阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町の遍路道

史学班 喜多弘

1 はじめに
 空性法親王と僧賢明が、四国霊場を巡拝した時の様子を記した「四国礼場御巡行記が、霊場巡りの書としては、最も古いとされている。しかしその書中に、すでに僧真念が遍路のために、堂を建てたことが載せられている。真念は寛永〜元禄のころの人で、生涯に20余度も四国を巡拝して、四国遍路の草分けとされているが、四国遍路の起源は平安時代の終わりごろであろうといわれている。
 江戸時代には遍路に出るにも許可を必要としたが、明治になって旅行は自由になり、春秋の彼岸の頃には、大ぜいが連れだって、遍路に出た。現在はバスやタクシーによる団参が多くなり、徒歩の遍路はあまり見かけなくなった。
 今回の綜合調査を機会に鴨島町内の旧へんろ道の様子や、遍路に対する人々の温かい、接待ぶりを探ることができた。

 

2 四国霊場巡拝案内書
 四国霊場を巡拝する人々のために、各霊場の位置、由来、本尊名、道順や途中のようすを記した、次のようなガイドブックが、古くから刊行されている。
 1 空性法親王四国礼場御巡幸記  賢明著
 空性法親王(1573〜1650)は後陽成天皇の弟で、嵯峨大覚寺門跡、65才の寛永15年(1638)に四国巡拝した時の様子を、同行した伊予大宝寺の権少僧正賢明が、七五調の美文で記した最初の巡拝記である。
 「十里十箇所打ち過ぎて、無比中道の藤井寺、登る山路も嶮阻にて、難行苦行も焼山寺。」
 2 四国遍路日記  澄禅著
 前書から16年後の承応2年(1653)7月18日から10月28日までの100日間の遍路日記で、近年宮城県塩竃神社から発見された。澄禅(1613〜1680)は肥後国球磨郡の人で京都智積院の僧となった。この書で当時の、四国遍路の様子がよくわかる。
 3 四国遍礼(へんろ)功徳記 上、下巻  真念著
 真念が集めた功徳談は道理に合わぬものが多いと、寂本は採用しなかったが読者の桟根に応じて信仰の一助になると、寂本と相談して27篇を上下2冊にまとめ元禄2年12月に刊行した。霊験談や功徳談を集めている。
 4 四国遍路道指南  真念著
 四国遍路日記から3、4年後の貞享4年(1687)に大坂で刊行された。真念は高野山の身分の低い高野聖であったが、生涯20数度の四国巡拝をし、「四国遍礼功徳記」「四国遍礼霊場記」とともに、真念の見聞記である。
 「十一番藤井寺、後左右山、東向 麻植郡 本尊薬師坐長三尺大師御作。詠歌 色も香も無比中道の藤井寺、真如の波の立たぬ日もなし。これより焼山寺迄三里。山坂にして宿なし。」
 5 四国遍礼霊場記(全7巻)  寂本著
 真念が巡拝中まとめた記録と、真念に同行した洪卓の画いた略図をもとにして、高野山宝光院の住職寂本が編集して、元禄2年(1689)に出版した。(寂本は四国巡拝をしていない。)寂本は山城国深草の人、仏・儒の外、詩、書画、彫刻にもすぐれ、その挿絵は当時の寺の様子をよく表わしている。
 6 四国遍礼名所図会 5巻  久保武雄複刻
 序文に「河内屋武兵衛という人の蔵書の中からこの本が出た。調査の結果、寛政12年(1800)3月20日出発、同年5月3日帰宅、4月閏なので73日を要した。170年前の歴史が詳細にわかるので複刻した。」とあり、阿南市富岡町の久保武雄氏が昭和45年頃複刻出版したもので、実景をまのあたりに見るように、じょうずに写生した各寺の絵が載せられている。
 7 その他
(1)四国遍礼手鑑 元禄10年刊  寂本著
   四国遍路指南の縮小版ともいえるものである。
(2)四国遍礼道指南増補大成 明和年間刊  洪卓著
   これらは真念の著書を本にしたものである。
(3)四国遍礼絵図 宝暦13年刊  細田周英著
   その後の案内書は、以上の図書を元にしたものが多いといわれている。

