阿波学会研究紀要


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郷土研究発表会紀要第38号
半田町の染織史

染織班(徳島染織学会)

  上田利夫・武市幹夫・平田重市・

  和田弁太郎

1.はじめに
 徳島染織学会は、藩政時代から、明治、大正、昭和にかけての農村経済を支えて来た藍作を中心に、養蚕、織物と染め物について、米沢恵一氏、篠原俊次氏等から寄せられた資料と古い記録を基に町内各地を調査した結果は次の通りであります。

2.藍
 阿波藍民俗史、上田利夫著によると、藍作の歴史は、元和2年(1616)蜂須賀家政が播磨より、藍作技術者を招き、藍を植えたのに始まる。元和3年(1617)に旧八千代村中熊で藍作りをして、八千代村、半田村へ広まった。阿波藩民政資料によると元文5年(1740)7月30日の調べによると、葉藍反当りの収量は上作で30貫、低作で20貫、平均25貫となっている。
 安永元年(1772)に、紙屋名、財田孫六郎が、祖谷山藍作差向役を藩から仰付られたと、文政11年(1828)の八千代村紙屋棟付帳に藍作の記録の中にある。又安永4年(1775)から始めた半田村の大久保兵助の日記には、天保7年(1836)6月より7月にかけて、降雨で藍不作により藍の相場が高値で、葉藍1貫、300〜400匁で上物が800匁したとあり、天保8年(1837)には葉藍、前年より3割高と記されている。天保10年(1839)には1番藍で1貫480匁替、2番藍で730匁替、藍玉、天上で160匁替、並天上も160匁替で殊の外高値となっている。
 天保12年(1841)6月は早魃で藍が不作で高値したが、12月には葉藍、■、藍玉は下落している。
 半田村小野の堺屋日記によると、藍作に関係ある記録として嘉永5年(1852)3月26日に藍の移植したとあり、11月には藍の苗床造り、安政3年(1856)1月29日に藍の種蒔き、8月4日から8月16日にかけて早魃で藍が不作であったとある。
 阿波藍民俗史、上田利夫著によると、明治12年(1879)に半田村平地で藍の品種の内百貫(一番刈が70貫、2番刈が30貫と計100貫と言うので百貫の名がついた)山地では寒さに強い青茎千本、赤茎千本、千本系の椿葉、木藍、紺葉、縮葉が作られていた。
 明治30年末(1897)には在来の品種を改良した、小上粉が県下に拡がり半田村でも作る様になったが、山地での収量が少なく平地で作ると上作で反当りの収量が多かった。
 平田重市氏や和田弁太郎氏が町内の故老の方々から聞いた話では、山地で藍作りは、昔山林を開き切畑として、又山焼きをして焼畑として、草木を焼いて加里分の多い灰や、外に干鰯を肥料として藍を作った。
 藍の苗床は山の谷間作り、中屋、東久保の水はきの良い所は、日焼けしても谷の水を引込みが出来る様な所を選んだ。八千代、上蓮附近でも水の引込みが出来る所に藍の苗床を作つた。又平地では、藍苗が病虫害にかかり易いので谷間で作らなければならなかった。藍苗は山の中の、大惣、大床山地、上蓮、平良石で曽我の坪内高市氏、小谷の谷島吉氏は山地で藍苗を作って端山や日開野、猿飼の藍作農家で作った麦と交換していた。小井野の三木善市氏は600mの高地で優良な藍苗を育成して藍作農家に渡した。この様な方法は、旧八千代村、半田村でも行われた。白石では水がないので藍作は少なかった。明治42年頃(1909)坂根で6反の藍作、上蓮で5町歩、32戸、1戸当り1〜4反の藍作をして葉藍1俵(10貫)で1貫1円で仲買人に売っていた。1反から2回刈取り80貫の葉藍の収穫があった。その他旧八千代村の各地では農家230戸余りが藍作をしていたので農家の暮し向きは良かった。昭和10年(1935)に旧八千代村、内田徳市氏が高清で、外に15戸が赤茎千本(赤茎赤花)を、川又でも5戸か1戸当り平均1反の藍作をしたのが最後になった。


