阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第29号

鷲敷町における染物・織物・藍作について

史学班 上田利夫

 暮らしの中の衣料が、どうしてどんな形で造られたか。その運搬はどういう風にしたかを調べた。古い記録に那賀郡でも「藍作りが行われ」とある、今津村平島・羽ノ浦村の岩脇・大野村・福井村・鷲敷村・相生村の畑地が藍作地であった。品質は良くないが、かなり広い面積に多く収穫され、地元の紺屋や、徳島の藍商に売却されていた。今迄の定説ならば、藍作は北方7郡ということだったが、この度の調査で、鷲敷町にも藍作があったということが判明した。
 暮らしの中の衣料は、私達には大切なもので、他にこれほど役立っているものは少ない。衣料の原料となる楮・棉・養蚕、これを加工するに必要な材料として、山野に自生する草木があり、また草木を焼いた灰や、石炭・鉄分の多い泥土や、食用植物などがある。何れも身近にあるものばかりで、これらをうまくかみ合わせて生活のなかに利用してきた。特に鷲敷町の交通は不便で、大正年代迄は那賀川の水運に頼っていたから、自給自足共同体の生活だったといえる。
 仁宇には灰船を取り締まる役所、すなわち、灰船座があった。灰船座は、高瀬舟(平田舟)に積まれた草木灰や、荷物の検査・取り締まりをしていた。吉野川筋のような百石積み以上の舟はなかった。五十石積みが多く、物資の流通に大きな役割を果たしてきた。
 土佐町・小仁宇・仁宇・百合(もまい)・和食に多くの船頭・舟子が住み、船付場も、和食・土佐町・小仁宇・仁宇にあった。なかでも仁宇は大型船の船付場で、仁宇を中心とする周辺の集落では、藍作り、染物屋、はたおりが多く、収穫された産物は、仁宇の浜から積み出されていた。


 下りの舟は、木材・板・木炭・番茶・草木灰・葉藍・織物を運び、上りの舟は酒・米・塩・日用雑貨の類を積んでいたので、仁宇は物資の集散地であった。次に述べる棉作り、はたおりの各戸数、各年代の全戸数は、おおむねの数字であるが、正確に近い数字と思われる。
 これからの中山一区は東内。中山二区は上分・生杉。中山三区は助友・唐杉・大下・葛原・日浦。八幡原は岡・井原。和食(わじき)は和食郷で町東部。和食西は和食町西部。小仁宇二区は三延。仁宇は学原。阿井は店筋。百合(もまい)は松ノ木の各地域が含まれている。