 

3 藤井寺
 四国霊場第11番札所金剛山藤井寺は、鴨島町飯尾、呉郷団地の南の山麓にある。
 寺の伝承によると、弘仁年間、弘法大師42才の時、この地方を巡錫し、一民家に立ち寄ったところ、家族だけでなく、付近の人々もみな、悪霊の崇りで熱病に苦しんでいることがわかった。大師は付近の大岩の上にこもり薬師如来を刻んで祈ったところ、諸人の病気はたちまち平癒した。喜んだ人々は一宇の堂を建て、その仏像を祭ったのがこの寺の起こりであるという。


 本尊薬師如来は像高87センチメートル、一木造り、左手に薬壷を持ち、右手は施無畏の印を結ぶ。彫眼、内刳り、漆箔、彩色の跡は見られない。その胎内には
 「為後世井 仏師経尋 円□□□□ 尺迦仏 久安四年十一月卅日」
 と記されている。久安4年(1148)岡山の仏師経尋が、釈迦如来として刻んだものである。また膝の裏側には
 「敬白 天文十八年 仏師四十七□十一月十一日 伊□作」
 と墨書され、天文18年(1549)に補修したが、その時に薬壷を持たせて、薬師如来にしたのであろうという。なお台座は江戸時代の作である。それで明治44年国宝に指定された時も、銘文のまま釈迦如来とし、現在国の重要文化財となっている。
 その後天正の兵乱によって建物はことごとく焼失して荒廃していた。承応2年(1653)7月ここを訪れた京都智積院の僧澄禅の四国遍路日記には、当時の様子を次のように記している。
 「藤井寺本堂東向、本尊薬師如来、地形尤殊勝也。二王門モ朽ウセテ■ノミ残リ、寺楼ノ跡、本堂ノ■モ残テ処々ニ見エタリ。今ノ堂ハ三間四面ノ草堂也。二天・二菩薩・十二神・二王ナドノ像朽ル堂ノ隅ニ山ノ如クニ積置タリ、庭ノ隅ニ膝ヲ入ルル斗ノ小庵在。ソノ内ヨリ法師形ノ者一人出テ、仏像修理ノ勧進ヲ云。奉加ス。」
 とあり、荒廃の様子がよくわかる。
 今から約300年前の延宝年間に徳島市福島の慈光寺の僧南山和尚がこれを再興して、以後臨済宗となった。第15番国分寺(曹洞宗)とともに、札所としてはめずらしく禅宗である。南山和尚は後に京都の妙心寺に入り、その管長となった人で、藤井寺には、その頂相(ちんそう)(自画像)が残っている。
 元禄2年(1689)僧真念の紀行を本に、高野山の僧寂本がまとめた「四国遍礼霊場記」(全7巻)巻3阿州上にはこの寺のことを
 「此寺大師の啓迪(けいてき)なり。本尊薬師如来大師作。寺前鐘楼、傍に地蔵堂・鎮守祠あり。下に二王門を構えたり。今は禅者棲息せり。これに依て今の堂其宗の風に作れり。岩渓水清し。潺湲(せんかん)として岩間段々に落る所。白藤の棚などとも見るべきとぞ。堂前古藤あり。寺の名はとはでもしりぬべし」
 と記している。
 藤井寺谷に沿って、二王門を入ると右側に、この寺の象徴ともいえる数株の古藤の棚があり、5月の初め五色の花を開く。
 四国遍路たちは、1番霊山寺を出発して、6番安楽寺付近で1泊、第2日の宿泊はちょうどここになる。早く着いても、遅くても、この付近に泊まり、英気を養ってよく朝早く、寺の後の「へんろころがし」という嶮しい山坂を登って、12番焼山寺へ向かう。それで寺の付近には5、6軒もの遍路宿があった。現在はバスによる団参が多く、歩いて山を越える遍路はごくまれであり、寺の宿泊施設も整って、遍路宿は1軒を残すだけとなっている。

