阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第30号
西尾の小作争議

地方史班 佐藤正志

はじめに
 大正期における徳島県の小作争議の中心地は那賀郡などの県南稲作地帯であったが、昭和恐慌(1929〜31年)による繭価の暴落を契機として麻植郡、阿波郡等の吉野川沿岸の桑園地帯に小作争議が頻発するところとなった。なかでも麻植郡西尾村は、本県約3000町歩にわたる桑園小作争議の中心をなした。
 昭和4(1929)年の西麻植小作人組合の結成にはじまり、翌5年には全国農民組合西尾支部の発足をみ、また同組合の徳島県連合会本部もここにおかれた。多田三平、竹治豊等をリーダーに、農民組合は多彩な戦術をもって対地主闘争をおこなったが、この西尾における戦前の農民運動の流れを、新聞記事・細合機関誌等で紹介しながら、本県農民運動史、社会運動史の中での位置づけを考えてみたい。


1.西尾の農村構造
 西尾村は明治22年の町村制施行の際、飯尾村・敷地村・西麻植村の統合により成立した(同村は、昭和29年3月、町村合併促進法により牛島村・森山村・鴨島町と合併、現「鴨島町」となり現在に至る)。同村の地勢は南部の山岳を除きほぼ平坦で「気候温暖地味肥沃ニシテ耕耘ニ適」(1)していた。

 大正期から昭和初期にかけて同村の現住人口は5千人前後、戸数は800台を推移したが、昭和恐慌期に至り、現住人口の減少・流出人口の増大をみることとなった(表1参照)。特に流出者数は、大正期のほぼ2倍に増加、他府県・県内他都市への流出が増大している。繭価下落による養蚕不振が過剰人口を形成、流出人口を生みだしたのである。(2)


 同じく表1によると、農業者の中で小作人の比率は漸次減少しているが、自小作者の比率がかなり高く、昭和3年においても自小作、小作を合計すると70.8%に達し、同村の7割もの農民が地主・小作関係の下に細み込れていたことが理解できよう。
 土地所有構造は、表2のごとく、大正末から昭和にかけて自作地率が漸次上昇するものの、小作地率は依然として50%以上であった。


 西尾村における大地主としては、表3のように、石原六郎(129町歩)、工藤源助(80.6町歩)、須見千次郎(73.3町歩)らがおり、これらの小作地は、彼らがほぼ所有していたとみられる。彼ら地主は、麻植郡をはじめ、隣接する美馬郡・阿波郡等にも小作地を所有していた。なかんずく、工藤源助の場合、後述のように同村の小作争議の中心的な地主であったが、彼は本県最大の280町歩地主たる三木与吉郎に並ぶほどの小作人戸数を擁していたことが注目される。


 また、地目では、畑地面積が田地のそれの約4倍に達し、同村は畑地が約8割を占めていた。しかも表4のごとく桑園が中心であり、耕地の約6割が桑園となっていた。吉野川沿岸の藍畑村・学島村・山瀬村・柿島村・市場村・鴨島町等とならび西尾村は桑園度がずば抜けて高く、まさにこれらの桑園地帯の中枢に位置していたのである。


 かくして、同村の主要農産物の生産額では、養蚕が米麦に対して、約5倍以上の価額にのぼり、まるで米麦生産が養蚕の「副業」にすぎないかのような生産状況となっていた。(表5参照)。


 世界恐慌による米国への生糸輸出の途絶→繭価の下落が、製糸業、養蚕農民へ大きな打撃を与え、桑園経営を悪化させたが、こうした過程で発生した昭和恐慌期からの争議が、西尾村を中心として闘われるようになったのは、以上のような同村の農村構造からして、まさに必然的であったといえよう。


2.徳島県における小作争議の推移
 西尾の小作争議について述べる前に、本県の小作争議の推移を一瞥しておこう。まず、最初の小作争議は大正7年頃に端を発し、大正9年から13年にわたり県北水田地帯四郡に小作料減免の要求を掲げた争議が発生した。ところで、この大正9〜10年にかけての争議は第一次大戦の好況を背景に各種の事業勃興によって、地主が要求を拒絶しても「都市ニ近キ小作人中ニハ小作地ヲ返還放棄セシ状況トテ、自作能力無キ地主ハ小作人ノ要求ヲ容ルルノ他途無カリシ等ノ情勢」(3)のため、小作人優位のうちに、容易に解決をみていた。
 さらに、大正11年には表6のごとく争議件数は66件に達し、係争面積も3700町歩と広範囲にわたるのであるが、これは同年の不作によるもので、小作料一時減免、永久減免の要求を小作側は出すに止っていた。


