阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第36号
土成町における神社の変遷の概要

史学班  出口大士

1 はじめに
 弥生時代・古墳時代と人々が住みついてきた土地である。それぞれの時代に、人々の宗教意識が信仰のかたちをとり、産土神などの形をとってカミが祀られてきたものと思われるが、今その証跡を辿るのはまことに困難である。
 古代に入って、記録の上に残されたものとしては、延喜式神名帳記載の建布都神社があり、古代創建の伝承をもつ神社として、奇玉神社が存在する。中世以降は、熊野信仰、天王信仰などが盛んになるに伴い、これらを勧請した神社が多く建てられるようになった。
 神社の創建あるいは祭祀のありかたを明らかにし、その後の移り変わりを辿ることは、祖先の生活・意識を知る上で大切なことであろうと思われる。不十分ではあるが、土成町についてまとめてみたところ、ほぼ次のようなことが浮びあがって来た。

2 古代氏族と神社
(1)『延喜式神名帳』(927完成)には、阿波国阿波郡として、「建布都神社」が記載されている。『特選神名牒』によると、その所在は阿波郡土成町大字郡となっている。現在の板野郡土成町大字土成郡に当たる。古代には土成の地名は見当たらない。現在の土成町秋月は、『和名抄類聚抄』(承平年間 931−937成立)によると阿波郡に属しているので、現土成町は古代にあってはその西部は阿波郡に属し、東部は板野郡に属していたわけである。
 建布都神社の祭神建布都の神は、布都主神・布都神とも称し、物部氏の氏神であり、大和の石上坐布留御魂神社系統の神である。『阿波国徴古雑抄』所収の「田上郷戸籍残簡」(延喜2年.902造作)によると、当時物部氏を称する人々は相当多く居住し、全戸口478のうち、凡直(オオシノアタイ)の72、家部(ヤカベ)の59に次いで、51を占めている。
田上郷の所在については明確にされていないが、『大日本地名辞書』では、吉田・高尾・宮川内のあたりと推定している。言うまでもなく現在の土成町である。古代にはこのあたりに物部氏が相当多く、その人達によってこの建布都神社も祀られたものであろう。
 今日、式内社建布都神社として、上述の郡の社のほかに、論社として、成当の赤田神社と市場町香美の建布都神社があげられている。中世以降、豪族の移動、氏子の変遷などで古代の面影は薄れ、一時八幡神社を称したこともあったが、依然、武の神としての尊崇を受け続けたものと思われる。『阿波志』(1815成立)には、阿波郡の項に「建布都祠延喜式内小社となす」とあり、所在村についての記載はない。成当の赤田神社については「成当村に在り又神木祠あり」と記されている。祭神は郡の建布都神社と同じく、武甕槌命、経津主命である。
(2)浦池字西宮の「奇玉神社」は、伝承によると平安時代の初期,山田古嗣が浦池の大池を築くに当たって祀祭したものとされている。
 従五位下山田古嗣が阿波介となって、国司の庁に赴任して来たのは,承和13年(846)のことである。『文徳実録』(878完成)によると、「(略)政績有声、阿波美馬両郡、常罹旱災、古嗣殊廻方略、築陂蓄水、頼基灌概(略)」と記され、地方官としての働きは中央でも認められていたもののようである。三好郡(当時は未だ美馬郡に含まれていた)の池田も、池と関わりのある地名で、ここの池も古嗣の築いたものと伝えられている。そして、式内社倭大国玉神大国敷神社二座は、これに関連して祀られたものと考えられる。
 奇玉神社の祭神は『土成町史』によると、大己貴命・少彦名命となっている、奇玉は現在「クスダマ」と称しているが、もとは「クシミタマ」ではなかったかと思われる。『日本書紀神代巻』に、大国主神が、少彦名神が常世の国に去ったのを嘆いていると、海を照らしながら浮かび来る神があり、大国主神の「汝は是誰ぞ」という問いに「吾は是汝が幸魂奇魂なり」と答えた。これが大三輪の神であると述べられている。奇魂は奇徳をもって万事を知り弁別できる魂の意である。池の守護神、また土地の豊饒を祈る神として祀られたものと考えられる。
 江戸時代には薬王権現とも呼ばれていた。少彦名神を祭神とすることからきたものか。池田の場合、医家神社へと変遷したとされているが、池=医家の語感も働いていたかもしれない。明治以後、奇玉神社の旧名に改められた。
(3)以上のほか、古代に由来すると思われる神社として、高泰神社(法林寺字高泰)と椙尾神社(土成字田中)とがある。高泰神社の祭神は、天忍穂耳命ほか二神となっているが、いずれも後世の付会であろう。この辺りは、『和名抄』にいう「高井郷」にあたり、本社はその鎮守の神として、また治水の神、井手の神として古くから祝祭されていたもののようである。
 椙尾神社は、社伝によると、平安中期の豪族杉尾右馬介資宗の氏神であったという。杉尾神社は『徳島県神社誌』にも17社を数えるが、その名の由来は明確でない。また祭神も大己貴神などの出雲系の神であったり、海人族の神であったり、これもよく分かっていない。古くからの神社に、杉尾大明神を重複させて祀っていって広がったものではないかと考えられる。