 

4 藤井寺への遍路道
 1 切幡寺より藤井寺へ 一里半
 切幡寺の門前町を南へ下り、吉野川の支流善入寺川を「大野島渡し」で渡り、善入寺島を横切り、吉野川を「粟島渡し」で南岸に渡る。この道は藤井寺への最短コースであった。
 (1)「無銭渡しと無銭庵」正しくは「粟島渡し」「光明庵」というべきだが、この方がよく知られている。光明庵は粟島渡しの南岸、川島町との境界にあった。享保年間(1716〜1735)の創建である。文化5年(1805)4月5日以後、粟島渡しを渡る四国遍路に限って、無料で渡したので、無銭渡しというようになった。そしてここを渡る遍路に奉加帳を渡し、故郷で募金してもらって、次に来る遍路に金と帳面を送ってもらい、それを土地の富豪須見、後藤田両家で保管した。また光明庵所有の田畑1町5反歩の収益金は、藍役所で預かり、それらの金で船頭の給料を支払った。遍路である証明は光明庵が発行したので、無銭庵の名が生まれたという。庵は明治39年全焼するまでは、毎年貞光町端山の人が、遍路への接待に来て、4、50人もが泊まって炊事することができたほどで、四国でも屈指の大きな建物であった。再建した庵も大正3年、吉野川の改修工事で堤防敷となり、仏像は市場町山野上の大野寺へ移した。その後奉加帳による募金も行われなくなり、一時八幡町の富豪内田阿曽太郎らの拠金で、無料渡船を続けたがそれも中止され、無銭渡し、無銭庵の名前だけが残った。


 (2)「八幡橋の架橋」 大正12、3年ごろ、国鉄西麻植駅廃止の風説が流れた。この駅が廃止されると、市場・八幡方面の貨客の輸送が極めて不便になるので、昭和3年8月八幡町と西尾村は「八幡西尾橋梁組合」を結成、1 径費は両町村で切半、2 長さ91間(約163メートル)幅10尺(約3.3メートル)を架け、3 八幡橋と命名する、ことなどを決めて、昭和5年2月7日竣工、よく年には西麻植切幡間に定期バスも運行した。また遍路のためには、お接待の人たちが無料券を渡したりした。しかし一般の人は有料のために、橋番を置いたり、洪水の時には橋板が流失したり、撤去するなど、多くの経費が必要であった。ともかくこの橋は、昭和16年まで継続したが、戦争で資材の入手が困難になり、また渡船の昔に返った。戦後昭和27年、西尾、八幡、土成3町村で「八幡橋再建期成同盟会」を設立、同29年県議会で、予算930万円で、よく30年9月着工、31年1月竣工などを決議したが着工に到らず、同34年1月31日、従来の県道川島切幡線を、県道切幡西麻植停車場線に変更、粟島渡しも県営となって、渡し賃は無料になった。その後種々の事情で、同46年4月27日、川島町城山下に潜水橋がかかり、県道も川島切幡線の旧に復した。そして無銭渡しで知られた県営粟島渡しは廃止された。この時橋脚は平水下1メートルで切り取られたが、現在は水面に1列に並んで、当時の跡を残している。


