阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第29号

舐園祭りの今昔(付、鷲敷町の地神さん)

民俗班 岡島隆夫

1 小仁宇の祇園さん
 祇園祭りは夏祭りの代表である。夏はことに疫病・害虫・風水害など災厄の起こりやすい季節であり、その悪霊・疫神を抜い鎮めて災厄を除去するために、祇園祭りが各地で盛大に執り行われてきた。
 当町小仁宇の祇園さん(八坂神社)のお祭りも、かっては丹生谷随一の大祭として有名であった。この社は、京都東山の祇園さんのご分霊を、江戸初期に松田耕治氏(和食在)のご先祖が勧請したものと言われている。ご祭神の素盞鳴命は、もろもろの疾疫を圧服除却する荒々しい霊威の持ち主と考えられ、インドの祇園精舎の守護神・牛頭天王と習合して篤い信仰を受けてきた神様だ。当社も江戸初期に小仁宇舟津上の現在地に奉斎されて以来、疾疫消除の神様として、また牛馬の守護神としての信仰を集めてきた。


2 昔の祇園祭り
 往時の祇園祭りの盛況ぶりは、神社に掲示されている由緒書を見るまでもなく、年輩の人なら誰でも、なつかしさをこめて生々しく語ってくれる。
 祭礼日には、氏子はもとより桑野、新野、加茂谷、相生など近郷近在の村々から馬を引きつれ群参し、神輿の供奉に参加した。なかには遠く海部や、勝浦・国府などからもやってきて、その数、盛時(大正未頃)には2〜300頭に及んだという。
 それらの馬のために、氏子の若連(青年)が馬着配置事務所を設けて、宿泊所の斡旋をした。引きうけた氏子の家々では、繋き場を特設し、“まぐさ”の世話や、その引率者(1頭に2〜3人)の接待に大忙しであった。
 7月16日が宵宮で、土佐町や和食の商家では、カマスで“ひきがえる”をつくるなど、思い思いの題材で“ダシ”をつくった。また煙火の奉納もあって、町筋には夜店が立ち並び、和食―土佐町―小仁宇の通りは人で埋まった。
 17日は本祭り。神輿が渡御する土佐町和食にかけての巡幸路は、お供のダンジリや供奉馬でごったがえした。先頭馬が巡幸供奉をおえて戻ってくるころも、まだ後続の馬が境内で足踏みをしていたそうだ。
 戦時中、馬がだんだん減って食料事情も苦しくなり、戦後はついに当家の責任である当家馬さえ用意できなくなり、昭和40年代には神馬の絵を描いた幟がお供するようになり、今日に至っている。


3 今の祇園祭り
 昭和57年の7月17日はあいにくの天気で、朝から今にも降り出しそうであった。八坂神社の馬場先の参道入口に、丸太で組んだ鳥居に御神燈がかかげられ、境内入口の石鳥居まで約100mの馬場に〆縄が引きめぐらされ、両側に幟が数本はためいていた。(この“馬場づくり”は7月10日に行われる。)


 掃き浄められた坂道の参道を上りつめると、祭礼提燈などで飾られた御社頭に着く。境内の広場にダンジリが一台、「トン コチ ココチン トン ……」と祇園ばやしの太鼓の音が神奈備の森にこだましていた。かっては土佐町、西在、和食などからもダンジリが出て“音頭”や“ぶっつけけんか”で競いあったというが、今は小仁宇のダンジリがただ一つ、それも据えつけられたままだった。
 お祭りの諸準備には“お当家”があたる。現在は小仁宇のみのお祭りとなり、氏子は全部で70戸(上小仁宇33戸・下小仁宇37戸)、それを六班に分けて当屋組を編成し、6年ごとに当屋をつとめるのだそうだ。
 お昼ごろポツポツ隆り出した雨の中、氏子の人たちが三々五々神社に集まってくる。各々装束を着用したり、巡幸祭具の点検などを行ううちに祭典の時間がせまってくる。
 午後1時、煙火の打ち上げを合図に例祭式がはじまる。修■・献饌・祝詞奏上・玉串奉奠などがあって、午後2時いよいよ神輿渡御に移った。


 先ず神輿の入魂神事があって、拝殿前に神輿を舁き出して据える。召立に従って神幸所役が各々の部署につく。70戸の氏子の大半が何らかの所役を受け持つことになる。その列次はおよそ次のとおりである。
〈神幸祭巡幸列次〉
1 露払い……塩水を入れた手桶に榊葉を持ち道中のお清めをする。
2 社名旗……八坂神社の幟を持つ。
3 猿田彦・宇豆女……一人が猿田彦の面をつけ、紫の狩衣に緋の袴をはき、もう一人が宇豆女の面をつけ緑の狩衣に緋の袴をはく。ともに真榊(榊の大枝に木綿紙垂をとりつけたもの)を捧持する。
4 槍持……毛槍を捧持する。
5 神饌……神酒・鏡餅を三方にのせて捧持する。
6 神輿……みこし舁き6人(各部落より選出された若者…神紋入りの白丁を着け、烏帽子に白はちまき姿)。他に台持2人。


