阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第29号

鷲敷町の葬送

民俗班 前川富子

はじめに
 何故葬送なのかと尋ねられる。理由は最初に始めたからとしか言いようがない。葬送の慣習を捜す意味もその年により異るが、自分自身に課した行のためだと思うときもある。そして、長い年月を働き、生き抜いてきたお年寄りの人柄に触れることが、私自身の成長の糧にもなっている。
 今回も、土地に昔から住んでおられるお年寄りからお話を伺ってまとめたが、私の力不足から、人々の豊かな知識を報告にまとめきれなかったことを残念に思う。
 本調査にあたり、ご多忙中ご便宜をいただいた鷲敷町教育委員会、調査に心良くご協力いただいた今川大平氏、河井初太郎氏、原田福一氏、坂部喜平氏、尾崎儀一氏、森北元治郎氏に深く感謝申し上げる。
 又、調査をまとめるにあたって、昭和52年度に筆者が担当した徳島県民俗文化財緊急分布調査の資料(鷲敷町)を参考とした。その節の臼木久作氏、(故)田宝繁男氏、(故)原カガノ氏に改めてお礼を申し上げ、故人の方々のご冥福をお祈りする。


 1 宗旨等
 今回の調査地区は中山、北地、田野、土佐、八幡原、仁宇であって、面接により調査を行った。和食東、百合は昭和52年に調査した地域である。
 宗教は仏教がほとんどで、うち真言宗が大部分のようであるが、浄土真宗もあり、日蓮宗も多少ある。ほかに創価学会、天理教、神統、キリスト教もみられる。
 寺、庵、廃寺(庵)等が町内に散在するが、西在に悉地院があり、元西在庵と言い、大正年間に現在の寺院となった。壇家は町内と細野(相生町)あわせて300戸位。中山の持福院では最近阿瀬比地区(阿南市)も加わって壇家は150戸位ということである。又、相生町、羽ノ浦町の寺の壇徒となっている地区もある。


 2 死とその前後

 息が切れた時を死とするが、扱いは病人でマクラナオシのあと仏となる。(中山)顔に白布をかけ、まず講組に知らせる。息を引取る直前に名を呼んで体をゆする習慣もある。(仁宇)
ササヲイレル
 神棚はササを入れ(中山)、あるいは白紙でおおってはずすこと49日間、そして50日目に神を迎える。(中山)
マクラナヲシ、キタマクラ
 ミ(血)の濃い者が寄ってから行う。北向きに枕をなおし、お床を仏間にかえる。枕元にイッポンバナ(樒)、マクラノママ(1個)、線香又は香を供える。(中山)
 大正時代は枕元へ箒、切レモノを置き、水(樒の葉を添える)、一本線香、八寸(膳)に枕飯(4個)を供えた。(八幡原)
 北枕にし、刀物と箒を掛蒲団の上に置く。あれば枕屏風を立てる。箒は猫が死人をまたぐと死人が立上るのでそれを防ぎ、刀物は猿などが死人を襲う場合があれば追払うためと言われる。(百合)
マクラノママ、マクラノメシ
 オトゴ(末子)が炊く、藁一わ(束)から逆に一本づつ引出してもやす。クドは北向きにつくり、ムスビは3個握る。マクラノメシ、サンヤに入れるムスビ、谷の縁へ置くムスビと各1個づつつかう。(中山)
タマシイ
 49日間は家の棟にいる。(中山、仁宇)クサヤ(草屋根)の場合は1年間屋根替えをしない。(八幡原)
通夜 ヨトギ
 息を引取って24時間以上経過してから埋葬、あるいは火葬にするが、ミ(血)の濃い者や親戚で通夜をする。(中山、仁宇)通夜の席で講組の者が翌日の葬儀のための相談をする。(八幡原、百合)


