阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第37号
松茂町の染織史

染織班

 上田利夫(文責)・武市幹夫

1.はじめに
 徳島染織学会は、松茂町の記録文書を基に、松茂町教育委員会櫟田修氏、老人会の平島顕吉氏等の方々より聞いた織物関係の染色、藍、養蚕の話をまとめた。その結果は次の通りであります。

2.染色(紺屋)
 染色に関して、次の表に示す記録を得た(表1)。参考資料として、松茂町誌、補稿改訂阿波藍民俗史、松茂町老人会の方々の話による。

 何れも藍がめ6−12本で美馬、三好地方の草木灰を使用した。当時の建物・用具はない。(参考資料 松茂町誌 阿波藍民俗史)

3.藍
 松茂町に於ける、藍栽培の記録について定かではない。天正8年(1580)播州三木城主別所氏の一族の、与吉郎規治が中喜来浦に移住、その子吉太夫高治が、延宝2年(1674)が阿波藍の取扱いを始めた。寛政元年(1789)江戸に進出し藍師として活躍した。斯様な事情から考えて、延宝年間以降にこの地域で藍作があったのでないか。享和3年(1803)には藍屋与吉郎として江戸以外の関東地域、姫路、淡路へも送ったとある。
〈松茂町誌等の記録によると〉
 満穂、豊久地区は塩害で、豊中、豊岡地区は低地何れも藍作が出来なかった。広島地区は明治−大正年代に藍作、笹木野地区は明治年代に、長岸地区は昭和年代(15年頃)迄、中喜来地区は、大正末期迄藍作が行われた。
(写真1)

〈古い記録では〉
 天保11年7月(1840)の藍の植付は笹木野村で4町7反7畝24戸の内3戸の収穫量は218貫。
 天保12年(1841)7月の藍葉俵数は笹木野村で171俵(2364貫)33戸の藍作戸数で、嘉永7年5月(1854)には19戸が2町5畝6歩を、安政4年5月(1857)の藍の植付は、19戸が2町1反6畝であった。又藍の生産は、葉藍71089貫、藍玉は4222俵、■は134俵、とあり、松茂町に於ける藍師の藍玉、■葉藍の製造年代は、中喜来の三木与吉郎、笹木野の紋右衛門、広島の倉助は嘉永4年(1851)−慶応4年(1868)、長岸の虎助は嘉永6年(1853)−慶応4年(1868)、幾左衛門は嘉永4年(1851)−安政4年(1857)、広島の谷右衛門は嘉永4年(1851)−安政2年(1855)、中喜来の次郎右衛門、豊太は嘉永5年(1852)−安政2年(1855)、長岸の利吉は嘉永4年(1851)、笹木野の繁蔵は嘉永7年(1854)−文久元年(1861)、長岸の庄太郎は安政2年(1855)−安政7年(1860)、島太郎は安政2年(1855)−安政3年(1856)、秀右衛門は安政2年(1855)、広島の吉右衛門は安政2年(1855)−慶応3年(1867)、笹木野の六平は安政3年(1856)、広島の久蔵は安政5年(1858)、源作は安政2年(1855)−安政7年(1860)、惣作は安政3年(1856)−文久元年(1861)、長岸の八百蔵は嘉永4年(1851)、中喜来の林弥は安政4年(1857)、以上である。
〈阿波藩民政資料の記録によると元文5年7月10日(1740)の調べでは〉
 笹木野15−20貫、長岸20−30貫、広島25−35貫、中喜来15−20貫、となっている。
〈大正年代の藍収穫高は〉
 大正5年葉藍3600貫、大正12年葉藍1500貫。
〈大正末期の藍作戸数は(老人会の話から)〉
 中喜来15戸、長岸16戸、広島13戸、笹木野10戸、で1戸当り平均1−2.5反で、広島の吉岡、春藤、佐藤の家で■作をしていた。長岸新田の藍作は8町歩で古川惣太郎氏は5反位作っていた。中喜来は4町歩、笹木野は2町歩、広島は5町歩であった。
(参考資料、三木家の史料、松茂町誌、阿波藍民俗史(上田利夫著)、松茂町老人会の話阿波藩民政資料)
〈徳島県藍商繁栄見立一覧表や惣見による藍商人〉

