阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第32号
石井町における山の神の信仰

民俗班 関真由子

はじめに
 山の神信仰は、やま仕事と深い関係をもっているため、その祠は、山の入り口、中腹などに多く存在する。
 石井町は殆どが平野部で占められており、山といえば、南側に細長い丘陵地帯が続いている程度である。このあたりでも、昭和20年代頃までは、薪、松葉などを採りに入る人々が多くまた神山町に山を持っている人もかなりいて、山越えをして山仕事に出かけていた。このため、山の神の祠は山の入り口付近に多く存在し、道行く人々が山での安全を祈って手を合わせていた。その他、北の平野部でも、小数ではあるが幾つかの祠があり、人々の信仰の対象になっている。
 しかし、石井町は徳島市にも近く、平野部が多いことなどから近代化も早く、昭和30年代に入ってからは、山仕事も激減した。それと同時に、山の神に対する信仰も希薄になりつつある。


1.祠について
 かつては、山の神さんとしての土地を所有し、祭日もあったことと思われるが、現在は殆ど氏神さんに合祁されている。
 石井町石井の気延山麓に続く丘陵地帯は、古墳跡にまつられたものが多い。このあたりの祠は、特徴として、古墳から出土したと思われる緑泥片岩を利用している。これで、高さ約100cm、幅約100cm、奥行約150cmの四角い石組みを造り、その中にまつっている。横穴式墳墓をそのまま利用したもの(清成)もある。
 同じ丘陵地帯でも、古墳のない下浦方面になると、県内各処で見られる70cm前後の、撫養石製の祠が多くなる。
 平野部になると、やはり石製の祠で、句々廼馳命、大山祇命、水象女命の三柱がまつられていることが多い。また、三ケ所で記銘がはいっており、藍畑では文政年間、市楽では寛政年間、池北では享保年間と、江戸中期から末期のものである。


2.行事について
(1)祭り
 現在も数ケ所で、「山の神さんのお祭り」として行われている。例えば日吉郷では1月7日、池北郷では9月9日、がこの日に当たり、在所の人が寄って、お神酒、海のもの、山のものをおまつりする。とくに池北郷では、戦前までは宵宮に余興が行われ、当日はスエウチ(大太鼓一人、鉦二人、小太鼓二人の五人の打ち子がお神楽をあげる)が出るといった賑やかなものであったとのこと。平野部で、山の神さんの祭りが盛大に行われていたということも興味深い。
 しかし、多くの場合は、氏神さんの祭礼の日に、当家がお神酒、お米などをまつってすませるようである。山の神さんの祭りとしての特別の行事はない。おそらくは昭和初期頃までは、氏神さんの祭りとは別に、年に1〜2回、祭りが行われていたと思われるが、明確ではない。
(2)ヤマノクチアケ
 昭和10年代頃までは、地域によって行われていたらしい。下浦では1月4日がこの日にあたり、山持ちの家の人などが、御幣の先にダシイリ、米を包んで山の神さんの祠近くの木の枝に吊るし、周辺のお芝を刈ってきれいにしていた。また、山の神さんは女性を嫌うということから、クチアケの際、女の子を連れていくことを忌み、山の入り口で待たせたりしていた家もあったとのこと。
 現在クチアケについて記憶している人はごく稀で、殆ど行われていないとおもわれる。
(3)山の神講
 井ノ元郷では現在も行われている。オショウゴック(正月、五月、九月)の26日がその日に当たり、当番制で、1回づつ順にまわる。この日、当番の家では「大山祇神社」のおかけじをかけ、御神酒一対とヤオモノ(八百物)をおまつりする。夕方になると在所の人が集まってきて、代表者がおかけじの前で大祓を唱える(五巻くらい)。後は茶菓子で歓談する。以前は、かきまぜずしなどをつくり、夕食を共にしていたとのこと。かっては10軒の参加があったが、今は4〜5軒になっている。山路郷でも、昭和20〜30年頃まで行われていたらしい。
 おそらくは他の地域でも行われていたと思われるが、現在は殆ど忘れられつつある。


3.山の神の祠一覧


4.山の神の祠分布図


 ☆なお、3.4.については、かなり広範囲に亙る調査であったため、おそらく記載もれがあるとおもわれる。今後も調査を続けていきたい。


 おわりに
 酷暑、厳寒の中、この調査に多阪の御指導御協力を頂きました、富崎民夫宮司様をはじめ石井町の皆様方に深く感謝申し上げます。
場所 (石井町)高川原 桜間神社境内(拝殿の西側)
祠 高さ約2mの石製の祠
 向き東向き
祭神 大麻さん
 山の神さん
祭日 桜神社と同じ
 (旧)1月23日、5月23日、9月23日

 


徳島県立図書館