阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
鴨島町の庚申塔

民俗班 入交泰助

はじめに
 明暦三丁酉年と造立刻年のある、阿波郡市場町大門に建立されている庚申塔(駒形の庚申供養文字塔)は、おそらく徳島県下では最古の庚申塔ではないかと推測する例外的なもので、県内に現存している庚申塔のほとんどは寛文年間以降に造立されたものといわれ、従って、仏像彫刻や板碑造立などの歴史に較べればはるかに浅いだけでなく、庚申塔は無名の石工職人の手で刻まれていることから、その彫刻の手法や技術は稚拙であり素朴なものであるために、一般に芸術的・学問的・文化的価値の低いものと評価され、単に路傍の石仏の一種として扱われているに過ぎない有様で、文化財(文化遺産)としてはそれほどに重要視されていないのが現状である。
 然しながら、いずれの町村にあっても庚申塔が全く見られない処はなく、必ずやいくつかの庚申塔が現存していることから考えて、庚申塔そのものの文化財的価値の軽重は別として、これほどまでに庚申塔が造立された民族信仰のひとつだった庚申信仰の、その拡がりと深さを思い返してみるならば、当時の庶民生活と密接なかかわりのあった庚申塔の存在価値を無視することはできない。たとえ、稚拙であり素朴なものであろうとも、そのひとつひとつにはそれぞれの造立由来もあればそれなりの歴史もあって、ただ記念碑的な石造物とは趣きを異にするものであり、当時の村人衆の深刻な願いと祈りが秘められていることを見落してはならない。
 封建的な藩政時代の人々の生活、とりわけ、村々の百姓衆の暮らしぶりは貧乏の中で忍従を強いられた苦悩の連続であったといわれ、その生活を支えられたものは精神的なより処となった民族信仰であり、庚申信仰もそのひとつであったことから、日頃の真剣な信仰の具象化が庚申塔の造立となったものと考えられる。
 それ故に、他の石仏とともに庚申塔も単なる路傍の石仏とみるのではなく、村の歴史的遺産であり当時の村人たちの庶民史の一端を示したものとして見なおすべきものである。庚申塔の造立が多ければ多いほど、それなりに苦悩も一層深刻なものがあったと思われ、悲痛な傷心をいやしたい、数々の苦悩から脱け出したいと、ただ一途に庚申を信仰し祈りすがっての庚申塔造立となったものではなかろうか。庚申信仰も時代の推移とともにいろいろと様変わりしているとはいいながら、庚申塔の施主名(造立者名)をみても、個人名だけのもの、身内同族または近隣在所衆による連記名のもの、更には講中(結衆・講衆)を組織結成して、果ては村中を挙げて惣氏子、など様々な形で刻まれており、そのいずれもが真剣に信仰にすがって救いを求めた心情は庚申塔の碑面にも現われており、現世安穏、二世安楽、後世善処、諸願成就祈攸などと刻まれた文字を通して、封建社会の底辺にあって生き死にした村人衆の恐怖や怨霊・祈願や供養などを様々な思いとともに、哀歓を生き抜いた人々の執念に胸うたれるものがある。このような想いを持つ私にとって、鴨島町で阿波学会による総合学術調査が展開実施されたことは、またとない好機とばかり庚申塔深訪調査にとりくんだ次第である。


1.庚申塔の種別と造立年代
 鴨島町内に現存する庚申塔の実態については、鴨島町誌にも記載されてなく、庚申塔の実態調査も末だなされてはいないとのこと。ただ、個人的に郷土史の研究にいそしまれる方々の間で調査されている現状だと聞かされ、全てとはいいきれないまでも所在の聞きとり得たものについては一基残らず探訪調査することができ、その総数は66基となった。勿論、鴨島町内には人々から忘れ去られた庚申塔がまだまだ存在していることと思われるので、今後とも継続調査により明らかにしていくつもりである。探訪調査総数66基の庚申塔を塔種別にみると、一般に供養塔と呼ばれている庚申供養文字塔が25基、画像塔といわれている青面金剛を刻んだ青面金剛画像塔が31基、庚申の主尊は猿田彦命なりとする神道派の猿田彦神塔が6基、その他に自然石そのものを庚申塔として祀られてきている無刻銘の自然石塔が4基となっている。