 藍は3月9日頃に種を蒔き4月下旬から5月旬にかけて麦畑の麦の畝の間に藍苗5〜7本を移植して、1週間後施肥を行い、6月下旬から7月上旬にかけて1番刈りを行い、2番刈りは8月20日頃にかけて行い、小束に束ねて家へ持帰り、板の上に、「たたきつけて」葉に疵をつけ黒くして「なた」で1寸5分〜2寸の長さに切り莚の上に拡げて乾燥し、大箕でさびて茎を除き葉藍だけにして叺に10貫詰めて藍の仲買人や藍商人に渡した。昭和初年の藍の仲買人には日開野の塩田、川又の斉藤と言う人達が居た。藍の効用について農家の方々から聞いた話、
1.藍を刈り取って槌でたたいて、その儘川に流すと魚は気絶して浮く、それを網ですくうて獲る。
2.藍で染めた、手甲脚胖を身につけていると「まむし」が近寄らないので農作業に必要だった。
3.藍染した襦袢は冬は保温用で薄着しても寒くないので農作業が容易で、夏は「あせも」が出るのを防ぐ。
4.藍種は煎んじた汁を服用して風邪薬にした。生葉は食中毒を防ぐのに食べた。
5.絹や毛の織物の防虫用に藍染した物や織物を藍染したり、乾燥して藍を紙に包んで箪笥の中に入れた。
6.蜂にさされたら藍の生薬をもんでつけたら治った。

半田町誌の記録によれば町内各地の藍作が終った、地区と年代
小野上、西 明治36年    田井東    明治37年 東久保   明治40年
上の原   明治30年    馬越、中屋  明治40年 黒石    明治末期
高岩    明治30年    下竹     昭和始  川又、白石 大正中期
日開野   昭和始     佐古戸、万才 明治中期 中籔    明治40年
西地    大正初期    長瀬     明治末期 平良石   明治31〜大正初期
大床    明治31〜大正初 蔭名     明治30年 曽我    明治30年
下喜来   大正初期    猿飼     明治中期 上喜来   明治30年
中熊    大正末期    紙屋     昭和初期 葛城    江戸時代〜昭和30年
小井野   明治中期    坂根     大正末期 下尾尻   昭和中期
長野    明治30年    小谷     昭和中期 大惣    昭和中期
折返    江戸時代〜明治中期 日谷尾  明治中期 上蓮 昭和初期

 半田村誌によると半田村では、大正9年の総戸数1435戸で6割が藍作農家であった。
 葉藍の年代別収量と戸数
 大正元年 7戸 8350貫。大正2年 6戸 9870貫(1貫当り65銭)。大正3年 8戸
 4040貫(1貫当り50銭)。大正4年 5戸 7463貫。大正5年 15戸 7500貫。大正6年 15戸 11250貫。大正7年 10戸 10140貫。大正8年 11戸 9850貫。大正9年 12戸 12500貫。大正10年 9戸 12800貫。葉藍1貫当り25銭。大正6年坂根で6反の藍作。半田奥山郷土誌によると、大正3年の藍作旧八千代村で16町歩6080貫の収穫があり、反当り■38貫の収穫であった(葉藍は63貫に当る)記録にない収穫が多数あった。藍商人であった御家族の話によると藍商人は、藍作農家や藍の仲買人から、葉藍を買入れ寝床(葉藍を醗酵させる納屋)の土間に拡げて壱床、小床で250貫、大床で400貫の葉藍に撒水して班なく「まぜて」2尺2寸〜3尺以下高さに、積み重ねて寄せ板で四方を囲み莚で覆いをして置き、5〜7日に一度覆いを解いて撒水して20〜25回撒水しては積み重ねを繰返して■にする。最初1〜4回は寝床の二階でねさす。二階は直径1寸位の竹を配列して敷き、その上に小麦藁で造った莚を敷き詰め、その上に2〜2寸5分の厚さに、赤土を粘って一面に置き、寝床を造り、その上で葉藍に撒水して2尺位の高さに積み重ねて寄せ板で囲み覆いをしてねさし醗酵作業を行う。5回からは階下の土間でねさす。階下の土間は地面を掘り下げて、一番下に礫石、砂、もみがら、粘土の順に敷き詰めて土間にした寝床である。醗酵工程中の20回目には草木灰をとかして上澄液を取り、濃縮してあく汁としたものを水と一緒に撒水する。23回目24回目には、酒造家で一番上等な、清酒を一床に1斗宛水と共に撒水して1週間位放置すると■になる。
 藍玉は■を玉臼に入れて水を少々入れて練り搗いて固めて玉にす。


