阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第36号
土成町の社寺建築

郷土建築研究班

   松永佳史1)・富田真二2)・

   橋本国雄3)・野々瀬徹4)・

   間健治5)

はじめに
 土成町は徳島県北部に位置し、北には阿讃山脈が控え、南には「四国三郎」吉野川が西から東に流れている。
 私達郷土建築研究会は建築班と合同で7月29日から8月1日までの4日間、現地調査を行なった。社寺建築の中でも、神社建築特に随身門に重きを置いた。神社以外では寺院・お堂の調査を行なった。

 目 次
1.土成町の神社
 1−1 土成町の各神社
 1−2 随身門と随身像
 1−3 農村舞台
2.土成町の寺院
3.土成町のお堂
4.参考資料
 4−1 神社本殿の建築様式
 4−2 神社鳥居の種類
5.おわりに

1.土成町の神社
 今回は図1−1の21件の神社を調査した。その中で特筆すべきものとして、No.1熊野・No.2宮川・No.3御所・No.4椙尾の4神社には随身門があり随身像が安置されている。特に、熊野と椙尾神社の随身門は雄大である。本殿の建築様式では、大地神社の権現造り以外は全て流れ造りである。但し1社は鞘堂で覆われていたため不明であった。また鳥居については、明神鳥居が圧倒的に多く、No.6日吉明神とNo. 15王子神社の両部鳥居以外は、全て明神鳥居であった。神社境内の農村舞台については、昭和47年(1972)当時No.3御所神社とNo.5赤田神社で現存していたが、御所神社は新建材の集会所に赤田神社は鉄骨スレート造の建物に変わっていた。

 1−1.土成町の各神社
(1)熊野神社……土成町高尾字熊之庄15
 この神社は六番札所十楽寺の東側上板町境に位置する。明神鳥居をくぐると随身門があり、それと拝殿を継ぐ8間の長い渡殿、5間3面の拝殿、そして流れ造りの本殿がある。町史1)によると永禄3年(1560)に合祀されたものという。拝殿は唐破風の向拝で、それを鞘堂で保護している。本殿を鞘堂で保護した例は数多く見られるが、向拝に付いたものは稀である。

(2)宮川神社……土成町宮川内字宮ノ尾27
 国道318号線を北上し神田橋を渡り右に折れるとすぐに宮川神社の明神鳥居が見える。町内最古のこの鳥居は天保3年(1832)建立である。樹木の生い茂る石段参道を抜けると視界が明るくなり右手側に小ぶりな随身像がたたずんでいる。そして広場の奥に拝殿、一間流れ造りの本殿が配置されている。
 本殿向拝の両脇に一対の木製の狛犬が安置されている。一般に狛犬と呼ばれているこの像は、神社の魔除けとして安置されているが、社殿に向かって右側が上座で獅子を表しており、角がなく耳が垂れて口を開いている。左側が下座で狛犬を表し一本の角があり耳が立ち口を結んでいる。
 口が開いている形を「阿(あ)」、そして口を閉じている形を「吽(うん)」といい、それぞれ攻めと護りを表している。「阿(あ)」「吽(うん)」の呼吸という言い廻しがあるが、この狛犬の「阿」「吽」から出たものとされている。

(3)御所神社……土成町吉田字椎ケ丸6
 土成中学校の北約500m、この神社の鳥居がある。そこから約300mの馬場があり、農村舞台が改築された集会所が左側にある。
 三間一戸形式の随身門から本殿までは42、33、71段の厄数の厄坂石段となっている。
 右近の橘、左近の桜が植えられ、拝殿流れ造りの本殿が配置されている。
 この神社は永禄年間(16世紀後半)原田義富・三木景久が吉田岡の山に勧請したと言われ2)、元禄9年(1696)現在地に遷宮され吹越神社と呼んでいた。

(4)椙尾(すぎのお)神社……土成町土成字田中38
 東西に走る県道鳴門池田線の北約300mに位置する。この鳴門池田(鳴池)線に平行して約600mの長い馬場のある神社で、天保15年(1844)建立3)と言われる雄大な随身門がある。唐破風の向拝を持つ拝殿、棟には頭に経(きょう)の巻(まき)という巻物3本を乗せた獅子口(ししぐち)と呼ばれる瓦がある。
 拝殿・幣殿・祝詞殿、そして一間社流れ造りの本殿が配置されている。