 こうした本県の争議が質的な転換を遂げるのは、大正14年であった。同年11月の日本農民組合阿南聯合会の成立がその契機となった。系統組合の指導の下に那賀・勝浦二郡の県南稲作地帯は、田小作料永久減免要求を掲げた組合の一大争議地となり、組織的な闘いが展開された。さらに、県南の争議に並行して、板野・名東郡においても、永小作地300余町歩の関係小作人が、一斉に永小作地分割要求争議を惹起するなど、この14年の争議関係人員は地主、小作人合わせて4110名に達し、大正11年につぐ規模となった。これらの争議は多くが大正15年にまで持越されるといった状態で、激烈をきわめたのであるが、こうした小作農民の攻勢的な動きの中で同15年9月に、日本農民組合阿南聯合会は徳島県聯合会と改称し、全県的組織へと成長を遂げる。そうした「益々深刻悪化ノ度ヲ加ヘシ」状況に対し、県は同年9月、争議緩和をはかるため、地主・小作人の協調団体設立の諭告をおこなうなど対応に苦慮した。いっぽう地主自身も団結、昭和2年には大日本地主会徳島県支部を設立、ここに小作人組合との対決への陣容を整えたのである。
 しかし、これらの争議も小作調停法(大正13年成立、施行)にもとづく小作官(大正13年佐々木武吉が徳島県小作官に任命される)の調停、地方有志の調停が順調にすすんだ結果、昭和2年に入るとほぼ鎮静化した。この過程で、農民組合からの脱退や「小作組合を解散して協調会を組織せんとする気運に向」(4)など、組合活動は一時的に停帯・穏健化するのである。
 翌昭和3年には穀価下落にともない、中小地主の一部が小作収入の減少を自作化で乗りきろうと、土地返還を求め、再び争議の緊張が高まった。
 しかし、この問題は、それ程重大化するまでに至らず、「小康」状態を保っていたといってもよかった。


3.西尾の小作争議−昭和5年の動向−
 しかし、昭和5年に至り、世界恐慌の嵐が日本にも及ぶと、とくに生糸の対米輸出激減による繭価の暴落に、他の農産物価格の下落が加わり、恐慌は「米と繭」に依存する農村に大きな打撃を与えることとなった。麻植・阿波・名西・美馬・三好各郡の約1万戸に達する小作人の中に桑園小作料減免要求の声がわき上ったのである。『大阪朝日新聞徳島版』(昭和5年4月23日)は、次のような佐々木小作官の談話を伝えている。

 県下一万町歩の桑園中三分の一は小作桑園だが一時一貫目七、八円もしてゐたものがこのごろは五円乃至六円となり、小作料及び肥料代は従前と異らないので桑園小作人は収入不足のため非常に苦しい立場があるわけで、自然小作料減免問題が起ることとなったのである。今後いよいよ養蚕期に入るにしたがって具体化するのではないかと憂慮してゐるが或は相当重大問題となるかも知れぬ。