 藍商人の番付表には豪商人として名を連ねている方々
 明治15年の繁栄見立鏡に
小野 大久保弁太郎」東久保、木村常吉、木村時太郎」木ノ内 大久保嘉久郎」
 明治25年の徳島市街南北繁栄見立鑑に
東久保 木村佐吉、木村源太郎、木村与一郎、木村常吉」 小野 大久保辮太郎」
 明治28年の金比羅奥之院箸蔵寺奉願、阿波国繁栄名譽見立鏡に
東久保 木村時太郎、木村與一郎、木村常太郎、木村佐吉」 小野 大久保弁太郎」
 明治29年の徳島県藍商繁栄見立一覧表に
東久保 木村時太郎」半田 久保敬次郎」
 明治31年の阿讃両國繁栄名譽見立鑑に
東久保 木村時太郎、木村助太郎」 小野 大久保辮太郎」
 大正6年の蜂須賀蓬庵光明録に
東久保 木村寛一
平田重市氏と武市幹夫氏の調査で先に述べ番付表以外に
西久保、祖父江幾太郎、柏尾常吉」 東久保 米澤又吉」 小野 小浜市太郎」 東久保
 大久保徳助、山本浅市」 東毛田に2名居たが氏名不詳の方々が居た。
     葉藍や 蒅の売場について 和田弁太郎氏・上田利夫の調査から
 蒅や葉藍は、吉野川へ半田川が流れ出た所、小野の船付場で、比処へ蒅の俵や葉藍の俵を荷車や、猫車で坂の上■運び、比処から棒で担いで、高瀬舟(本船)に運び込んだ。又「木ノ内」から舟で小野の舟付場■運んだ家もあった。
 送先は柏尾常吉氏が鹿児島へ、祖父江氏や他の家は、鳥取、大阪、播州、淡路の各地で別に葉藍の儘送った家もあった。藍は一応徳島へ吉野川の舟運で運び、行先別に本(帆)船に積み替へて送っていた。明治11年7月の米沢又吉氏の葉藍売捌帖によると、名東郡川原田村、島田村、今切村、蔵本村、名西郡第十村、板野郡広島村へ、9月10日からは、葉藍を、12月7日からは 蒅のみを送っていた。
 半田の藍は上質で蒅は石建で取引していた。目方が軽いので石建でなければ損をするからであったと言う。旧八千代村の人で半田の藍商人の寝床を借りて葉藍を 蒅に製造して、藍商人に売った、藍商人も居た。蒅1石は23貫であった。

3.養蚕
 養蚕の歴史は、後醍醐天皇の代(1318−1339)に養蚕が半田で行われていた。江戸時代に一般に耕地に桑を植える事が禁じられていたので、山地や耕地の畦畔に桑を植えて養蚕をした。
 半田奥山村郷土誌によると、養蚕を行ったのは、明治の始めに旧八千代村紙屋の助屋内、財田折三である。古い桑の巨木として残っているのは、天保14年(1843)に信州から持帰った、「小牧」と言う品種で、小谷野上の谷昭男氏の土地に生えている。
 明治30年(1897)頃より藍が衰退して来たので藍作りをやめて桑を植える様になり、本格的な養蚕が始まった。旧八千代村の地区では、養蚕をせずに煙草を作った家もあった。


 明治37.38年頃(1904)より昭和15年(1940)頃■養蚕が盛であったが、次第に減少しつつ今日に至った。1反の桑園から、春蚕1回で50kgの繭が収穫出来る。1kgの繭を生産するには20kgの桑が必要である。中熊では1戸当り桑園5〜7反の家もあり、多い家では生産500kgの繭を生産し1貫8円で売った家もあった。大正時代に春蚕1貫1円50銭、夏蚕2円で、明治30年代に3〜6円の繭の高値をつけた。
 繭は生糸になり織物の原料となり、染色して、色々な織物となった。


 繭1石は重さにすると、繭の出来具合にもよるが、37.5kg(10貫)から45kg(12貫)、45.75kg(13貫)、78,75kgとあって12,5貫(46.775kg)が平均量となり、春蚕の収量が平均して多い。
  八千代村史によると、大正3年の繭の収量は
春蚕 110戸 38.5石(上繭1斗当り6円80銭)2118円   1戸当り 19.253石
夏蚕 200戸 63.5石(上繭1斗当り5円80銭)3325円   1戸当り 16.625石
秋蚕 2戸  2.83石(上繭1斗当り5円30銭)138円74銭 1戸当り  79.37石
町内地区別で、養蚕が終った年代(半田町誌の記録から)
平良石、大床 昭和20年
川又 昭和20年
大惣 昭和24年
坂根 昭和20年
上蓮 昭和40年
小野上、西 昭和12〜13年
西地 昭和15年
間の浦 昭和40年
昭和7年 繭の収穫量は29.586貫
昭和11年 藪の収穫量は27.978貫
大正3年 桑園7町3反 収繭量は17.050貫。
昭和9年 桑園148町5反 繭収価、74.859円であった。
 製糸所について
 製糸所として、大正6年6月に操業を始めた。木村製糸場(経営者木村茂一氏)があったが、昭和年代にやめた。外にダルマ式で13〜66台の製糸家も昭和3年に20場、昭和9年に4場となった。