 庚申塔の造立年代については、造立当初から造立刻年のないものの外に、自然による風化現象や損傷欠落などによって造立刻年の判読不能や困難なものも少なからずあって、造立年代の確認できないことは残念であるが、庚申塔の造立はもともと露座が本態であることを思えば当然のことであり、致し方のないことである。
 別表−1に掲示してあるとおり、先ず庚申供養文字塔が寛文年間に集中してにわかに造立が始められ、それ以降は散発的な造立となって造立基数も極めて少なくなっている。
 庚申供養文字塔にかわって元禄年間から青面金剛画像塔が造立され始め、享保年間以降は庚申供養文字塔とは逆に青面金剛画像塔が数多く造立され始め、明治の中頃まで続けられてきた。


 青面金剛画像塔の出現については、室町時代の中頃より庚申の主尊は帝釈天なりと信仰されていたものが、江戸時代に入ってからは帝釈天の使いとされていた青面金剛が、次第と庚申待の主尊として信仰されるようになり、寛文初期に摂津浪速の四天王寺で作成された庚申縁起が発端となって、内容類似のものが俗に一国一宇の庚申堂と称された各地の寺院(大和郡山の金輪院を始め讃岐高松の陽明山東光寺や阿波徳島の庚申山天正寺など)で作り出され、庚申待祭祀縁起や庚申待縁起の中で庚申の本地主尊は青面金剛と説かれ、その姿態から持物に至るまで仔細に記述されたものが、やがてのこと、村人衆の間に浸透し普及されたことにより、従来の庚申供養文字塔にかわって元禄年間より青面金剛画像塔が造立されるようになったといわれている。このように庚申供養文字塔や青面金剛画像塔が造立され出した頃よりはるかに遅れて、庚申塔としての猿田彦大神塔の造立が始まったのである。これまでの庚申信仰の当初は全国を修行行脚して廻っていた修験者(山伏)によって弘められたといわれ、それが寺院僧侶などによって普及されたともいわれているのに対して、猿田彦大神は我が国古来より、早尾神・蹴鞠神、興玉神・船魂神・太田神・幸神などと種々の名称で呼ばれ祀られていたものが、鎌倉時代から室町時代にかけての日待行事の中でも祀られるようになり、また、神話伝説と道祖神信仰とからみ合って道祖神として祀られもしてきたものが、垂加神道創設の儒学者・山崎闇斎が万治3年著述の「大和小学」の中で、神道の庚申は猿田彦大神と提唱したものが、門弟衆や神職者を始め国学者の一部に支持継承されたことや、時代の思潮(国学の発達や復古思想、国粋的思想の抬頭など)の影響もあって、更には摂津上宮の神職・山口日向守貫道(号・龍雷神人)が明和5年著述の「庚申利生記」…(庚申祕訳上下二巻)などによって、江戸時代中期後半より末期にかけて神道派による庚申信仰がにわかに高まる中で、庚申塔として猿田彦大神塔の造立が始まったと伝えられている。更にまた、祭政一致を国是とした明治維新政府による太政官布告の「神仏分離令」と神祇官による「廃仏棄釈」の運動により、仏教各宗派、殊にこれまでの仏式による庚申信仰は他の民俗信仰とともに急激に衰退を余儀なくされ、明治以降の庚申塔造立の多くは猿田彦大神となった。このために従来の庚申信仰も様変りする中で庚申待行事もすたれ、庚申供養文字塔や青面金剛画像塔でありながらも現在では、猿田彦大明神の幟が立てられ猿田彦大神の額が掲げられているものが少なくない。そして、この光景をみても奇妙とは思われず極めて自然に扱われているのである。


 変わった猿田彦大神塔としては隣接する川島町には全身立姿の猿田彦神像塔が数基あり、市場町には猿田彦大神の画像を刻んだものが数基あり、いずれもが庚申塔として祀られているけれど、鴨島町内には、このような庚申塔は全く見受けられない。
 これまでの庚申供養文字塔、青面金剛画像塔、猿田彦大神塔には、文字または画像が刻まれているのに対して、自然石そのままの形状で文字や画像などが全然刻まれていない無刻銘の自然石塔が、造立年代不詳のまま庚申塔として祀られているものがある。


