阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第29号

鷲敷町の石造文化(付、町名字名の由来)

郷土班

  河野幸夫・稲井敬二・石川重平・

  森本嘉訓・植村芳雄・柳田清

はじめに
 われわれ郷土班は、当初、調査テーマを石造文化の一点にしぼって調査班を編成した。7月14日に開かれたレギュレーションの席上、町当局から数項の要望事項が提示され、その中に「町内字名について」があったので、これも調査することとした。多年にわたって県内各地の町名について、独特の見解に立って調査研究をされている植村芳雄会員を、メンバーに追加して、参加していただいた。
 また、「城の研究」も要望事項の一つであった。地方史班に城郭研究にくわしい本田昇氏が参加されることを知り、同氏と提携して城についての解明を試みることにして、事前の打合せもしていたが、公務の都合で同氏が不参加となった。わが班だけで城跡調査を実施して、文献資料の解明につとめたが、最終的に結論を引き出すまでには到達できなかった。他日の研究をまつことにして、今回の報告書には、この項を除いた。
 なお、この報告書は、全体的なまとめを河野幸夫、石造文化関係を石川重平、地名考察を植村芳雄が担当した。

 

 鷲敷町における石造文化の所見と特色
 鷲敷町に所在する石造文化財(板碑・五輪塔・宝篋印塔など)については、先年刊行された『鷲敷町史』に、悉皆、調査されて掲載されている。従って、今回の調査にあたっては、それを手がかりとして、その中から特長のあると思われるものを選んで、実物について計測、撮影、拓本などの作業を実施した。
 以下、その所見や、県内の他市町村に所在するものと比較して、特異な点などについて、種別ごとに述べてみたい。
1 板碑
(1)中山・森家の板碑
 森鼎氏家の邸内、山の斜面に建立された地蔵堂の中に安置されている。碑の根部は、木材の中に挿入されている。


 総高110cm、幅上部で27cm、下部で28cm、厚さ7cm、緑色片岩で作られた阿波型板碑の典型的な形態をもった板碑。頭部の山形部の頂上部から10cm下がった所に、横線1条を刻み、さらに2cmあけて、次の横線を刻り、2線の横絹区切をもっている。
 さらに、その下3cmの所に碑の額部を作り、碑身を現わす輪郭線を刻している。
 輪郭線から4cm下がって、縦5cm、横4cmの大きさで、梵字■(ア)がほられている。これは地蔵菩薩を示す種子(しゅじ)で、この板碑の本尊が地蔵菩薩であることがわかる。
 その下にある標識の地蔵菩薩像は、頭部の二重月輪光背から、蓮華台座までが33cmある。像容は右手に錫杖を持ち、左手は胸のところで宝珠を捧げ持ち、正面を向いた立像が描かれている。納衣の衣文線は浅いが、流暢な流れを見せて美しい。
 像の左右に、多くの文字跡が見えるが、ほとんど読みとることはできない。特に左側のものは、一字も読めない。右側の方には、
 時□安随往生□□□□也
と記されている。
 さらに、その下の左右に、造立の主意と年号月日が刻されている。右側の願文は磨滅がひどく、銘文の下に、
 逆修善根也
の5文字が読みとれただけである。
 左側には、
 明徳■年癸酉十一月□日
と、造立銘文が読める。■は四のことで、明徳四年(1393)は、南北朝時代最後の北朝年号である。
 この板碑については、森家系図(鷲敷町史168p上段)に
 安連 応永三十二年九月一日卒 為子孫連綿長久 明徳二未十一月竜丘 石ヲ以テ地蔵尊一体建立之
とある。この家系図にある「安連」という人が、竜丘石の地蔵尊を建立したのであるが、それが現在の線刻板碑の画像碑か、それとも他に石地蔵があるのか、知るよしもないが、いずれにしても、森家の遠祖である「安連」なる人が、生存中にこの線刻地蔵菩薩の画像板碑を、逆修善根のために造立されたものと解することができる。逆修とは、生前に死後の菩提を弔うために修する法要で、「地蔵菩薩本願経」によると、死後の追善供養七分の功徳の内、六分は供養者、亡者には一分の功徳しか与えられないのに対し、生前に善根を施すと七分の功徳はすべて行者の所得となるとう考え方に立ったものである。
(2)国造神社の板碑
 二基ある。標識は阿弥陀三尊を示す梵字の、キリーク・サ・サクを刻した種子板碑である。
 種子の表現が何となく萎縮して弱々しい感じがする。時代的には室町期のものと思われる。
(3)助原家裏山の板碑
 標識は、弥陀三尊の種子が刻されている。現存する部分は長さ20cm、幅12cm、厚さ3cm、結晶片岩製のものである。小形ながら頂部を山形にとがらして、二線も型どおり彫って、その下に額部と碑の区切りを示す輪郭線もある。
 標識の三尊の梵字も力強いタッチの太い線で彫られ、脇士のサ・サクの梵字まで、実に見事な筆法である。刻法も薬研彫(やげんぼり)で、キリークの7点の部分は◇◇と、ノミを十文字に使って彫ってある。
 残念なことに、造立の紀年銘があったかも知れない碑の下部が、欠損しているので、正確な造立期は不明であるが、種子の書体から推察すると、南北朝初期の板碑の最盛行期のものと推定される。
 いずれにしても、長さわずか30p足らずの最小型板碑としては実に立派なものであることに注目しておきたい。
4 勘田家裏山の板碑
 勘田寧夫家の裏山、同家の墓地内にある。板碑は全高70cm、幅は上部で16cm、下部で17.5cm、厚さは3.6cmである。


