阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町における吉野川洪水記・人口動態・藍作・焔硝採取・棉麻栽培・養蚕・織物・紺屋について

染織班

  上田利夫・尾崎清治・橋本梅子・

  前田カオル

吉野川洪水記:
 吉野川洪水により、藍作地の田畑は冠水及び流失し、多く被害あり。農家経済に及ぼす事大なり。地域によっては一家悉く流失せし所、又上流からの肥沃土推積し、良くなりし所もあり。その記録に残る洪水の後を記す。
 天正10年9月9日、洪水に乗じ十川軍を長曽我部軍が攻めた中富川の戦いもあった。
 慶長9年12月6日(1604)洪水。元和5年洪水。寛永5年8月14〜17日大洪水で、美馬郡舞中島全戸流失。天和2年12月1日洪水。天和3年3月4日大洪水で家屋流失の被害有り。
 貞享4年8月と9月洪水。元禄2年、元禄4年、元録6年大洪水田畑流失。元禄7年洪水。元録14年7月10日大洪水、田畑流失。元録16年洪水。宝永元年、宝永3年、宝永4年に洪水。享保7年6月8日と8月に大洪水被害者有り。家畜死者多数。享保13年2月と9月1日洪水。享保14年3月と7月と9月大洪水家屋流失す。享保16年8月洪水、享保17年洪水。
 宝暦6年、宝暦7年7月7日と24日大洪水。家畜流失被害甚大。明和2年6月、明和8年8月洪水。天明3年3月大洪水、家屋に被害あり。天明5年洪水。寛政3年洪水。寛政4年7月大洪水、家屋流失し溺死者多数被害甚大。寛政7年洪水。
 享和2年2月大洪水、家屋流失被害甚大。文化11年、文化12年7月6日、文化13年8月23日洪水。文政3年、文政8年7月15日、文政9年8月30日。文政12年7月17日洪水。
 天保8年4月、天保14年7月洪水。弘化3年大洪水、家屋流失被害有り。嘉永2年8月、嘉永5年、嘉永6年5月と8月洪水。安政3年8月1日洪水。慶応2年8月大洪水、家屋田畑流失被害甚大。
 明治2年9月6日、明治9年8月26日、明治10年洪水。明治17年8月大洪水。名西郡高原西小学校や家屋流失し、人畜溺死者多数。明治21年8月21日、大洪水。家屋188戸、田畑400町歩流失、溺死者26名に及ぶ。明治22年8月、明治23年8月洪水。明治32年7月9日大洪水。家屋流失し、人畜被害有り。
 明治44年、大正元年8月、大正7年洪水。昭和3年、昭和6年、昭和9年(室戸台風)、昭和20年8月洪水。名西郡平島旧堤決壊家屋に被害有り。昭和29年大水。
 以上のような記録が残っており、以上以外の記録もあり、上流からの肥沃土が推積し、藍作の好適地となった地域もある。


人口動態について:
 明治25年以後の戸数の推移を、約10年毎に表に組むと次のようになる。


 大正年代迄は、全戸数の6〜8割が農家であったとみられる。

 

焔硝採取について:
 焔硝は藍作農家や■作り農家で、■を作った時の寄せ板の隙間や土間に、アンモニアの結晶が析出する。また堆肥作りの時にも出来る。一般農家では、堆肥造りの時に採取したものは、肥料として土肥に混ぜて施肥していた。藍師の家では、火打石の火口として多く利用され、余剰は焔硝屋に売却した。
 川島の「浪速屋」や西知恵島の「河野家」では、吉野川の堤防下に焔硝蔵を築き、貯蔵していた。河野家は、明治18年に民間で始めて火薬の取扱いを許された家である。一般の家では火打ち石と共に火口が使われ、火口は古くは蒲の穂と木炭と焔硝と硫黄で造ったが、マッチが出来て必要がなくなり、狩猟用の火薬として多用された。牛島の■河村家では、煙火を造るのに利用された。

 