3 中世以降の熊野信仰と天王信仰・山王信仰
(1)紀伊国式内社に熊野坐神社と熊野早玉神社があり、前者は本宮、後者は新宮と呼ばれる。また熊野那智神社は後に熊野夫須美神社と呼ばれ式外社であるが、併せて三山、あるいは三所権現と称している。熊野はまた阿彌陀如来の浄土と考えられ、浄土への憧れが次第に朝廷・貴族の間に広がるとともに、熊野詣でもまた盛んになった。道筋には王子社と呼ぶ分社が多数設けられ、それらを九十九王子ともいった。
 古代から中世にかけて社領の寄進も増え、これらの所領を管理した熊野別当は次第に権勢を振るうようになった。阿波の国関係では、天授5年(1379)の寄進状が熊野新宮に残っている。(『阿波国徴古雑抄』p135)
  阿波国日置庄地頭職所有御寄付熊野新宮也。存其旨専御祈旨可有御下知之由天気所侯也。以此旨可令申入□給依執達如件。
  天授五年三月廿一日   右大辨時煕奉
 ここに言う日置庄は、現在の土成町・吉野町・上板町に亘る地域である。新宮領になったことで、此処に熊野新宮の分霊が祀られ、熊野大権現と称した。現在の熊野神社(高尾字熊之居15番地)がこれである。
 王子神を祀る社としては、大地神社(秋月字中王子)・山王子神社(高尾字山王子)・若一王子神社(土成字大法寺)がある。
 大地神社は秋月城南鎮守として城主の尊崇が厚かったといわれる。古来、中王子権現と呼ばれていた。すなわち西に市場町山野上の西王子、東に大字土成の若一王子があって、その中間にあるところからの名称である。『寛保改神社帳』には王子大権現とある。
 若一王子神社も中世に由来すると思えるが、近世に入って藩の給人山崎図書によって崇敬されたとして知られている。明和年間の棟札にその名が記されている。
 山王子神社もほぼ同時代である。棟札には、慶安3年(1650)のものが残されている。
(2)土成町西部の秋月は、すでに平城宮木簡にその名が見られ、『和名抄』にも記載された古い郷名である。田上郷戸籍にも「秋月」を称する戸口は8を数えるから、古代にあっては相当枢要な地であったと考えられる。中世以降、秋月氏・小笠原氏その他の居城があったが、元弘4年(1334)細川和氏が阿波の守護となり、以後、詮春が守護所を勝瑞に移すまで、細川氏の本拠は秋月にあった。
 文永3年(1266)に、小笠原長直が秋月城を修築した際、山王権現を祀って城の鎖守の神としたと伝えられる。山王は、近江国日吉神社の別称で、大山咋の神が祀られている。王城鎮護の山、比叡の神である。建武の頃、細川和氏は、京都と比叡山の関係に倣って、城の東北にあるこの社を厚く尊崇した。現在の日吉明神社である。
 小笠原氏はまた、その出身が信濃国であり、諏訪大社の分霊を勧請して祀るということがあった。池田町ウエノの諏訪神社はその代表的なものであるが、土成町法林寺字高泰の諏訪神社も同様の関係で創立されたものではないかと推測される。
(3)祇園会や山鉾巡行で名高い京都の八坂神社は、祭神素戔鳴尊を祇園精舎守護神である牛頭天王に比定し、牛頭天王社とも呼ばれた。疾病退散の為の「祇園御霊会」が行なわれたことでも有名で、中世以降、祇園社を本所とする経済活動ともあいまって、その霊威は地方でも高く尊信されるようにはり、各地に祇園社・天王社・八坂神社として祀られるようになった。
 御所神社(吉田字椎ケ丸)は、もと吹越天王社といわれ、牛頭天王を祀り、吉田岡の山にあった。永祿年間(1558〜1570)此の地の有力者原田義富、三木景久によって京都八坂神社から勧請されたと伝えられている。元禄9年(1696)現在地に遷座。氏子は吉田地区全域にわたっており、『徳島県神社誌』によれば350戸を数える。この地域の中心的神社として今日まで尊崇されてきた。主祭神は素戔鳴命であるが、相殿に土御門天皇を祀り、他に国常立命をはじめ20柱の神が合祀されている。大正2年(1913)村内26社を合祀した結果である。
 宮川神社(宮川内字宮ノ尾)も、もとは牛頭天王と称していた。吹越天王社の神霊を分祀して、一村の鎮守としたものである。慶安4年(1651)の棟札が残されている。明治初年八坂神社と改称し、明治44年(1911)吉野神社他24社を合祀して、宮川神社と改称し今日に至っている。