 春繭は過去10年間の平均価格に比して4割もの暴落となり、1反当り35〜60円の平均小作料(県農会の調査では春蚕の収穫は1反平均12貫匁であった。1貫匁5円とすれば1反当りの春蚕での粗収入は60円前後となる。(5))を支払えば、桑園小作経営の維持は困難であった。小作官の予想どおり、桑園小作争議は「重大問題」となり、ここに麻植郡西尾村を中心とする桑園養蚕地帯は激しい争議の嵐にまきこまれることとなったのである。
 ところで、西尾では昭和4年西麻植小作人組合(津田寿助組合長、多田三平書記長)が300余名の小作人をもって組織されていた。この組合員を中心に、昭和5年以降の小作料減額の運動が惹起されたのである。
 昭和5年に発生した西麻植の桑園小作料改定を要求する小作争議の推移を農林省『小作争議及調停事例』と新聞報道等によって追ってみよう。
 まず、繭価暴落に対し、5月1日、西麻植小作人総代5名(小作人164名、関係土地面積39町8反2歩)は地主22名に対し、次のような小作料永久減免を要求していた。
   従来の小作料(反当) 改定小作料
     60円         35円
     50円         32円
     35円         30円
 この要求に対し、地主側は50円以上を50円に改定する以外は応じず、最初の交渉は決裂に終った。地主側としては「小作人の苦衷に同情はするが小作料減額決定は全県下に非常な影響を及ぼす一方、本年の繭価が幾何なるかは目下のところ容易に予想ができぬ」という理由で小作料減額の決定は10月以降まで保留する方針を立てていたからであった。これを受けて、5月15日、小作人総代は小作調停の申立をおこない、「組合ヲ組織シ厳重ナル規約ニヨリ団員ノ統制ヲ期シ飽ク迄素志ノ貫徹ニ努メ」るところとなったのである。
5月20日、昭和5年度上半期小作料に関する裁判所調停が催された、西尾村役場は「関係小作人ヲ以テ囲繞セラル」状況を呈し、こうした集団的な力を背景に、その後の繭価下落を加味し、既に申立てていた減額値を更に5円上乗せする旨の訂正申立をおこなった。
 その後、小作人は地主工藤源助を訪問、交渉をなしたが、「同地主ハ極端ナル強硬意見ヲ発表シタル為メ小作人側ノ反感ヲ強メ此ノ上ハ全国農民組合ニ加入シ他日調停破レタル場合ノ応訴ニ備フルコトゝナリ」、全国農民組合西尾支部の結成へとむかうことになったのである。
 昭和5年7月6日、杉山元治郎全農中央執行委員長・前川正一等組合幹部の一行が、午前11時15分西麻植駅に下車するや「二百余名ノ小作人歓迎旗ヲ翳シ迎へ気勢ヲ挙」げ、同日午後6時から西尾村青年会館で開催された西尾支部創立総会兼講演会には、村外からの聴衆人を含め約1千名がつめかけるという盛況であった。全農組合の一行は、翌7日には徳島公園千秋閣で時局批判演説、次いで8日は小松島で同様の演説会をもった。こうして、いよいよ運動は本格的に展開されることとなったのである。
 7月5日徳島地方裁判所で開催された第二回調停委員会では、昭和5年度上半期小作料を現在小作料金の4割3分の半額を同日15日までに地主に予納する等数項の調停がなされたのであるが、その後、小作人=西尾支部幹部5名中3名は「既ニ産ヲ失シ負債山積セル状況ヨリ極端ニ左傾」し、他の2名は「自作ヲ主トスル小作人トテ相当率ナレバ解決セントノ方針ヲ有スル」というように、土地所有状態に基づく窮乏の差異から小作人間に調停に対する対応をめぐり分裂が生じていた。
 そこで裁判所は、11月5日の第二回裁判所調停からは100人余りの小作人側全員を裁判所へ紹致、個別に調停をおこなうという方式に変更したのである。こうした調停方式に対し、4日全農西尾支部の竹治豊ほかいわゆる「左傾派」数名は県庁に佐々木小作官を訪ね、調停申立の解除も辞せずとの強硬な抗議を申入れ、当日は総代数名を裁判所に出頭させたにとどまった。しかし、「右傾派」小作人17名は全員出頭し、彼らは裁判所の調停案に応じ、次の如く調停が成立した。
    調停事項
 一 昭和五年度小作料ハ左ノ率ニヨリ支払フコト
 (イ)従来契約小作料反当金五十円以上ハ五十円ニ切リ下ゲ其ノ四割減ノ金額ヨリ其ノ一割五分ヲ申立人ノ出世払ノ下ニ貸付シタル残高
 (ロ)同上金三十円以上五十円未満ハ其ノ四割減ノ金額ヨリ一割三分ヲ申立人ニ出世払ノ下ニ貸付シタル残高
 (ハ)同上金三十円未満ハ其ノ三割五分減ノ金額ヨリ其ノ一割二分ヲ申立人ニ出世払ノ下ニ貸付シタル残高(以下略)

