阿波学会研究紀要


このページでは、阿波学会研究紀要論文をご覧いただけます。
 なお、電子化にともない、原文の表記の一部を変更しています。

郷土研究発表会紀要第36号
藍染めとその変遷

染織班  上田利夫1)・宮川力夫2)
      武市幹夫3)

1.はじめに
 染織班は、土成町における藍染め産業およびその技法に関する時代変遷を知る基礎資料を得るを目的として 1藍作、2藍商人、3藍作の記録、4昔からあった織物が復活可能か否か、5織物技術を持っている人や、原糸を染める技術を持っている人が現存か否か、6養蚕に関する調査を行った。その結果、現在12戸が養蚕をしていることが明らかとなった。また藍作および関連産業に関することについての昔の記録の調査結果は次の様である。

2.藍
 湯浅家の古文書によると藍草記には、「大國主命の御子下照媛が藍草をはじめ、種々の草を製し色を見給う、後人称して染姫の神と崇め奉る。人皇37代孝徳天皇の大化元年(645)忌部氏も藍を都に捧じ、これを製し白布を染め献して天子の御服の料とした。忌部氏に藍を作らしめ給う、その路即ち阿波国、名方、板野、麻植、阿波の4郡なり」と結んでいる。
 藍作についての記録(5)は『阿波藩民政資料』によると元文5年(1740)に、宮川内13〜20貫、成当15〜18貫、土成15〜18貫、水田15〜18貫、高尾12〜20貫、浦之池15〜18貫、吉田15〜25貫、の葉藍の収量があった。『御所村史』によると天保14年(1843)御所村で84町歩、土成村で67戸、18町8畝、5650貫の葉藍の収穫があり、葉藍40貫を銀312匁、貫当たり7匁8歩で売買された(6)。(『土成村史』より)
 明治から大正にかけて土成村690戸、120町歩、御所村で450戸、200町歩が藍作をして、葉藍のまま藍商人に売却していた。藍作用具や製藍用具などは家にも余り残っていなかった。記録として土成村は、明治41年(1909)に280反、藍玉4466貫、■35436貫、大正元年(1912)に藍作250反、■7088貫、大正4年(1915)に藍玉690貫、■8156貫、大正5年(1916)に藍作303反、藍玉750貫、■8950貫であった。(『土成町史』より)
 御所村は大正5年(1916)に吉田、高尾が主な藍作地で、吉田、高尾が60戸、宮川内10戸、葉藍18000貫、藍作303反で、9900円の収穫があり、■2849貫、2849円、全村200戸の藍作農家があった(7)。(『土成町史』より)

3.藍商人
前田家に伝わる古文書によると、藍商人に関しては以下の記録がある(8)
藩政時代 平井澄平兵衛、吉本喜兵衛、半蔵、原田紋兵衛、齊蔵
明治25年(1892)土成の山本猶太郎、稲井岩吉、成当の湯浅林吉、高尾の板東雄三郎、土成の日根三郎、郡の原田格三郎。
また徳島県藍商繁栄見立一覧表によると
明治15年(1882)水田の矢部■四郎、高尾の板東國太郎、宮川内の日根管太郎、宮川内の山本三太郎。
明治29年(1895)郡の前田氏治、水田の矢部民太郎、矢部貴義、矢部久、古川丈夫、高尾の板東雄三郎、成当の湯浅林吉、水田の矢部常太郎、矢部■四郎、矢部章太郎、矢部惣次郎、宮川内の日根亀三郎、土成の片山文平、吉田の柴田民蔵。
大正6年(1916)水田の寺井甚平、土成の山本猶太郎、成当の柏木丑太、郡の稲井岩吉。
高尾の板東雄三郎、水田の矢部常太郎、寺井筆蔵、郡の吉原馬太郎、成当の湯浅林吉。
郡の前田民二、水田の矢部民太郎、矢部貴義、矢部久、古川丈夫らがいた。

4.織物
 藩政時代から明治にかけて織物をしていた戸数は次の通りであった。(『土成町史』より)


 木綿織が多く凡て農家で自家用の衣料にしていた。そのうちで下藤原の赤松滝三郎は賃織で生計を立てていた。昭和4年(1929)に御所村で農家の副業として420反(288円)の木綿縞の生産があった。その中で、宮川内で2戸が含まれており、1反2円で賃織をしていた家もあった。
 昭和8年(1933)埼玉県秩父の向後豊吉を招いて土成小学校の西側に織物工場を建設、法林寺の住友磯吉外多数の人が織り方の講習を受け屑繭を使用して、土成の成谷好(ヨシミ)紺屋で糸を染めて、土成大島を織った。その他地絹、銘仙、木綿縞、絣、ちりめんが織られ、成当の寺井カメノは泥染の大島を織り、山本マツコ、その他、富次シゲル、野口、板東、は土成大島を昭和22年(1946)迄織った。織物に従事した戸数は土成で60戸あった。
 大島の原糸の糸染は地元で染め、柄物は板締めなので秩父へ送って染めたが、後になって成谷紺屋で染める様になった。一般の織物は秋月で100戸織っていた。中でも宮島コマツは絹縞、木綿縞を昭和年代まで織った。昭和5年(1930)には羊を山に放牧し300頭を飼育し、40戸がホームスパンの洋服地を織った。成当ではダルマ式で4〜5戸が絹糸をとっていた。土成大島の織り方の技術を持っている人は山本コマツだけである。これは山本コマツや町議会議員の成谷の話によるものである。