標識は阿弥陀三尊の種字。本尊の阿弥陀如来の種子キリークには、見事な蓮華台座の上に、太い線で彫られている。脇士のサ(観音菩薩)サク(勢至菩薩)の種子は、本尊よりはやや小さく細目の線で彫られている。
 碑面梵字の下の左右に文字跡があるが、現在では左側の
 □□□□十月…
だけしか読みとれない。
 造立時期は不明であるが、南北朝期のものと推定される。

 阿弥陀信仰を板碑造立に結びつけたのは、はたしてどんな人であったのであろうか。平安末期以後、日本各地ではそれぞれの土地に拠る土豪を中心に、土着の小勢力が血縁などで結びついた武士団が形成された。彼らは互に領地をめぐって果しない争いを続けた。その戦乱の前面で常に主役を演じたのは中・下級の武士であったが彼らは常に死と直面し、罪業を犯さなけばならない運命を負わされていた。
 その苦しみを救ってくれるものとして、阿弥陀信仰を受け入れ、浄土での往生を願って造立したのが板碑であった。
 その点からして、守護地頭とか、寺や堂塔を建てるほどの権力や経済力を持った歴史上の有名人物が板碑に登場する可能性は極めて少ない。板碑の造立者は、それぞれの領地で下人や農民に田畑を耕作させ、水田開発や治水の指揮をとるなど、その土地に密着した生活をした人たちであった。しかも、板碑が当時それらの人たちの集落付近に造立されたとすれば、鷲敷町における板碑の分布をしらべることによって、中世以降の集落状態を明かにすることができるであろう。今後の研究を待ちたい。
2 五輪塔
(1)阿井・伝夢窓国師墓(五輪塔)