 明治初年に中山一〜三区で129戸。和食町東30戸。和食町西13戸。土佐町29戸。小仁宇全区で53戸。仁宇32戸。阿井26戸。百合15戸であった。大正末期に中山一区36戸。中山2区36戸。中山三区53戸。八幡原46戸。北地一区32戸。北地二区33戸。南川13戸。田野10戸。和食町東100戸。和食町西67戸。西在74戸。土佐町50戸。小仁宇一区15戸。小仁宇二区30戸。百合容(もまいだに)12戸であった。
 大正9年に、仁宇56戸。大正5年に阿井60戸。大正末期に百合で50戸であった。
 昭和55年には、中山一区で37戸。中山二区36戸。中山三区55戸。八幡原55戸。北地一区32戸。北地二区32戸。南川19戸。田野15戸。和食町東99戸。和敷町西70戸。西在83戸。土佐町53戸。小仁宇一区39戸。小仁宇二区44戸。百合13戸。仁宇170戸。阿井104戸。百合58戸の人口動態であった。
 大正初年迄棉作りは中山一区で25戸。はたおりは30戸、うち絹ばた3戸、ほか白木綿・木綿縞・絣を織っていた。中山二区で棉作りは23戸、はたおり35戸で、絹・白木綿・木綿縞・絣を織っていた。中山三区で棉作り30戸。はたおり50戸が中山一〜二区と同じ反物を織っていた。
 八幡原で棉作りは21戸、はたおりは25戸で、上手な織手は絹の縞物、紺無地。普通の人は木綿の紺絣であった。織機(はた)も、居座織機(いざりばた)から高織機(たかばた)へ、大正初年には「しゃっくり織機(ばた)」に変わり、周辺地域へ拡がった。
 北地一区で棉作り4戸、はたおり25戸で木綿の紺絣を、北地二区・南川でも同様に織っていた。北地二区の棉作りは3戸、はたおり20戸。南川で棉作り5戸、はたおり5戸。田野で棉作り5戸、はたおり5戸で、絹の紺無地、木綿紺絣を織っていた。和食町東では棉作り7戸、はたおり7戸のうち4戸が絹ばた、他の家では白木綿・絣を昭和5年頃迄織っていた。和食町西で棉作り5戸、はたおり5戸のうち、絹ばた1戸。他は白木綿・木綿縞・絣を大正初年迄織っていた。西在では棉作り15戸、はたおり15戸で、ダルマ式で絹糸を取り、絹ばたを5戸が昭和5年頃迄絹の白無地や木綿縞・絣を織っていた。
 土佐町では、高瀬舟を5隻持っていた。棉作り24戸、藍作りは12戸が大正10年頃迄1町5反余を作付していた。はたおりは20戸が、明治末期迄絹ばた4戸が絹地と、ほかの家では蚊帳・木綿縞・絣を織っていたが、大正初年にはたおりは皆やめた。
 小仁宇一区で高瀬舟18隻、舟乗り兼業を含めて9戸があった。棉作りは15戸、はたおり15戸が、大正15年頃迄蚊帳・木綿絣・木織縞・織紺を織っていた。小仁宇二区で棉作り30戸、はたおり19戸が大正15年頃迄、太布・絹無地・木綿絣・織紺を織っていた。百合谷では棉作り10戸、はたおり13戸が、昭和16年第二次大戦直前迄、絹ばた3戸が絹無地、他は厚司、木綿の紺無地、縞・絣を織り、今でもその織機が保存されている家が何戸か散見された。
 和食には舟乗り兼業を含めて17戸、50石以下の高瀬舟7隻があった。仁宇では、高瀬舟6隻、兼業舟乗りを含めて5戸(うち専業3戸)があった。棉作りは40戸で、藍作は明治22・3年頃まで、約20戸が10町5反余りを作付していた。はたおりは56戸、うち絹ばた24戸で、ほかは太布・白木綿・木綿縞・絣を、絹布は高級品を昭和25年頃まで織っていた。阿井では棉作り50戸。藍作は22戸が5町歩余り、明治22年頃迄続けていた。はたおりは、絹布・厚司・木綿縞・絣・紺無地・白木綿や、太布を昭和13年頃まで織っていた。絹布は13戸が織り、ほかは約50戸が木綿織物を専業として織っていた。
 百合で舟乗り専業26戸、高瀬舟20隻があった。棉作りは40戸、はたおり50戸が昭和13年頃まで、舟乗りの着る厚司・太布・木綿の縞・絣・紺無地・白木綿の外は凡て藍で染め太糸で織った。白木綿は那賀川の水で晒してした。


 中山三区・小仁宇二区・仁宇・阿井・百合の集落でのはたおりは、桑野や富岡の織元から糸を供給し、賃織りする家もあり、これを家業にしていた。また百合には綿打ち屋があり、この地方で収穫された綿を綿打ちしていた。大抵の家で棉を栽培し、種を取り除き、紡いで糸にして木綿織物にしていた。百合の綿打ち屋も、明治初年頃には水車を使用して2戸〜3戸あったが、棉の栽培反別が減少し、昭和年代に入って1戸を残すだけとなった。棉作農家の各家庭には、棉の種取器が今でも1〜2台は残っている。


