1 近世村落における文字需要 戦乱の余塵さめやらぬ近世初頭においても、藩の支配機構が整えられるにしたがい、その末端を担う庄屋・五人組など村役人にとっては、拝命や上申・請願のための読み・書き・算盤は必須の教養であった。さらに、村落構造が定着し家産意識が芽生え、貨幣経済が浸透するにともなって、売買契約書・預り証文の交換、諸帳簿の作成、手紙等の往復、日記、紀行文など庶民の生活園の拡大による旺盛な文化交流などにより、あまねく庶民層に文字需要が高揚していくのである。 こうした庶民の教育需要を満たす機関としては、寺子屋・私塾・家塾(藩儒が藩主の内諾を得て開設する塾)等が考えられるが、徳島藩ではいつごろからどのくらい開設されるのであろうか。『日本教育史資料』九(明治25年)から抽出してみると、以下のようになっている。
年数 私塾 寺子屋 寺子屋開設頻数 元禄(16) 1 0.062 享保(20) 2 2 0.1 宝暦(13) 1 0.076 明和(8) 3 0.375 天明(8) 1 1 0.125 寛政(12) 2 8 0.666 享和(3) 2 0.666 文化(14) 2 13 0.928 文政(12) 3 22 1.833
年数 私塾 寺子屋 寺子屋開設頻数 天保(14) 6 67 4.785 弘化(4) 18 4.5 嘉永(6) 3 54 9.0 安政(6) 6 51 8.5 万延(1) 10 10.0 文久(3) 1 20 6.666 元治(1) 2 11 11.0 慶應(3) 49 16.333
上記『日本教育史資料』は、その調査に粗密があることが指摘されている(徳島藩についても乙竹岩造氏の追跡調査などにより、その調査漏れがあることが明確にされている)が、全体的な傾向を把握することはできる。すなわち、徳島藩における庶民教育機関としての寺子屋・私塾の開設は、元禄期(1688年〜1703年)、享保期(1716年〜1735年)を濫觴(らんしょう)として、徐々に増加をしてゆき、寛政期(1789年〜1800年)以降に激増し、幕末の黄金時代を迎えるのである。かくして庶民の教育需要は社会の底辺にまで拡大し浸透していくことになる。以下近世を、元禄・享保期、寛政〜天保期、幕末の3期に分けて、三好町の村々における庶民教育の実態を検証してゆくことにしよう。 2 元禄・享保期の村々における庶民教育のおこり このころ(17世紀末〜18世紀初頭)の三好町の村々における庶民の教育需要の実態を史料をとおして見ることにしよう。 三好郡志には、昼間村の棟付帳から次のような記録が紹介されている。
長谷川橋次(長谷川林兵衛先祖)延寶年間〜 郷付浪人 此者先祖長谷川七兵衛讃州串無より延寶年中當村へ罷出手習師匠仕今以橋次儀も指南仕居申候
ここにいう延寶年間とは、1673年〜1680年のことであり、前出の『日本教育史資料』に記載されたものよりも以前に、すでに手習指南を始めていることになる。さらにこの長谷川氏先祖である橋次が讃岐から来訪しており、この三好町が山村とはいえ、より広範囲な文化交流圏に位置していたことにも注目しておく必要がある。 それでは次に『三好郡足代村棟付人数御改帳』(享保六年九月廿三日)に記載された事例を考察することにしよう。 1
醫師 一壱家 近藤栄谷 同四拾七 此者庄屋近藤泰左衛門兄ニ而御座候へ共病気ニ候幼少より佐藤林庵方へ罷越養生仕罷有候所醫術鍛練療治仕ニ付御暇之願申上即御代官速水薹右衛門様御聞届御證文當御郡様御見印頂載仕醫師ニ罷成居申候 2
百姓医師 一壱家 丹谷 同三十八 此者親見益義近藤泰左衛門小家庄兵衛下人筋ニ而御座候へ共下人ヲ離申ニ付壱家と仕上候尤見益義幼少より大阪へ罷越見宣門弟ニ罷成醫師仕居申ニ付右之段元禄拾五年ニ御郡長谷川新右衛門様へ御断申候所御聞届之上倅共一統ニ無役ニ被仰付丹谷義も醫師仕候此度御詮議之上醫師相勤内ハ夫役御免被成候醫師相止候得ハ御断申上夫役被仰附筈 部屋 丹谷親 見益 同七拾四 1
