阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町の葬送について

民俗班 前川富子

 第20回柳田賞を受賞され、著名な民俗学の先輩である、瀬川清子先生が2月20日東京で亡くなられた。八十八才であった。先生は戦前徳島県へも来られ、沖縄から北海道まで全国を調査されて数多の研究発表をされている。
 ところがご本人のかたい遺言で葬式も告別式も行わず、ご遺骨はそのまま秋田の故郷へ帰られた。残った人達で後日「お別れ会」をするということである。新しいかたちのお別れの会なのだということである。
 民俗学者として各地で葬送の今昔も採集され、おそらく知識として、一般の人達より広く深くご存知の先生の、亡くなられる時の結論がそれであった。
 生きざまも死にざまも、ずいぶんきっぱりした方だったと思うと共に、見送る方が凡人の身では、てあついお弔いを行うことで寂しさ、悲しさをまぎらわせられるのでは、というもの足りなさもある。
 ともあれ、葬送についての慣習は戦後の様々なくらしと共に急速に変わっている。古いかたちがだんだん消えてしまい、お話いただける方はまことに貴重な存在である。
 今回は鴨島町八本松東、向原及び敷地で調査を実施した。比較的南、東部のみの地域で鴨島町全域の概観とはいかないが、他の地区については今後の機会を待ちたい。
 尚、お忙しいところを温かくご協力いただいた、山口元氏、藤井厳雄氏、新居亮輔氏、又鴨島町教育委員会の方々に心からお礼申し上げる。

 

1 宗 旨
 八本松東地区はほとんどが禅宗で通玄寺の壇家である。黒住教、天理教信者が若干あるが、葬式、法事には通玄寺の壇家となっている。向原は18戸のうち浄土真宗5戸、寺は2カ寺。真言宗12戸、寺は5カ寺で、いずれも藩政期から続いているということである。敷地は真言宗7割、残りは真宗、天理教、キリスト教などがある。

 