(5)赤田(あかんた)神社……土成町成当字大場1450
 土成小学校のすぐ西に位置するこの神社は、明神鳥居の奥に広場があり農村舞台跡に鉄骨スレート造の建物が建てられている。石段を登ると拝殿へと繋がる。
 拝殿は祭神への遥拝、神事を行なう場であり、幣殿は供物を奉る場であり祝詞殿は神主の遥拝場である。
 本殿は流れ造りである。
 宗教建築には古代人の信仰、願望等が建築的表現となり現代にも伝承されているものが多く見られる。拝殿向拝の唐破風に取りついている総彫の懸魚は波を表わしており、棟のシャチホコ、熨斗の波形瓦などと共に火除けのまじないである。シャチホコ、獅子の隅蓋瓦、タカの隅蓋瓦などは魔除けの意味がある。

(6)日吉神明(ひよししんめい)神社……土成町水田字日吉261
 前述の赤田神社から西に約500m離れて日吉神明神社はある。
 山王権現、日吉神社、日吉神明神社と改称したこの神社には、鉄筋コンクリート造の朱塗りの両部(りょうぶ)鳥居、三間方形の拝殿系神楽(かぐら)殿がある。入母屋屋根のこの殿は拝殿であり神楽を舞うために設けられた舞台でもあるものと思われる。天井は格(ごう)天井で構成されている。流れ造り本殿は八重垣に囲まれている。この神社の配置構成は県下においても希少なものと思われる。以後の調査課題にしたいと考えている。

(7)奇玉(くすだま)神社……土成町浦池字西の宮64
 薬王子神社、西宮神社とも呼ばれていた奇玉神社の起源は、伝承によると承和年間(834〜847)の昔とされている。玉垣に囲まれた境内入口には、明神鳥居が構えられている。

(8)樫原神社……土成町樫原字山の本41
 明神鳥居の一の鳥居、二の鳥居があり、小ぶりな拝殿、流れ造りの本殿が配置されている。

(9)大地(おおじ)神社……土成町西原字大王子231
 古来中王子権現と呼ばれていた当社の本殿は小規模ながら良くまとまった権現造である。唐破風の向拝を持つ拝殿、そして鳥居は明神鳥居である。
 境内には楠の木の大木が繁っており、夏には心地良い日影を生んでいる。

(10)その他の神社

 1−2.随身門と随身像
 随身とは、寺院の二王門に習って、神社の鳥居を潜った附近に神社や廟を守護するために安置された一対の神像である。向かって右側の神像は左大神(ひだりのおおかみ)・看督長(かどのおさ)のことで、俗に左大臣と呼ばれ、武官の服装をし兵仗(ひょうじょう)を持っている。向かって左側に安置された神像は矢大神(やのおおかみ)・闇神(かどもりのかみ)のことで、俗に矢大臣と呼ばれ、弓矢を持って本来は片足だけをあぐらにしている。特別なものには、鴨島町牛島の麻宮神社の像は立像である。
 寺院に二王門があるように、神社や廟には随身門がある。随身門には前記の左大臣、矢大臣を両脇に安置するため、必ず正面が三間通路が一つの形式を取っている。この様式を三間一戸と呼ぶ。また重層の場合もあるが、一般に単層門であり、時には像を中央通路に向かって対面した例もある。
 現在、我国最古の随身門は本殿吉備津造の岡山県吉備津神社の南随身門であり、約630年前のものである。

 以上のように、土成町で見られた随身像は全て随身門内に安置されている。
 左図は現在調査中の徳島県下の随身門の分布図である。土成町をはじめ、徳島市、板野郡、名東郡、名西郡など県中心部の神社では、随身門に随身像を安置する形態が見られる。阿南市、海部郡など県南部では、拝殿に安置する形態が多く見られ、石像にて野晒しの形態は県西部に多く見られる。

 石井町浦庄に斎(いつき)神社があり、同様に石像が一対座している。この地方ではこの像を「かどまるさん」、また門を守るから直接的に「もんばんさん」とも呼んでいる。

 1−3.農村舞台
 農山村にあって人形芝居を演じる場所を舞台と呼んでいるが、淡路から阿波国に伝わった人形浄瑠璃は、徳島藩政期に全領地内に拡大し、明治中項に数多くの農村舞台が建てられた。
 写真1−70は阿波十郎兵衛屋敷での人形浄瑠璃の上演風景である。毎週土・日曜日に演じられている。
 写1−71は讃岐小豆島の肥土山(ひとやま)の農村舞台で、国指定重要民俗文化財に指定されている。ここは歌舞伎舞台となっており、讃岐ではもう一か所指定文化財である中山の舞台がある。毎年、肥土山は5月3日に、中山は10月10日に上演されている。

