はじめに 今は、設備の整った病院で、医者の指導のもとで行なわれる出産も、40数年前までは、自宅である場合が多かった。日々、畑仕事、炊事などの労働におわれていた女性にとって大変な任務であったことは言うまでもない。しかし一方では、そうした妊婦を見守る人々がいて、様々な形で彼女たちを援助していたことも事実である。 今回は、そうした出産にかかわる人々の思い、習慣などについて、明治生れの方を中心に聞き取り調査を行なった。平地と山間部では、違いがあると思われたので、平地では昼間、山間部では東山の方にご協力をお願いし、お話を伺うことにした。 安産祈願 圧倒的に多かったのがダイセンサン(大川神社)である。これは讃岐との県境の山の頂上にある。東山では子供ができたことがわかると、朝6時頃にでて一日がかりで出かけることが多かったという。お札をもらってきて出産に備え、無事終わると今度はお礼参りにいく。子供を連れていくこともあった。昼間でも、安産祈願なら大川神社というのが多かった。また、氏神さんにお参りにいくというのもある。 母親が子供のために準備するもの オムツ、肌着など、よなべをして縫っておく。 岩田帯 5カ月目の戌の日。色は紅白。実家から持ってくることが多い。山間部では、しないと言うところもあった。自分でしめる場合もあるし、姑がしめてくれることもある。 出産の場所 嫁ぎ先ですることが多い。部屋は、オクと呼ばれる普段若夫婦が寝室として使っている場所である。 ウブヤ 家によっては、オクの部屋の隅に一間四方の竹を編んだスノコをしつらえているところがある。普段はその上に畳をしいてあるが、お産の際は畳をあげてスノコにするので、この時だけウブヤと呼ぶ。ただし、張り出しをつくったり、別棟につくったものではないのにそうした呼び名が残っていることから、かなり近い時代まで、産室としてのみに使われるウブヤが残っていたことも考えられる(日本民俗地図には、美馬町にも残っていたことが報告されている)。しかしどこにでもあるのではなく、よほど古い家か、あるいはかなり裕福な家だということである。また実際に使われていたのは、明治大正時代頃までの話で、はっきり記憶をしている人はもういないようだ。お話を伺った人々の母親の時代であったというので、記憶をたどっていただくと「オクのスマのくらいところで、畳をあげ、スノコにして、力綱をつるし、俵を置いてあった」そうである。このスノコはウブユを使う時にその湯を捨てることができるようにしたものとのこと。また、このウブヤの名称を使わない地域もある。 出産 間際になるまで、田畑に出て仕事をしていたという話をよく聞く。畑仕事の最中に産気付いたという話はそう珍しくはない。よく働くほどお産が軽いと言われ、重労働は避けるものの、ほぼ普段通り仕事をしていた。いよいよ出産となるとオクの間の畳をあげてスノコにして、その上に藁、古い布などを置いた。山間部では、莚敷であったのでこれを返して板の間(昔はスノコだったらしい)にし、たくさんの藁をしいてお産をしたところもあったようだ。この藁は一週間たったら、定められたゴミ場に持っていって捨てる。 昭和の初めまで、つまりサンバサンがやってきて指導をしてくれるようになるまでは、座ってするお産、座産であった。山間部などでは産婆さんがいてもなかなかきてはもらえないので、座産が多かったようである。一人で産む場合は、臍の緒を切るなどの後の処理がしやすいので座産が多かったようだ。また力綱や、すがるものが必要であったわけであるが、最も多かったのが米俵、そしてやぐらこたつ、布団を四つに折りたたんだものなどを利用した。ただし独りっきりで産むというのは少なく、近所の器用なお婆さん、実家の母親、姑などが手伝ってくれていたようだ。山間部だと、夫が湯を沸かすなど手伝う例も多いようだ。平坦部では、昭和の初め頃からはサンバサンがきて、いっさいの面倒を見てくれたので、寝産への移行は、早かった。 産後 産後一週間はこのオクの部屋でゆっくり養生すると言うのが多い。ただし、県下各地で見られる別火の考え方は極めて希薄である(石木ではあったとの報告あり)。産婦の身体が元に戻るまでの静養期間として外にでないのが主旨のようである。産婦への特に決まった食べ物はなく、最初は消化の良いものから普通の食事にかえていく。だから、忙しい時期だと3日もしたら、炊事を始めるというところもある。