれている。正面の壁には香番の日付割板が掲げられている。以前は茅葺小屋であったのがこわれたので、15年前に鷲敷の伝染病院の物置をもらってきて建てたという。昔の小屋に復元して民俗建築資料としたいものである。


6. 神社と舞台とお堂
 那賀川流域は阿波の農村舞台の宝庫である。舞台は各字名の氏神社の境内に設けられているのが普通で、昭和47年に河野晃氏が調べた現存舞台は208棟であり、その内88棟が那賀郡にある。鷲敷町だけでも9棟が記録されているので、それを訪ねてみることにした。
 8  百合谷の八幡社と舞台
 大坪の宮崎氏宅の左隣にある石段を登ったところにある。3間2面の拝殿の方から石段でつながれた本殿は、1間1面の銅板葺流れ造である。本殿の左右両脇に山王社と妙見社の祠があり、三社合祠である。山王、妙見の両祠の中には大小84枚の棟札があり、古いのは延宝5年(1678)、元禄15年(1703)、正徳5年(1716)があり、中には朽ちて年号不詳の古いものがある。
 舞台は本殿の下の広場の北側にあり、間口3間奥行5間、屋根平瓦葺切妻造である。舞台中央の両側には太い柱が建ち、この部分から前面部分が人形舞台であり、棹縁天井が張ってあるが、後方の部分は小屋裏のままである。舞台正面には蔀帳仕掛けがあり、軒には大筒、小筒が祭礼時の花火打上用として懸けられている。舞台右端から斜めに突出した太夫座が設けられている。百合谷大坪に住む新田儀之助氏(93才)の言によると、明治37年に建築したもので、それ以前は茅葺の小さい舞台であった。明治時代に人形芝居が一番盛んであった。昭和3年までは分教場として使われていた。その後昭和20年頃までは、勝浦や新野から人形座がきていたが、義太夫だけは地元の上手な人が語っていた。人形芝居が止まって、花火や演芸会が7月1日と10月11日の祭りに催されるようになった。


 9  小仁宇のお堂と舞台
 県下にはお堂と呼ばれるものが各村の字名にあって、その数400余ある。お堂は村のコミュニケーションの場所であり、四国遍路の接待の場所でもあった。お堂は随分古くからあったものらしく、昔は茅葺宝形造りの堂であったが、現在では殆んど改造修復されたり、こわれかけたままになっているものが多くなっている。ここ小仁宇には大師堂と呼ばれるお堂がある。棟札が3枚保存されていて、慶長20年2月21日(1615)と元禄3年(1690)と、もう1枚は古くて年号不詳である。舞台は、小仁宇八幡社の東下にあって、大池に面して建っている。切妻平瓦葺、向拝付、正面2間、奥行2.5間で、背部に大日如来を安置した半坪の祭壇が出張っている。堂の三方には切目縁を廻しており、正面に観音扉が建込んである。お堂の中には、直ぐ上にある小仁宇の八幡社の舞台に使用されていた立派な襖絵30枚余りが、木箱に入れて保存されている。昭和47年に河野晃氏が調査したときは、蔀帳造りの舞台があったと記録されているが、今は取り壊されていて、礎石と廃材が片隅に捨てられている。この襖絵は坂州や犬飼の舞台の襖絵に優るとも劣らない立派なものと考えるから、大切に保存されることを切に望む。


 10  蛭子神社と舞台
 蛭子神社の本殿は3間2面の流木造りである。境内にある舞台は正面2.5間、奥行5.5間の切妻瓦葺で蔀帳付、柱に明治5年の墨書がある。太夫座はないが人形芝居を催すときは、臨時に設けていたと言う。40年前までは人形芝居をしていたが、その後は止まっていた。今年の祭りにはカラオケをしたと言う。


 11  富留戸神社の舞台
  (和食郷田野)
 本殿は半間四方の流れ造りで拝殿と共に小さい。舞台は正面4.5間、奥行2.0間の切妻瓦葺で、太夫座はない。


 12  百合神社の舞台
  (鷲敷町百合)
 百合神社には文禄6年(1597)と寛政12年の2つの棟札がある。舞台は鳥居をくぐって右側にあり、切妻瓦葺の正面5.0間、奥行2.5間の蔀帳付で太夫座がある。


 13  任宇八幡社の舞台(鷲敷町仁宇)
 仁宇神社境内の右側にあり、切妻瓦葺で、正面5.0間、奥行3.0間の蔀帳付である。右側にみこし小屋を増築している。太夫座なし。