2.庚申塔の塔形と造立年代
 66基の庚申塔を塔形別に分類すると、別表−2のとおり、無笠塔形と笠塔形に先ず二分することができ、無笠塔形40基の中には自然石塔が8基、妻入型角柱塔が1基、舟形塔が1基、駒形塔30基となっており、笠塔形26基の中には宝珠笠塔形が3基、宝珠受台笠塔形が2基、宝珠破風付笠塔形が5基、宝珠受台破風付笠塔形が4基、宝珠蓮華受台破風付笠塔形が1基、平入型笠塔形が1基、平入型破風付笠塔形が7基となっている外に、笠頭部分が欠落しているために原型不明の笠塔形が3基となっている。
 この66基の庚申塔を塔形別に造立年代の傾向を調べる上で残念なことは、造立刻年の確認できないものが15基と無刻年のものが8基あり、駒形塔の30基以外は塔形別の基数が僅少なこともあって、塔形別にみた造立年代の傾向を結論づけるには、資料不足もあって無理なことであるために、別表−2でその傾向をみていただきたい。駒形塔については30基の中で造立刻年の確認できないもの11基を除いても、庚申塔の造立が始まった寛文年間に集中するかのように造塔されていて、その後は散発的な造塔でその数も至って少なく、造立刻年の明確でない11基についてもその大部分は、寛文年間またはそれに近い年代に造立されているものと推測されるものである。
 また、庚申供養文字塔と青面金剛画像塔の2つは全て砂岩を素材として整形された塔形に造られているのに対して、猿田彦大神塔は緑泥片岩の板状の自然石が主に利用されており、一部例外的なものとして、砂岩を加工整形したものが2、3ある。
 鴨島町内の庚申塔の塔形をみる中で、ただひとつ不思議なことは、数多い庚申塔の塔形の中で最も完成された美しい塔形だといわれている長芯=重蓮華破風付笠塔形の庚申塔が、隣接する町村には元禄年間から享保年間にかけて数多く造立されているにもかかわらず、鴨島町内には1基も見当たらないことはどうしたことであろうか。


3.庚申供養文字塔
 庚申供養文字塔については、文字だけが刻まれている庚申塔かとよく問われることがあり、文字だけの庚申塔もあるとはいうものの意外と少ないものであって、一般に庚申供養文字塔といわれている庚申塔は、江戸時代以前の鎌倉時代から室町時代にかけて造立されていた庚申板碑の影響を受けていることから、庚申塔造立の趣旨を明示している刻銘文の上部に、種子とも種字ともいわれている梵字(主尊を示すもの)が刻まれており、更に日輪や月輪、蓮華紋様、紀念(造立年月日)、施主名や講中名(造立者名)などが刻まれているものが多く、時には真言の文句や猿・鶏の画像が刻まれていることもある。庚申供養文字塔の造立趣旨を明らかにしている刻銘文にも、その内容をみれば様々なものがあり、1 単に庚申塔であることを表示したもの、2 庚申の主尊の名称を表示したもの、3 供養のためと表示したもの、4 現世安穏後世善所とか二世安楽を願ったもの、5 諸願祈願または諸願成就を表示したもの、6 庚祖待一座の結成または庚申待一座の成就終了を表示したもの、7 その他……と多種多様となっており、通常は複数の項目を組み合わせたものが多く、鴨島町内の庚申供養文字塔の碑面をみても、3 と4 、3 と5 を組み合わせているものが最も多く見受けられ、3 と4 と5 、3 と2 と5 を組み合わせたものや、2 とか3 とかだけのものもあるけれどもその数は極めて少ない。


 庚申供養文字塔に示されている主尊についても、青面金剛が庚申の主尊とされる以前の室町時代の頃までは、庚申の主尊は帝釈天とされていたこともあって、その名残りとして江戸時代に造立されたものの中に帝釈天を刻んだものもあり、その一例として貞光町江脇に建立されている庚申供養文字塔に、帝釈天王庚申供養二世安楽也と刻まれているものもあり(寛文8年造立のもの)、また、1 だけの単に庚申塔であることを表示してあるものとしては、隣接する町村で見受けられる庚申とか幸神とだけ刻字されているものもある。この種の帝釈天と刻まれたものや庚祖、幸神と表示された庚申供養文字塔は、鴨島町内には1基も造立されたものが見当たらない。