4 合祀の趨勢と御所神社
 明治4年(1872)5月、太政官布告によって、各地の神社の社格を決定することになった。国の起源と皇室に関係の深い神社を官・国幣社とし、地方の神社を県社・郷社・村社などに分け、奉幣使をたて、幣帛を献じて一応の礼遇をした。このとき土成町では、高尾の熊野神社が郷社に、椙尾神社外14社が村社に列せられている。
 明治39年(1906)8月、政府は内務省訓令をもって神社の合併を奨励し、さらに同41年2月14日、同42年10月1日と重ねて督励してきた。しかし、氏子にとって氏神は心のふるさととしての拠り所であり、なかなか離れ難いものがあった。村の当事者達もこのことの遂行には大変な苦労があったと伝えられている。
(1)明治から大正にかけて、計72の神社が合併・合祀されることになった。中でも吹越(御所)神社へは吉田地区の殆ど全部、28社が合併し、宮川神社へは宮川内地域の24社、また奇玉神社へは9社が合併して、所謂無格社のほとんどはその姿を消していくことになった。これらの中には古い由緒をもつものもあったかと思われるが、記録としてそれを物語る資料は残されていない。詳細は別表の通りである。
 合併の最初は明治44年、宮川内地域のそれであった。山神社6、地神社4、野神社3、鎮守社3、吉野社3、をはじめとする24社が八坂神社(牛頭天王社)に合併合祀され、宮川神社と改称された。いずれも地域の人々に密着した神々であった。中でも山の神の社が多かったことはこの地域の特色であり、山の生活が此の地の住民にとって長い期間大切な役割を果たしていたことを思わせるものである。同様に、吉野神社3社が存在していたことは、山岳地帯としてのこの地域に吉野蔵王権現の信仰が根づいていたことを物語っている。
 次いで大正2年、吉田の吹越神社へは、野神社7、山神社4、五柱神社3、などの28社が合祀されている。吉田地区は宮川内の南に広がる平闊地で、もとは原田と呼称されていた。吉田という好字を用いるようになったのは元禄(17世紀末)の頃からとされている。阿波用水が開通するまで、古くは水利にめぐまれず、畑作を主とする農業で、牛馬の飼育なども行なわれていた。野神社・山神社が数多く存在していたのは、そのような農民の生活と深く関わっていたと考えられる。合祀全体で野神社13、山神社11を数えることからもこのことは窺えるし、この間、氏子たちの抵抗も相当大きなものがあった。
(2)その後、大正4年、大正5年、大正6年、大正12年、大正15年と合併は続き、最も新しいのが、昭和32年の吹越神社への御所神社の合併である。吹越神社はこの合併によって、御所神社と社名を改めることになる。
 吉田御所屋敷にあった御所神社は、土御門天皇を祭神としていた。御所屋敷の地名は、承久の変(1221)によって土佐に流された土御門上皇が、後に阿波へ遷られたが、その折の御所の跡という伝承からきている。明治以後、吉田地区と宮川内地区とで御所村を形成し、土成村と合併して土成町となるまで続いたが、その御所の村名も以上の伝承にもとづくものであった。昭和に入って、あらためて土御門上皇を奉斎する神社として、鳴門市大麻町池谷字大石に県社(当時)阿波神社が造営された。このことについて『徳島県神社誌』には次のように述べている。
 御祭神の土御門上皇は、承久の変により、承久3年閠10月土佐に遷幸され、更に貞永2年5月阿波に遷られ約9か年望郷の念やるかたなく、さびしい生活に耐えられながら寛喜年3年(1231)10月11日土成町御所にて崩御された。上皇の御火葬塚の東北に隣接している現在の社殿は、昭和15年に県が二千六百年記念事業として造営したものである。『阿波志』に「土御門天皇廟 池谷村天皇山南麓に在り」と記されているが、もと火葬塚の北に丸山神社」(通称天皇さん)とよぶ土御門天皇社を変更し、県ではその東側で本格的な神社造営にとりかかり、県民あげての奉賛と勤労奉仕によって昭和18年10月7日竣工、同9月盛大に本殿遷座祭を斎行した。昭和18年県社となる。
 以上のような情勢の中で、御所屋敷に祀られていた無格社(当時)の御所神社が次第にその影を薄くし、遂に合祀されるまでに到ったのも蓋しやむを得ないところであった。そしてその社名だけは、吹越神社にかわって御所神社としと残ることとなったのである。また、旧地にあった立派な石の鳥居も移転されている。