4.織物
 織物原料の棉作りは、安永年間(1772)より極少数の農家で作られて不足分は、讃岐の棉商人や、郡内の棉作り農家から生棉を買入、糸に紡いで糸にした。明治の始めに、この糸で、白木綿を織り、半田木綿として商品化し、各地に売り出した。
 明治30年来、養蚕が盛んになり、繭から糸を採り、羽二重、紬太織、ハカマ地、男帯地、縞木綿が織られた。中でも、小野の富永文三郎は、輸出用羽二重を15台の手ばたで織っていた。一般農家では、棉作り、又は糸を買い、糸に紡ぎ、紺屋で染めて木綿縞に織った。又屑繭から糸を採り、地絹を織り、紺屋で柄物に染めて、嫁入の衣料や、外出着にしていた。織機は、高機と地機であった。

5.紺屋(染め物屋)について(平田重市氏の調査から)
 染物の歴史は、天文10年(1541)青屋四郎兵衛が、京都東寺の藍を阿波に持って来て、染め物業をして、以来慶長年間(1596)には、小袖染、匹田絞り、友禪染、小紋染、中型捺染を美馬染色圏の中心地、貞光で半田の職人が、染色技術を習ったと言われた。
 江戸中期からの紺屋は、東地に木下、美馬、勘久保、西地に祖父江、休場に祖父江、逢坂のあお屋、小野のあお屋の本家があり、他の紺屋は、江戸末期から明治にかけてであり、昭和の始め頃■していた家もあった。大正の始め頃から、辻の方から煙草の屑を購入して、その儘粉末にして、又焼いて灰にし、藍染液を造る時に入れていた話も聞かれた。
 紺屋では、1石8斗入の藍がめ6〜7本を土間に、上部3寸(10cm)を出して埋めてある。
 藍 蒅・藍玉・葉藍・生葉藍は、地元の藍商人や、藍作人から買い、かめ1本に蒅12貫と草木灰を水に溶解した。上澄液を入れて、藍染液を造る家と、草木灰、消石灰、よまし麦や山から採取した、「くず」を使って藍染液を造る家とがあった。草木灰は、地元の炭焼から容易に入手出来た。山野に自生する、よもぎ、櫟、矢車、かや、柿の葉、等を使って色染めをしていた様であった。主として木綿の糸染で、型染の幕、幟、ふとんの鏡を染めた家は、もち米の粉、米糠を使っていた。高級品の染め物として、絹の型染をしている家もあった様である。木綿の糸染と、絹の糸染は、草木灰の量が違うと言っていた。染賃は、木綿ガス糸、130匁で78銭。木綿糸、280匁、70銭。織紺1反40銭。紬糸(絹)55匁60銭8厘。括絞糸490匁39銭4厘。後糸130匁33銭であった。

 

終わりに
 米沢恵一氏、平田重市氏、和田弁太郎氏、長谷一幸氏や各地の老人の方々、有難うございました。又半田町各地へ参り、御多忙中に拘らず御協力戴き、お陰様で良い調査が出来、予期以上の成果を得ました。厚くお礼を申し上げます。 文責 上田利夫

 半田町へ要望事項
 徳島染織学会は、総合学術調査の結果、次の項目について、教育委員会及び、文化財保護審議委員会へ、民俗資料として残してくださる様、要望します。
1.西久保の祖父江氏宅の、寝床及び、藍製造用具。
2.八千代、上蓮に残っている、日焼けを防ぐ為に、谷川から藍畑に水を引き込んでいた溝(用水)の跡、即ち遺溝(平田氏〈東久保〉の調査による)
3.川又の庵床源太郎氏所有の養蚕用具一式(平田氏〈東久保〉の調査による)
4.川又の庵床源太郎氏所有の紙すき用具( 〃 )
5.西久保の養蚕室( 〃 )
6. 藍積出場、半田川口の燈台(燈篭)


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