 (3)「粟島渡しの渡船転覆事件」 春秋彼岸の中日には、切幡寺では流水潅頂が行われ、阿北各地からの参詣者で、境内は埋まるほどである。ところが昭和17年3月彼岸の中日、午後3時ごろ、参拝帰りの人々を満載した粟島渡しの渡船が転覆。5人の死者を出す事件があった。その後、彼岸の中日には、藤井寺に参拝する人が多くなったという。
 (4)「もう一つの無銭渡し」 愛媛県今治市で発行する同行新聞に、「江戸時代の遍路」と題する次の文が載せられている。
   「最後に特異な接待の例をあげる。それは吉野川渡しの接待である。切幡村より吉野川を渡る本渡し(粟島渡し)は渡しにくいので、渡し賃が高い。それで阿波郡西香美村(現市場町)まで、3里の道のりを行って、そこの接待宿(善根宿)に泊めてもらい、よく日接待の渡しに預かったが、当邑の者、川向こうの大江郡(麻植郡)三津島邑(現川島町)の者と力を合わして、春夏300人、500人の行脚人たりとも、尋ね来る者悉く業を捨て、無賃に之を渡し、且つ宿を施すと云々」
とある。この文の出所は、文化元年(1804)窪野円福寺の僧と弟子の四国巡拝記「海南四州紀行」である。三ッ島渡しは現在の阿波麻植大橋の上流約200メートルなので、かなりの廻り道になるが、粟島渡しを通るには、もう一つ大野島渡しを渡らねばならず、船賃も高いので、善根宿に泊まり、無賃で渡してくれる方へ、大廻りしたのであろう。
 また「四国遍礼名所図会」には「一書に大野島村、大八村(粟島村?)と行く道有、やはり法輪寺(8番札所)へ戻り、藤井寺へ行くべし。此方吉、切幡村、秋月村、どなり村、二条村、柿原村、吉野川船渡し三文宛、■川(江川?)船渡し二文宛、麻植村此辺一帯藍多く作るなり。」とあり、今の吉野川中央橋付近の源太渡しを、渡ったのであろう。
 また別に、切幡から八幡の町を南東へ抜け、伊月で乗船、西麻植駅の北に出て、藤井寺へ行く。これは1回の渡し船でよかった。
 2 藤井寺より焼山寺へ 三里(50町1里)
 「へんろころがし」 昔の四国へんろは、藤井寺に参拝した後1泊して、英気を養い、よく朝早く嶮しい坂道を登り、第12番焼山寺へ向かった。この間約16キロメートル、6〜7時間の行程でその間1軒の民家もなく、飲み水さえもない、さびしい坂道である。これを「焼山寺道」「焼山寺越え」といい、「へんろころがし」ともいって、四国巡拝コース中、最大の難所である。


 焼山寺越えは藤井寺本堂横の大きな道しるべから始まる。それには、
 左側に 寛延二巳年正月廿四日
 右側に 山より百十九丁
  注、山は焼山寺
と記されている。これから上へ、約3.6キロメートル登ると、長戸庵、そこから4.5キロメートル尾根伝いに柳水庵へ、柳水庵から一本杉(杖杉庵)まで約3キロメートル。一本杉から焼山寺へは19丁(約2キロメートル)下りて、18丁登らねばならない。それで約1里ごとに休息所があることになる。
 最近はバスによる団参が多いので、このコースを行く人は極めてまれである。私が登った時も秋の好シーズンであったが、出あったのは岡山県から来たという老遍路と、きのこ取りの人だけで焼山寺まで5時間を要した。この淋しい山道を、遍路は「同行二人」と、弘法大師を道連れに巡拝する。
 「道しるべ」 こうした遍路を励ますように、この道には200基に余る仏像を彫った丁石や、道しるべが建っている。こんなに多いのは他のコースでは見られないという。また道端の所々に、旅の途中で力尽きて、みとる人もなく死んだ遍路の墓がある。それには生国や名前が彫られている。これらの石碑は、嶮しい坂道を運んで建てたもので、遍路をいたわる町民の優しい心をうかがうことができる。
 「長戸庵」 長戸庵は藤井寺から上へ、手をたてたように嶮しい坂道を登りつめた所、鴨島町敷地字長戸にある。昔弘法大師がこの坂を登って、ここで休息していると、足腰を痛めた老人が通りかかった。大師が加持すると、たちまち痛みが止まったので、老人は一宇の堂を建て大師の像を祭って、修業山長戸大師堂と名付けたのが始まりであるという。宝形造りの美しい建物で、周囲もきれいに掃除されている。徳島市鮎喰町から、毎月掃除に来る老人があるという。
 鴨島町飯尾の持福寺に所属し、昔は庵守りがいたが、現在は無住である。ここから柳水庵までは、比較的緩やかな尾根道である。
 承応2年澄禅の四国遍路日記には、焼山寺越えの様子を次のように記している。
 「是より焼山寺へ往には、大事の山坂を越え、行事三里也、阿波無双の難所也。先ず藤井寺の南の山え上るに、峰を分け雲を凌ぎ、一時辛苦して大坂を登り、峠と思しき所(柳水庵か)に至って見ば、其先に又跡よりも高き大坂在り。樵夫に逢て是より焼山寺へは何程斗有と問ば、今二里也と云。自他共に退屈して、荷俵を道中に捨置て休息す。又思立て件の坂を上りて見ば、向の山に寺楼見えたり。これこそ焼山寺とて嬉しく思えば、寺との間に深谷在り、道はその谷の底に見たり、ここにて(注一本杉庵)飯などいたし、彼深谷へ下り付て見ば、清浄□斎なる谷川流れたり、此清水にて手水をつかい、気を付け、又三十余町上て、焼山寺に至る。」
 とある。最近文化庁や徳島県が、「四国の道」と名付けて、旧遍路道を修理、拡張して、道しるべや休息所を造ったので、この道もよほど登りやすくなった。
 3 藤井寺から一の宮大日寺へ 三里
 藤井寺から山裾の道を通って、第13番札所大日寺への遍路道があり、各所に青石の道しるべが建っている。