棉作りについて:
 棉作りの歴史は寛政年間以降で、森山村に15戸、西尾村に30〜50戸、牛島村に200戸位、知恵島に50戸余り、鴨島の地域では20戸余りが栽培をして、自家用に糸に紡ぎ、木綿織物に織っていた。各棉作農家では、棉の種取器を何台も持っていた。棉の実は敷地の須見が買いに来たので売却した。その実は棉実油に絞り、食用等に利用したり、機械の潤滑油に利用していた。棉作りは、大正中期には皆やめてしまった。

 

麻作りについて:
 麻作りは、応神天皇の時代に、呉の国により織物の技術を導入し、呉島郷の呉島、飯尾、敷地で栽培が行われ、このほか推古天皇の時代や、古くは忌部入国後、高越山麓や向麻山麓で栽培した。
 これらは唐谷川や呉谷川や向麻山北麓の川で晒して原糸を造り、織物にした。主に大麻や亜麻が作られ、白絹の原料である苧麻(からむし)には白色苧麻と緑色苧麻があり、日本では繊維の長い白色苧麻が作られた。現在は野草として県内各地に自生している。
 飯尾から上下島にかけて60戸、上浦では50戸位が大正10年迄栽培していた。遺物として、向麻山北麓に麻を晒していた麻搗(おつ)き岩が残っている。

 

養蚕について:
 伝説として、神代の時代に豊玉姫命(ひこほほでみの命の夫人)が阿波に来て、養蚕を営み、織物として一般に広めたと伝えられている。応神天皇の時代に、呉の国より養蚕技術が伝えられ、飯尾唐人の地で織物を織ったと伝えられているが、立証できる古資料は残っていない。
 明治から大正にかけて、藍作不振となるや、藍作地は桑園に変った。鴨島地区では150戸、牛島村では450戸、森山村で500戸、知恵島で200戸、西尾村300戸が養蚕を営んだが、昭和16年頃には、一部を除いて殆んどが廃業した。
 大正11年に時点を返してみると、麻植郡の養蚕戸数4,191戸、大正12年には桑園が7,658町歩であった。製糸業を営む者は牛島村に8戸あって、ダルマ式の座繰機で繭から糸を紡いでいた。
 鴨島には「佐度製糸所」があったが、後に「片倉製糸」に売却された。片倉は昭和30年頃迄操業していたが、「筒井製糸」に売却された。筒井は一時脇町に分工場を設営したが、これを廃止して鴨島だけとなり、堅実な製糸業として続けられている。

 

