はじめに 土成町は阿讃山脈の麓にあり、「阿波の北方」と呼ばれる地域の一つである。町の南側には緑の稲田の広がる吉野町を隔てて、四国山脈のダークブルーの峰々を背にして、白く輝いて流れる吉野川を望むことができる。建築班は郷土建築研究会と共に、民家と社寺建築を調査したが、ここでは民家についての調査報告をする。なお、本調査にあたっては、アメリカ人を含む京都の建築家(客員)3人との合計8人で調査を行った。
目 次 1.古川おとめ家(庄屋の家) 土成字美禄 2.布川清二郎家(原士の家) 土成字前田126−1 3.大藤シズエ家(四間取農家) 浦池字九頭宇216 4.竹中 利一家(一間取農家) 吉田字平井 5.吉川 清家(二間取農家) 吉田字平井 6.その他の民家 7.間取りについての考察 8.あとがき
1.古川おとめ家(庄屋の家) 古川家は天正19年(1592)に蜂須賀藩主から庄屋に取り立てられ、代々庄屋を勤めてきた家で、現在は14代目に当たる。家紋は「亀甲に立浪」で、屋号は「本鱗」である。 敷地は東西32間、南北40間で、周囲を練塀や石積塀で囲まれ、北側と西側は道路に面し、南側に門を開いて西側道路よりアプローチしている。屋敷構えは、主家を中心にして西に番屋、納屋、寝床があり、北側には納屋、土蔵があり、東側には大和張の板塀に中門を開いて、表庭には築山と池がある。北東の鬼門には屋敷神として「高良神」を祠っている。
主屋は玄関を中心にして、西側には帳場、ナカノマ、ヒロシキを持った内ニワ、ダイドコ、板間、カマヤがあって、正面に4帖と6帖の玄関の間が、東側に表の間、上の間があり、晴(ハレ)として使用している。 北側には二つの奥の間、4帖の間、時計の間と呼ばれている8帖の部屋と料理の間がある。中二階には使用人部屋があり、階段の途中にはオトシコミと呼ばれる隠し物入れがある。構造は木造中二階建の切妻本瓦葺で、外壁は白漆喰塗りを一部簓子下見板張りとなっている。
2.布川清二郎家(原士の家) 布川家は藩政時代に徳島市の安宅町に住んでいた「加子」と呼ばれる阿波水軍の一族から分家して、当地に移って「原士」となった。間取りはゲンカンの間を中心にして西側にチョウバ、ヒロシキを持ったウチニワがあり、東側にオモテ、北側にダイドコロ、カマヤ、ナカオク、オクがある。現在はウチニワ、ダイドコロ、カマヤの部分はそれぞれ改造されているが、座敷部分は昔の面影をとどめている。 主家は茅葺屋根に周囲を瓦葺の底を廻した「四方下」といわれるものである。
3.大藤シズエ家(四間取農家) 一般的な四間取りの農家で、養蚕を主にやっていた。間取りはニワ、オクドのある土間と帳場、床付きの上の間、ダイドコロ、オクがある。中心部に仏壇をおいて、オクの東側とニワあたりの増築がみられる。
4.竹中 利一家(一間取農家) 竹中家はニワ、カマヤの土間の東側に8帖一間がある「一間取」の農家である。オクは後で増築されたものと思われる。柱は栗、椎等の堅木を用い、ちょうなはつりしたもので、天井は「ヤマト天井」になっている。
5.吉川 清家(二間取農家) 茅葺トタン覆いの屋根の廻りに本瓦葺の四方下を設けている。向かって左から、ウチニワ、ナカノマ、オモテがあり、カマヤを含む裏の部屋は後で増築されたものと思われる。
6.その他の民家 6−1 大藤 明夫家
6−2 三木 武夫家
7.間取りについての考察 石井町1)に始まったこの調査は、前々回の板野町2)に次いで平野民家の茅葺屋根を対象に、全民家を調査した。板野町は讃岐街道沿いに右勝手が集中し、約80%を占めるのに対し吉野川沿いの平野部では約30%程度となっている。 土成町では扇状地、街道筋共に圧倒的に左勝手が多く、全体の88%を占めていた。板野町との比較で46ポイントの差が出た。これらにより、やはり県西部は左勝手が主流を占めることがわかる。民家の勝手により、生活様式や祭事形式も異なってくるものと思われる。また、現代と違い、地域コミュニケーションの絆の強い時代には間取りの持つ意味合も大きいものと思われるが、その違いがいかにあるのかは、まだ定まった説は見いだされていない。
8.あとがき 民家は、人々の生活を過去から現代までを映しだしてきた鏡である。そこには気候、風土、産物、風習、生活様式などの反映が見られる。今回の調査に当たって、ご協力いただいた町当局並びに住民の皆様方に感謝致します。
参考文献 1)総合学術調査報告「石井町」(郷土研究発表会紀要第32号)P103〜P119。 2)総合学術調査報告「板野町」(郷土研究発表会紀要第34号)P257〜P283。
1)県庁住宅課技師 2)徳島建築文化財研究所主宰 3)林建築事務所室長 4)A+U設計室主宰 5)アトリエRYO主宰 |