の近藤栄谷は、庄屋・近藤泰左衛門の兄であり、幼少から醫師・佐藤林庵のもとで病気療養を続けるうち、医術修行に精を出し病人の治療に専念するまでになった。そこで、このことを代官に申し上げると、了承してくださり、郡奉行の許可を受けて醫師として登録されているのである。 2
の丹谷の場合は、やはり庄屋・近藤泰左衛門の小家・庄左兵衛の下人であったが、下人離れをして壱家となった。丹谷の親・見益は、幼少の折から大阪の醫師・見宜の門弟として醫師修行に努め醫師となることができた。このことを元禄十五年(1702)に郡御奉行・長谷川新右衛門様にお断り申し上げると、承認してくださり子供たちもすべて夫役を免除して下さった。こうして見益の子供・丹谷も醫師として登録されているが、醫師をしている間は夫役を免除されるが、醫師を止めた場合は夫役が課せられる筈である。 それではここで、上記2名の学問修行について考察しておこう。2人に共通して言えることは、庄屋筋の出生であり、幼少のころから醫師修行に努力していることである。このころの医学書は、当然漢文での記述であるから、儒家のもとでの漢学修行が併学されるとすれば、長期間にわたる学問修行が要請されたであろう。本人の向学の熱意はもとより、当然、経済的問題も付随してくるであろう。当時の百姓は、末だ文字需要にも目覚めず、年貢・夫役の負担者として緊縛されているというのが一般的イメージであるのに、このような学問修行に従事できたという事実に驚かされるのである。特に丹谷の親・見益にいたっては、七十四歳という年齢から逆算して、幼少のころからの学問修行という点に注目すると、寛文元年(1661)前後に大阪に出国したことになろう。さらに、年貢・夫役の負担者の確保ということに配慮するならば、庄屋筋という特殊事例を考慮したとしても、郡奉行が出国を許可していることにも驚愕させられるのである。おそらくは、当人にかわる労働力が確保されている場合のみに限られていたのではないだろうか。 ところで、ここに掲げた事例が足代村だけではないことは、次の史料からも明かである。
覚 此已後市中・郷より醫者・儒者之類京都へ罷越於逗留仕は、夫々御奉行之手形ヲ取登、早速平瀬左六兵衛方へ可致持参候、猶又只今彼地入込罷在者之儀、其身ハ其儘罷在、於此元親兄弟より其趣申断、夫々御奉行手形取之、在京之本人方へ遺之、其者左六兵衛方へ持参仕可申断候、以上 九月三日 {*藩法集 貞享二年(1685)}
上記の史料から、貞享のころすでに市中・郷から京都などに醫者修行に出国している状況が把握できるが、この足代村における旺盛な庶民の教育需要のおこりに、目を見張らされるのである。 3 寛政〜天保期における教育需要 この期の寺子屋として前掲『三好郡志』には、以下の紹介がなされている。 昼間村の宮内家 義山(寛政六年亡)智世(天保十二年亡)、敷地の高木關五郎 寛政・享和ころ〜文化十一年、春音寺 六代理盡(天保九年寂)、足代村では宮中の宮内河内(天保十五年没)、東山村の泰左衛門(中川實太郎曾祖父)文化・文政?〜天保九年、門弟建立の碑あり、などである。 しかし、これらの寺子屋には断片的な史料しか残存しておらず、郡志編纂の時点には入手できたと思われる史料の多くが、それ以降に散逸したのではないかと思われるのは、甚だ残念である。従って上記の紹介以外には、その教育内容等についてはほとんど推察できない。 ところで、今回の町史編纂を機に、東山村(増川名、棟木)の戸沢キクエ氏より寄贈された戸澤藤太(または統太)の手習帳は、当時の庶民の教育内容を知る貴重な史料であり、以下この史料を考察することにしよう。 