 3 葬送の準備
シルグミ、コウグミ、コウナイ
 近隣組織として、シルグミ、コウグミ、コウナイ等と呼ばれる組織があり、常々親戚同様の付合いがある。結婚、出産、普請等の手伝い、地区の清掃、道普請、草刈等を共同で行う。年間にはトツコウがあって、正月16日、彼岸、盆16日等にまわり持ちで念仏をあげる。この念仏が葬式や、法事の稽古になる。
デヤク、デヤクゴト
 シルグミ、コウグミ、コウナイで行う仕事をデヤク、デヤクゴトと呼び、葬送の出役には大体一家から男女各1名が出て、米、野菜等を持参する。
コウグミ(シルグミ、コウナイ)の仕事
 死亡すると家人からまず講組へ知らせがある。知らせを受けると協議によって準備、役割を分担し、葬式を行う。近頃は葬儀屋でとりしきるので仕事は減っている。
◎連絡
 寺、医者及び役場への連絡、手続きなど。親戚へは電話が普及するまでは、ヒキャクが出た。2人一組で知らせに出て、先方で賄を受けて帰った。
◎買物
 炊事用のもの、葬式につかうもの、野辺送りに必要なもの、棺(桶)、白布と針一本等の買物があるが、最近は葬儀屋で用意できるものが多くなっている。
◎炊事
 家人は当日カマヤにさわらず、初日の賄は講組がする。これは婦人の役目である。昔は玄米をふんで精白する仕事も含まれていた。
◎カン、オケ(クヮンオケ)、ハコ、カメ
 寝棺を使用するようになったのは早い地区で昭和30年頃から、遅い地区では昭和50年頃からの模様。土葬から火葬への移行と関連がある。それまではオケ又はハコを準備した。材質は主に杉でシラタ(杉材の白い部分)は早く腐るので良いとされた。モミを使用したハコが上等であるという地域もある。分限者のカメ使用もあった。
 オケは直径2尺4寸、高さ2尺4寸、底は小さくなる。ハコは2尺2寸の立方である。
 オケやハコは講組で製作することもあり、オケ屋で買う場合もある。オケやハコは念仏紙(タンジャク紙とも言う)等で飾る。
◎各種葬具の製作
 イハイ、ソトバ、ハタ、等を講組で製作する場合もある。又資産家ではソーレンを用意する。
◎ハカ掘り、穴掘り、埋葬
 講組の男全員で掘る場合もあり、2人で掘る地区もある。家人が場所を指示、後で酒が振舞われる。(八幡原、仁宇)猪等に襲われないように、フタから上に3尺位土がかけられるように深く堀る。(仁宇)
 身内、親戚が埋葬するのはアワレなので講組の仕事である。


 4 湯灌と入棺
ユカン、ユカワ、ユカ
 今は死人をアルコールで清拭するが、大正時代には、裸にしタライの中へ坐らせて洗っていた。
 子や兄第などごくミ(血)の濃い者が、縄帯などの粗末な服装で、柄杓を逆手で使って洗う。湯は寝座をあげて床下へ捨てた。終ると故人の好んだ着物を着せる。(中山)
 ミ(血)の濃い者が縄の帯、カラワラの左縄のタスキがけで洗う。終るとミ(血)の者がカミソリで髪を切り、新しい着物を着せる。水は木の根元へ穴を堀って捨てた。(仁宇)
死装束
 一丈の布(小晒)で、ふしをしないで親戚の婦人が縫う。カタビラ、キャハン、手甲、サンヤ、スマンボウ(三角頭巾)、ザブトンを裁ち合わせる。今は葬具屋で紙製を用意している。(中山)
 男は羽織袴、女は白の長着に黒の紋付羽織、上に経カタビラを着せる。着物は左前(衽)、(百合)
入棺、納棺
 オケに座蒲団を敷き、経カタビラ、手甲、脚半、スマンボウ、マクラノママと銭六文(紙製の場合もある)を入れたサンヤ袋をつけて納める。すき間に袋を入れて茶の葉をつめる。ネカンのフタは石で打つか、オケの場合はフタに穴をあけてあるので麻緒を通して締める。(中山)
 オケの場合は、番茶の座蒲団を敷き、膝を組ませて入れる。サンヤにはお床にまつった弁当(ムスビ4個)、六文、好物等を入れる。フタは3カ所に穴があって、ひもを通してくくる。(八幡原)
 オケを使用した頃は、手は合掌させ脚は頭の方へあげて、膝をまげずに納めた。すき間には茶の葉をつめ、足りない場合は着物でつめた。(仁宇)