7 宮司……神輿の供奉。傘持ちが従い傘をさしかける。
8 神馬……“当家馬”の幟、ほか数本の幟を所役が捧持し、かつての供奉馬の代役をつとめる。
9 金幣……氏子総代等が金幣を持ってお供する。
ほかに、前後を2人で舁いた賽銭箱がお供し、巡幸途次氏子の賽銭を受ける。
〈お的神事〉
 神輿の宮立ちに先だって、境内入口鳥居前にて“お的の神事”が行われる。お当家が、扇を三つ合わせて細竹の先端に結んだ的をめがけて矢を放ち吉凶を占う。弓は、1.5mくらいの女竹に紅白のテープを巻き弦を張ったもの。矢は50センチくらいの女竹で、羽は金、銀、紅、白、青、緑など色とりどりの紙でつくった20本のうちの1本。残りの矢は氏子が奪い合いで持ち帰り、またたく間になくなった。魔除けのお守りとして戸口にさすのだそうだ。
〈巡幸路〉
 神輿の巡幸路は、氏子地域の縮少もあって昔と変わり、現在は下図のコース(約2.5キロ)となっている。上小仁宇・下小仁宇をまわり、お旅所でおお祭りをして還幸する。


4 おわりに
 かつての威勢のよいダンジリのお供もなく、神馬の供奉も幟に代わるなど時代の変遷を感じさせるが、雨中にもかかわらずほとんどの氏子が参加して祭礼の所役を分担し、神輿の供奉をする真摯な奉仕ぶりに、今なお祇園信仰が息づいているのを感じた。あるとき、たばこ耕作などの都合で、祭礼日を早めて7月6〜7日に変更したところ、その年はずっと雨にたたられどうしで大変困った由、すぐにもとの祭礼日にもどしたとか。そんな話の中にも祇園さんの霊威をひしひしと感じさせられる。


 現在、神様抜きで行われている商工会主催の「鷲敷の夏祭り」が、山車大会や花火大会、鷲敷音頭の発表会など様々に趣向がこらされているにもかかわらず、今一つ盛り上りに欠けると聞く。かつて祇園さんの夏祭りに湧いた土地柄を考えるとき、ここらで「鷲敷の夏祭り」と「祇園さん」の祭礼との結びつきを一考されてはと思うが、如何であろうか。

(付 鷲敷町の地神さん)

2 特記事項
1)造立年代について
 年代が刻銘されている中で、3 の寛政7年(1795)が最も古い。早雲神主の言で、藩主蜂須賀沿昭公が各村庄屋に地神社の奉斎を命じたのが寛政元年(1789)といわれており、この山里にもすぐその威令が及んだ証拠となる。
2)形状について
 地神さんの神体は、五角の石柱(砂岩が多い)に図のような配列で農耕に関係深い五神を刻んであるのが普通だ。そんな中で4 は卵状の石柱に五神が刻まれており注目に価する。また、10 11 の2社は、五神の配列が天照大神の右(向って)に大己貴神、左に倉稲魂神となっており異例と思われる。なお、中央の天照大神が北面する形が多いのは、日の神を拝する形とも思われるが、なかには東や西に向いているのもあって、地形的な配慮があるようだ。


3)社日祭について
 春秋の社日(中日に最も近い戊の日)が地神社の祭日で“お地神さん”とよばれている。かつてこの日は、土をいじくったり田んぼヘ入ってはならぬというタブーがあった。今そのタブーはだんだんくずれつつあるが、どことも社日祭は厳修されている。
 前日に当家が地神社の周辺を清掃し、四隅に青竹(1 5 6 11 12 13 )や榊(2 3 4 7 8 9 10 )を立て、〆縄を張りめぐらせ、幟を立てる。幟には、「奉地神五社」(5 6 7 10 12)、「奉社日祭」(3 )、「地神五社大神」(11 )、「土神社祭礼」(13 )などと書かれている。当日、当屋が神饌(神酒・洗米・餅・煮干・海菜・野菜・果物など)をお供えし、神職を迎えて祈濤する形が多いが、同じ町内でも各社それぞれに特色がある。そこには氏子を単位にうけつがれてきた素朴な民間信仰の姿があり、山里の根強い信仰を物語っている。以下、そのようすをいくつか紹介しておく。
ア 2 の氏子である中山中分には、「天保4年(1833)の手板」があり、それに記された講組名によって今も19戸の氏子(手板の家号は現在と同じ)が交替で、毎月1日・15日・28日に地神社の灯籠に灯明をあげている。社日祭には全氏子が参列し(神職は招かず)、長老が祝詞をあげ、各家から酒肴を持ち寄り直会をする。
イ 3 の社日祭には、約50戸の全氏子が各々の家で作った野菜などを持ち寄り、三方(20台くらい)に盛りつけ壇上にお供えする。秋には稲穂(懸税)も祭られる。
ウ 6 では社日の前日に、地神社前に「屋形」とよばれる巾1間、奥行1間半の立拝殿を特設する。当日朝、当家組が別火で「あずきがゆ」をつくり、他の神饌とともにお供えする。
エ 8 では神事のあと、お当家がお供えの「鏡餅」を小さく切って氏子の家々に配る。
オ 9 ではお当家が終日地神社のそばにつめ、ゴザを広げてご馳走を並べ参拝者に神酒をふるまう。
カ 12 では氏子(約60戸)の各家々から「ぼたもち」のお重ねや「いりこ(煮干)」のお供えがあいつぎ、壇上に山積みされる。
キ 13 では社日の夜、お森(氏神八幡神社)に全氏子(13戸)が酒肴を持ち寄り、直会をしながら農事の相談などをする。
(以上、種々ご教示いただいた吉田祖氏、福島一雄氏、今川太平氏ほか鷲敷町の皆さんに厚く御礼申しあげます。)


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