移し茶碗などの習慣は聞かれなかった。 産の穢れ 前述のようにほとんどないが、ただ伝承としては「産火は死に火よりもきたない」という言葉が残っている。神参りは33日まで。また、産婦の洗濯物は「おひいさんにあてたら勿体無い」と言い、日陰に干すこともあった。 禁忌 妊娠中は、火事をみてはいけない。痣ができるという。またお葬式には参加しない。 子供が生まれたら33日の間は、橋を渡らない。神参りをしない。 子供が生まれる前にはあくづよいものは食べてはいけないという。コンニャクとかソバ、柿もいけない。「腹を冷やす」からだという。 子供ができてからもあくづよいものはいけないとされており、センバ(青菜の一種)、ヨゴミ、コンニャクなどを食べてはいけないという。 ウブヤミマイ 近所、親戚などから、産婦のために食べ物を持っていく。アズキ、キナコをまぶしたボタモチが多いようだが、山間部では、ウドンをゆでて持っていくこともあったという。 ナツケ 七日目。男の子も女の子も同じだという場合が多い。名前はたいがい親がつけたり祖父がつけることが多いようだが、増川などでは出雲神社でつけてもらったというのを聞いた。身内のものが集まって祝うがこの時に里からはオボロマンジュウを持ってくるので、これを近所に命名札と共に配る。古くはトリツケと呼ばれるボタモチをモロブタ大の木の箱に入れて持ってきたのでこれを配っていた。祝事というとこのトリツケをつくることが多かったのだという。最初の子供は比較的はでにするが、その頃は出産の回数も多かったので、たび重なるごとに簡単になっていった。 アトザン オクの間の板を外してその下に埋めるというのもあるが、圧倒的に多いのは、人に踏まれたほうがよいということで、家の戸口、ウメタテに埋めるというものである。男の子は家にいるから内側、女の子は嫁にいくから外側と言うところもあるが、一般に人に踏まれるところに埋めることが多いようだ。また、埋めるのは誰でもよいが、埋めた後はすぐに父親が踏むところが多い。理由は、一番最初に踏んだものをその子供が怖れるからということである。 ヘソノオ 産婆さんか、お産の時に立ち会った、お婆さんなどが切ってくれる。白糸でしばって、真ん中を切る。残しておいて、草屋根の中に入れておくというのもある。生活が豊かになってからは桐の箱に入れて保存するようになったのだという。 また、ウブ毛をそるなどの習慣はあまり聞かないが、古くは髪が黒くなるという理由でそることもあったようだ。 授乳 センブリをのませて毒をおろすというのもあるが、特にはなにもしない。乳があまると桑の木のところへいってしぼり、また乳がでるようにといのる。桑の木からは白い汁が出るので、願いをかけるとよいという。 乳の出が悪い時は、麦か米のお粥をつくって代用していたようだ。 子供が亡くなった場合 家で飼っている家畜を捨てにいく。牛などだったら売ってしまう。 宮参り 33日目。山間部では、この日にいくことは少ないようだ。氏神の祭礼の時、あるいは初祭りの時にウジミセといってその一年の間に生れた子供を連れてお参りをし、神職に拝んでもらう。在所の人が数多く集まるからこの日がよいとのこと。 同じ年に生まれた子供の祝い 勝ち負けがあるという。男の子同士だと特にそれをいい、節供などは「イリアイにせんか」ということで、お互いに何もしない。 食べ初め 100日目。新しい茶碗を買い、簡単なお膳をつくって子供に食べさせる真似をする。また、丁寧なところでは、本膳をつくる。ご飯、すまし汁、鯛の焼きもの、酢のものをつくる。この際に川原から石を拾ってきて載せ、食べさせる真似事をする。丈夫に育つようにとの願いをこめるのだという。 初節供 里から祝いの品を持ってくる。女の子は雛人形、男の子は鯉幟。餅やおぼろまんじゅうなどをつけて持ってくる。親戚からも祝いにやってくるので、御馳走をつくって祝う。 一年誕生祝い 紅白の餡いりの餅をつくって、近所に配る。直径15センチのかなり大きいもので普通は五つであることが多いようだ。神棚にもまつり、子供の健やかな成長を祈る。 子供には、この餅を3〜5個入れた重箱を、風呂敷に包んで負わせ、オウミ(箕)のなかで立たせる。餅の数は、子供の力に応じて増やしたり減らしたりする。この中で歩くと丈夫な子供に育つという。 終わりに 町史編纂室の佐藤先生を始め多くの方のご協力をいただきましたことを深く感謝いたします。 |