 5 葬式
 ソーシキと言うが、ソーレンを出すと言う場合もある。友引の日は避ける。トラの日はトラ除けのソトバをつくる。喪主は子又は夫、原則として女は喪主にならない。位牌持ちは長男。子供の葬式には親は出ない。
 納棺の後、僧が引導を渡し、梅のズバエ(今年伸びた枝)で洒水する。床には祭壇をつくってあって、お大師さん、お不動はん、十三仏さんを掛け、供物を供えてある。僧の読経の間に濃い者から順に焼香をする。近項は焼香台を外に出している。(中山)
 ユカワの後、親の場合は子が担いでオモテヘ連れて出る。お床の右へ棺、左へ僧が坐る。床には十三仏をかけてある。講組は念仏を唱え、僧が読経する。その間に焼香する。大きな家では2カ寺を雇うこともある。昔は婦人の喪服は白無垢、男子はありあわせの着物であった。紋付きを着るようになったのは明治の末頃からであった。(仁宇)
 葬式は昔は夕方から自宅で行っていた。棺をお床の前に置き、僧が回向する。今は火葬場の都合で、式は午後1時から2時頃に終る。(百合)
 ソーレンの出る葬式を本葬式と呼んでいたが、それは資産家か大きな家だけであった。(仁宇)


 6 出棺
カルメ
 棺を担ぐ人の事をカルメと呼ぶ。カルメはゾーリをはいたまま、畳の上から棺を担いで下りる。(中山)
ワラビ、カドビ
 僧が光明真言を唱え、ニワで3回棺をまわし、棺が門を出る時に一声名を呼んでワラ火をたく。茶碗は割らない。(中山)
 昔は出棺は夕方であったが、だんだん明るいうちにも出るようになった。棒2本又は1本(カッツケ)で2人で担ぐ。カドで左へ3回まわり、野辺に出る前にワラ火をたいて一口名前を呼び茶碗を軒の端で落して割る。「ええとこいかんせよ」と言う。(八幡原)
 昔は日が暮れてから出た。トノクチに線香を立て、棺が出るとそこでカド火をたく、茶碗はトノクチで割る場合と墓地で割る場合がある。あるいは割らないで、ハカに水をまつった碗が早く割れると成仏したという場合もある。棺を担いで行く途中、死人にどこを通っているか教えながら通る。(仁宇)


 7 野辺送り
行列の例
 カネ(道案内)、六地蔵、ハタ4本、位牌持ち、天蓋、棺(桶)、遺族、会葬者(中山)
 カネ(組内の者)、ハタ3本(タツノクチをつける)、六地蔵のローソク、ユハイ(跡取り)、天蓋(ミの濃い者)、棺(桶)、ミ(血)の濃い者、親戚。在所の人は立会って棺が出るまで見送る。野辺送りに使用したものは昔は墓地で焼いていた。(八幡原)
 道案内のカネ(講組の年長者)、花カゴ、ハタ8本、トーロー4灯、六字のハタ、棺(桶)、天蓋(明るいうちにソーレンを出すようになって天蓋をするようになった)、位牌、お供。(仁宇)
 カネ(一つ鐘を叩く)、ハタ4本、ボンボリ2本、位牌、棺(桶)、天蓋(相続人の次にミの濃い者)親戚、一般。(百合)
野辺送りのタナ
 谷に八寸位の棚をつくり、ムスビを1個供えておく。仏が家を出て行くと谷の縁へつっかえしておく。(中山)
ソデマモリ
 野辺送りの人の袖にソデマモリを入れ、土葬の場合は埋ける時に穴へ入れる。(仁宇)