 阿井から相生町へ通ずる県道、アユ坂のトンネルを越えたところにある。凝灰岩製の五輪塔の残欠で、夢窓国師の墓と伝承されているが、現在では風化・削落がひどく、造立当初の原型は解し難い。
 ただ、材質が凝灰岩であること、比較的よく原形をとどめている水輪の形態から考えて、南北朝時代の造立にはまちがいないようで鷲敷町所在の五輪塔では最古のものか。しかし、これが夢窓国師の墓であると確定することには、まだ一考を要するようである。
(2)阿井・蓮台寺境内の五輪塔
 境内にあるもののうち、ただ一基だけ、室町時代中期すなわち天文〜弘治(1532〜1555)ごろの造立と考えられるものが、完全な形で残存している。数ある鷲敷町の石造文化財の中でも特に貴重なものということができる。
(3)中山・国造神社境内の五輪塔群(5基)
(4)八幡原・谷ノ坊参道わきの五輪塔群
(5)権限神社・五輪塔群
 いずれも材質は花崗岩で、総高が1m内外の中形の五輪塔である。水輪の曲線や火輪の軒(のき)の厚さおよびその反り(そり)から推定して造立期を推定すると、室町末期から桃山期にかけての様式のものである。
 なお、『鷲敷町史』(昭和56年12月20日発行)め1138ぺージに所収の鷲敷町内の五輪塔一覧には、すべての五輪塔を「一石五輪」と記載されている。いうまでもなく一石五輪とは空輪から地輪までを一体にして作られたものに冠する名称である。四個あるいは五個の各輪が切り離されているものは、一石五輪とは呼ばれないのが、現在の学術名称となっていることを、付言しておきたい。
(6)和食・悉地院墓地の五輪塔
元和6年(1620)の紀年銘のある代官岡忠太夫定信の墓塔や、南川・上田家の祖先の墓塔で寛永8年(1668)の紀年銘のあるものなど、江戸時代の五輪塔がある。
 江戸時代の特徴は、風輪のトンガリ、火輪の軒端が反り上った様式のものが多く造立されるようになり、大形小形の差こそあれ、形態的には一つの意匠に統一されたことである。
 鷲敷町の五輪塔を調査して感じたことは、県内の他の市町村のものと比較して、
 1 室町末期から桃山期に造立されたと考えられる
 2 花崗岩製の中形のものが
 3 多量に残存している。
 という特徴をもっている。
 これによって、それらの五輪塔が造立された当時の鷲敷町の人たちの信仰生活やそれを産み出した経済基盤、さらにそれらの資材を運び込んだ交通運輸の組織などを解明する手がかりとなる。今回の調査では日数などの関係で、それまで手をつけることができなかった。他日の研究をまちたい。
3 宝篋印塔
 この塔の出典は、『一切如来秘密全身舎利宝篋印陀羅尼経』の経文の「経曰阿鼻地獄若於此塔礼拝一囲達必得解脱」によったもの。
 わが国で石造宝篋印塔初見の時代については、諸説があるが、やはり他の石造塔と同じように鎌倉時代からのものであろうと考えられる。
 さて、宝篋印塔の主体は、基礎・塔身・笠・相輪からなる最下には方形の基礎、その上に方形の塔身を安んじ、さらにその上に方形の笠をのせる。笠の上端の四隅には隅飾(すみかざり)の突起を作り、笠の中央に相輪を立てるのが通常の形式である。
 しかし、地方により、また時代によって、この主体の細部的な手法や付属の施設にいちじるしい差違が生じている。
(1)阿井・蓮台寺境内の宝篋印塔


 方形の基礎の上に、かわり方形の塔身をおき、塔身には四方仏の梵字が彫られている。
(東はウーン、南はタラク、西はキリーク、北はアク)
 笠は下段を二段に区切り、軒の幅は広く、軒上六段に区切る。その上端の中央に相輪を受ける穴がある。軒端の隅飾は少し外側に反り気味で、一弧素面である。相輪は請花(うけばな)を大きく彫り出しているが、下から四輪目で折れている。
 比較的小形の塔であるが造立当初の姿をよく残している。鷲敷町の室篋印塔のほとんどが江戸時代の様式である中で、この塔だけが室町時代の形態様式をもつものとして、文化財的価値は高い。
4 梵字光明真言 石塔
(1)阿井・蓮台寺境内の光明真言曼荼羅石塔
 塔身の全高45cm、幅21cm角の砂岩製。上部に径19.5cmの円輪を彫り、中央にア・ビ・ラ・ウン・ケンの大日如来真言を彫り、その周囲に円輪に添って、真下から右回わりに、
1 オン 2 ア 3 ボ 4 キァ
5 ベイ 6 ロ 7 シャ 8 ナ
9 マ 10 カ 11 ボ 12 ダラ
13 マ 14 ニ 15 ハン 16 ドマ
17 ジンバ 18 ラ 19 ハラ 20 バ
21 リタ 22 ヤ 23 ウーン
光明真言23文字の梵字が彫られている。銘文によって、光明真言を拾万遍奉誦供養してその功徳によって一類二世の安楽を願うために造立されたものであることかわかる。