 木綿織物は、寛政年間以降に最盛期を迎えたが、それ以前は楮から繊維を水で晒して取り、糸に紡いで太布を織っていた。−般農家や舟乗りの厚司に使用するものである。その厚司が現存する家もある。
 上流家庭では養蚕を行い、繭を取り、糸取り器で糸を引き、絹織物として縞柄や白無地に織り上げ、紺屋で柄物に染めて着用していた。はたおり地区や紺屋のある地区は、東の中山地区には少なく、西の土佐町以西の地区に多かった。これは水質の良否によると仄聞した。中山地区や八幡原の地区では、山野に自生する草木で木灰を作り、石灰等を共に自家で染め、紺色だけは紺屋で藍染めにしていた。どの地域でも綿から紡いだ糸は、精練剤として木灰汁でよく煮て、紺屋で適当な色合に染め、木綿縞を織っていた。木綿織物が一般庶民の衣料として使われるようになったのは、寛政年間以降で、鷲敷でもこの頃からであると記録されている。
 北地の佐藤染物工場では、明治末期から大正年代迄、家内工業として、織機4〜5台に、織工を抱えて織紺や木綿縞を織っていたが、現在は工場の建物を残すだけである。仁宇の木内紺屋でも織機2〜3台、織工が来て白木綿・織紺・木綿縞を織っていたが、現在では何も残っていない。
 はたおりは中流以上の家庭で行われ、下層階級の家庭では、家族全部が働きに出たため出来ていない。前述のとおり、桑野や富岡の織元から糸を求めて賃織りをしていた家も、鷲敷全村で30〜50戸あり、織物にたずさわる人も120〜130名はいた。今でも、74・5才以上80〜87・8才の方々から、元気に昔のはたおりの苦労話を聞ける。
 山間の冬は厳しい。手をかじかませながら織機を織ったり、あくぬきした糸(木綿)を那賀川で洗ったりしたこと等、昔話は尽きなかった。白木綿は裏地や肌着の襦袢や、腰巻・褌として使われたようである。
 「鷲敷町史」には、昔の藍作についての項目がなかった。しかし、那賀川関係他町村で調べたところでは、藍作が行われていたと思われる。故老の方々を中心に細部にわたって調べると、前述の如く土佐町に10戸程、1町5反余り、家によっては1反余りの藍作という零細な規模であった。仁宇でも20戸位が10町歩余り、阿井でも22戸程度が5町歩余りの反別を、明治から大正期にかけて耕作し、葉藍として地元の紺屋や、桑野・徳島・北井上村の藍商人に売却していた。余り上物ではなかったので、地元の紺屋にもよく捌けなかったようである。
 藍の品種も赤茎であったというから、赤茎千本の品種であろう。地元の紺屋では、不足分だけを地元からの購入にあてたもののようで、自家で藍玉に造製して使ったという。
 藍作りと共に、煙硝の製造も文化5年小家御蔵百姓新助忌外に命ぜられた。文化8年には、元木辰太郎が阿井村の百姓に煙硝製造御用仰付をしている。幕末まで煙硝の製造が続いた。煙硝は阿波藩の火薬所有高に影響するので、特に製造を要請された。北方藍作地のほか、海部郡の村々でも、また阿井村からも堆肥製造時の副産物として生産されていた。仁宇村で煙硝の製造が行われたと伝えられるが、定かではない。
 この度の調査では、当地の藍作りは明治22年頃という結果を得たが、やや不充分である。この地の煙硝の製造年が文化5〜8年であるところから、藍作もこの年代に遡ると考えられる。他の殻物に比し、藍ほど堆肥を必要とするものがないからである。
 阿井という地名にしても、「鷲敷町史」に由来が解説されているが、私共の調査資料によると、平安時代に藍を「多天阿井」と記述されている。昔の藍作地の地名も、阿井と呼ぶようになったとある。藍は畑地の栽培で、水田の少ない所で耕作された。したがって、土佐町・仁宇・阿井は畑地が多く、しかも地味肥沃で藍作に適していた。藍作りが廃れてからは、養蚕が盛んになり、桑畑がとって代わった。
 北方の藍作も、土佐町・仁宇・阿井と同様の経過を辿って今日にいたった。藍作の条件が酷似していたのによるのであろう。反当たり藍の収穫量も、普通で80貫目、日照りの続いた年で50貫も穫れたら上作であった。葉藍1貫当たり30銭から50銭で、徳島の藍商人に引き取られたという。農家によっては、高く売却できた家もあった。
 反物を織り上げるには、木綿織物の場合は、棉作り・種取り・糸紡ぎ・精練・染色織り上げの工程である。太布も同じく、楮から糸紡ぎして織り上げ、絹織物は養蚕・糸引き・精練・染め上げ・織り上げの工程。なかには、精練の工程をはぶき、織ってから精練して友禅柄に染める場合などもある。交通に不便な土地柄のため、凡て自給自足で、染物屋を総称的に紺屋と呼び、紺屋には八幡原で昭和初年まで原幸吉さんが、藍がめ6本で糸染めを専業にしていた。藍は徳島から取り寄せ買っていた。昭和5年頃に紺屋を廃業し、和食へ移住した。
 北地一区の佐藤染工場では、織機4台で織紺を織り、藍は徳島から買い、藍がめ6本で糸の藍染や無地の布染、蚊帳を、藍に草木と木灰・石灰を媒染に使って、昭和5・6年頃まで染めていた。藍玉を使って2石入りのかめで染めて織り、生計を立てていた。昔の仕事場の建物はなくなっている。
 和食では森静雄氏が、藍がめ2石入り6本で、糸を藍染めしていた。時には蚊帳等も染め、明治45年頃迄紺屋として暮らしていた。小仁宇二区には今川紺屋があり、2石入りの藍がめ6本で糸染を専業として藍染をしていた。藍は地元で収穫されたものや、徳島から購入したものを使ったが、昭和5年頃には廃業したという。また紺屋としては、堀出宇作氏が大正5・6年頃まで藍がめ(本数不明)を据えて、糸や布の藍染や草木染をしていたというが、つまびらかではない。