 これに対し、竹治豊らの指導の下の「左傾派小作人」は、11月8日の第三回裁判所調停にて、以下のような内容の要求書を提出したのである。

 一.従来反当契約小作料五十円以上ハ五十円ニ引下ゲ其ノ六割減、三十円以上五十円未満ハ六割減、三十円未満ハ五割減
 一.本年上半期小作料仮納ノ残額ハ向フ十ケ年ノ年賦トシ其ノ第一回ハ昭和六年ヨリ支払フコト
 但シ春蚕一貫目六円以下秋蚕二号口五円以下又ハ不作ノ場合ハ翌年ニ繰リ下ゲ支払年限ヲ延長スルコト
  (略)
 一.地主ハ小作人ノ農事改良資金トシテ決定額ノ一割ヲ解決後贈与セラルゝコト
 一.地主ハ小作人ヨリ土地ヲ返還セザル限リ土地明渡ノ要求ヲ為サザルコト
 一.本年ニ限リ地主ハ小作人救済ノ意ヲ以テ金一封ヲ交付セラルゝコト

 もちろん、こうした小作人優遇の要求は裁判所の受け入れるところとはならず、小作人側は「予メ用意セル調停取下書ヲ提出」し、調停の取下げをおこなった。
 12月22日には、以上のごとく取下げをした小作人中44名に対し、地主工藤源助は、小作料請求ならびに土地返還請求の訴訟を川島区裁判所に提訴、組合も全農本部弁護士を代理人として、これに応訴し、昭和5年の桑園小作料減額の小作争議は越年することとなったのである。(6)


4.戦術について
 ところで、この工藤源助に関する争議は、工藤が、前述のごとく、600名ちかい多数の関係小作人をもち、しかも「小作料ノ徴収厳」しい人物であったということもあり、(7)昭和5年以降頻発していた。昭和6年5月現在、小作料請求36件、土地返還請求16件が、徳島市の弁護士を代理人とし、徳島地方裁判所で係争中であった。(8)同村の他の地主と組合との争議は村会議員、元村長など村有力者の仲介、調停が効を奏し、何件かの解決がみられていた(年表を参照のこと)のであるが、工藤源助関係のみは、地主の姿勢も強硬で、特に難航し、小作人組合も総力を挙げ、巧みな戦術をもって対決していかざるを得なかったようである。
 例えば、昭和6年5月の全農西尾支部組合員50名による工藤邸に対するデモ行進では、警察の検束を防ぐため、「農蚕繁栄花びに火伏祈祷を口実として手に■全国農民組合のスローガンを書込んだ小旗を持って西麻植付近に集合気勢を揚げ」るなど工夫しておこなっている。(9)
 また、西尾支部の対地主闘争の戦術には、「地主の所へは小作人二人ずつ(略)交渉に行き、先のが門を出ると、予め門に待っていた二人がすぐ行く。中には婦人も雑っていて子供を背負うて地主の帳場で泣かしてオモツの取り替えをする等のイヤガラセをやり、夕方は全員で地主の家のグルリを廻って解散する等」のいわば「合法的イヤガラセ」をおこなったり、また小作人の調停不履行によって、立毛、家財道具の差し押えが執行され、競売となると、「組合員を動員して他の買手を寄せつけず、組合員が二束三文にせり下げて、債権者は費用損になるよう仕向ける」等ユニークな戦術を編み出していた。(10)


5.高揚と解体
 昭和7年7月4日には、小作人工藤吉五郎外1名に対する工藤源助の土地返還の第二回弁論がおこなわれた徳島区裁判所に、「田中義男(中央委員)弁護士を先頭に竹治、多田、西尾の三書記外数百名が押しかけ、その足で裁判長に立禁を許すな! 農民へ差押へするな! 地主ビイキの調停反対! の抗議」をおこなうという同裁判所始まってのデモが演じられた。5名の代表は公判終了後、徳島地方裁判所長に面会、立毛差押え・立入禁止絶対反対の要請書を提出したが、続いて「真紅の赤旗を押し立て百数十名が徳島市のド真ン中」をデモ行進に移り、指導者4名が検束を受けたものの、他は知事に面会、「即時議会を開いて農民負担の悪税を止めろ! 救済資金を出せ! と要求し暴圧反対を抗議」している。さらに三重合同電気にもデモをかけ、「農民の電燈料半額を向う五ケ年据置く」ことを要求しており、全農西尾支部の争議はこの年、大きな高揚を迎えていた。(11)
 しかし、昭和9年に入り3月には名西郡高川原村の差押物件競売中の全農高川原支部員等の地主に対する暴行事件(同年5月公判)による竹治豊県連書記長、井内瀧右衛門支部長らが検挙されることで、全農は一時的な打撃を受けることとなった。さらに、9月の大暴風雨による水害では全県的に田・畑・桑園にわたり大きな被害を与えたため争議も各地に勃発したが、稲作の検見減免争議が那賀郡羽ノ浦をはじめ県南稲作地帯に発生、大正時代より休眠状態の農民組織が復活、全農県連に統合して運動することになった。このため、県連合会事務所は西尾から離れ、徳島市に移転したのである。昭和5年以降、本県農民運動の拠点であった西尾は、県連移転後も激発する県西部の桑園小作争議の中心地となっていた。しかし、戦時体制の進展する中で、昭和15年8月の大日本農民組合西尾支部の解散、続く昭和17年の農地制度改革同盟の解散に伴ない、戦前の西尾の農民運動は終焉を迎えたのである。