 14  八坂神社の舞台と其他
 鷲敷町土佐町にある八坂神社には舞台はなく、神社の拝殿を舞台代わりにしている。
 中山にある矢鉾八幡神社の舞台には太夫座、蔀帳がある。中山下の神明神の舞台は、太夫座、蔀帳がある。

 


7.鷲敷町の民家調査に参加して
  BERNARD・JEANNEL(ベルナール ジャネル)
 今度の調査に当たって客員として参加して下さったべルナールさんから、次のような文をよこしてくれたので、原文のまゝ記載します。『何故、フランス人建築家が、遠くから阿波の古い町や家々を調べにやって来たか? 当然皆様方は疑問に思われるでしょう。勿論いくつかの理由があります。その中で、もっとも快く答えやすいのは、熱心な調査団の一員として、四国の緑の山々や谷、そして何れの村々や家にも歓待されながら数日間、小さな旅ができたことです。寛大な住民との心からの出会い。人々が田舎の生活の値うちをよく理解し、いいものをつくるために、共同で生活していることに触れられたことです。
 四国でも他の国々でも旅行者が、そこに住んでいる人々の目をみると、住んでいる家の賢明さや、風景の美しさによって満ちたりて喜んでいる様子がうかがえます。
 今日全ての建築家は日常の仕事の他に、一年の内何日かを、民家の研究にささげなければならないと私は考えます。民家は生活様式の表現でありますから家のつくり方は、研究し、吟味しつくされねばならないと思います。更に、これらの民家は、住まいとして家族を育むふるさとという価値の他に、住民全体の文化象徴しているのです。これらの民家は、非常にシンプルにみえますがこの単純さこそ大切な意味をもっています。もし現代の諸設備を補足するならば、今日の生活に充分こたえられる家になります。郁会で沢山の人々が住んでいるアパート、マンション、プレハブ住宅よりも、もっとすばらしい快適な住居になることでしょう。
 日本を訪れる数多くの外国人建築家のように、私も日本の家の美しさや、簡明さ、便利さに魅了されています。たとえば、阿波の民家の場合、草葺きの屋根、植込みに囲まれた庭、天然の材料、落着いた色合い、それらの総合された構成は、日本の他の建築様式、たとえば数寄屋、書院、寝殿造etc.よりもすぐれて、とても快く、より丈夫で、より洗練されています。私自身、日本の伝統的住まい方、すなわち、くつを脱いで家にあがり、畳の上に布団を敷いて寝て、堀りごたつで食事をし、風呂あがりに浴衣を着ること等を実践しています。今夏(1982年)調査した阿波の民家の中に私は、襖、障子、引戸によって、空間を融通自在に使う方法、あるいは、和紙張りの明障子によって、あたえられる美しい光を発見しました。このような落着いた家には、大屋根におおわれて、すがすがしい空気が流れており、本で学んだことと比べると、私は日本の伝統的民家には、数多くの現代的住居よりも優秀な質を備えていることを理解しました。
 そこで、私にとって今重要だと思われることは、現存するこれら価値の高い民家を保存してゆくことである。そして同様に伝統的技術を用いて(まだそれは阿波の地方に生きつづけているのですが)木、竹、和紙、土等その土地で手に入る材料を用いて家を建てることが、必要だと思われます。そうして現代工法のためのプレハブ工場や、コンクリートを運ぶダンプカー、新建材をつくる化学工場の公害などを拒否してゆかねばなりません。それが村や町の美しい外観(環境そめもの)を保護することにつながります。
 今年、阿波学会のお招きに与かり、四宮先生や、友人の木下君、鎌田君達と共に、調査班に参加したおかげで、民家の建築方法や、その生産の様態に応じた結末をよく知ることができました。私は他の人々(フランスやその他諸外国の人々)に、そのことを伝えたいと考えています。私の考えでは、伝統的民家や環境を保存し、再生することは、住民の方々の利益になると思います。私は来年これと同じ考え方をもって、再び阿波学会の調査に加わりたいと、四宮先生と約束しています。阿波学会の皆様に深く感謝し、建築部会のリーダーである四宮先生の不変のダイナミックな御活動に、心から敬意を表します。私はこの調査活動の日々に、すばらしい思い出を抱いて、今年度の調査活動が、住民の方々に有益なものとなりますよう、心から祈っております。

 


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