藤太は、文化十四年に生まれ、明治十五年三月七日に六十九歳で亡くなっているが、その文政六年、七歳の時に手習いを始めている。これは、当時の一般的な寺子屋入門の年齢である。ここには、その入門の時から翌年にかけての二年間にわたる十二冊の手習帳と、それ以後の断片的な手習帳が残されている。それでは以下、簡略にそれらをご紹介しておこう。 已路波(目録305番)文政六 正月吉祥 いろはにほへと… 一二三四五… 今日の御しうきめてたく候 正月日 又六殿 此中に御目にかヽり不申候 二月三日 日和よく十ケ所辺路思ひ立候 三月日 裏表紙 末年より 正月五日始 藤太とあり 貳番拾本(同290番)文政六年末ノ弥生吉日 棟木、藤太 一筆申入候いよいよ御無事ニ候哉かしこ 一元銭壱貫目但シ二わり半元利合壱〆貳 五拾匁内へ米十石代ニ直シ入引残日は来月中ニ取立候間心用意被成可被下候以上 以剪紙申遺置候然は此人ニ酒樽御貸可被下候 一たはこ壱斤茶廿斤木綿拾斤毛綿五端太布三尋布四端半ひん付壱斤 十干十二支天地四季東西南北 参番拾本(同310番)文正六歳 中夏吉○ 東山棟木 此主藤太 大小 天一天上天しゃふく日 預り申文銀札之事一文銀札三貫目也右之通ニ慥ニ預申処実正ニ候何時ニ而も其方入用次第ニ相渡シ可申候其為預手形如件 文政六年 東山 棟木 増川 中野 常楽 路儀 柳澤 石木 定安 瀧窪 男山 葛籠 門野 沖端 法市 松尾 黒川 漆川 白地 池田 佃 井川 村尽くし 四番拾本(同308番)文政六末年水無月吉日 求之 統太 村名つづき 郡里 荒川 重清 清水 加茂宮 勢力 芝生 太刀野 足代 昼間 進上物之事 のし御祝義 御餞別 鳥目壱包 御開帳 御禮壱包 御香料 御香典 のし御樽代 のし御年玉 五年切本米返ニ賣渡シ申田地書物之事 一棟木同處上田壱町之内三反五畝高五石七斗之處御年貢不罷成ニ付當末暮より来ル子ノ秋迄九年五月切本米返ニ相定代米八石ニ賣渡シ即米受取御蔵様江御年貢上納仕処実正ニ候 六番拾本名頭貮番(同2番)文政六末歳 棟木住人藤太 太郎 次郎 三郎 四郎 右衛門 左衛門 七番拾本藤太(同309番) 旧冬 去年 時年 時日 明日 頃日 改春御慶目出度申納候 御家内様御揃被遊御安全ニ御重歳被成千万目出度候次ニ 私共無異加年仕候御安心思召加被下候恐々謹言 端月日 八番拾本藤太(同303番) 高祖父 曾祖父 祖父 舅 子孫 妻 養子 女房 後家 祖母 父母 親 兄弟 姉妹 叔父 従弟 甥 姪 御郡代様 御手代衆 御法度書 イロハニホヘトチリヌル 九番拾本藤太(同284番) 木遍 松板拾間 槌四歩板 栂柱千本但シ五寸角 文政七甲申 弥生拾七日 持主増河統太 拾番拾本(同225番)藤太 御男子御被成誕生御母子様共次第ニ御肥立被成千鶴万亀目出度仍而初衣壱重梅月廿六拾一番拾本(同287番)藤太 年号月日 讃州寒川郡奥山村大窪寺 国々所々御番所御衆中 町々御役人御衆中 村々御庄屋御衆中 往来手形之事 一男貳人 左代太 十代太 右之者共代々真言宗ニ而即節僧當寺旦那ニ紛無御座候此度私共四國邊路ニ罷出申候間所々御番所無相違御通シ可被下候尤行暮候節は宿等被仰付候ハゝ有難奉存候万一道筋ニ而病死等仕候ハゝ御慈悲之上御収拾被仰付候ハゝ難有奉存候部泊何之申分無御座候仍而為後日往来如件乍恐奉願上覚 拾二番拾本(同285番)藤太 御書中拝見仕候如仰之今ニ残気強ク候得共皆々様御揃御機嫌能御出可被遊興喜悦之至ニ奉存候手前家続共無異義罷有候御安心被仰付可被下候以上 閏八月朔日 岡崎由岐良様 拾四番拾本 文聖(ママ)申歳 蝋月6日 統太 給銀札貳百目相定内百匁只今受取申所実正ニ候残而百目は来ル盆前ニ可被下候