藍作りについて:
 藍作は天智天皇の時代、全国に藍作奨励の詔勅が下り、忌部一族も高越山麓一帯を開拓して木綿(ゆう)麻と共に、学島村の呉島で行なわれた。村上天皇の時代に全国より藍が献上され、中でも阿波の藍が最優秀であると賞された。以来幾多の変遷を経て、慶長元年播磨の国より藍種を取寄せて、呉島(鴨島町上下島の一部)に試植せしめた。
 さらに、慶長4年播磨より藍作技術者数名を招き、藍の移植やら藍作を始め、元文5年には、牛島・上下島・麻植塚・鴨島・内原・中島・飲尾・山路・敷地・森藤・西麻植・知恵島で、反当り20貫から55貫の葉藍の収穫があった。
 弘化2年には知恵島で16戸の藍商があった古記録がある。大正6年に藍商としては、鴨島・西尾・森山・牛島・知恵島全部で、92戸が数えられる。
 明治25年には、藍作反別771町歩、藍作戸数960戸があり、山際の地域では、小上粉・赤茎千本・百貫等の品種が作られた。平坦の地では、紺葉や椿葉が主として栽培された。藍玉搗きの家も、各地域に3〜5戸、■作りの家も20〜30戸位あった。藍作農家では、近くの藍商の家へ葉藍のまま売却する家もかなり見られた。出来るだけ近くの藍商へ売ることにしていたと思われる。
 藍商も、鴨島で「野木勇」「川真田徳太郎」「戸田禎三郎」、西麻植の「工藤鷹助」「工藤謙太郎」、飯尾の「石原六郎」「石原善助」「須見千次郎」、知恵島の「笠井嘉之次」「片岡多三郎」、牛島の「藤井伊蔵」等があり、ほかに「蓬庵光明録」に名を連ねている人が多くいた。
 飯尾の「高橋嘉平」は、名西郡高原村平島より飯尾に移住してきたもの。明治34〜37年に、■作りの時に撤水した葉藍の下に、藍の茎だけを並べて、莚を敷いて醗酵を促進させる方法を開発した。さらに大正8年には、中南米のグワテマラ藍や、インド藍・ジャワ藍の輸入を行って商品として売却した。
 古くは、鴨島(呉島郷)の呉島で、上物用として高麗藍を、中物用として京藍を、下等用として広島藍(芸州藍)を栽培していた。藍の虫の駆除には、苦木(にがき)を煎じた汁を撤布した。ほかの野菜を食害する虫の駆除にはアセビを用い、判然と区別していた。
 知恵島の千田塚を中心として10数戸の藍商の家では、椿葉を主に栽培し、沈澱藍(明治以前は青藍)を採取していた。反当り上物で5貫、中物で7貫、下物で10貫の採取量があり、反当りの金額も■の何倍にもなったが、生葉藍から直接採取する為に労力と手間がかかった。藍こなし時期と重なるので、余程の人員が居ない限り採取因難だった。
 藍商が出荷する品目は、葉藍・■・藍玉・阿波正藍とあり、阿波正藍とは沈澱藍をいうのである。普通藍商では多くて2床位であるが、中には1床400貫を3〜5床の規模で■作りをしていた家もあった。毎年2月頃には藍の大市があって、良い物には天上・日本瑞一・准一の表彰金札が与えられた。現在藍作農家は2戸だけである。

 

織物について:
 阿波国における織物は、伝説として古くから色々伝えられているが、日本書紀によると、応神天皇37年春2月、呉の国より漢織・呉織が来て、唐人の地(飯尾の瓢箪谷の東北の地域をいう)で綾織を織らしめたのが始めで、全国20ケ国で綾織を織らせた内の1ケ国が阿波である。また推古天皇の時代に、高麗の僧が織工を連れて来て、上浦の地で麻織物を織らしめたとも伝えられる。
 天明天皇の和銅5年にも、錦織や麻織物を唐人の地で織り、後になって牛島・喜来・飯尾で綾錦・絶絹(あしぎぬ)・太古錦・まんだら織が明治35年迄織られた。まんだら織は神代縞と改名され、大正末期には絶えた。この頃京都から綾錦の製織技術を習得するため、徳島のこの地へ来て数年かかって完全に技術を習得して帰京し、京都の特産品にまで広める基礎を造り、現在に伝えられている。
 いま綾錦の製産は原産地にはない。昭和20年頃に、錦織の生産はやまり、その技術保持者として岸田幸1人が現存するだけである。屋号も「錦屋」といえば、麻植塚や鴨島の人なら誰でも知っている。
 推古天皇の時代、しじら織として入国し、全国各地で織られたが、これは絹のしじらで、撚りをかけて織上げた縮織である。この唐人の地や、麻植塚や、上浦で多く織られ、棉が作られるようになってから木綿織物ができ、夏の衣料としてタタエ縞が織られた。
 飯尾の農家の副業としてタタエ縞を製織中に、織違いの縞から変り織を発見し、ちぢみ織を織上げ、後に阿波しじらとなった。
 現存の文書には、海部ハナ女の工夫によるとしているが、充分調査をしないまま海部ハナ女説が固定したかに見える。しかし真実は1人の人がしじら織を考えたのではなく、飯尾の人々の集団の苦心作であることを、過去の調査から立証して御理解を載きたい。
 錦織も和銅5年より呉島郷各地で織られ、原糸の金糸銀糸も飯尾で造られ、まんだら織に使用された。延宝8年には衣類として武士以上は日野絹紬を用い、百姓町人は太布・木綿を用いるようになっていた。
 織屋も職業として、飯尾に「工藤佐太郎」・「工藤瑞一」「岡田真之蒸」「古谷賢一」、山路に「木村唯之」「笠原新一」、飯尾の「富樫磯吉」、西麻植の「立石亀三郎」、喜来の「野田政義」ほか数戸、「北喜久雄」等があり、八本松には「以西種蔵」があり、各々手織機10〜15台で木綿縞・紺緋・しじら等を織っていたものである。
 絹織物では、綾錦・太古錦・絹のしじら・絹縞・銘仙、麻では「あらたえ」等を織っていた。またネル等も、喜来の「野田政義」等が織っており、錦織は喜来の「岸田国夫」(幸〔みゆき〕の父)「川村キミ・ハナ」、「宮本マサ子・キミ」「谷」、麻植塚の「阿部」、牛島城之内の「岡田タカノ」ほか6名が織っていた。
 各農家では、自家用衣料に木綿縞や紺織を、山路で60戸、内原・森藤で140戸、上浦で150戸、上下島で50戸、西麻植では200戸、飯尾・敷地で30戸、牛島で20戸、麻植塚で13戸、喜来で30戸ばかりが織っていた。以上の織物も、大正末期から昭和始めにはすべて廃絶した。
 飯尾唐人に「呉羽比目」を祀る「呉羽神社」と、向麻山麓に「黒鷹神社」がある。何れも呉の国や高麗の国から、織物や養蚕の技術を伝えた人を祀ったものである。
 以上織物について概略を述べてきたが、この資料は、短かい「学術調査」の期間中で得られる内容ではない。期間中「染織班長」を務めた筆者が、昭和20年以降、丹念に集めたデーターの集積にもとづくものが多いことを付記しておきたい。