 この塔は、上部右端から斜めに破れてはいるが、なお原形をとどめている。塔身の上部に笠がのっていたようであるが、現在は見当たらない。
(2)百合・百合庵の前の光明真言曼荼羅石塔


 百合の庵の西側の墓地にある。この塔は基礎・塔身・笠・宝珠がすべてそろっている。
 塔身上部に、蓮台寺と同じ意匠の光明真言梵字曼荼羅を彫り、その輪円を蓮花台座で受けている。銘文は
 奉誦光明真言五百万遍 為六身眷属菩提也の願文を読みとることができる。側面にも銘文がある。

 光明真言の梵字を輪状に配して、曼荼羅様にした信仰対象遺品は、南北朝時代から見られるようになった。その表現形式はさまざまであるが、これらは供養塔姿類から墓碑等の石造物と、紙などに書写印刷されたものの二種に大別される。
 さて、県内他町村に見られる光明真言奉誦塔は、奉誦した数だけを銘記したものがほとんどである中で、鷲敷町では梵字で光明真言を曼荼羅形式に表現した、いわゆる光明真言曼荼羅石塔が数多く残存していることは、まことに貴重である。何故にこの形式のものが多いかの究明は他日を期したい。
(この項 石川)

鷲敷町内字名の由来に関する所見
 「地名の研究は、何回も何回も現地を歩いて見よ」というのが鉄則である。しかし緊急的に調査団から参加を要請され、ほとんど予備調査もしないまま、現地に臨んだ。期間もわずかに2日間、それも時間的制約があって、オートバイで町内全地区を走った。
 以下の所見は、郷土班というよりも、わたし個人のこれまでの研究をふまえて、地名と現地を照合して得たもので、必ずしもこれが正しいものとはいえないまでも、或程度の自信はもっている。今後の研究にいささかでも貢献することができたら、幸いこれに過ぐるものはない。(植村)
 さて、わが国の地名は、
 (1)地勢・地形・土質などによって名づけられているものが多い。
 (2)地名は、平均的に1000年に1割位しか変っていないという定説がある。
 (3)地名の古いものは、古語や方言で名づけられ、それに似た発音の漢字を、意味に関係あるなしにかかわらず、適当に当てはめて使うものが多い。
 (4)和銅6年(713)の詔に、「畿内六道諸国郡郷の名、好字をつけよ」とあり、又、延喜式(1927)の民部式に「凡そ諸国郡内郷等の名、二字を用い、必ず嘉名をつせよ」とある。これで発音の似た漢字で嘉名としたあて字(仮借字)が非常に多くなった。
 (5)全国各地には、全く同一か、もしくはよく似た地名が多数存在している。
1 鷲敷町の地勢と地名との関連
 鷲敷町は、那賀川の本流の屈曲部に沿い、またその支流をふくめて、周囲に山をめぐらした山間の盆地であり、支流にもそれに沿って小盆地があり、傾斜地、渓谷等の複雑な地形をもっているので、これに関係した地名が大部分を占めている。
 また、この地名も、他地方と同様に、その地勢、地形等に適合した古語、方言で名づけられ、それに同音の漢字又は平仮名を当てているものがある。
 同じ地形で呼称も同じでも、お互に混同を避けるため、適当に異なる漢字をあてはめる例もある。
 中山地区には、地名と姓が同じものが多い。現地で聞く限り、地名が先行したとなっているが、これはさらに検討を要する問題であろう。
2 鷲敷の町名について
 現町名は鷲敷と書かれているが、小字名は和食・和食郷となっている。過去においては和食と書きあらわしたことがある。
 大字名に土佐という地名があり、高知県にも和食という地名があるので、土佐の和食からここに入植して来たので、この地名が起ったという説がある。
 また、ここの蛭子神社の祭神が、クスの丸木舟に鷲の羽根を敷いて、天下って来たのが、この地名の起りであるとの説もあるが、両説とも俗説である。