2.葬送について
 1.死の前後
  死
医者の宣告により死人となっているが、なお病人として扱い、ヨトギ(夜伽)が終わって枕をかえてから死人の扱いになる。ユカワ(湯潅)が終って死人になるという場合もあった。
 息が切れるとその場所で西又は東枕にし、手を合掌させて顔に白布をかける。知らせを聞いてかけつけたトナリ(近所の人)が神棚に白紙でおおいをする。
呼ビモドシ、神ダノミ
 危篤状態の時に「ねえさんいかれんでよ」とか「ねえさんしっかりしないかん」等と呼ぶのを呼ビモドシという。
 同じく危篤状態の時に神ダノミや干遍まいりをする。これは喪があけてから礼に行く。
ヨトギ
 病人(死者)を西、東枕にし、日暮れから夜11時頃までヨトギをする。ヨトギには親戚や近所の人が集まり、ヨトギミマイ(夜伽見舞)をする。ヨトギミマイは参集者が相談して果子等を持寄る場合もあり、昔は米2升、今は千円を各戸から持参する場合もある。親戚からぼた餅を持参する地区もある。ヨトギミマイの客には主にうどんを振舞う。バラ寿し(ちらし寿し)の場合もある。
 客が帰ると家族が交替で病人の側で寝る。
マクラナオシ(枕なおし)
 濃い身内が寄って死人を北枕に寝かせる。
 枕元に机を置き八寸の四隅にマクラノメシ(枕の飯=ダンゴ、マクラノモノとも言う)を供え、一本線香、一本花、水(樒の葉を添える)も供える。
 死者の着物を逆にふとんに着せていたが近頃はしなくなった。
 マクラナオシはヨトギが終って翌朝行っていたが今は夜のうちにしている。
 枕メシは手伝いの人が米を鍋で炊き、四握りに握り分ける。丸いダンゴにする。
 一本線香は一筋に行きなさいという意。北枕は後生願えば北枕という。
 2.近隣の役割
 現在は葬儀礼による葬式で、その他生活一般にすすんで役割も軽くなったが、組、オトナリ、自治会等の近隣組織で葬送を行う。
 この手伝い合いの近隣からは各戸1〜2名が参加するが、サキダチ(先達)を決めて役割を分担する。相談は主にヨトギの席で行われる。
 役割の内容は、医者の診断書、役場の届、火葬の手続き、寺との打合せ、告別式の準備と執行、葬儀屋との交渉、買物、会葬者の受付、炊事(婦人)等である。昔はその他にヒキャク。ソーレン、トンボゾウリ、カメ(オケ、カン)の準備。石捜し又土葬の場合は穴堀り等もあった。
 墓堀りの役は重労働で、堀るのと埋めるのを受持ち、5〜6人で行う。これには酒がふるまわれた。
 ヒキャクは2人1組で親類へ知らせに出たが今は電話を利用している。
 その他の仕事も2人で出ていた。
 3.ユカワ(湯潅)と納棺
ユカワ
 現在ではアルコールで清拭している。30年位前まではユカワをしていた。オクのタケザ(竹座=お産もする)の畳をあげ、タライを置くか、そのままゴザを敷きその上で死人を裸にして洗う。子や配偶者等身の濃い者が洗い、逆手で湯をかけて、布でこすって洗う。この時の茣蓙は焼却するか捨てる。ぬるぬる時には水の中へ湯を足す。タケザを使用しない場合は、ユカワの湯はどこへでも捨てられんと言って畑の隅などを堀って流していた。
 ユカワが終って、床で死装束に着かえる。
死装束
 昔は白の襦伴、長着(白木綿の単衣)にテオイ(手甲)、脚伴、三角頭巾(しないところもある)、足袋、サンヤブクロ、数珠などをつけた。
 長着は左前に合わせ、帯はタテムスビにする。死装束は昔は身の濃い者が中心になって糸にふしをせずに縫った。
 サンヤブクロには握り飯と六文を入れる。
 今は故人の好きであった着物を着せ、白のカタビラを上から着せたり、打ちかけたりしている。
納 棺
 土葬の頃はカメを使用した。火葬するようになって、古い火葬場の頃はカンオケを使用した。昭和30年頃までで、杉材で作り、竹のタガがしてあった。ソーレン屋に注文してつくらせていた。現在はネカンを使用している。