6.まとめと課題
 以上のように、西尾を中心とした争議の概要をみてきたが、昭和恐慌以降、農村の恐慌を背景にし、とくに養蚕地帯での争議であっただけに、それまでの他の争議とは、いくつかの点で異なる。西尾争議の特徴と、今後の研究課題を最後にまとめておこう。まず、第一点はこの時期の争議の原因では、表7のごとく、「小作権関係又は小作地引上」が大きなウエイトを占め、小作争議の高揚に対して地主側も土地引上げで攻勢的に対処していたことを示している。

特に昭和5〜7年は、恐慌の影響を受けた「農産物価格下落」が原因となる争議の割合が増すが、その後「小作料滞納」を原因とする争議の増加が著しく、一戸平均850円余りに達した農家負債の下での農民窮乏の状況を示している。そのため、争議における農民側からの要求も「小作契約継続」が一番多く、さらに「一時的小作料減免」「小作料納入延期・分割支払」等が原因となっていた。大正期から昭和3年頃までは「小作人側よりの小作料減額に対する地主の土地返還申立が大部分を占めてゐたが四年以後は之と反対に地主側よりの土地明渡要求に対する小作人の小作継続申立が主たるもの」となり、恐慌後は「不況の深刻化に因り都市に於ける失業者が漸次帰農しつゝあると従来小作人の副業とせられてゐた日稼の口がばったり途絶えたので小作人に甚しく土地に対する執着を生じ」「従って小作調停開始初期の争議に比し事件の性質が戦術的なものでなく実際的なものであるだけその解決も著しく困難」としていたのである。(12)
 第二点は、もちろん争議は「戦術的なるものでなく実際的な」ものではあったが、全国農民組合という系統組合に加盟、大阪方面からのオルグの指導を受け、訴訟も本部の弁護士が当たり、小作調停法・小作官を積極的に利用し、既に述べたように、多彩な戦術を組織的に用いて、地主への圧力をかけた点も、大きな特徴であったといえよう。
 第三点は、昭和6年7月には全国労農大衆党西尾支部が全農支部に併置され、麻生久らを迎え鴨島町文化座で演説会を催したり、昭和12年の社会大衆党徳島支部連合会結成では、全農徳島県連合会が首唱するなど無産政党結成に積極的に介入した。これら無産政党が取組んだ電気料金値下げ運動、借家人運動をはじめ、政党に結集した労働組合の労働争議、撫養の塩田争議、さらに部落解放運動などとも連絡を持つなど、小作争議を中心にしながらも西尾の農民運動は、他の社会運動と強い連携を保ち、幅広い運動を展開していたのである。(13)全国農民組合西尾支部をはじめ本県農民運動のリーダーであった竹治豊がオルガナイザーとして、他の社会運動をも積極的に指導介入していたからである。
 この農民運動と他の社会運動の相互関連、また両大戦間期の社会運動総体の分析は、この時期の社会経済構造の変化に基づいてあらわれた各階層・階級の多元的な利害の対立を、国家(地方自治体)がいかに介入、調整していったか、という視点からもなされなければならないと思われる。(14)
 最後に、第四点として、この小作争議は桑園養蚕地帯での争議だけに、単に地主−小作関係の支配構造の中から発生したといってよいものではない。小作農民は、郡是・片倉・筒井等製糸会社との間に特約契約(組合)を結ぶなど、製糸資本の支配にも組み込れていたことを見落としてはならないであろう。養蚕小作人が県内外の製糸資本と地主(工藤源助といった大地主のみならず多くは中小地主)の二重の支配の下に存在していたという構造自体を、明らかにしていくことも今後の重要な研究課題となるであろう。
   注