 

紺屋について:
 「紺屋」の語は、藍を中心として草木染をする染物屋の代名詞である。紺屋は呉島郷各地にあった。染色業を営む者は、天文10年に始まり、古くは藩政時代から、昭和年代に至る迄、色々な染物が行われていた。
 飯尾には、工藤2軒と、高ノ原に3戸、森藤に3戸、鴨島に6戸、山路に1戸、中島に1戸、上浦に4戸、牛島に6戸、西麻植に2戸、知恵島に1戸があった。藍や含藍植物のキンモクセイ・キョウチクトウ・ナツメ・キツネノマゴ・クロウメモドキ・コマツナギ・蓼等を藍に混合して、玉として使った。
 ほかには、センダン・桜桃・柳・銀杏・栗・ヨモギ・チガヤ・モッコク・トウモロコシ・小豆・桑・クチナシ・梅・茶・ヤマモモ・クヌギ・ナラ・ゲンノショウコ・バラ・南天・イタドリ・萩・甘藷・柏・ケヤキ・柿・ザクロ・ツツジ等を染剤として使用した。媒染剤には消石灰・木灰・明ばん・酢等を使って染めていた。
 藍は、葉藍・■・藍玉を、フスマ・木灰・石灰で藍染液を造って染めていた。沈澱藍は前述のように上物で、絵具や注染・友禅等の高級染色に使用されていた。
 一般の染色は、糸染・幟・幕・のれん・風呂敷などであった。これらの染色も、昭和初期には殆んど絶えた。紺屋の作業場も皆建換えられ、道具もなくなり、昔日の面影を偲ぶよすがもなくなってしまった。
 この稿を起すに当り、町内各所へ出向いて色々な方にお会いして御教示を頂いた。末筆ながら厚くお礼を申し述べる次第である。
 なお、洪水の記録、藍の歴史、藍作、織物、紺屋に関する詳細な内容については、昭和58年12月発行の「補稿改訂阿波藍民俗史」を参照して頂きたい。


徳島県立図書館