 納棺をマクラガエと言う地区もある。枕を反対に返して棺の中へ置く。
 オケに納棺する場合は身体を二つに折って脚を上へあげて入れる。手は合掌させる。
 棺に入れると「ええとこ行きなよ」と言って、死人の口を水でうるおす。末期の水と呼んでいる。
 今は出棺の時に花を入れるが、昔は経済力により番茶を納めた。
 納棺の時の釘は昔は石で子が打った。
 4.出棺と野辺送り
告別式
 告別式は戦時中に戦死者のために行うようになったのが始まりである。
 友引きはさける。トラの日をさける場合もある。
 祭壇を設け、親類が供花し、僧の回向の間に焼香をする。喪主、身の濃い年長者、親類近所の順である。
 出棺の後で身の濃い者が会葬者に礼を述べる。
ソーレン
 大正頃まではソーレンを出していた。床前で回向したのち、棺をソーレンに仕立ててニワ、畑、墓地等ソーレン場で左へ3回まわる。列に加わるのは僧と近親者で、他の者は周囲で待っている。ソーレンが止ったところで焼香をする。終って会葬者に礼を述べてオケは野辺へ行く。この時ソーレンは捨てて、オケには錦をかける。ソーレンは注文してつくらせていた。ソーレンでまう(回る)人は全員新しいトンボゾーリをはき、帰りの途中に捨てる。それで、夕方はきものをおろさないものだと言う。
 ソーレンは夕方出た。昔は集まる人は少なく現在のようなにぎやかなものではなかった。
香 會
 会葬者は香會を受付に出し焼香をするが、香會返しをその場で礼状と共に返す。香會返しは大体砂糖5kg、ハンカチの場合もある。香會は3,000円位が多い。
 手伝いをしない会葬者はフギンと言っている。
出 棺
 出棺の前(昼食)の食事をゼン(膳)と言う。精進料理で家族、親類、手伝いの人で会食する。この膳には四十九の餅がつく。
 出棺の直前に野辺送りをする人が冷酒を飲む。
 葬列は昔はハナ、ノボリ、棺、ゼンのツナの順に並んでいたが、今は霊久車が来るので写真、ノイハイ、骨かメシを持って乗る。
 出棺は現在は13時〜14時頃にしているが、古い火葬場へ行った頃は夕方であった。それ以前の頃はその日のうちに埋葬が終るように昼のうちに出た。
ワラビ
 棺が出ると死んだ人のジョウギチャワンを手伝いの人がカド(戸外)で割る。死人が帰って来ないためと言われる。同時にワラビ(稲藁)をたく。
その他
 会葬のお礼のあとカドイレの酒を全員が飲む。
 野辺送りの道中には、通っている場所を仏に教えながら担いで行く。これは後に残られると困るからと言われる。
 婦人は洋服か着物の黒い喪服を着る。男性は黒の喪服がなければ腕章をつける。昔は白い喪服で婦人は白無垢、跡取りは白の上下を着用した。黒い喪服になったのは大正時代からである。
 5.土葬、火葬
 大正時代初期から昭和始めまでに土葬は順次、火葬にかわった。土葬の時代は大谷焼のカメを使用し、石で蓋をする。この石をフタ石といい、イシグチで捜して来た。土葬よりも火葬の方が費用がかかった。
 大正時代からだんだん火葬が普及し、今は全部火葬である。知恵島に町営の火葬場ができるまでは山路その他のヤキバで火葬にした。
 ヤキバは土で築いたカマがあって、上にオケをのせ、下から割木で焼く。割木は大体20貫程を喪家で用意し、大八車でヤキバヘ運んだ。山路は廃止する前にはカマが三口あった。小屋があり、土間で腰掛用の板を壁に打ちつけてあった。他に隠亡(のち火葬夫となった)の住居があった。
 火葬は夕方から始めて、親類の身の濃い者が最初に火をつける。しばらくその場に居て帰り、翌朝骨アゲに出向いた。
 現在は町営の火葬場で設備が良く、1時間半待って遺骨を拾って帰る。待つ時間に酒食をしても後じまいをしないで帰るものだと言われている。