(1) 麻植郡西尾村役場「統計台帳」
(2) このことは同時に、香川県から毎年1000人余り流入していた「桑摘女」「養蚕手伝女」等の出稼女子労働者にも打撃を与え、「流れ込んで来た三、四百名の乙女群が仕事にありつけず失業者となり中には帰国する旅費さへなく板野・阿波・麻植などの方面において困窮してゐる」という事態も生み出していた。(『大阪朝日新聞徳島版』昭和5年5月18日)
(3)農林省農務局『昭和九年地方別小作争議概要』(昭和11年発行)
(4) 「大阪朝日新聞徳島版」(昭和5.5.23)
  以下「大阪朝日」と略す
(5) 「大阪朝日」(昭和5.10.21)
(6) 農林省『小作争議及調停事例 昭和五年』(昭6.9)
  「大阪朝日」(昭5.5.9)同(昭5.7.8)
  なお、昭和5年の西尾村西麻植の争議は、農民運動が強力でなかった同村敷地・飯尾・鴨島町・川島町大字川島・山田・宮島等の地域にも影響を与え、ほぼ同様の調停が成立、解決に寄与している。(農林省『昭和五年小作年報』)
(7) 農林省『小作争議及調停事例 昭和七年』(昭9.3)は、小作人側からみた地主小作関係が記されている。
   「地主工藤ハ繭價高騰時代ハ年々小作料ヲ増額シ小作人多少ニテモ異議ヲ唱ヘバ忽チ小作地引上ニ出デシ為昭和五年頃迄ハ泣ク■地主ノ言ノ儘増納シ来レリ。従テ同一地價ニテ畦畔ヲ境スルニ過ギザルニモ拘ラズ他地主ノ小作料ヨリ反当十圓以上十五圓高ク、些少ナリトモ小作料滞納セバ直ニ高歩ノ金銭貸借證ニ書キ換へ保證人ヲ付セシメラレタル為、西麻植小作人ノ大半ハ今日住宅建物迄モ奪取セラレ極度ノ疲弊ニ陥リツヽアリ。依テ繭價下落セバ下落ノ率ニヨリ小作料ヲ減額シ且ツ之ガ支拂ハ小作人ノ支拂能力ガ出来ル迄放置スルコト当然ナリ、我等ハ父祖以来苦シメラレタル報復ヲ此ノ秋ニ於テ為スノ覚悟ナレバ本調停不調ニナルトモ何等恐ルヽ所無シ」
(8) 「大阪朝日」(昭7.5.6)
(9) 「大阪朝日」(昭6.5.6)
(10) 鴨島町教育委員会『鴨島町誌』(昭和39年)
(11) 全国農民組合「土地と自由」第102号(昭和7年7月20日)
(12) 「徳島毎日新聞」(昭6.1.23)
(13) 徳島県の電気料金値下げ運動は、社会民衆党徳島支部(→社会大衆党)を中心におこなわれ、機関誌の『徳島社会民衆新聞』・『旬刊徳島公論』(発行人阿部五郎)でその主張が展開された。なお、この運動をはじめとする社会運動と農民運動の相互関連については、別稿を準備している。
(14) 第二次大戦後の資本主義は多元的な階級階層の利害を、国家が経済過程に介入することにより処理しつつ運営している。こうした戦後の国家独占資本主義段階への移行が両大戦間期になされていた。利害の錯綜・矛盾が集中的に露呈している、この時期の社会運動に対する国家の介入と処理・調整を考察することにより、両大戦間期が持つ経済史的意義が明確になると考える。(拙稿「戦後恐慌期における広島県下の電気料金値下げ運動」広島大学大学院社会経済研究会『社会経済研究』第8号・昭和56年を参照のこと)
   なお、本県の地主制・小作争議の全体的な動向については、武知忠義『徳島近代史研究』、徳島県農地部農地課編『徳島県農地改革史」に詳しい。
 付記、本稿執筆に際して、鴨島町の小倉半平氏に聞き取り調査等の御協力等をいただきました。また、武知忠義・三好昭一郎両氏にはいろいろ御教示を得ました。


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