 ワジキのワは輪とか和の意か、輪であれば那賀川の屈曲部に沿った輪状の土地とか、輪状の盆地に対して名づけられたのであろう。和ならば盆地状の平かな土地という意味の当て字か。シキ(敷)とは一定の区画地のことである。
3 大字・小字の地名について
(1)中山
 那賀奥の真中の山というよりも、下手の阿南市の山口、阿瀬比地方の口山に対して、それから中へ入った所ということであろう。
・荒田ケ谷―荒田とは、荒れた田のある谷ということではなく、新田(あらた)で、開墾がおくれて新しく開かれた田のある谷間の意。
・関ケ原―山が谷に迫っていて、関門のような所という意であろう。
・苗字ケ谷―みょうじは、「めじ」のあて字。「めじ」は方言で、流れを横切る所とか、狭い場所のこと。ここも狭い谷である。
・東内―ここのとうは峠の意の「とう」・「たお」のあて字。峠の内側の部落という意。
・七浦谷、日浦―日浦は日のよくあたる南向のうららかな部落ということ。七は日の意のあて字であろう。
・佐京谷―迫谷のあて字、佐古谷地名で他に幾らでもある。意味は、山などが迫り合った谷のこと。徳島市の佐古町は、山と旧鮎喰川が迫っていた間の意。
・井の木根―井とは谷川、水路等に名づけられる地名。木は城とか、基にあて字される台状の地に名づけられる地名。根は山の根っこの意。
・孫野―間小野で、山に囲まれた小さい野。
・暮石―くれとは岩礫のことで、岩山の多い部落のこと。
・生杉―なはなるい、なごい・なごい、まは間で、すぎは州処即ち傾斜した砂州地や、砂礫地のこと。
・二子ノ―方言「ふだ」のあて字であろう。深田・泥田とか、湿気た所のこと。
・山盛り―盛りは、さかりで無く、下りのこと。即ち坂のあて字。
・千棒―これも姓にあるが、この下流に鍜冶屋・喜安その他姓と同じ地名がある。地名が先だろうと土地の人はいっている。筆者もそう思う。せんぼうとは「せばい」の意。あて字即ち狭い所のこと。
・カジヤ前―この地名も鍜冶屋があったからではなく、河岸とか、首をかしげるとかと同称、傾斜地のこと。
・喜安―きとは城とか基の字等に表記して、表現される高みの所、やすは方言で「やじ」「やち」で湿気のこと。
・堂面―どうは胴のように中高な地形。
・貞政治―さだは狭のあて字。まさはませのあて字、即ち間狭の意。ここも細長い狭い谷地である。
・としさぬ谷―門狭谷のこと。
・ふきの谷―ふきの自生する谷のことと思われるが、地名用言ではフケの谷、即ち湿気の多い谷のこと。
・黒沢谷―くろは畔とか、小高い地域の所のこと。ここも小高い。
・助友―すけは州処のあて字。友は処か門のあて字で、ここはどちらでもあてはまる地形。
・かげ―蔭地のこと。
・唐杉谷―弘法大師が、ここの寺の本尊を唐杉で刻んだという伝説から生れた地名であるといわれている。しかし、ここは「かし谷」の意のあて字であろう。即ちかしとは首をかしげる等のように、傾ける、つまり傾斜地のこと。
・まとば―的場と思われるが、土地の人はそんな行事は無かったという。ここは盆地状の谷の中へ横合から山稜が突き出して来ているので、間門場・間戸場で、間に突き出ているとか、間を戸のように塞いでいるとかの意であろう。
・下司名―ここは庄屋の下役人の住居が有ったから、こんな地名がついた等、字から伝説が生まれている。が、かしは傾げるで、傾斜地に名づけられる地名である。
・はりの谷―はりは墾で、開墾地のこと。
・牛ぶせり―牛とは地名用語で山稜のこと。ふせは伏せるから傾斜地に名づけられる地名で、ここは牛が伏せた時のように、山稜が広く平らかなことに対する象形語地名。
・国近谷―方言「くち」「くて」等の湿り気の多い土地に名づけられた地名。
・場合―「はけ」「ほけ」「ばけ」「ぼけ」等方言で崖地に名づけられた地名。