 

3 忌明けと年祭その他
 1.忌服
 四十九日でブクがあけると言われているが、親子、夫婦は1年間とも言われる。ブクの間は神まいりをしない、めでたい席に出ない、年賀状を出さない等。
 2.七日着物
 出棺のあと、死人の着物を北へ向けて七日間生木にかけておく。洗って七日間北向きに干すという場合もある。
 3.ムイカ
 現在は火葬場から遺骨が、出棺の当日に帰るので、その日のうちにムイカをする。古い火葬場で骨アゲが翌日であった時は翌日ムイカをした。
 ムイカは僧が回向し、そのあとの食事をマナイタヲシと言う。精進料理であったのが普通の食事にもどるという意で、昔は裕福な家では魚をつかった料理が出たが、普通にはバラ寿しであった。
 トナリや親戚が香料を持参して集まり、喪家ではアオガイを配る。
 4.タビダチ
 四十九日をタビダチという。三月ごしはさけて三十五日とする。タビダチまでは一本線香を絶やさない。
 この日に納骨するが、タマシイは四十九日間家の屋根を離れないので、35日でタビダチをしても、遺骨は四十九日に納める。
 5.年 忌
 ムカワレ、七年、十三年、十七年、二十五年、三十三年、五十年の年忌がある。法事という。
 法事の時は2、3日前に墓の掃除をして「〜年忌をしますのでおいでて下さい。」あるいは何人分も一緒の時は「〜を一緒に連れておいでて下さい。」等と言う。
 肉親が集まって僧が回向をして弔ったあと食事をして墓まいりをする。食事はすのもの、ナラエ、あえもの、飯、汁の精進料理。四十九のダンゴを分けて食べる。墓のお供えは、ハナ(樒)、線香、米、水、果物、菓子等。料理は次第に仕出しを頼むようになり、精進ではなくなりつつある。
 6.墓参
 命日(少い)
 春秋の彼岸 彼岸の入りの前にハナを立てる。
 土用    土用の間中に土用水を供える。
 盆     盆のハナ(13日まで)に掃除をし、お迎えする。花立ての竹筒を祈しくする。
 年末(節季) ハナをあげて、「お正月にどうぞおいでて下さい」と話をして帰る。
 正月    元日、神まいりの後でおまいりすることもある。
 いずれもハナ、水、米、線香をお供えする。
 7.セイボマツ
 上浦から森山にかけてセイボマツの習慣がみられた。年末に墓の掃除のあと、松(ほとんど山野自生の赤松を使用)を立てる。昔は年末のハナは松のみであったと言うが、現在は松だけの場合、松と樒、樒のみ、色花を松あるいは樒と共に利用の4種類にわかれるが、松のみ、あるいは樒との併用の場合が多い。


 松と樒の併用で立ててある家の理由を聞くと、松はその家で準備したもの、樒は地区外から参った人が持参したものという事であった。少しづつ樒を利用する家が増える傾向にあるという事である。歳暮松は25日頃に立てることが多いという事であった。
 なお、向原地区では歳暮松の習慣はあるが、門松はしないということであった。

 4 禁忌
 タマシイは四十九日間家にいるので、家を障ってはいかん。と言われている。
 正月の7日間は喪家の手伝いはしない。喪家を訪れない。その家のものを口に入れることをヒがまじると言って恐れる。
 枕の飯を炊いた鍋は7日間使用しない。
 ユカンの湯はどこへでも捨ててはいけない。

 

 5 墓制
  1.ハカ
 従来は単墓、ヒトツバカと呼ばれる。まれに夫婦墓もある。最近累代墓を建てる傾向にある。
 墓じるしは石を使用する。くり石という平たい石ブ、カナメは遺骨の上に石ブタを置き、土をかぶせた上に置く。くり石がオガミ石でもある。
 石塔をたてるのは命日、法事などの前で、大体3年忌までにたてている。石塔は地上部からハコ、クモイシ、台石、シンからなり、クモ石から上が墓ジルシである。昔はくり石の上に自然石を積んで墓にすることもあったが、今は良くないと言われている。
 墓は南又は東向きにたてる場合が多い。
 所有地内に無縁の墓があれば、土地の所有者が手厚くまつっている。
  2.オタマヤ
 大正時代までは板製のオタマヤをつくって、中に野位碑を置き、線香、ハナ等を供えた。現在もまれにオタマヤをつくる家がある。
  3.墓 地
 古い墓地はサンマイと呼ばれている。今はハカバ・ボチと呼ぶ。宗旨に関係なく地域の共同墓地内に墓地を持ち、1戸が3〜4坪位である。
 墓地内に特に設備はない。
 墓地内に木は植えない。特に花木は良くないと言ったり、年中青いもの、樒等は良い。ツゲは良い等という場合もある。
  4.子供のハカ
 丹石塔に地蔵を切り、童子、童女の戒名をいれる。
  5.寄せ墓
寄せ墓がすすんでいる。先祖の遺骨を1カ所に集め、大抵・墓標も1カ所に集めて保存している。累代墓の骨堂である。
 たとえば某家では、昭和56年に44柱を3カ所から集めて寄せ墓にしている。ハカは正面に南無阿弥陀仏、横に建立者名がある。


徳島県立図書館