 明治25年に、中喜来の三木与吉郎、笹木野の豊田栄一郎、豊成清蔵(写真5)、長岸の川田真次郎、明治29年に中喜来の三木与吉郎、長岸の川田真次郎、大正6年には中喜来の三木与吉郎、長岸の川田真次郎らがいた。

 藍の積出しは長原から藍商人が自家用船で徳島古川港や高崎港へ運び積み替えて国外に送った。中には廻船問屋の船で国外に送った家もあった。笹木野の豊田、豊成、中喜来の三木は自家用船を持っていた。
4.養蚕
〈松茂村では昭和年代に至って養蚕が少なくなった。松茂町誌の記録から〉(表2)

 昭和7年松茂村の収繭量29586貫、昭和10年の収繭量27978貫
 桑は魯桑(写真6)と青市で養蚕戸数、中喜来15戸、長岸20戸、広島60戸、笹木野10戸、で長岸の古川義雄宅で50枚、1枚6貫(22.5kg)の繭の収穫、1反の桑園から 79〜80kg の繭の収穫があった。各地の調査資料によると長岸新田で15戸が大正中頃から8町歩の桑園(藍畑から)となり、大正13年頃より梨(長十郎)を作り始めた。

 中喜来では明治末期に藍畑が桑園に変わり、大正末期に水田となり、昭和40年頃に「さつま芋畑」と変わった。広島の櫟田家では桑園3反で10枚の養蚕、春藤家(写真7)では桑園4反の桑園で、昭和18年頃迄養蚕をしていた。この頃広島の養蚕戸数は13戸であった。

 1戸当り5−12枚で桑園は平均2〜5反で、屑繭からダルマ式の採糸機で絹糸を採り、地絹や羽二重に織り柄物に染めて衣料としたり、繭から真綿を作って衣料にした。繭は貫当り、大正3年で6円、大正13年で7円50銭、昭和年代に入り1円50銭〜25円であった。
(参考資料 松茂町誌、各地での調査した資料)

5.織物
〈織物について老人会から得た資料によると〉(表3)

 明治時代、中喜来で棉を作り綿実を除き紡いで白木棉を織った。自分の家でも藍や草木で染めて織物にし自家用衣料に、大正年代には各農家で自家用衣料として木綿織物(白木綿、織物)を織った。中喜来で100戸、長岸で80戸、笹木野で80戸、豊中3戸、豊岡40戸、満穂20戸、豊久20戸の農家が自家用織物を織ったが、大正末期にはみんなやめた。
 広島の佐藤和之宅では自家用に木綿の格子縞や地絹紬を織り紺屋で染めて嫁入り用にした。長原の経済は織物している人が多く漁業と共に経済を支えていた。
 広島や長原では明治年代の手織機から足踏織機に変わり生産能率をあげた。明治30年頃、長原で徳島安宅の織物工場の下請織屋が13戸あって、シヤックリ織機で、木綿布、絹縞、を織り大正年代には足踏機に変わり、しじら織りを織った。松茂村の織物工場として、広島に朝日工場(吉成岩五郎)が大正8年3月から、木綿織物を生産し、長原で川端有吉、元木隆司等が40名の織工で「ネル」「しじら」の生産、高井氏も大正年間迄、「しじら」、「木綿縞」を後に名古屋から自動織機を購入して生産した。高井氏も当初は綿から糸を紡いで足袋底を織ったのが織物の始めであった。広島や長原の織物工場も大正末期にはやめた。笹木野の富永徳太郎氏も10名の織工で「しじら」や木綿縞を織っていた。(参考資料、老人会の話による。)
〈賃織の生産高〉
大正2年180000反 144400円
3年150000反 13500円
4年150000反 13500円
 昭和2年11月頃より長原で100戸が、裂織、長帯の賃織、農家の副業として織機は数百台あった。広島で養蚕した屑繭からダルマ式で糸を採り、羽二重や地絹を織り紺屋で染めて衣料に、又棉を作り糸に紡いで、木綿縞の着物や肌着にしていたが、大正の終りにやまった。広瀬スミさんは、阿波しじら織の織工として、明治44年2月に製織功労で染織同業組合より賞状を受け、大正5年4月2日(1916)には製品優良で賞状を受けた。おわりに、調査に御協力頂いた方々に厚くお礼申し上げます。(文責 上田利夫)


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