5 おわりに
 『続日本記』神護景雲元年3月(767)の条に、板野・名方・阿波等3郡の凡費を称する人々が、改めて粟凡直を名乗るように陳情して認められている。また、『三代実録』の貞観4年9月の条には「阿波国従五位下行明法博士粟冗直鱒麻呂中宮舎人少初位下粟凡直貞宗等同族男女十二人賜姓粟宿禰」とあるから、この吉野川北岸地域に相当数の有力氏族が存在していたことが推測される。このことは、さきにあげた「田上郷戸籍」に、粟氏、凡直氏,粟凡直氏が圧倒的多数を占めていることからも実証されるが、それと同時に、この戸籍残簡には、忌部・物部の古代有名氏族とともに服部・錦部・秦・主村・漢人等の帰化系の氏族名が多数記載されており、複雑な人口構成であったことを物語っている。
 中世以降も、佐々木・小笠原・細川、更には蜂須賀氏の入国等、新勢力の流入もはげしかったし、庄園支配等による支配層の変遷も多かった。神社の信仰も、鎮守社といった土着の形態よりも、有力者の勧請によるもののほうが力を持っに至ったのも止むを得ないことであったかも知れない。ただ、明治以後合祀されていった多数の神社の中に、古い信仰の形態を偲ばせるものがあり、今後こうした点について一層の探究を続ける必要を感じている。また、吉野川を挾んだ、対岸に5・6世紀のものとおもわれる古墳を多数残している忌部族の存在も、この地域と関連づけてみていきたいと思っている。
 この調査にあたって、御所神社宮司稲垣豊久氏をはじめとする多数の方々のご協力、ご指示を得られたことに厚く感謝の意を捧げる次第である。
 参考文献は次のとおり。
 1 『続日本紀』 (朝日新聞社蔵版)
 2 『三代実緑』 (同 上)
 3 『和名類聚抄郡郷里駅名考証』 池邊 彌著(吉川弘文館)
 4 『式内社の研究』 第1巻 志賀 剛著(雄山閣)
 5 『新撰姓氏緑の研究』 佐伯有清著(吉川弘文館)
 6 『阿波国徴古雑抄』 小杉榲邨(日本歴史地理学会発行)
 7 『特選神名牒』 内務省蔵版(大正14年)
 8 『神社誌』 第1号 御所村々社吹越神社(昭和6年)
 9 『延喜式』 前編 新訂増補国史大系(吉川弘文館)
 10 『土御門上皇聖蹐之研究』 上・下
 11 『徳島県神社誌』 徳島県神社庁(昭和56年)
 12 『徳島県史蹟名勝天然記念物』 第1輯 徳島県(昭和4年)
 13 『郷土研究 徳島県誌』 徳島県郷土会(昭和3年)
 14 『御所村誌』
 15 『土成村史』
 16 『土成町史』
 17 『土御門上皇と阿波』 藤井 喬著(昭和50年 土成町観光協会)
 18 『土御門天皇と御遺蹟』 武田勝蔵編(昭和6年 御所神社奉讃会)


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