 左の写真は徳島市五王(ごおう)神社の犬飼(いぬかい)の舞台であり、現在も上演されている県内2か所の一つである。

 犬飼の舞台は今まで年2回5月3日と11月3日に上演されていたが、残念な事に今年からは11月3日のみとなっている。
 下段の写真は県内2か所の一つである木沢村坂州の舞台である。毎年上演されていたが、一年毎に人形芝居と素人芝居が交互に上演される様になっている。11月22日の秋祭りに上演されている。人形芝居という大衆芸能の伝承を柱に、コミュニティーの核として再生させることが精神性の基軸を失いかけている現代の我々に必要なことであろう。

 写1−75は素人芝居の上演風景である。

 上の資料は昭和47年(1972)の調査4)を基に、阿波学会建築班・森兼三郎氏の調査によるものである。勝浦川、那賀川両流域、海部郡の海岸地域に多く分布し、平成元年11月末現在、徳島県下には134棟の舞台が確認でき、公民館・集会所などに改築された舞台が120棟、廃絶舞台は42棟となっている。
 徳島県は長野県、岐阜県と並んで全国三大舞台県といわれており、17年前の調査では全国の約 1/6 に当たる208棟が確認されていた。現在134棟しか現存していない。そのうち重要度の高いものは33棟と極めて少ないものである。失われて行く文化財の多さに目を被うばかりである。
 土成町内で赤田(あかんた)神社の舞台は鉄骨スレート造の建物に、また御所神社も集会所に建て変わっていた。

2.土成町の寺院
 四国霊場7番十楽寺、8番熊谷寺、9番法輪寺、共に縁起では弘法大師の開基をいわれる。十楽寺は、もと西谷にあったそうであるが、この地に移り寺院建築も本堂を残し全て改築されている。熊谷寺は、境域が特に広く本堂は火災により昭和13年(1938)再建されている。また同46年(1971)県有形文化財に指定されている二王門(山門)は県下一立派なものといわれており、重層建の二王門で、上層部は「唐様」でつくられ、次のような特徴がある。扇■(オオギダルキ)、詰組(ツメグミ)、■(チマキ)等である。天井は六面の鏡板(カガミイタ)を嵌め込み、それぞれ姿態の異なった天女の絵が極彩色で描かれて、さながら極楽浄土に遊ぶ心地がする。法輪寺は災厄にあい、明治8年(1875)に復興した。建築様式は唐様が主で和様が少し入っている。
 その他に茅葺屋根の本堂をもつ神宮寺(ここも弘法大師の開基と伝えられている。)と、浦池にある弘化元年(1844)に本堂、鐘楼門の改築を行なった熊谷山蓮生寺と、成当の教覚寺、円光寺、水田の称念寺・秋月の光福寺等古刹名刹が土成町には多くある。

3.土成町のお堂
 土成町は四国巡礼コースに当たるので、庵と呼ばれるものが多い。お堂も真言宗を開いた弘法大師信仰のための「大師堂」の建物形式が主であり、山間地方に見られる開放した形式と異なって、外壁をめぐらしている。

4.参考資料
 4−1.神社本殿の建築様式

 4−2 神社鳥居の種類

5.おわりに
 年々朽ち消えて行く農村舞台。老朽化の進む随身門。日常生活から切り離されつつある神社寺院。新建材の塊に変わる茅葺きの住宅。あまりにも日常生活や、生産の利便さばかりにとらわれて、何か大切なものを置き忘れてきたのではないか?
 忘れるという字は心が亡びると書く。都市は宗教を忘れ、祭りを失っている。祭りを失い潤いをなくしている。全てに共通することは「こころ」だと思う。人のこころとは、歴史とつながりながら育ってきたものであり、その歴史・伝統を次の世代に伝え、発展させていかなければならないと思う。
 伝統とは凍結されるものでなく、創造されるものである。
 最後にこの調査、報告にあたり町役場、県立図書館、町民の皆様方には多大なご協力を賜り深く感謝致します。(文責、松永)

 文 献
1)〜3)土成町史
4)徳島県の農村舞台 河野晃著

1)YM設計室主宰  2)富田建築設計室主宰  3)諒建築設計事務所主宰
4)野々瀬建築都市設計事務所主宰  5)間健治建築工房主宰


徳島県立図書館