 8 埋葬
 伝染病で死亡した場合の火葬のほかは、土葬が普通であった。地区により昭和30年から50年頃までに火葬をはじめている。新しくは昭和55年に土葬の例がある。(中山)現在も希望であれば土葬も行うという事であるが(土佐)大体は火葬に移行している。
 埋葬は講組が行う。桶には顔の方に樒を差してあるので、顔が北向きになるように、そっと穴へ入れる。親戚は埋まるまで側で念仏をあげている。埋めるのは掘った人があたり、1人が泥をかっこみ、1人は担いできた棒でつき込む。フタの上にはソデマモリ、三角頭巾を置き、フタから上が三尺になるように埋める。その上にミツイシ(三つ石)を置いて洗う。埋めたあとにソトバを立て、ハナシバ(樒)を1本立てる。道具は墓地に残しておき、七日目にハカナオシをしてから持帰る。ハカには毎日ミ(血)の者が参る。(仁宇)
 死人を埋める時はウラテンガを使わない。土をかき寄せるだけである。(中山)


 9 野帰り
魂呼び
 墓地から帰る時に一声名を呼び振返らない。(仁宇)
 埋葬場所から少し下りたあたりから、講組の元老か親戚の者が一声名を呼ぶ。火葬になってからはしていない。(百合)
塩払い
 野から帰ると、丁寧な場所は抹香と塩を入れた水で手を洗う、普通には塩払い。(八幡原)
 ゾーリは家の者が流し納める。家へ入る前にトノクチの石の上に置いた塩で塩払いをする。近頃は塩は葬儀屋が用意している。(仁宇)


 10 追善法事
ムイカ
 近頃は遺骨が帰るとすぐムイカをするようになったが、昔は六日目にしていた。葬式の後、家人と濃い親戚でシルグミにお礼にまわり、ムイカのお念仏を依頼する。当日は濃い親戚からは一荷、薄い親戚からは片荷の餅を搗いてくる。家でも餅を搗くのでマツリコボシをシルグミにわける。シルグミで念仏をあげてもらった後、精進料理で酒を振舞う。(中山)
 親戚が寄って精進料理を食べて酒を飲む。その夜は泊って七日目に家で念仏をあげ、墓まいり、帰って精進料理を食べて解散する。現在は簡略化している。(百合)
 ムイカ、四十九日、ムカワリには親戚で餅を搗いてきた。近頃はムイカと四十九日は葬式の当日一緒にすましている。(仁宇)
四十九日
 四十九のダンゴをつくる。(仁宇)
 一日だけの法事で、四十九日の片法事という。(百合)
アタリビ
 命日(北地)
ムカワリ
 命日には今年竹(若竹)を切って水棚を結い、マイモ(里芋)の葉を敷いて胡瓜、ナス、イモ、ヤツガシラなどを供え、線香をあげる。水棚はその日の夕方に川へ流す。(仁宇)
その他の法事
 以下三年、七年、十三年、十七年、二十三年、二十五年、三十年、三十三年、五十年、百年等の年忌があるが、十三年以上は地区によって異る。大体三十年から五十年までで良いとしている。年忌毎にハカに立てるソトバは形を変え、大きくなっていく。年忌には寺を雇って読経、墓参り、組内の念仏等を行う。


 11 死穢
ブク
 親は1年間、兄弟は50日間、伯(叔)父、伯(叔)母は20日間のブクがある。子供(15才位まで)はブクがないとみなされる。(百合)
 一年間は氏神に参らない。正月のまつりをしない。年始に行かない。(和食東)
ヒブク
 正月や、正月前に死亡した場合、野辺送りを講組では手伝わない。正月が終ってから本葬をする。(百合)
 タバコの火をつけてもらったり、他家を訪問すると、ヒがまじると言って嫌った。(和食東)
 死者の家人は当日カマドはさわらない。(土佐)