 仁宇には紺屋としては3戸があった。柏木丹三郎氏は、藍がめ1石入りと、2石入り6本を置き・幟・風呂敷・半天・幕等を糊置きして藍で染めていた。昭和25年頃に徳島から藍が買えなくなってからは、化学染料(硫化、直接酸性染料)を買い求め、昭和48年頃まで染めていた。現在でも、当時染めた幟・風呂敷・半天・布団地が残っている。また、道具も残っている。建物は住居に改築されてしまった。
 ほかに天羽権蔵氏がいた。4代前に名西郡浦庄村下浦の天羽産婦人科医の弟に当たる人が仁宇に移住し家系である。天羽天安産婦人科医として多くの里人に慕われていた。その子が紺屋を始め、1石入りの藍がめ2本と、和釜を使用し、山野に自生する草木の木灰・石灰、鉄分の多い泥土等を媒染に用い、浦庄村から藍(■(すくも))を買い込んで、糸染・無地の布染・幟・風呂敷・絞り染・地絹の無地染をしていた。昭和年代になって、硫化染料や直接染料を使って染めるようになった。藍染液を造るには、さつま芋の煮たもの500匁、または、麥をよまして粥にしたものと、消石灰5合、木灰汁5升を■6貫匁と共に1石入りのかめに入れてよく撹拌し、10日位で藍建てして染液ができる。しかし、この天羽権蔵氏も昭和21年頃に廃業した。現在和釜・藍がめ・幟等が残っているが、建物はない。


 さらに仁宇では、木内豊氏経営の紺屋があった。この家は、今から3代前に立江町櫛渕から分家し、現在地に移住した。櫛渕には、現に本家の木内正夫氏が農業に従事しているが、10年程前まで紺屋をしていた。豊氏経営の藍がめのあった建物は、なかのかめの上に板を張り、物置になっていた。木内正夫さんの祖父の代に、仁宇に分家して移ったものである。この家は代々紺屋で、仁宇に出店という形で移り、木内豊氏の祖父に当たる人が仁宇で藍がめ2石入り12本を据えた。藍玉は徳島市伊月町の藍商や、北井上村の中村商店から15貫入り1俵を5円位で買い、藍がめ1本に藍玉1俵と苛性ソーダ120匁、消石灰3合、ふすま5合またはよまし麥5合、あるいは苛性ソーダの代わりに木灰汁1斗を入れて藍建てし、原液の藍染液を10日余りかけて造った。次のかめの藍建てを「はわし」という。先に建てた藍を種に、藍染液のかめの半分の液に藍玉半俵(7貫500匁)を加えて藍染液を造る。おもに糸染をし、布の無地染や絹糸を染めるものである。
 また、附近の山に自生する草木を採って乾燥し、これと木灰・消石灰・明ばん等を媒染剤として糸を染め、織機2台で紺無地や木綿縞を織るということもしていた。地元で収穫された藍は、藍玉にして使って不足分を補充していた。藍染糸も淡色は1〜2回で染め上げるが、中色や濃色になると、浅黄の濃い色(花色)まで染めて一旦乾燥し、更に染めて濃色に染め上げる。絹糸も草木染めをしていた。昭和12・3年頃まで続けたが、紺屋の後継者が出来ず、木内豊氏で終わりなので廃業したそうである。
 阿井には小松紺屋・北渕紺屋が、昭和2・3年頃まで糸を藍染していたというが、つまびらかに出来なかった。何れヘ移住したか不明で、また小松紺屋については、知る人も少なかった。
 日浦(中山三区)では日並始氏が紺屋で、明治30年頃まで藍がめを据えて糸染めをしていた。明治末期に北海道へ移住し、その跡はない。
 和食には岡紺屋があった。大正2・3年まで藍がめを据えて糸染めを専業にしていたが、大正5年頃廃業して香川県の丸亀へ移って行った。
 八幡原の原幸吉氏は、和食へ移住したのちも紺屋を続けた。また織機2台で木綿縞も織り、藍がめ6本(2石入り)で型染をしていた(前述の補足)。紺屋や中山地区の農家で、草木染めに使われた植物は、乾燥して鍋で煮汁を採る。材料を中に浸して煮て取り上げ、再び煮て取り上げる。これを繰り返したのち、媒染剤となる木灰の汁・消石灰・鉄分の多い土明ばん液に浸して煮て発色させる。最後に水洗いして仕上げる。
 よもぎ―鉄分を含む土で草色。はぎ―消石灰で黄色。または鉄分を含む土で草色。南天―木灰汁で黄褐色。銀杏(ぎんなん)―明ばんで白茶色。げんのしょうこ―鉄分を含む土で鼠色。これに灰汁を加えると茶褐色。桜―鉄分のある土と消石灰で紫褐色の色が染色できる。このように当地では利用された。
 ほかに、くずの根は澱粉として藍染液を造る時に使われ、幕や幟の糊置きや柄染めの型置きには上質のもち米が使われた。もち米も農家で耕作されたものを利用したので、殆んど自給自足であった。藍玉だけは他町村から購入していた。
 大正年代に至り、化学染料が導入されるようになって、徳島の染料商から購入を始めた模様である。草木灰は、炭焼の副産物として産出された。山間の湿気の多い場所に自生するトウダイ草科の山藍もあったが、使用したという根拠はなかった。このほかには、野生の草木染めの染料植物は、詳しく調査できなかった。
 昔は毎月徳島や富岡から商人が藍を売りに来たそうである。上物は余り買わなかったという。
 那賀の山間では、古く繊維の材料として、楮や麻が栽培された。太布には麻から造られたものもあった。昭和年代に入り、桑野や加茂谷から道路も通じ、昭和11年には仁宇橋が架けられた。以前は舟を並べた舟橋で、洪水時には交通が止まる。更に以前は賃取り渡しで、仁宇の河井初太郎氏が、大正9年から11年まで船頭をしていた。舟は長さ5間半、巾6尺2寸の高瀬舟で、運送も行い、4貫俵を184俵、茶なら8貫俵50俵と、大体千貫積みであるが、常時は500貫積んでいた。水深の具合により、積荷を加減した模様。