 4.青面金剛画像塔
 青面金剛画像塔は通常四臂または六臂の青面金剛を中央部に置いて、上部左右に日輪月輪を配置し、左右のそれぞれの手には特定の持物があり、両脚下には雲座またはそれにかわる鬼座(一鬼または二鬼)があり、更にその下部や周辺に猿(二猿または三猿)並びに鶏(雌雄二鶏)の画像がいろいろに組み合わされて配置され、その他造立刻年や施主講中名などが刻字されている庚申塔であって、時代の推移に伴なって画像の形状や組み合わせ構成に様々な変化がみられるのである。
 鴨島町内に現存する青面金剛画像塔の変化傾向の概要は、先ず画像塔造立の初期に当たる元禄年間に四臂雲座二猿二鶏の形状で現われ、享保年間に入って二猿が三猿と変化をみせて四臂雲座三猿二鶏となり、更に延享年間には主尊の青面金剛が四臂から六臂へ変身して、六臂雲座二猿二鶏となるものや、雲座が鬼座に変化して六臂一鬼三猿二鶏となるものなど、大きく様々に変化するようになり、更に天明年間に入ると二鶏が省略された六臂一鬼三猿と様変わりをみせて鶏の姿が消え去り、それ以降は無刻年のために造立年代不詳ではあるが、鬼座の一鬼が二鬼に変化した六臂二鬼三猿の画像塔へと移り変わっている。


 このように青面金剛画像塔の変化傾向も更に細部にわたって部分的にみられる変化の状態について………青面金剛の体形姿勢や着衣持物から始まって、雲座の形状、鬼座(鬼の体形姿勢)の形状、猿や鶏の体形姿勢、殊に猿の手足の変化などについて仔細に検討してみると、ひとつとして同じものはないほどに変化がみられるもので、これらの特徴や変化の傾向については紙面の制約もあるため、他日またの機会にゆずり以下省略する。


 5.無刻銘の自然石塔
 無刻銘の自然石塔については探訪調査の折りに、地元で庚申塔の由来歴史などについて聞き取りした際に、「ただお庚申さんと昔からいわれてお祀りしているだけで、むつかしいことは聞いていない」とのことで、昔というのもいつ頃からのことさえ聞き出せない有様で、残念ながら他に資料もないままに先述の庚申利生記の一節を引用してみると──庚申秘訳巻之下の石神祭祀章第七の中に、「……上にもいう如く魂魄を反して興玉神とて只石壇を御鎮座所となし奉る故、之を神躰と崇め、石神と祝い奉ること、理いやちこなり」とあり、また、「国境の山の頂をとうげというは即たむけといえる言葉にて、必ずこの所にて猿田彦大神を祭り幣を手向け奉る故、とうげと云習せたるなり。……これのみならず在々町の四辻にも名を立て神を祝い祭り待る。……東国にて石を建て摺古地蔵などいえるも猿田彦大神の御神形石にて……」とあることなどから推考するならば、猿田彦大神が本来の神として祭祀されていたものが、古来の道祖神信仰(日本書紀にみられる布那斗能加微・岐神や続日本紀にみられる布奈止・船戸神)と習合される中で、神話伝説の天孫降臨の一幕もからんで、いつとはなく猿田彦大神そのものが道祖神と思いこまれて路傍神的性格が附加されるようになり、後に庚申信仰が拡まる中で神道派の人々の考えのもとに、庚申信仰とも習合されていった末に、猿田彦大神がまたまた庚申の主尊に祭り上げられ信仰されるに至ったのではなかろうか──おそらくは現在まで庚申塔として祀られてきている猿田彦大神塔をみても、一部例外的な加工整型された庚申塔はあるにしてもその数は極めて少なく、大部分は自然石のままで建てられていることからみても、庚申塔として祀られている無刻銘の自然石塔もまた、猿田彦大神が庚申信仰と習合し主尊とされた頃以降に猿田彦大神の神躰として崇め祀られたものが、現在に残されて今尚庚申塔として祀られているものでなかろうかと思われるものの、確たる資料もない上に伝承的な話も残されていないために、明らかにできないことは致し方のないことである。

 

おわりに

 庚申塔に関心と興味を持ち始めて二年目の私には、阿波学会総合学術調査初参加は大変なことになりましたが、幸いなことに荒岡一夫(美馬町)、吉見哲夫(羽浦町)両先生より事前に数々の参考資料やご教示をいただき、事後整理に当っては青木幾男(鴨島町)、喜多弘(川島町)両先生よりご懇切なご指導をいただき、庚申塔探訪調査に当っては、真夏の炎天下にもかかわらずご老体をもいとわれずに、現地案内を兼ねてご同行ご協力をいただいた地元の、郷土史研究にいそしまれている平島桃作氏・植村芳雄氏など、皆様方のあたたかなお力添えをいただいて終ることができました。改めて心より敬意と感謝をこめて厚くお礼申しあげます。


徳島県立図書館