 藤井寺から北へ出て、呉郷団地南端から山裾の細道を東へ、梨の峠への登り口から三谷寺の前へ出て、壇の大楠の南へ登り、玉林寺の下を寺谷に沿って下り、向麻山の南から上浦の山裾を東に行く、旧伝馬道に沿うルートと、梨の峠の登り口から少し北へ取り、一の坪から一町地の南に沿い、森山小学校の東へ出て、山路の県道と並行して、向麻山の南で前の道に合流する。これにも辻々に青石の道標が立てられ、弘法大師にまつわる伝説や途中病死した遍路たちを葬った墓地がある。
 4 その他の札所へ
 この他17番井戸寺や吉野川北岸の各札所への道があり、要所に年号や藤井寺への道のりを彫った道標があって、当時の遍路の往来の跡をうかがうことができる。

 

5 遍路石
 遍路道の要所には、大小各種の遍路石(道しるべ)があって遍路の便宜を計っている。今回の調査では鴨島町内で100基近く確認したが、実際にはこれよりはるかに多いものと思われる。
 そして、それらを大別すると、1 真念が建立したもの。2 真念の意を継いで再建した千躰大師。3 中務茂兵衛が立てたもの。4 鴨島町内の人が建立した青石の道標。5 その他である。
 「真念建立の道標」 花崗岩製、真念は貞享・元禄のころの人で、高野聖という身分の低い僧であったが、生涯20余度も四国を巡拝して200余基の道標を建てた。10余基が現存し、県内に5基あるが、町内ではまだ見当たらない。上板町安楽寺付近に2基あり、願主真念、南無大師遍照金剛、協力者の住所氏名などが彫られている。切幡寺の下にも同じ形の物があるが、真念の文字は埋まって見えない。


 「千躰大師道標」 砂岩製、真念の遺志を継いで約120年後の文化6、7年ごろ四国中で1000基建立の計画であったが、阿波に70数基あるだけである。鴨島町内では西麻植追分と敷地の農協東方の辻に2基あり、年号、協力者、弘法大師像、四国千躰大師、真念再建願主照蓮などと彫られている。