上記の外、つぎのような手習帳も残されている。 商賣往来 (文政8酉正月) (同297番) 嶋原状 (文政8酉7月吉祥日)(同307番) 智導要文章(文政9戌10月吉良日)(同294番) 義経含状 (文政10亥年正月吉日)(同314番) 年度の欠落しているもの 大日本國尽(同313番) 諸職往来 (同311・312番) 庭訓往来 (同296番) 年中往来 (同295番)
やや史料引用に偏してしまったが、寺子入門時にどのような読み・書きを習ったのか興味深い課題であったのでご寛恕を頂きたい。藤太は最初の2年間で、社会生活に必要なたいていの文字・文章を習得してしまっている。このころ寺子屋での教育は、地域的な差異はあったにしても、男子の場合7歳から15歳までの間に、いろは→数字→単語→熟語→名寄→短文→日用文章等と順次教えられるのが一般的であった。商賣往来以降の史料から藤太は、読み・書きの語彙と用法能力をさらに深めていったものと思われる。さらに藤太は、好んで往来手形を習字の教材として援用しているが、この諸国見聞への熱望は、天保十五年の正月11日に、藤太以下男子六人で四国邊路に旅立ったことが、願成寺の寺請証文によって実証できるのである(同26番)。時に藤太は28歳であった。 それではつぎにこの期の大学者・近藤忠直(文政5、1822年〜明治31、1898年)の学問修行の実態に触れておこう。
文政十二(1829)年〜天保八(1837)年 泉蔵院智正権大僧都律師に手跡、算術、和漢、経書を学ぶ 天保九(1838)年〜 同十一年 福井濱浪翁(本郡足代村杉尾神社神主)に垂加神道、橘家諸祭典行事、鳴弦蟇目射術等を皆伝す 天保十二(1841)年〜 同十三年 京都山田先生(豊前之介)に有職律令歴史学を学ぶ 天保十三(1842)年〜 同十五年 葛根竪室大人(通称岡部小四郎)に随喜して京都へ、のち江戸に慕行昼夜机下に仕へる 語学、歌学、皇朝普通学を学び、帰国して家職を継ぐ
これは忠直翁の前半生の遊学の一端であるが、八歳の時から父外戚の祖父で修験者・泉蔵院智正に学び、次いで足代村の福井濱浪翁に、さらに京都から江戸への遊学と、その旺盛な向学心はいや増すばかりである。同時にその教育需要を満たす人材や教育機関の存在にも驚嘆させられる。なお、翁の深い学殖による奉職と人材養成等については、前掲『三好郡志』などに詳しいので割愛することにしたい。
4 幕末期の教育需要 幕末期は、さきにも触れたように庶民教育機関の寺子屋創設の黄金期である。私塾・郷学校なども増営され、庶民の教育需要に幅広く応じるようになる。この期の三好町における寺子屋開設についても、すでに郡志・町史に詳しい。ここでは学制(被仰出書)発布後の小学校創設を控えた明治六年に、三好郡学区取締補の近藤忠直に提出された教師履歴を中心に考察を進めることにしよう。 譲書習字 同縣平民 秋田武樹 當酉九月五十三歳四ケ月 同縣下近藤虎蔵ニ従ヒ文政十三年ヨリ天保三年迄都合二ケ年コノ間漢学研究 讃州丸亀士族中村正造ニ従ヒ安政四年ヨリ安政六年迄都合三ケ年ノ間漢学研究 習字兼洋算 同縣平民 秋田文平 當酉九月三十三歳五ケ月 同縣下山下美馬助ニ従ヒ安政四年ヨリ六年迄都合三ケ年ノ間漢学研究 同縣下伊月元一郎ニ従ヒ本年酉八月ヨリ洋算研究
上記二名は、第七大区小区昼間村昼間小学校(生徒八十二人、男子七十二人女子十人)開校時の教員の履歴書である。幕末期に彼らは、幼少の時分は寺子屋師匠に読み・書きを習い、長じて近郷・近在の学者はもとより、城下、脇町、讃岐にも笈をとき、好学の師に私淑しつつ、漢学はもとより国学・俳諧・洋算などの学問修行に励んだのであろう。こうした幕末の修学者の中から、近代的公教育の教師の多くが誕生したであろうことは、想像にかたくないのである。
1)城ノ内高校 |