5.棉作り、麻作り
 御所村で300戸が自家用に棉作りをしていたが、昭和50年(1975)頃にやめた。土成村でも多くの農家で棉作りをして自家用にしていた。麻作りは本麻の栽培はなく、縄用に「いちぶ」が作られていた。

6.染め物(紺屋)
 染め物に関しては表2に示す記録を得た。(各家を調査して得た資料である)

7.養蚕
 藩政時代から養蚕が行なわれた記録がある。養蚕が本格的に行なわれる様になったのは明治30年(1955)頃より(表3)で藍作が衰え始めると畑に桑が植えられて養蚕が次第に多くなると桑園に桑の品種として、青市、九紋竜、十文字、魯桑が植えられた。


 表3の記録は『土成町史』に記述されているもので、藩政時代にも養蚕があった。蚕種1枚から2斗の繭が収穫、1斗は1200匁と1300匁と1000匁と1500匁の収穫があった。
 御所村では1戸当たり6〜7枚、多い家で7〜8枚飼育され、6〜7枚の家で1枚で6貫の収穫があった。明治30年(1957)には1斗が3〜6円であった。明治から大正にかけて450〜500戸の養蚕農家があった。
 『土成町史』の記録によると昭和4年(1929)に土成村では、春蚕2088反の桑園、682戸、繭27501貫、158441円、夏蚕、668戸、31180貫、151780円の収穫差があった。
 『御所村史』の記録によると昭和11年(1940)に御所村では、繭62670貫、昭和7年(1932)に繭5147貫の収穫があった、と記録されている。
 本格的な養蚕は大正中頃に春蚕1戸当たり100貫の繭、桑園1戸当たり6反、繭100貫以上の家は5戸、春蚕は1貫に付き1円50銭の繭代金で6貫の収穫、夏蚕は1貫当たり2円の繭代金で、秋繭は8貫(1枚当たり)であった。
 御所村では大正4年(1915)に春蚕2925枚、桑園429反、515戸、繭の収量794石3斗、45423円であった。(『御所村史』の記録による)
 昭和25年(1950)には土成村では394戸が春蚕を飼育し2119貰の収繭、夏蚕2220貫の収繭。御所村では303戸が春繭を飼育して1302貫、夏蚕1142貫の収繭があったと『土成町史』に記録されている。
 注 土成村、御所村は合併して土成町となっている。

8.製糸所
 『土成村史』によると製糸所に関しては、以下の記録を得た。
土成 北麓製糸(藤本製糸)  昭和始め迄操業
 〃 成谷製糸          〃
 〃 山本猶製糸         〃
 〃 山本製糸          〃
秋月 山田製糸          〃

9.蚕種製造
 『御所村史』や松野家を訪ねて調査した。大正3年(1914)2月21日に繭種製造家として、御所村吉田の松野昇一が繭種の製造を始めた、との調査結果が得られた。

10.まとめ
 御所村は土地柄地味も悪いが、農民の努力で藍作が行なわれた。土成村でも山間で地味が悪い乍ら藍作が行なわれていた。平地でも藍作は上作ではなかった。藍商人も大正末期には没落した家もあった。藍商人の売場として前田民治の江戸、湯浅林吉の九州、肥後、肥前、筑後で、その商売は盛大を極めた時期があった。織物として昭和の始めに埼玉県より大島織の技術者を招いて土成大島を生産したが、15年余りしか続かなかった。今その技術を保持している人は、1人健在している。
 染物屋も少なく、昔の面影を偲ぶ物は残っていない。養蚕は土成町全体で現在12戸が行なっているが、昔の蚕具を残している家は少ない。

 謝 辞
 土成町各地の方々には調査にご協力を戴き、厚くお礼を申し上げます。なお本調査は宮川力夫、武市幹夫及び上田利夫が行ない、本文の執筆は上田利夫が担当した。
   資 料
(1) 湯浅家所蔵の古文書(藩政末期)に『阿波藩民政資料下巻』
   『御所村史』『土成村史』
(2) 前田家所蔵の文書。徳島県藍商繁栄見立一覧表(各年代に発行)
(3) 『土成町史』、各傍示で戸別調査した資料
(4) 老人会で老人の話から得た資料
(5) 町内の各傍示を戸別調査して得た資料
(6) 『土成町史』、各傍示を戸別調査して得た資料
(7) 『土成村史』
(8) 土成町吉田で調査した資料

1)名西郡石井町  2)森永乳業KK  3)名西高等学校



徳島県立図書館