 「中務茂兵衛建立の道標」 砂岩製で特に大きい。中務茂兵衛義教は碑面にあるように周防国大島郡椋野(現山口県大島郡久賀町椋野)の広屋の三男で、義教は出家名である。明治から大正にかけて約300回も四国を巡拝し、今大師と崇められた人で、大正11年、76才で高松市で亡くなった。市場町大影の大いちょうの下に「大正七年九月吉辰、二百九十一回」と彫ったものがある。鴨島町内には西麻植新田と追分の辻に、明治三〇年八月、壱百五十七度目、明治三十五年十二月、壱百九十二度目、それに茂兵衛の生国、協力者名などを深く彫りこんだ2基が現存する。
 「青石の道標」 鴨島町内の山麓から採れる緑色片岩製、粟島新田のものは各曲がり角に約10基ある。旧森山村内のものは一の宮と藤井寺間の距離、方向を示すものが多い。山路字立石の道標は高さ3メートル、幅42センチメートル、厚さ13センチメートルの青石の堂々たるもので、立石の地名もこれによるものと思われるが、移転したのか指差しが逆になっている。


 → 十三ばん一の宮へ 二里
弘法大師像指四国第十一番霊場藤井寺へ 二十四丁
 ← 是より南当国卅三番玉林寺へ 八丁
  注 当国卅三番は阿波西国霊場

 また森藤大泉寺地蔵堂の道標は、高さ195センチメートル、幅78センチメートルと大きなもので、天保五年六月建之、藤井寺へ十九丁、左一の宮へ二里半などの文字が彫ってある。
 「その他の道標」 焼山寺への山道には約200基もの仏像を彫った丁石や四国の道ができた時に建てた花崗岩に矢印を入れたものなどがあり、また板にぺンキで書いたものも所々にある。
 歩き疲れた遍路が、勝手がわからないため道に迷って、つらい思いをしないよう、無駄足をふませないよう、また後いくらと励ますように立っている道標に、これを建立した人の深い思いやりと信仰心を読み取ることができる。

 

6 お接待
 四国霊場を巡拝する遍路に、食糧や日用品などを施してもてなすのが、「お接待」である。遍路に接待すれば、同行する弘法大師にも接待することになり、善根を積み重ねると、その功徳はやがて我が身に返ると信じられている。それで昔はどの町村でも地区ごとに、年中行事としてお接待に出た。
 春秋の彼岸や3月節句の前後は気候もよく、農閑期でもあるので遍路に出る人も多く、お接待も多かった。地区の若連、所によっては若い女子も協力して、各家から金品を集め、それで餅を搗いたり、赤飯やすしを作り、炊り豆や菓子、その他ちり紙、手拭い、わらじや草履などの日用品をたくさん用意して、藤井寺やその付近、無銭庵、無銭渡し、道の辻などでお接待をした。1か所に何組ものお接待が並んだり、行く先々でお接待をもらったりした。美馬郡貞光町端山の人々は、毎年春の彼岸のころ、4、50人が川船に米や味噌、大根、里芋、こんにゃく、白菜などを積んで、無銭庵に何日も泊まってお接待をした。また鴨島町内の富豪たちは、奉公人を動員して終日、町の要所ですしや赤飯を接待したり、白米を何俵も用意して一人に1合ずつ接待したりした。
 接待を受けた遍路は、お礼にお札を出した。お札には金、銀、赤、白の別があり、それぞれ50回、20回、10回以上四国巡拝した者が持つことができる。もらったお札は持ち帰って、縄に通して村の入り口の道の上に吊るしたり、戸口に掛けて悪病や悪霊の侵入を防ぐまじないにした。みすぼらしい旅の遍路の求めに応じて、乏しい水を施して、清水のわく泉を与えられたり、求められた芋や梨を、食べられないと断わって、食わずの芋や梨にされた。接待を断わって鉢をたたき割り、次々に子どもを失った「衛門三郎」の墓は焼山寺の下にある。「みすぼらしい遍路は、弘法大師であった。」と、接待の大切を説いたお大師伝説は全国に多い。

 