 仁宇の舟付場を仁宇の津といい、荷扱所が5・6軒あった。丹生谷地方の物産の集散地で、奥から馬車・大八車・荷かたぎで仁宇まで運ぶ。帰りには奥への荷物を積む。仁宇で船積みした荷物は徳島へ行く。徳島の大道に米定旅館があり、荷扱所もしてた。この米定で荷を集め、逆に富田の浜から丹生谷へ送る。岩脇には紀之国屋という荷扱所があって、これが中間点で、徳島や仁宇からの荷物を中継し、集散する場合もあった。
 那賀川口の黒津地や富岡へも荷物を送った。こちらは更に遠く、江戸・浪速への出荷港であった。
 舟積み貨物は、酒・生活必需物資が主であった。県道の終点は小浜の越野である。産物は小浜の奥地から荷かたぎで越野まで運び、ここから荷車に積みかえて仁宇へ運んだ。昔は物々交換が多かった。朝出た荷は午後4時頃までに仁宇へ着く。4時過ぎには仁宇から舟で積み出す。物々交換の時代が過ぎ、貨幣経済が浸透してからは、舟の運賃も仁宇から岩脇まで、1杯借切り10〜11円となり、人の場合は1人50銭であった。明治以前は、これに相当する金額であろう。
 舟は凡て2人乗りで、1人が1度に1人当り50貫の荷物を運んだ。仁宇の舟付場から2、3丁北西の所に代官所があり、藩政末期に柏木叟右衛門という役人が、藩の灰船座を兼務し、灰船から木灰1俵ずつに対する税金(川物成)を徴収した。多勢の役人が常駐し、現在の山文堂印刷の西村社長宅のある、三反半の敷地内に、役所・役宅・書院・牢屋があった。天候の良い日は別であるが、天候不良の時は舟止めになる。舟子や旅人の泊まり客で舟宿はにぎわった。


 那賀川は急流が多く、坐礁の時は多勢を雇い、底ざらえして航行を続けた。引舟人足も各舟付場に配置され、上りは舟子のほかに引舟人足が舟を引いた。那賀川の舟付場は、黒津地・中島庄・仁宇・津川口・桜谷・小浜等23ケ所あり、それぞれ近くに渡し場があった舟子・船頭の着物は、厚司のほか半天があり臀部上端までしかない。これらの半天・厚司は、仁宇・百合で織り、殆んどが藍染で、着替のため多数をもつのが常であった。


 この那賀川筋には燈台のある舟付場があったが、現在はどこにも残っていない。引舟にはそれぞれの持場区域が定められ、区域争いなどは一度もなかったという。仁宇や阿井・百合の地域では、明治から大正にかけて戸数増加が著しく、その殆んどが奥の延野や川口から移住した社会増によるもので、土着民の自然増は少ない。一時両者間に意志の疏通を欠いだ時もあったが、逐次解消され、今日に至った。
 那賀川水系に航行していた「高瀬舟」は、50石積みで、その数は200隻を越えた。舟の構造は次の図の通り。


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