・長仁原―比較的長い地域に、山が迫っている原という意であろう。
・小延―小野のあて字。
・こかじや―前のかじや前と同じような地名。こは小さいという意。
・延清―方言で崖地の意である「のげ」「なぎ」のあて字であろう。
和食郷・和食
前述のとおりである。
・八幡原―八幡神社のある原という意で、名づけられたのであろうか。
 或いは神社建立以前からの地名とすれば、八(ヤ)は接頭語で、ハタ原即ち畑原で、この盆地内の一番広大な原に対する命名であろう。
土佐
 ここの地名も、土佐の人が開墾して作った部落であるとの俗説がある。地形から見ると、トは門とか戸、サは狭とか迫の意である。土佐の国の土佐の語源は、国の中心地高知辺りの入口の、浦戸湾の湾口が狭っていることから、その門が狭いことが国名として拡大されたと思われる。
 ここも、山が川に突き出て、鷲敷盆地の中で一番狭まっている所である。それから名づけられたのであろう。
仁宇・小仁宇
 「にう」とは、赤土特も辰砂(水銀原鉱)の産地に名づけられる地名。この辰砂の水銀含有量の高いことは有名である。これらに関連する地名であろう。
・学原―この地名は、昔の学問所等のあった地名ではないか、ともいわれているが、地名学上では、山に囲まれた所に名づけられる地名。囲まれるの「かこ」を学「にあて字したのである。
・王子前―おうじとは、大落即ち山が崩壊した下の土地に名づけられる地名。王子はそのあて字である。
阿井
 「あい」とは、湧水地とか、村境の相の神とか、鮎のよくとれる所とか、川の合流点等に名づけられる地名であるが、ここは果たしてどれに当たるのであろうか。
・コーヤグチ―コーヤとは、高野・耕野で、山の野とか、開墾地に名づけられる地名であるが、ここも人口が増加するにつれて、山手の高い方へと次第に開墾されていったので、その口という意で名づけられたのであろう。
・森チメン―森とは神社のことでもある。昔は森が神の依代であり、領域でもあった。即ち森チメンとは、神社のあった土地とか、或いは「地免」で免税地であろう。昔は神社があったそうである。
・季―すももの木がある所というので無く、昔は阿井村の東の隅にあったということで、隅のあて字であろうか。或はまた、ここが崩壊地を開いた所なので、すは裾の、ももは崩壊地の意のあて字であろうか。
・幸の谷―こうとは、高のあて字である。
・桃の木谷―桃は「もも」「まま」等の方言で、崩壊地とか崖地のことのあて字であり、木は古語キで、基や城等にもあて字される小高い所の意。ここもそんな所。
・ユヤ―湯谷とも書かれ、昔は湯が出ていたともいわれる。しかし、地形から見て、湯は音読とうで、峠の意の方言「とう」、「たお」のことで、ここの峠に対する地名であろう。
・天狗谷―てんご(方言で山頂のこと)のあて字で、山頂へ続く谷のこと。
・四方見坂―山坂か、闇坂のあて字であろう。ここは上ったり下ったり、曲りくねった山坂である。また昼なお暗かった坂道であったことに名付けられたのであろう。
百合・百合
 「もも」とは、崩壊地・崖地・両岸の切り立つた所等に名づけられる地名であるが、元来の意味は、人間の股・腿のように、またくらのV字形のような意味に使われていたと同じ語源の地名であろう。
 なお、合は向きあっている地形とか、崖地の谷の合流するという意味あいであろうか。
・松の木―ただ単に松の木があるという単純な命名ではないと思う。地形から見て、間の基(小高い所の意)であろう。山と川に狭まれた、山裾の台地という意である。
・才ノノ―那賀川に沿った細長い狭い地域。即ち狭野々の意のことであろう。
(この項 植村)


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