7 善根宿・木賃宿
 善い報いを受けるような、善い行為をすることが善根(ぜんざん)である。行き暮れて難渋する遍路を無料で宿泊させ、風呂に入れたり、食事を与えてねぎらい、よく朝弁当を持たせて送り出す。これが善根宿である。遍路をいたわることは、同行の弘法大師をもてなすことにもなる。祖先の命日にその供養のため、あるいは医師に見放された病人がある時、大師の奇跡を願ったり、またその時々の発心から、「おへんどはん善根宿をいたします。」「善根宿をお泊まりなして。」「ご善根しますでよ。」などといって連れて帰る。泊めてもらった遍路は、仏壇に回向した後、故郷の話や途中で見聞したことなどを話すので、それがニュースにもなり社会勉強にもなった。
 善根宿は古くからあったものと見え、承応2年僧澄禅が四国巡拝をしたことを記した「四国遍路日記」に、「一の宮を出て峠をこえ、坂を下りて一里ばかり行けば、日暮れければ、山路村(鴨島町山路)という所の民家に一宿す。夫婦の者殊の外情有て、終夜の饗応いんぎんなり。七月廿六日早天に出て、山田を伝って藤井寺に至る。」とあり、山路村の善根宿で、親切にもてなされたことを記している。また僧真念の「四国遍礼功徳記」に「紀州伊都郡東家村の中島理右衛門ら同行八人、焼山寺の麓の勘七という者の所に宿からんといいければ、亭主いいけるは、女房患い候へば不自由ながら泊り玉へという、皆よろこびやすみけるに、亭主もし薬など持ち給はば病人に給わり候へ、というにより、高野にてもらいし御符を与えければ、まことに遍路衆には大師のり移り給うとかや、此病人救い玉へ、」といい、重病人がふしぎに本復したことが記されている。また今回取材に行った鴨島町西麻植田渕の多田愛子さん(82)の家は、旧遍路道沿いにありよく善根宿をした。ある夜泊めた遍路が急死したので、自分の家の仏としてねんごろに弔い、先年150年忌を営んだという。まことに心温まる話である。しかし、中には善根宿を強要する遍路や、人々の好意に便乗して泊まり歩く無頼の徒もあったという。
 「木賃宿」は旅人が食糧を持参して自炊し、その薪代(木賃)を払って泊る宿屋で、後には宿泊料の安い宿屋をいうようになった。藤井寺付近は遍路の宿泊地にあたるので、多くの木賃宿や遍路宿があった。
 明治末から大正初年まで、無銭庵の側で木賃宿をしていた大塚カタさん(87)は、「当時夜は半麦飯に味噌汁、油揚げと大根の煮しめに漬け物、朝は半麦飯に味噌汁、漬け物、頼まれれば白米のご飯も炊いた。宿賃は8銭から15銭ほどで、2階や帳場で10人から15人位、多い時には20人も泊めたが、欧州戦争で物価が高くなり中止した。」という。また西麻植追分の多田カツさん(92)は「追分にも遍路宿が2、3軒あり、毎日5、6人が泊まっていた。昼から先に来る遍路を引き止め、焼山寺へは山が嶮しいからと荷物を預かり、宿屋が共同で国府町の宿屋まで荷車で送った。送料は8銭ほどだった。」という。敷地の古谷徳平さんのうちも遍路宿をしていたが、シーズンには1日4、50人もの宿泊があり、家の者は納屋の軒下や土間に寝た。献立や料金は前者と変わりなく、ご飯はグループ毎に秤で計り分けて出し、よく日の弁当も作ってあげた。荷物は預かって、朝学校へ行く前に、自転車で国府の宿へ送ったが、荷物についてのトラブルなどはなかったという。

 

8 おわりに
 今回の綜合調査に参加して、鴨島町内での四国遍路について、その一部にふれることができた。古来「阿波は四国遍路発心の国」といわれる。この報告書が機縁となって、今後研究者が出れば幸いである。また遍路たちは、「阿波は仏の国」といって、その温かい心に感謝している。これは私たちの祖先の熱烈な信仰心が培った風土でもあろう。調査に当たって寄せられた町民の温かいご協力とご指導も、これによるものと深く感謝する次第である。
 なお、無銭渡しの記録が大阪市にあることを先日知らされた。今後何かの機会に報告できればと思っている。


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