 12 墓制
ハカ オハカ
 本来は単独墓、自然石に戒名を切るか、丸い石を土葬の上に置くだけというのが多かったが、今は大体石塔に戒名を切る。屋敷の付近に墓が散在しているが、その付近の田畑を拓いた人らしいと伝えられている。(八幡原)
 ハカは昔は台(台石)の上に自然石のオガミ石を立てていた。台石のない場合もある。戒名を切る場合も切らない場合もあった。(北地)
 昔は家の足しになった人は家屋の近くへ埋けた。家出した人などは茶畑(家の周辺部)へ埋けた。石塔のカサやネコアシは家柄の良い家がつけたが、ネコアシはよくないとも言われていた。(仁宇)
ミツイシ
 埋葬した上にミツイシ(三っ石)を正三角形に並べる。その後1〜3年位経過してからオガミ石を立てる。(仁宇)
 墓ができるまでは石を三つ並べて一本花を立てる。墓ができると二本花になる。(八幡原)
ヒオイ、ヤネ


 埋葬のあと家の形のヒオイを三っ石の上に置いた。コガサをかぶせた家もあった。大きな家がしていた。(仁宇)
 土葬の時は埋葬したあとへヤネをたてた。4本の柱に屋根を置いただけの簡単なものであった。(八幡原)
合葬、改葬、寄せ墓
 現在、全地区で先祖代々の骨堂墓に改葬する傾向が見られる。又、共同墓地が不便な場合も新しい墓地へ移して代々墓にしている。
オ地蔵ハン
 小学校1〜2年生までの子供で、名のついていた子には舟型石塔に地蔵又は名を切る。(八幡原)
 舟型石塔に名だけを切る。5才位まで。(田野)
 普通は自然石を立てるだけで、舟石塔、地蔵を切ることは少い。(北地)


 名をつけてない子には蓮の葉を持った地蔵を切る。一つ石である。名がある場合は名を切る。戒名は15才位から。普通子供の墓は三つ石だけで、中流以上の家が切っていた。(仁宇)
 14才位までは地蔵を切る。戒名はない。(百合)
サンマイ、オハカ、ボチ、ヤマ
 昔は屋敷内に埋葬していたが、明治22年に共同墓地が王子前にできた。その後狭くなって千が谷に新墓地をつくったが、今は学原に霊園を建設した。(仁宇)


 新墓地と旧墓地がある。旧墓地の使用は大正の始め頃土葬をしたのが最後であった。(八幡原)
 墓地をサンマイと呼んだが、山の墓はサノマイとは言わなかった。(土佐)
墓地の設備
 六地蔵とソーレン小屋がある。(中山)
 六地蔵だけ、古くはお庵があって、行き場所のない人を養って守りをさせていた。(仁宇)


墓地と植栽
 大きな木は植えない。低い花木を植える。(ボケ、ツバキ)樒を植える家も時々ある。(中山)
 シャクナゲを植える。樒はハカはんのメグラに植える。(八幡原)
 大きな木を植えて根が桶に入ると家から気違いが出るので大きくなる木は植えないと言われる。アジサイ(ホトケバナ)、シキビは植える。(仁宇)
クセヤマ
 大きな山で、まつらないハカのある山をクセヤマと言い、この山を買ったり、木を切ると崇ると言われていた。(仁宇)


 13 その他
異常死の葬法
 川で死亡した人は家に入れずに葬式をしたというが、今は普通に葬式を行う。(中山)
 水死の場合は外に一晩置く場合もあった。ハカは普通に立てる(八幡原)
 不時の死の場合はオモテから家に入れる。(普通はニワから入る)葬式は同じように行う。(北地)
 水死人は死体を家の中へ入れず、家の外へ桶を置いて入棺し、葬式をした。(和食東)
 戦前は山や水で死んだ人は家に上げず、納屋かカドに置いたまま葬式をした。(百名)
 妊婦が死亡した場合、5カ月以上の胎児は母親と別に埋葬した。産声をあげずに死んだ児はウミナガレと言う。(和食東)妊婦が死亡した場合は桶に布で子供のかたちをつくって入れる。出産後母子死亡した場合は別々に埋葬する。(仁宇)
無縁仏
 山道で斃れた人には、持っている銭に応じて、見付けた土地の人が斃れた場所にハカを立てた。銭を持っていなければ三っ石だけ。(仁宇)


徳島県立図書館